箕輪初心:生方▲草津100-76「野口雨情S3」と野口泰彦先生の家は車で1分

昭和3年(1928) 野口雨情・相馬御風・中山晋平と草津にきた。
相馬御風は日新館に泊まったので、野口雨情も泊まったと思われる。

草津ビジターセンターや草津温泉観光協会のHpには、『草津小学
校の沿革誌に「昭和3年9月26日、野口雨情、中山晋平両文士、
当町民謡研究トシテ来町ス」という記録があるそうである。』また、
『野口雨情は、草津をテーマに「草津湯の香は ほんのりかをる/
山や谷間の木の葉まで/昨夜夢見た 草津の夢を/草津湯の香の 
湯の夢を/草津草津と草津の湯場を/夢に見てさえ なつかしい…」
と詩をつけた。』とある。野口雨情は伊香保温泉「森秋旅館」にも
泊まった。野口雨情は『十五夜お月さん』『シャボン玉』など、時を
越え、愛される唄を創作した。
野口雨情の関係者:野口泰彦先生が私の家から500m程の所に居
住している。現在は不明である。お元気なのであろうか?

画像







【1】『大利根八十里を溯る』野口雨情*************
「野口雨情 大利根八十里を溯る - 青空文庫」より引用
https://www.aozora.gr.jp/cards/000286/files/4079_13920.html

前橋の鈴蘭燈籠
 停車場前から市街の外側をめぐる、新にひらかれた八間道路は
前橋市の一偉観である。鈴懸けの街路樹が深緑の葉を夕風にそよが
せて、見るからに涼しげであつた。夜は鈴蘭の花にかたどつた鈴蘭
燈籠がついて、夏の夜にふさはしい『明け易き』といふ感じがある。
民謡二篇。

   ○
来たらよく見な
鈴蘭燈籠
小花四つで
親一つ
   ○
夜の前橋ア
鈴蘭燈籠
お月ヤ出なくも
闇はない




榛名と赤城の連山
 西には榛名の連山が見え、北には赤城の連山が見える。
 前橋市は自然美の中につつまれてゐる都会である。民謡三篇。

   ○
榛名山から
烏の子でも
おれと遊びに
飛んで来な
   〇
赤城山から
兎の子でも
おれと遊びに
はねて来な
   ○
烏ア来ぬ来ぬ
兎も来ない
おれと遊ぶが
いやなのか

越後街道を渋川へ

前橋市から、越後街道を利根の流れにそふて、渋川へ向ふ。
この辺一帯に桑畑である。童謡一篇。

   ○
ここらあたりは
桑畑
蚕さんが見たなら
はつて来よな
アララノラツテバ
アララノラ


 桑畑の中の、ところどころに芋畑があつて、いもの葉が川風に
そよいでゐる。民謡一篇。

   ○
土用が来たから
畑のいもは
子でも出来たか
いそいそと


 行くことおよそ二里、群馬県下で一番古い鉄橋の坂東橋が
ある。利根の水はすさまじい勢ひで橋の下を流れてゐる。
この辺が利根川唯一のあゆの産地と聞いた。


あゆは瀬にひれふりありママあそび
われは野に子供と共に旗ふり遊ぶ


 且て長良川に遊びしときの旧作なぞ思ひ出して坂東橋を渡る。
民謡一篇。

   ○
坂東橋渡る
坂東橋渡る

小あゆこつち見た
狐花咲いた

咲いてしぼんで
また咲いた

小あゆこつち見な
狐花咲いた


 このあたりの田園には、赤い狐花がそちこちに咲いてゐた。



半田烏に八木原狐

 坂東橋を越せば、有名な群馬県の模範村古巻村である。
十数年前までは『半田烏に八木原狐』とうたはれたほど、淫靡極
まる不良村であつたのが、現村長儘田氏の努力によつて今では全
国でも有数の模範村となつたのである。儘田氏が今日までの努力
は、涙なしでは聞かれぬ幾多の美談がある。村人が今二宮と称し
て儘田氏を尊敬してゐるのを見ても如何に実践実行の人格者で
あるかが想像される。童謡一篇。

   ○
儘田村長さんは
鉄砲打つた

半田烏は
もうゐない

八木原狐も
もうゐない

儘田村長さんは
鉄砲打つた

 やがて、渋川町へ着いた。大利根は渋川で二つにわかれて、
一つは沼田方面へ、一つは草津方面へ、となる。私は草津方
面へ利根の水源吾妻川にそふて渋川を立つた。いよいよ之か
らが私の書かうとする利根水源の探勝記である。民謡一篇。

   ○
上州渋川
また来るまでは
おれが来たとは
話すなよ


長野街道の宿場
 越後街道は渋川で二つにわかれて一つは長野街道となる。
長野街道は利根の支流吾妻川に沿ふて信濃路に入る唯一の川街道
である。私は長野街道を吾妻川の水源にむかつて渋川を立つた。
街道筋の宿場宿場には、馬車の立場や、古風な茶店や昔そのままの
おもかげが残つてゐる。民謡四篇。

   ◇
長野街道の
道真ン中で
馬がないてた
おれを見て
   ◇
長野街道の
しやんこしやんこ馬は
どこで生れた
馬だやら
   ◇
小石蹴つたら
茶店の前で
小石アたまげて
ころげてつた
   ◇
小石アたまげる
もうおら蹴らぬ
かかと眺めて
さうおもた


魚の棲めない川
 吾妻川は、吾妻郡の中央に連起してゐるけはしい山のふもと
を奔流して大利根へ落ちてゆく。沼尻橋の展望や岩井洞の奇観
や到る処に沢山の勝景がある。民謡一篇。

   ◇
下へ下へと
早瀬の水は
なぜかいそいで
流れてる

 草津温泉から渋川までおよそ十里間、吾妻川の流域には草津
温泉の湯が流れて魚族は一つも棲んでゐない。私はこの十里間
の流域を『魚不棲うをすまず川』と名づけてみた。民謡二篇。

   ◇
上州吾妻
宿世の縁か
魚の棲めない
川もある
   ◇
魚の棲めない
吾妻川の
水を眺めて
暮らせとは


山間特有の美人郷
 東京では素顔の女は滅多に見ることは出来ないが、ここ
では皆素顔の女ばかりである。しかも美人の多いのは、山間
特有の天恵であらう。民謡三篇。

   ◇
姉さ こつち見な
ちよいと顔見せな
頬の笑窪は
誰にもろた
   ◇
頬の笑窪は
お母さんがくれた
転んで失なくすなと
言ふてくれた
   ◇
切れる鼻緒の
下駄ならいやだ
ころびやお母さんに
しかられる


 素顔の美人は見ることが出来てもさすがは山間のへき地だ
けに、東京で見るやうなモダン・ガールは見ることは出来ない。
童謡一篇。

   ◇
モダン・ガール やい
ゐないか やい

ゐたら縞蛇
おつかけるぞ

縞蛇 やい
モダン・ガール やい

ゐないか やい
モダン・ガール やい

ゐたら縞蛇
おつかけるぞ


毒消売りの娘子軍
 やがて中之条町についた。吾妻川はここで本流支流の二つに
わかれてゐる。私は吾妻川の支流に沿ふて、四万街道を上つて行
つた。四万街道は四里の間渓谷の中を川に沿ふてつくられた四万
温泉への通路である。途中、越後から来た毒消売りの娘子軍と道
連れになつた。娘子軍は世間ずれはしてゐるが、さすがは女である。
『越後出るときやヨー、涙も出たがヨー』なぞと懐郷の念にた
へないといふやうな面持ちで歌ひながら歩いてゐる。民謡一篇。

