箕輪初心:生方▲城№1005赤城不動山城(見立城・二城)&歴史考察

令和2年(2020)5月13日、渋川市のスパゲッティ屋『ポポラーレ』で
Lunch、白井城・津久田城・猫城(入れず)・宮田不動尊(封鎖)・不動
山城に行った。不動山城は藪ばかり城?・・・蛇・猪・熊には、会い
ませんように、熊鈴忘れたし、と思いながら、突入した。・・・
不動山城は真竹の竹藪であったが、案内の赤い緋が歩くのに最適なコー
スを示していた。崖沿いに沿って歩くコースではあるが、竹藪に占領
された空堀の中までは入らなかった?入りにくかったが郭の形がある
程度確認できれただけで十分満足できた。不動山城は空堀の形と郭が
綺麗に残る城であった。入り口の縄張り図の郭の名前が変だったけど
ね。よかった。こわ~い獣に会わなくて・・・・。
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●箕輪城
新型コロナ・ウィルス対策の影響で、箕輪城のお客もすっかり減った。

私の対策はTVとブログ書き・料理・梅農家の仕事、・・・城巡りとハ
イキング等である。人が殆どいないし、会ったのはキジ・ヒヨドリ・
ウグイス・きつね・トカゲ・トンボ・虫等、
箕輪初心:生方▲『白井宿』:正しくは『市場町白井』とすべきか?
https://53922401.at.webry.info/202005/article_29.html

箕輪初心:生方▲2020白井城6回目?&源空寺
https://53922401.at.webry.info/202005/article_31.html

箕輪初心:生方▲城№1004赤城『津久田城跡』:一時、真田の城
https://53922401.at.webry.info/202005/article_34.html


● My car の「プラド」・・・猫城への細い山道には車が大きく、迂回
するには困難であった。軽トラックが来たら、すれ違いができないの
で、入り口に駐めたが、入城は止めた。
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●スマホで、不動山城を目指したが、旧赤城村宮田からは不動山城
(旧赤城村見立)は全面通行止めだった。
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 (正面が不動山城・・・)
細い道をやっと下って、本道に出た。・・・
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 不動山城が見えてるが、・・・行けない。

●宮田不動尊の石段が崩れそうで登れなかった。
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犬をつれた方に行き方を教わった。・・・
渋川ICの方に向かい、西原信号を左折し三原田に向かい、関越自動
車道の上を通り、GSの反対100m先を左折する。再びを渡り、
斜め左へ・・・刀川小学校建物が見えた。

●渋川市立刀川(とうせん)小学校
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平成29年度に閉校となり、子供たちは三原田小学校に通って
いるとのこと。
サッカーをしている2人の方に入り口を聞いた。
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●刀川小校庭北東下の駐車場駐車場 P
 プール下の道を行くと、・・・看板が100m程先に見える。
刀川小学校の南東隣にある山林?真竹の竹藪が城跡である。
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●案内板
「市指定史跡 不動山城跡(別称二城城)」
20200513n06hudousanzyou008.JPG
渋川市赤城町見立二城にあって、白井城と利根川を隔てて、その重要
な支城でした。
白井城が攻められた時、二度も白井城主を迎えた事実があり、戦国の
世には上杉、武田の諸軍と戦ったこともありましたが、天正18年に
小田原の北条氏滅亡と運命を共にして、上杉、前田の連合軍に攻落
されて落城し、廃城となりました。

平成2年?月設置  渋川市教育委員会 」

某Hpには
「土豪の見立氏が築いた城で真田昌幸が軍勢を差し向けて攻略したと
いう。」とあった。

縄張り図・・・★山崎一先生の縄張り図をベースにしているのだろう。
本郭が一番奥かい?・・・
20200513n06hudousanzyou050.JPG
 長靴を履いてるけど、帽子を忘れたし。熊鈴も忘れたし、・・・
 まあ、いいか。行っちゃえ。

●空堀・・・縦堀系かい?でっけえな。
堀の右が4郭かい
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●大手口
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 しかし、真竹の竹林・・・踏み跡もはっきりしない。
赤い緋が歩くのに最適なコースを案内が示されて
いた。
堀切下が4郭かい?・・・
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●仮5郭?
微妙に踏み跡が、・・・
空堀の途中に赤い緋・・・・
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20200513n06hudousanzyou017.JPG20200513n06hudousanzyou017.JPG

●空堀
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 ★はっきり遺構が残っている。
 空堀に沿って歩きたいが行けそうにない。
 堀切を横切り、直登した
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●3郭
  竹藪で足を踏み入れる場所もないほど・・・
北斜面を歩いた。赤い緋も・・・
  荒れている。
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左上は一段高いってことは此処(下)は腰郭かな?
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●空堀・・・なかなかじゃん。
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●2郭
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●本郭・・・
 開けた場所・・・竹藪ではなかった。
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 ★一段低い・・・

 南西の眼下を大きく蛇行を繰り返しながら南流する利根川で
 が見えた。「樽」っていう地名が頭に浮かぶ。
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振り返ると
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●主郭と繋がり幅2mの大きな道跡・・・搦め手口? 
 「本郭とあったが。此処は出撃用の腰郭では?、・・・」
・・・って事は2郭って会った場所が本郭ではないの?
 山崎先生が仮につけたのをみんなが信じているだけかも・・・
 土塁がないのは不思議ではあるが、・・・・

●搦め手口に向かって50m程行くと・・・
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おかしい。本丸といあったが、腰郭であろう。
 絶対、武者走りだ。・・・あの縄張り図、違っている。


●空堀・・・
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●搦め手口方面・・・

●でも、遠回りになるで、・・・来た道を戻った。


*************************** 
家に帰ってから、Hpを見た。
不動山城 特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡6
特集, 赤城の史跡 城址2015.02.18(水)
不動山城ふどうやまじよう(二城にじよう、見立城みたちじよう)

 白井長尾氏に仕えた見立権太郎の築城と伝えられます。
(の頃)南北190m、東西280mの規模です。
 永正6(1509)年6月、関東管領上杉憲房に追われ、白井城
主長尾伊玄入道(景春)が不動山城に難を逃れたと伝えられます
が、上記の築城時期と合わないこと、近年の研究で景春は白井城
に在城しなかったことなどから、伝説と考えられます。
 天正7年12月、武田氏は城主河田重親を従属させ、沼田地域
への攻勢を強めていきました。

*****************************
家に帰ってから、飯森康広「不動山城」『ぐんまの城30選』を
みた。
 ★やっぱり、山崎先生の2郭が飯森先生では「Ⅰ」となって
 いた。当然だろう。飯森先生は同じ町内で、6~7回会って
いる。


◆不動山城の歴史**********************
・天文年間(1532~55)見立権太郎の築城した(伝)
  南北190m、東西280mの規模・・・
  居館が存在したとの伝承があるが、真偽不明。
 ※「角川日本地名大辞典」見立(村)の項より

・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵
  越山の折に景虎が不動山の寄居を取りたて、勝保沢城主であった
 斉藤加賀守を城代としたともいわれている。
  (「長井権兵衛書状」『赤城村誌』)

・永禄10年(1567) 3月、武田信玄家臣:真田幸綱(一徳斎)
 により、長尾憲景は白井城を追われた。
 上杉方の不動山城へと移った。
  (「双林寺伝記」)
 3月6日、真田一徳斎・甘利信忠・金丸虎義が箕輪城に
 ついて、春日弾正の指示に従え、・・・
(武田信玄書状:真田宝物館所蔵文書)
 3月8日 武田信玄は白井城の攻略を褒め、箕輪城の改修工事を
しろと命じた。
(武田信玄書状:真田宝物館所蔵文書)
 
厩橋城主の北条(きたじょう)高広:大江系北条氏:越後北条城
  (元上杉輝虎:謙信家臣№3)は後北条氏家臣となり、大胡城に
  入った。喜多条を名乗らされた。
  北条高弘が沼田攻略を目指し、利根川東岸部を北へと侵攻した。
  長尾憲景は越後上杉輝虎を頼り越後へと退去した。

・永禄12年(1569) 越相同盟(上杉氏と後北条氏の軍事同盟)締結
北条高広が上杉輝虎に帰参した。
 長尾憲景も不動山城へと回帰した。
 長尾憲景は八崎城を築城して、重臣牧和泉守に不動山城を守将とし
  た。
  (「石川忠総留書乾」)


・同年 上杉輝虎の関東侵攻
 ※長尾憲景は常陸に転戦し佐竹氏と共に小田氏治を攻めるなど、
 概ね上杉方として行動していた可能性が高いとされている
※上野に戻った際には八崎城あるいは不動山城に居城して白井城
の奪回を窺っていたという見解もある。
(黒田基樹「白井長尾氏の研究」『増補改訂 戦国大名と外様国衆』 
  岩田書院、2015)


・天正6年(1578)3月、上杉謙信の急死
「御館の乱」が勃発した。
  八崎城の長尾憲景は後北条方に臣従した。
膳城河田重親・大胡城北条高広・弟安田景広?は後北条氏の
  先鋒として、上杉景虎を助け、上杉景勝の息のかかる浅貝城
  (苗場スキー場近く)・荒砥城(湯沢町旧道峠上)・樺沢山城
  (上越国際スキー城内)と攻略。・・・
樺沢山城で坂戸城(上杉景勝の生まれた城)の攻撃をしようと
在城したが、冬が近づき、撤退・・・・
安田景広は安田城(柏崎市)で上杉景勝側と戦ったが、討ち死
にした。


・天正7年(1579) 5月 後北条方となっていた河田重親が不動山城を
 入手することとなった。しかし、川田重親自身は不動山城へ移るこ
 となく厩橋に留まった。

・同年8月、北条高広と河田重親ともに武田勝頼方に転じた。
 不動山城は同じ武田氏方となった牧氏へと再び戻された。
(「石川忠総留書乾」)

・天正8年(1580)3月、後北条方の女淵城主富永助盛(猪俣邦憲)
が武田方の不動山城(樽城)を攻めた。
  牧和泉守の次男など数多が討取られた。
 (黒田基樹論考)
 ★黒田説の女淵城主というのは納得できないが、・・・。
  天正12年には猪俣邦憲は箕輪城代であったはずなので、・・・
  天正16年多米周防守平長定が箕輪城代であった?
天正17年垪和伯耆守康忠は倉賀野城兼箕輪城代?
天正18年垪和信濃守が厩橋城かた箕輪城代になった。
 不動山城には後北条方であった南雲衆(長井坂城下)が在城した
 という。

 同年秋、武田勝頼の重臣真田昌幸が長井坂城・沼田城を奪取した。
 利根川東岸を南下し不動山城へと攻寄せた。
 南雲衆は城を明け渡して利根川西岸へと後退した。
 ※「加沢記」によれば、真田勢は約4千から5千とされる。
 不動山城にはすでに武田氏側であった牧和泉守が立て籠もった
 とされている。
 「加沢記」では、南雲衆が立て籠もっていたのは「長井坂城」
 である。・・・一方で、1年後の論功行賞においては「不動山乗っ
 取りの際」・・・記述の矛盾が確認される。

 この時、武田勝頼は「女淵城素肌攻め」・膳城・山上城を攻略
 している。武田勝頼は真田昌幸に命じて、伊香保温泉の保養地
 を造らせた。真田昌幸は家臣となった八崎城主長尾憲景の家臣
 千明・木暮・岸などに命じて階段街を造らせた。

~~~天正8年の情報は詳しく調べ直す必要がある。~~~~~~


・天正10年(1582)
2月、真田昌幸は八崎城の長尾憲景に命じ、後北条氏に帰属する
    書状を出させた。

3月11日、織田信長の甲斐侵攻に伴い武田氏が滅亡した。
  八崎城の長尾憲景は白井城への復帰を果たした。
 不動山城は厩橋城主北条高広に奪取されたともいわれている。
 6月2日 織田信長が明智光秀の謀反により死亡。

6月?日 滝川一益の甥が沼田城から撤退すると、真田昌幸の
家臣:矢沢頼綱は沼田城に入った。

 6月18日・19日 神流川合戦
  後北重臣:滝川一益が敗北した。
 白井城には後北条勢が侵攻して長尾憲景は服属した。
 北条高広は後北条氏に従わず厩橋城から追われた。
 北条高広は片貝城を築き、隠居した。
 不動山城は後北条氏の城番が置かれ、白井長尾氏も加わった。

・7月頃 真田 VS 後北条 

・天正11年(1583)
沼田城の真田対策のため後北条氏は津久田衆須田が長井坂城に
配置された。
  伊豆から狩野一族・湯河原から小幡一族分流を送って、長井坂城
  に入れた。
(狩野隠岐守宛て北条氏直感状)

 真田家臣となった阿曽城:金子美濃守や森下城:加藤丹波守
 が先陣となって、後北条方狩野氏・小幡氏・角田氏・須田氏
 と戦った。

・天正15年(1587)9月、 猪俣邦憲が須田弥七郎に「長井坂城」
 在城するように命じた。
  (群馬県史資料編)。


・天正16年(1588)沼田城の真田対策のため後北条氏は
 狩野一族・小幡一族分流を送って、長井坂城を守った。

同年、後北条の家臣になっていた溝呂木の角田一族は吾妻の中山城
  攻撃した。を

・天正17年(1589) 名胡桃事件。
 家忠日記「真田の城一つを落とした」 とあるだけで、名胡桃城
 と限定ができないという説もある。(みなかみ町教育委員会)

・天正18年(1590)長尾氏は北条の配下なので、見立城は、上杉
 景勝・前田利家の攻撃を受け、落城した。白井長尾氏は没落した。
と某Hpにあった。・・・
★北国軍は南下しているので、この説は再考の余地がある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原の陣
 上杉景勝(含真田昌幸・真田信幸・真田幸繁)、前田利家の連合軍が
 上野国に入った。
 3月28日「松井田城」攻め
   約一ヵ月間の4月20日まで・・・・・・
 4月20日、・・・松井田城攻略
(真田家文書:真田宝物館所蔵文書)
 4月17日頃、「国峰城」小幡彦三郎(小幡信定の一族)が降伏
上杉家臣藤田信吉(北条氏邦義理の兄弟)は小幡城・国峰城
  を攻略・・藤岡・・・
4月19日「厩橋城」は徳川家康の分流:浅野長吉(幸長)
率いる軍勢に囲まれて、降伏・開城した。
★浅野長政が不動山城を攻めたのであろうか?

4月23日 「箕輪城開城」か?
 4月24日、・・・箕輪城開城(真田家文書)
(垪和信濃守が逃亡し、・・・真田昌幸・保科正直が入城、
真田が戦後処理を命ぜられた。
保科が残った。前田利勝=利常を箕輪城代とした。
(真田家文書:真田宝物館所蔵文書)
 前田利家は西牧城(下仁田)へ~~~~~
 松平(依田)康国は徳川旗下のまま前田利家の先導役として前田軍に
 属し、大道寺政繁の上野国松井田城、西牧城などの攻略に参加した。
 西牧城(下仁田町)は青木城主(横浜鶴見)多米周防守長定は箕輪
 城代から、西牧城に相模藤沢城(御幣山砦?)主大谷帯刀左衛門嘉
 俊が西牧城に配地されたが、小諸城主松平康国・康寛兄弟(依田信蕃
 の子)に攻撃され落城、多米・大谷両将は討死した。
(下仁田町の伝説・・・物語山に逃げ登ったが下りられず自刃した。)
 松平康国は寺尾左馬助(石倉治部)の守る上野石倉城(前橋市)を
 攻略中、戦死した。 ・・・・
★松平康寛は不動山城をせめたのかなあ?

★真田昌幸・信幸・幸繁は箕輪城戦後処理後、鉢形城へ行ったので、
不動山城は攻められない。
 
5月13日、前田・上杉・真田・本多忠勝・鳥居元忠・浅野長吉
  (長政)などが鉢形城包囲・・・
5月19日 前田・上杉の別働隊が武蔵松山城を降伏させた。

6月14日「鉢形城」が落城した。
6月末 浅野長吉(長政)・真田一族は忍城攻めに石田三成と合流
7月1日 真田は持田口を攻撃・・・
 (里見義政は真田はドジこいたとあざ笑っている。)
   「里見吉政覚書』館山城博物館)
 ★真田が不動山城に行っていないので、不動山城が攻撃を受けた
  というのは納得できない。古文書史料の根拠がない。
浅野長政が攻撃したのであろうか?


・6月23日 八王子城が落城した。
城主:北条氏照以下重臣は小田原本城に籠城していた。
八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山
 勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員
 した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠った。
上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5000人が攻めた。

 横地監物吉信・・・後、井伊直政家老
 狩野一庵・・・・・討死。息子は井伊直政家老木俣守勝の養子:守吉
 中山勘解由家範・・・水戸徳川家家老
 
・7月15日 北条氏直は降伏・開城宣言

・7月24日(天正18年6月23日)、
◆参考サイト
不動山城 - 城跡ほっつき歩き http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/jyoukan-gunma/fudouyama-jou-sibukawasi-gunmaken/fudouyama-jou-sibukawasi-gunmaken-2018-04-24.html

◆参考図書
飯森康広「不動山城」『ぐんまの城30選』




★明日は?

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この記事へのコメント

  • 宗春

    先生こんばんは
     ブログの記事が群馬の戦国に帰ってきて嬉しいです。
     件の論文印刷出来上がってでしょうか?楽しみにしております。例の小説の話ですが、伝蔵の父である業親(出羽守)の出自の可能性を整理して、物語に登場させようかと考えています。話を作るのに井伊氏の家臣団へ編入される人物を想定して、因果関係を創作しないといけないですね。例の里見吉政もどこかで登場させたいし、物語を通しての主人公である夏目(青栁)小三郎吉春とのかかわりも考えないといけない。かつての敵であり井伊家では同僚である、武田旧臣とのかかわりも重要ですね。日々頭の中が空想でこんがらがってます。来月辺り先生の所へ寄らせていただければ幸いです。
    2020年05月23日 01:27
  • お久しぶりです。忙しそうですね。TVをディスプレイ代わりに買ったとたん、

    2020年05月26日 13:44
  • 宗春様にいただいたパソコンが画像が直りました。

    2020年05月26日 13:45