箕輪初心●群馬「旧尾島町の城9城」=新田一族の遺構

★旧尾島町は新田氏の始祖:新田義重の子:義季がこの地を領有
し、得川姓、あるいは世良田姓を名乗った旧尾島町は、新田荘遺
跡=(総持寺・長楽寺・東照宮・明王院境内)など新田の遺構など
が数々残っていて、見飽きることがない。徳川家の先祖の地として
江戸時代から手厚く保護されてきた。地元では「徳川氏発祥の地」
と宣伝している。しかし、徳川家康の家系詐称説も流布している。
群馬県新田郡尾島町から、平成18年(2005)3月28日に旧太田
市・新田町・藪塚本町が合併し、太田市となった。
画像


◆◆ 箕輪初心★新田義貞「楠木正成への攻撃」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_40.html

【1】岩松館・・・尾島町岩松「青蓮寺」          
■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日) 
 岩松地区の青蓮寺が岩松氏の居館の跡である。
 青蓮寺は山門が非常に立派である。
 遺構が残存しているのは、寺院背後の北側である。しかし、藪
 である。内部には、東西に土塁と堀が一直線に延びている。
 しかし、東西および南側の遺構はすでに失われてしまっている。

 近くに、岩松氏の墓がある。

※建保3年(1215) 新田義兼の後家が岩松郷を与えられた。
 後家は孫:時兼に所領を譲り、時兼が岩松郷の地頭となった。
 岩松氏の開祖である。それ以後、岩松館は岩松氏代々の居城と
 なった。
 
【2】船田館・・・旧尾島町世良田
 世良田館や新田館から近い。国道354号線世良田交差点の
 すぐ東にある。立派な民家の門の脇に館跡を示す標柱がある。
 北に水堀跡が用水路となって流れている。

 ※新田氏の執事:船田善昌の居館跡(伝)。
・元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府より楠木正成討伐の命を受
 けて河内へ出陣した。執権北条高時を討ち、鎌倉幕府を倒幕す
 る考えを最初に船田善昌へ相談した(伝)。
 船田善昌は新田義貞の挙兵に従軍し倒幕に成功した。
  南北朝の争乱期も南朝の新田義貞に従って戦った。
 建武3年(1336) 足利尊氏の軍勢と戦い討死している。
戦国時代に由良家家臣:大沢氏の居城が置かれた。
江戸時代・・・新田氏後裔の岩松陣屋が置かれた地でもある。



【3】岩松陣屋・・・・
 岩松守純によって築かれた陣屋である。世良田公園の西が陣屋
 跡で現在は水田と住宅地となっている。 水田の中に土塁跡のよ
 うな高台が残っている。
※戦国時代に新田源氏の岩松守純は横瀬→由良成繁氏に太田金
  山城を奪われた。・・・岩松氏が没落。
 ※天正18年(1590) 徳川家康が関東に入封。
  岩松守純は徳川家康に召し出されて新田氏系図の譲渡を迫られ
  た。しかし、岩松守純は拒否した。お家再興はなったが、知行
  20石の旗本となった。新田姓を名乗ることも許さなかった。
  しかたなく、中世の世良田今井の古城を修築して居館とした。
   この屋敷が岩松陣屋である。
 岩松氏は豊純、秀純と続いた。
 寛文3年(1663)4代将軍:徳川家綱の時に200石を加増され、
下田島に移った。


※下田島城・・・太田市
 寛文3年(1663)岩松秀純が200石の加増を受けたのを機に陣屋を
新田郡下田島に移した。これが下田島城=岩松城である。
 戦国時代に由良氏によって築かれた中世の古城を利用した。
 枡形の虎口や櫓台を持つ古城を居館として近世を生き抜いた。
 
※下田島城は東武伊勢崎線の木崎駅のすぐ南に位置している。
 現在は太田フレックス高校の校地となっている。 


【4】堀口館・・・尾島町堀口下堀口 
 ■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日) 
 旧尾島町の南部・・早川の土手のすぐ脇が堀口館の跡である。
 正覚寺という寺をめあてに行ったが、探すのが大変だった。
 近所の人2人に聞いて、やっと行けた。
 賀茂神社のすぐ西側に位置している。民家の裏手にあるため
 場所は分かりにくい。道路沿いに「堀口館」の案内板が出ている。
 駐車スペースがあった。
標柱と案内板があるだけだった。遺構は失われてしまっている。
 早川の土手によって、館跡は半分埋められてしまった。
 「昭和43年まで正覚寺があった。これは館跡に建てられた寺院で、
 その頃は周囲に遺構があったという。しかし、度重なる水害から、
 この位置に堤防を築くことになったために、移転して北西の浄蔵
 寺と合併した。」
 石碑が残されている。

※元久2年(1205) 新田義兼は鎌倉幕府から堀口郷の地頭職を与え
られた。その子孫は堀口氏を名乗り居住した。
・元弘3年(1333)堀口貞氏の孫:貞満は、南朝に仕えた。
 新田義貞と共に各地を転戦した。
 その後、若狭(福井)の金ヶ崎城で戦死した。