   ◇
山にや霧立つ
雉子の子さへ
越後恋しか
ほろたたく


四万温泉の一
 四万は渓谷の中のさびしい温泉場であるが、相当な設備の
温泉旅館が数軒ある。私は田村旅館の三階から四万の全景を一
眸の下に眺めてみた。吾妻川の支流は狭い谷川となつて旅館の前を
流れてゐる。小さいながら川上には、小倉の滝、大泉の滝、日南見
の滝等の名所がある。
 夕霧は山をめぐつて、いつしか日は霧の中に暮れてしまつた。
 丁度、その夜の丑満うしみつ頃である。やみをつんざいてけた
たましいときの声が聞えた。ハテナと思ふ瞬間に、階上階下の廊側
らうがはに右往左往するおびただしい足音も聞えて来た。私は『山
賊の襲来』と直感して、すぐはね起きたのである。


四万温泉の丑の刻
丑満ごろに、闇をつんざいて聞えた鬨ときの声、ただならぬ廊側
の足音、てつきり『山賊襲来』と思つたのは、丑の刻を知らせる田
村旅館の番頭達の怒鳴り声であつた。童謡一篇。

   ◇
四万の田村の
番頭さん達は
 ヨイヨイヨイサ

鬨の声あげて
丑の刻知らす
 ヨイヨイヨイサ

夜の夜中だ
番頭さんも眠い
 ヨイヨイヨイサ

眠い顔して
鬨の声あげた
 ヨイヨイヨイサ

 丁度この日は土用の丑の日である。丑の日の丑の刻に温泉に浸る
と万病に特効があるといふしきたりから浴客に時刻を知らせたので
ある。親切な番頭さん達だ。童謡一篇。

   ◇
起きなお客さん
丑の刻ア来たよ

はやく起きぬと
丑の刻ア帰る

一度帰れば
今年は来ない

寝ぼはきらひだ
お寝ぼはいやだ

帰ろ帰ろと
風呂場を見てる

起きなお客さん
丑の刻ア来たよ

 次の日、中之条まで戻つて、長野街道を再び吾妻川の本流にそふ
て出かけた。四万温泉の眺望は変化に乏しかつた。民謡一篇。

   ◇
四万でわく湯も
大利根川の

末にや流れの
水となる

関東の耶馬渓
 中之条から原町、原町から郷原さとはらまでの吾妻川にそふ
た街道は、麻畑の多い平和な農村である。民謡二篇。

   ◇
畑たたきたたき
土用かと聞けば
土用だ土用だと
麻がいふた
   ◇
麻の下葉が
落ちよと枯りよと
土用に刈らりよか
麻の木を

 岩島からは対岸の山がせまつて来て、吾妻川は次第次第に急流
となつて来る。岩島から川原湯までおよそ二里の間は、関東の耶
馬渓と称されてゐるこの街道一の絶景であるが、吾妻川の水がす
さまじい音を立てながら水煙を吹いて流れてゐるのを見ると、むし
ろ物すごい感じがする。民謡一篇。

   ◇
ここと銚子とは
五十里もあろに
水は寝ないで
流れてく


川底から湧く温泉
 やがて長野県についた。吾妻川はここでも本流支流の二つに
わかれる。私は支流の須川にそふて上つていつた。およそ二里の
川上に湯の平温泉がある。更に二里の川上に花敷温泉がある。
二つともこの温泉が川底からわき出してゐるのは奇観である。
童謡一篇。

   ◇
わいたわいたわいた
川からわいた

わいてこぼれて
須川へ流る

流れ流れて
吾妻川へ

もまれもまれて
大利根川へ

ごんぼごんぼごんぼ
こぼれてわいた


草津温泉の名物
 湯の平温泉から山を一つ越えると『お医者さんでも草津の湯で
も……』の草津温泉である。草津温泉には名物の『湯もみ』がある。
名所の『賽の河原』もある。不思議な『氷谷』もある。この三つは
全く他では見ることの出来ない草津温泉のほこりである。民謡三篇。

   ◇
湯揉みやはじまる
湯長ゆちやうさんの音頭
音頭はづまにや
湯が揉めぬ
   ◇
賽の河原で
すまぬと思たが
石の地蔵さま
撫ぜてみた
   ◇
氷谷かよ
夏でも寒い
岩の中から
風がわく


 私は草津温泉を立つて、吾妻川本流の水源地、上信国境の鳥居峠
にむかつた。
 長野街道はどこまでも吾妻川の本流にそふてゐる。落葉松の林
や白樺の交つた雑木林を見ても、如何にこの辺が高原であるかが思
はれる。民謡一篇。

   ◇
雑木林で
白布さらす

可愛や白樺
布さらす


 やがて嬬恋をすぎて鹿沢温泉についた。吾妻川の本流は渓流とな
つてしまつた。これ以上水源の探勝は探勝家にゆだねたい。私の目
的であつた大利根の支流吾妻川にそふて、童謡を歌ひ民謡を歌ひな
がらの旅はこれで終つた。鹿沢温泉は上州唯一の高原温泉で四囲の
眺望は雄大である。民謡一篇。

   ◇
浅間裾野の
六里が原も
通へ通へと
風が吹く


底本:「定本 野口雨情 第六巻」未來社
   1986(昭和61)年9月25日第1版第1刷発行
底本の親本:「東京日日新聞」
   1926(大正15)年7月29日、8月3日、8月4日
初出:「東京日日新聞」
   1926(大正15)年7月29日、8月3日、8月4日
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2003年11月24日作成
2016年2月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/)で作られた。
入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんである。

◆参考サイト
「野口雨情 大利根八十里を溯る - 青空文庫」より引用
https://www.aozora.gr.jp/cards/000286/files/4079_13920.html

・明治15年(1882) 茨城県多賀郡北中郷村磯原の廻船問屋を営
む名家(楠木正季が先祖伝)の長男として生まれる。
父:量平
母 :てる
  本名:英吉。

  4年制小学校・4年制高等小学校を終了

・明治34年(1901) 東京専門学校(早稲田大学の前身)高等予科
文学科に入学した。
  坪内逍遥に師事した。
  小川未明らと知合う。
  内村鑑三、幸徳秋水らのキリスト教、社会主義の影響を受ける。
  野口英吉19歳、一年後に退学した。
  詩作を始める。

・明治35年(1902)
  「流々吟」を『小芝舟』に発表した。
   また、お伽噺や短篇童話なども書いた。

・明治37年(1904) 村長であった父の父の事業失敗・死によって
   郷里に帰り、家督を継ぎ、戸主となる。

・明治38年(1905) 23歳の時、野口家の没落をふせぐために、
  家族・親族)から、栃木県の資産家の娘:高塩ひろと結婚と
  した。(もともと気の進まない話で、後年、破綻する。)

   酒におぼれたが、詩作にも打ち込み、発表していた。
  「雨情」の号を名乗ったのもこの頃である。
 以後、樺太や北海道など各地を転々とし、新聞記者生活などを
  経験する。

・明治38年(1905) 処女民謡詩集 (第一詩集)『枯草』を水戸から
自費出版した。。新体詩、口語詩など計18編収録してあった
    が、。反響は得られなかった。

・明治39年(1906) 妻:ひろは長男の雅夫を生んだ。
   しかし、野口雨情は窮屈な家庭を飛び出し、事業で一旗揚げる
  名目で樺太[6]にわたった。しかし、失敗した。
  一緒にコルサコフまでともなった芸者に金を持ち逃げされてしまい、
   残った金で林檎を貨物列車の一両分、東京に送って売ろうともく
   ろんだが腐ってしまった。

   妻:ひろが上京して雨情を連れ戻しに来た。
   しかし、野口雨情は東京にとどまり詩人になると宣言した。
野口雨情は北海道に渡って新聞記者となった。
(1906年~1909年)

   野口雨情は北海道で6つの新聞社を転々とした。
『小樽日報』に勤めていた時に石川啄木がおり、交友を結んだ。
  雨情は当時の主筆に対する排斥運動を起こしたが敗れて退社した。
  石川啄木とは1ヶ月足らず机を並べただけに終わった。

箕輪初心:生方▲北海道№5-12【釧路:港文館】&「石川啄木の生涯」
http://53922401.at.webry.info/201506/article_19.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201506/article_19.html

・明治40年(1907) 1月 月刊パンフレット民謡集『朝花夜花』を
   刊行した。 しかし、人気はなかった。

3月23日、妻:ひろは雨情の長女みどりを北海道小樽で生んだが、
  わずか 8日目に亡くなった。
しゃぼん玉 飛んだ 屋根まで 飛んだ
屋根ま で飛んで こわれて消えた
しゃぼん玉消えた 飛ばずに 消えた
生まれて すぐに こわれて 消えた
風 風 吹くな しゃぼん玉 飛ばそ
風 風 吹くな しゃぼん玉 飛ばそ
   (★作曲:中山晋平)
★長女のために作詞したか不明。

10月 三木露風、相馬御風(草津に来ている)らと共に早稲田詩社
   を結成した。
  その後しばらく詩作から遠ざかった。

・明治42年(1909) 野口雨情はいったんは帰郷したが、すぐまた
   上京した。

・明治44年(1911) 母の死でふたたび郷里に戻った。
  家の植林や農地財産の管理などに従事するようになった。
  しかし、文学への執着は捨てきれずにいた。

・大正3年(1914) 野口雨情は痔の湯治のためにいわきの湯本温泉
 を訪れた。
 置屋「柏屋」のおかみ「小すみ(本名明村まち)」といい仲に
 なってしまった。

・大正4年(1915) 5月 妻:ひろとの協議離婚が成立し、
   野口雨情は2児をひきとり育てることになった[6]。

   「柏屋」で3年半を過ごした。

・大正7年(1918) 野口雨情は湯本温泉から水戸に行った。
  中里つると再婚した。
  再び詩の創作活動をはじめた。

  雑誌『こども雑誌』『金の船』(後『金の星』)に童謡を発表し
 始めた。
 北原白秋、西条八十らともに童謡の基礎を固めた。

・大正8年(1919) 詩集『都会と田園』により詩壇に復帰した。
  斎藤佐次郎により創刊された『金の船』より童謡を次々と発表
  した。
  藤井清水や中山晋平や本居長世と組んで多くの名作を残した。
  「枯すすき」を、中山晋平に曲を依頼した。
  (1921年「船頭小唄」として一世を風靡した。)


・大正9年(1920) 『金の船』の童謡欄の選者となる。
「蜀黍畑」「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「証城寺の狸囃子」
などを発表した。いずれも曲がつけられた。

■代表作(楽曲としての発表され広く愛唱された。)
・大正9年(1920)
  「十五夜お月さん」(本居長世作曲)

・大正10年(1921)
「七つの子」(本居長世作曲)
カラスなぜ鳴くの カラスは山に かわいい七つの子があるからよ
  ★娘への切ない思い?…~七羽の子?七歳の子?


「青い眼の人形」(本居長世作曲)
「青い眼をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド・・・」
★アメリカから日中友好のために送られた。
   日米の友情を築く意味で作られた楽曲でもある。
   高崎市立箕輪小学校に現存している。

・大正11年(1922)
「赤い靴」(本居長世作曲)
赤い靴はいてた女の子 異人さんに連れられて いっちゃった
  ★札幌市の新聞社に勤めていた時に、同僚の鈴木志郎や妻:かよ
  と親交を深め、「かよの娘:きみが宣教師に連れられて渡米した」
  という話を聞いた。という。

「シャボン玉」(中山晋平作曲)
シャボン玉 屋根まで飛んで 壊れて消えたシャボン玉


「こがね虫」(中山晋平作曲)
黄金虫(こがねむし)「黄金虫は金持ちだ~♪金蔵建てて蔵建てた。」

「兎のダンス」(中山晋平作曲)
  ソソラ ソラ ソラ うさぎのダンス
タラッタ ラッタ ラッタ
ラッタ ラッタ ラッタラ
あしで 蹴り 蹴り
ピョッコ ピョッコ 踊る

・大正13年(1924)「あの町この町」(中山晋平作曲)
「 あの町この町 日が暮れる 今きたこの道 帰りゃんせ


・大正14年(1925)
 「雨降りお月さん」(中山晋平作曲)
雨降りお月さん 雲の蔭 お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
   十五夜お月さん ・・・」


「証城寺の狸囃子」(中山晋平作曲)
 「しょうじょうじの庭で 和尚と狸がポンポコポンのポン! 」
★私の大学生の時は「エロい替え歌」を宴会で歌っていた。

 
・大正11年(1922)『コドモノクニ』には、創刊から第13巻の13号
まで寄稿をつづけた。

・大正 13年(1924) 9月娘:恒子が亡くなった。
  満2才、数えで4才であった。


●昭和3年(1928)野口雨情は相馬御風・中山晋平と草津にきた。

 草津小唄
相馬御風・作詞/中山晋平・作曲
1、(サテ)
 朝の湯けむり ゆうべの湯もや ヨイトサノサ
 (ハキタサ)
 草津ァ湯の町 サァサヨイトサノ夢の町
 ヤァレ モンダ モンダ ヨイトコリャセ(サテ)

2、浅間おろしに 木萱もなびく ヨイトサノサ
 草津恋しと サァサヨイトサノ いうてなびく

3、梅雨はらはら 草津の宿で ヨイトサノサ
 ひとり寝て聞く  サァサヨイトサノ 湯もみ唄

4、つもる思いと 草津の雪はヨイトサノサ
 とけるあとから  サァサヨイトサノ 花が咲く

5、草津恋しや 白根の山のヨイトサノサ
 雪の消えまの サァサヨイトサノ お駒草


・昭和5年(1930) 野口泰彦は東京で生まれる。

・昭和6年(1931) 野口存彌が生まれる。

・昭和18年(1943) 軽い脳出血で倒れて後は療養に専念した。
・昭和19年(1944) 1月、栃木県河内郡姿川村鶴田(現
宇都宮市鶴田町1744番地)の羽黒山麓に疎開した。

野口雨情は土地を夫人と共に養鶏や果樹などを楽しみながら
 日々をすごした。

・昭和20年(1945)栃木県河内郡姿川村鶴田(現
宇都宮市鶴田町1744番地)の羽黒山麓で死去した。
  旧居が保存されている。





野口泰彦氏*************************
『是生滅法―小説 箕輪城 長野業政と武田信玄』野口 泰彦2005/12/14
 (★直接、会ってサインをいただいた。)
『上善の地蔵 胡蝶の夢』野口泰彦

箕輪初心■箕輪城シリーズ27「箕輪城の参考文献」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_41.html

・昭和5年(1930) 東京に生まれる。
中学・高校時代、水戸市に居住。
早稲田大学文学部演劇学科卒。
シナリオ作家生活ののち、私立本郷高等学校国語科教諭となり、
10年間教頭をつとめる。
現在、東京育英会会長、運営委員長
(★箕輪城 長野業政と武田信玄当時のプロファイル)
映画シナリオ『丹下左膳』『道場破り』『忘れ得ぬ人一・二部』
『ろくでなし野郎』『小雨の夜に散った恋』『関東義兄弟』。

TV『あひる飛びなさい』。
舞台『道場破り』

著書『魂を投げろ』『教師の辞令』『退学』
『是生滅法―小説 箕輪城 長野業政と武田信玄』
  (★無償でとおっしゃられたが、お金は払った。
   野口泰彦氏のサイン付き・・・やったぜ。)
『上善の地蔵・胡蝶の夢』(購入済み)
など。・・・・
★読んだ方だけ、野口先生と私の居場所が分かる。
家の写真は掲載しません。


★明日は?
 長崎の同窓会故に、ブログは2日休憩した。
でも、長崎だけでまた30日分は書ける。

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