【5】大舘館・・・尾島町大館1456「御堀」(国史)    
 ■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日) 
 ○大舘館は、県道298号線沿いの東陽寺から北側に300m程
 入った所にある。城址の中央に諏訪神社が祭られている。
 探すにに一苦労だった。
 ○諏訪神社には城址標柱や案内板などがある。
 ○御堀、御蔵、鍛冶屋、馬場などの地名も残っている。
  しかし、耕地整理によって畑になり遺構は消失した。
 「大舘」という地名が残っている。
 ○山崎一氏の「縄張り図」や「城郭体系」の図を見ると、
  120m×120m程の単郭の居館で、五角形をしている。
 ◆◆「大舘」 
・仁安2年(1168)の新田義重置文に「大舘」とある。
   新田義重が、息子らいおう(徳川家季)&御前(母)に
  所領を譲ることを言い置いたものである。
・鎌倉時代中期・・・大舘は新田宗家が相続。
  新田義重4世:新田家氏が大舘氏を名乗った。
・鎌倉末期・・・大舘氏は新田義貞に従って各地を転戦した。

 大舘氏明は後醍醐天皇によって伊予守にも任じられている。
(★弟:脇屋義助が伊予守と愛媛県の国分寺地区に墓がある)
 新田義貞の福井での討ち死にに伴って、大舘氏も没落した。
 
 
【6】養寺館=明王院
 ★峰岸純夫先生に「新田義貞はどこで生まれたのでしょうか?」
 と質問した。峰岸純夫先生は
 「明王院だと思います。」とおっしゃった。新田義貞の生まれた
 場所は4説あるらしい。
 ①高崎市榛名町の里見・・
 ②太田の台源氏館
③旧尾島の総持寺
 ④旧尾島の明王院・・・峰岸純夫先生の説




【7】世良田館・・・旧尾島町世良田

世良田の交差点の南300mほどの所に長楽寺がある。
国指定史跡新田荘遺跡の中心となる場所である。
世良田館は見学できる史跡も多い。
世良田氏の居館は、長楽寺の西側にあった。
①長楽寺山門&脇の土塁跡?
②長楽寺の池がある。
③得川義季のものと伝わる墓・・古墳がある。
④境内の奥には新田一族の墓。
⑤長楽寺境内は堀で囲まれている
⑥東照宮の奥にある芝生広場の中の遺構。
 公園芝生の広場には発掘調査で検出した堀が保存されている。
 ★鎌倉時代の遺構かは不明。中世の遺跡として貴重なものだ。

※世良田氏は新田義重の四男:義季が世良田郷を与えられたこと
 から始まる。
★しかし、義季は世良田氏と得川氏のどちらを名乗ったかは不明。
 得川義季の子:頼氏は世良田弥四郎と名乗っていた。
 世良田頼氏は新田義貞が鎌倉幕府倒幕の挙兵をした時には
 世良田満義が義貞に従い、鎌倉攻撃に従軍している。
 大館・堀口などが大将であった。
 南北朝時代・・世良田一族が足利尊氏の下で北朝方として
 働いている。嫡流の世良田満義とその息子:世良田政義
 らは南朝方の後醍醐天皇の孫:伊良(ただよし)親王に
 味方し、高崎の寺尾=茶臼山や寺尾中城で平井城:上杉
 憲定を戦った。(★高崎:茶臼山城の看板)・・・
 信濃に伊良(ただよし)親王を警護して行った。しかし、
 浪合で討死してしまった。世良田満義の次男:政親は戦
 場離脱し、・・・三河松平郷へと逃亡した。
 ★徳川家康は世良田氏と松平氏&徳川氏とを結びつける
 発想となったのであろう。
 
 
 

【8】新田館・・・尾島町世良田850「総持寺」(国史)  
 ■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日) 



【9】徳川館・・・尾島町徳川「徳川東照宮」・・・満徳寺北 
 ■訪問日①・・・1985年頃  
 ■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日) 
○県道298号線沿いに縁切寺:徳満寺がある。
 満徳寺の北が徳川氏の居館の跡であったらしい。
○東照宮の入口には「徳川義季公館址」という碑がある。

画像

 「徳川氏発祥の地」ということで、江戸時代には一種の
 聖地扱いされていた。
★徳川家康の先祖は、三河出身であるので、世良田には
 いなかったであろう。徳川家康の先祖が、
 新田源氏の得川氏→徳川氏だったというのは、自分を源氏の
 血筋としたかった徳川家康の系図詐称であると思われる。
 徳川義季(得川姓:世良田姓か不明)は、新田義重の4男で
 ある。江戸幕府将軍の徳川家とは実際のつながりはなかった
 のではないかと思うのである。
 現在、館跡の遺構らしきものは見当たらない。
 ・世良田東照宮  ・満徳寺散策のおまけ
 ・鎌倉時代  新田義重の子・義季は、父より新田庄のうち
       六郷を譲り受けて徳川郷へ居住。
        世良田あるいは徳川(得川・徳河)姓を改姓。
 ・南北朝時代 8代親氏は、南北朝合戦で室町幕府による新田氏
        残党追捕の命令のため、
        徳川郷→三河国松平郷へ移住。
        松平太郎左衛門の娘婿となり、以後9代孫の
        徳川家康が徳川姓に改姓。
  (徳川家康が武家の頭領として、源氏の流れを汲むことを
   強調した。)
  *松平時代・徳川時代でも
    松平2代泰親・3代信光・7代清康、家康4男忠吉・
   尾張家3代綱誠・7代将軍家継(幼名)は世良田姓を称
   している。
  



◆◆ 尾島町の特産品 ◆◆
1)大和芋(やまといも)・・・日本一の粗生産額。
  ・正倉院の文書に登場。~~~
  ・大和芋の産地へ。・・贈答品としても人気の高い。
2)「ねぎ」と「ほうれんそう」と「ごぼう」

"箕輪初心●群馬「旧尾島町の城9城」=新田一族の遺構" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント