箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№119気賀②展望台からの気賀と『堀川城』

平成29年(2017)11月1日、井伊谷の散策の後、気賀の散策と
なった。気賀では、「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」・
「細江神社」に行った。今日は「万葉の里・展望台・宿泊地:
国民宿舎「奥浜名湖」…展望台から見た浜名湖水運の要衝:気
賀と「堀川城」は汽水湖の影響で、戦国時代は満潮時には「堀
川城」が孤島になるらしいとTVで言っていた。フランスのモ
ン・サン=ミシェル寺院を勝手にイメージした。
11月2日、
まず、『堀川城』を目指した。『堀川城』jの範囲が分からなかった。
ここで、1000人以上殺し、逃げた農民ら700人の首を刎ねた。
徳川家康は合計1700人、殺したのか?武田信玄は信濃:志賀
城で3000人晒し首・・・上杉謙信も武蔵騎西城で大量虐殺。
織田信長は「比叡山全山殺戮(さつりく)」1000人以上、「一向一揆
殲滅(せんめつ)」1000人をなで斬り・降伏した20000余人も砦に
押し込めて、 火あぶり・・・・。戦国武将は人殺しばっか?
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●井伊谷3回目
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№113『井伊谷遺産センター』
井伊谷の歴史
http://53922401.at.webry.info/201711/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№114『井伊谷妙雲寺』直虎と南渓
の位牌・南渓肖像画
http://53922401.at.webry.info/201711/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№115井伊谷『謂伊神社』&モロード様
=客人神のうんこ神様?
http://53922401.at.webry.info/201711/article_18.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№116『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№117『龍潭寺』:昊天が彦根清涼寺開山
http://53922401.at.webry.info/201711/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№118気賀「姫街道と銅鐸の資料館」
の直虎パネル
http://53922401.at.webry.info/201711/article_21.html


【1】平成29年(2017)11月1日***************
07:00 家→駐車場
07:58 高崎 ⇒08:52着東京09:03発⇒10:31着 
 2時間33分 12,070円 お土産を買った。
JR北陸新幹線 あさま606号 東京行
JR東海道新幹線 ひかり465号 岡山行
☆石原さんにTEL
10:40 南口のトヨタレンタカー
①三方ヶ原古戦場跡  
  犀ヶ崖資料館には行かなかった。
12:00 井伊谷
   昼食「昌盛館」…中華丼・台湾味噌ラーメン
   石原さんの誕生日祝いだった・
②井伊谷遺産センター
③自耕庵と臨済宗妙心寺派「浩徳山妙雲寺」
 直虎の位牌・南渓の位牌・南渓谷の肖像画
④渭伊神社と天白磐座遺跡
⑤井伊谷宮・・・3回目

⑥龍潭寺・・・・・3回
★龍たん寺の現和尚様:武藤某様は大學の同期か一歳下らしい。

*****************************
⑦気賀の「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」
本のプレゼント「浜松市の銅鐸」

①三遠式銅鐸、近畿式銅鐸(弥生時代)
都田川流域は全国有数の銅鐸出土地である。
 浜名湖周辺では約26個の銅鐸が出土しているそうである。
 銅鐸7点や発掘当時の展示もあった。
  資料は400円であった。
 もちろん、群馬県にはない代物である。

  銅鐸は弥生時代の青銅製のベルである
  米の豊作を祈る祭器説
  外敵や異なる神の侵入を防ぐために使われた説。
  鹿や鳥の絵が描かれたものもあった。

②姫街道の往来と諸道具(江戸時代)

③藺草(いぐさ)生産にかかわる道具(江戸時代)
畳表として生産されたイ草に関わる資料

④浜名湖用の漁船

⑤産屋(移築保存)(江戸時代)

⑥企画展「井伊谷の歴史パネル」

********************************

○細江神社
い草が植えてあった。
 柿を通りがかりの方からいただいた。
   ★静岡県人って、優しいんだね。
○臨済宗方広寺派「東林寺」

・勅使門…宗良親王ご休憩に由来か?本陣の御退場か?
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 ★石原さんの奥様の家のお墓もあるそうです。

○万葉の里…歌碑が多い。
 細江公園にあった歌碑らしい?
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○展望台
・刑部城が見える。ここから1,5kmってとこか?
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・大河ドラマ館も見える。
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・真ん中が堀川城?ここから1,5kmってとこか?
戦国時代は満潮時には「堀川城」が孤島になる
とTVで言っていた。
フランスのモン・サン=ミシェル寺院を勝手にイメージした。


○国民宿舎「奥浜名湖」


○石原氏宅…たくさんに本をいただいた。
・「井伊家傳記」訳本上下:たちばな会著
  ・「井伊氏ゆかりの石塔」
  ・「井の国物語」谷光洋著、版画家でもある。
  ・「気賀と万葉歌碑」
  ・「高崎史帳」森田秀策著
  ・その他資料。
○19:00国民宿舎「奥浜名湖」
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★景色は最高。

 ・「花の舞酒造」の「奥浜名湖」を飲んだ。
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 ★体裁のよい和食料理で、酒飲みには物足らなかった。
  浜松・浜名湖の味である浜松駅前より安い「うなぎ」を堪能
  できず、残念。鰻屋・鰻屋・・・・。夕食は別にすれば良かった。
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【2】平成29年(2017)11月2日***********
05:30 起床
06:00 気賀の町中に・・・
○本陣

⑧▲城№887気賀の堀川城
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「堀川城の戦い
永禄3年(1560) 今川義元が織田信長に敗れ、今川氏真が家督を
継いだころから、今川家の支配していた遠江は動揺します。今川
家の弱体化を見越した甲斐の武田信玄、尾張の織田信長、さらに
は今川氏に反旗をひるがえして信長と同盟をした三河の徳川家康
らが、駿河・遠江への進出をねらって動き出しました。
信長・家康同盟の本拠、尾張・三河に近く、また北遠を通じて信玄
の領地であった信濃にも近い浜名湖北岸の地域は、湖北をめぐる
街道(後の姫街道)や水上交通の要衝として、双方から重要視され
ました。この地の武将や住民たちは、これまで通り今川家につくか、
信玄あるいは信長・家康につくか選択を迫られていきました。
永禄11年(1568) 12月、井伊谷周辺を味方に付けた家康が遠江
へ侵攻します。気賀周辺の住民は氏真に付いて家康に抵抗しまし
た。駿府から敗走した氏真がたてこもった掛川城攻めが長引き、武
田軍の遠江侵入の動きが伝わる中、気賀周辺の反徳川の動きも
活発でした。こうした状況の中、家康は堀川城の兵の目を避けて、
いったん三河に戻っています。体制を立て直して再度遠江へ侵攻
した家康は、堀川城を徹底的に攻め、たてこもった城兵や住民を
全滅させ、落城の後も敗残兵を探し出して処罰しています。さらに
捕虜の首を獄門畷にさらしたと伝わります。
家康の生涯における戦さの中でも、もっとも残酷な戦場となりまし
 た。」
  (★浜松市教育委員会による現地案内板)


⑨気賀の長楽寺

○(陣屋⇒大河ドラマ館)

⑩井伊直親の墓
⑪蜂前神社
⑫▲城№888刑部城…武田信玄のコース
○気賀の関所…町中十字路近く。入り口が小さく、駐車不可
  慶長6年(1601) 徳川家康により創設された姫街道の関所である。
○朝飯…国民宿舎「奥浜名湖」&精算11600円?
⑬気賀近藤氏5000石の陣屋
⑭大河ドラマ館…600円。★NHKの宣伝で、歴史好きの人には?
・気賀街歩きはしなかった。


⑮▲城№889三日日の佐久城
⑯▲城№890三ヶ日の千頭峯城
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
⑰▲城№891比丘尼城(近藤康用の支城)
⑱▲城№892宇利城(近藤康用の最初の城)
⑲▲城№893野田城(菅沼氏の最初の城)
⑳▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物・
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城№894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城№895柿本城(鈴木重時の城)
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の実家
 昼飯は精進料理のうな重は1200円。
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。

○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
◆俺は帰りながら、閃いた。
 K大學の吹奏楽団の「祐太郎君」に会いてえな?・・・
★浜松泊まりを決定。東京大田区泊まり・群馬駆け戻りをやめた。
 
○GS…1900円
○トヨタレンタカー 約15000円
★可愛いお姉さんがビジネスホテルを教えてくれた。
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
「祐太郎」君にTEL…「明日、8:30に会うことになった。」
★祐太郎の声を聞けて、良かった。
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅

【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城№897二俣城
29▲城№898鳥羽山城
30▲城№899大平城(おいひら城)
31▲城№900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。祐太郎君のおごり
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家
★次に浜松に行くときは
浜松市内では、楽器博物館・浜松基地・宿蘆寺
浜松井伊谷では、三岳城(三嶽城)・渋川館・初山窯・都田城・奥山城
浜松の山奥では、犬居城・高根城
隣の市では【舟ケ谷城】直虎を支えた新野氏の居城・横須賀城
宿泊するなら「舘山寺温泉」国民宿舎紅竹 6000円


箕輪初心:生方▲大草城&大河原城*宗良親王&香坂高宗
http://53922401.at.webry.info/201606/article_12.html
 ★宗長親王は信濃の大草城・大河原城を拠点とした。


【●】「姫街道と気賀の歴史」
愛知県御油宿から静岡県見付宿の間を浜名湖の北岸経由で結ぶ東海道
の脇街道である。正式には本坂通と呼ばれている。
愛知県と静岡県の境にある本坂峠は姫街道の難所である。

・弥生時代
  銅鐸文化で栄えた。当然、米生産をしている。

・古墳時代
  前方後方墳が造られた。(北大岡古墳など)
  古墳の文化はかみつけの国(群馬県)にも伝えられた。

・奈良時代
 奈良官道(東海道)は、湖北(浜名湖の北)を通っていた。
 気賀を通る。
 防人も此処を通って奈良・九州に行かなくてはならなかった。
 『万葉集』には、「引佐細江のみおつくし」等、湖北の地名や風景を
 詠み込んだ防人歌が載せられている。
ここから先は死ぬか生きるかの山道が待っていた。
 気賀から見る浜名湖は絶景であったのであろう。
 
①万葉の里(展望台)
 「遠江 引佐細江の 澪標 我れを頼めて あさましものを」
  巻14-3429

②浜松市北区細江町気賀「西気賀小学校内」
「遠江 引佐細江の 澪標 我れを頼めて あさましものを」
  巻14-3429
③浜松市北区細江町気賀葭本の小森橋南
「霰降り 遠江の 吾跡川楊 刈れども 
            またも生ふといふ 吾跡川楊 」
  巻7-1293
(★『気賀と万葉歌碑』

東山道の高崎付近と同じで歌を詠む場所であったのだろう。
  「伊香保路(榛名山)」が9首ある。


愛知県側の国名が「穂の国」(三河の国・宝飯郡)であった。
「穂の坂」または「穂の境」がなまって「本坂」になったと言われる。
 奈良時代の浜名湖は現在の広さの半分であった。
 北半分で、湖水は浜名川によって遠州灘(太平洋)へ流れ出ていた。
 「引佐郡伊福郷」が気賀である。

・平安時代
「井伊谷」井伊氏が入ってきた。井伊氏の館があった。

・鎌倉時代
湖南(浜名湖の南)で窯業が発達すると、東海道は湖南に移り、湖北
 の本坂越えの道は「ひね街道」(「ひね」は遠州弁で「古い」の意)、
 江戸時代に「姫街道」(「ひめ」は「ひね」の転訛。異説あり)と呼ば
 れたそうである。

・鎌倉時代末期
 井伊谷に詰め城として井伊谷城と6つの砦が築かれた。

・南北朝時代
・南北朝時代初期 強力な詰め城として三岳(三嶽)城が造られた。

・建武4年(1337)、三方ヶ原の戦い
 宗良親王は難破し、井伊谷に行った。
 南朝:井伊氏 VS 北朝:足利系今川範国・了俊

 井伊一族は南朝方:宗長親王にに加勢し、今川範国と戦ったが、
 敗戦を喫した。

・暦応2年・延元4年(1339)~暦応3年・興国元年(1340)南朝:
宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰・仁
木義長ら の軍勢が現浜松・井伊谷に押し寄せてきた。三岳城に
籠もったが、攻略され、更に大平城で敗北した。宗良親王
は信濃に逃亡した。井伊谷は今川了俊の支配下になった。以後、
敵対していた今川氏支配下に置かれ、井伊氏は受難の時代が続く。
(★平成28年(2016)6月に石原さんが送ってくださった資料)

・室町時代
・文明13年(1481) 中村家14代正實(まさざね)が、今川氏から
遠江国磐田郡大橋郷に領地を与えられた。
中村家は源氏の源範頼の末裔である。
   源範頼は、源頼朝の弟・源義経の母違いの兄である。

・ 明応8年(1499)
  超巨大地震が発生した! 
  浜名川が山津波で塞がれると、浜名湖の水が溢れ、新たな湖水の
 排出路ができた。
 ※排出路を「今切(いまぎれ)」と言った。

  地震が収束すると、浜名湖の面積は倍に広がり、今切口は広く
 なってしまった。
 淡水湖であった浜名湖は汽水湖となった。
浜名湖と遠州灘が大きく切られてから舟で渡るようになった。
 東海道も「舟を使うのは不便」だとして、湖北(本坂越え)に
 戻った。
 「交通の要地」として吉村湊(後気賀湊)と気賀は再び注目された。
 
・戦国時代
中村家は今川家の家臣として代官を勤めたいた。
中村家はTV大河ドラマ『おんな城主直虎』では商人であったが、
  史実では武士である。中村与太夫は、実在の人物である。
 ★18代中村正吉という。先祖は源範頼である。
  今川家から浜名湖で自由に航行する権限もらい、船輸送・貿易を
  任されていた。
  
  井伊谷は、本坂越え街道・鳳来寺信濃道に通じる中継地であった。
  井伊家の財源は、運輸業が中心であった。
主な貿易輸入・運送品は、「三河塩」・「木綿」だったと考えられる。
主な貿易輸出・運送品は、「陶器」であったと思われる。

   
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元が戦死した。
  井伊直盛も戦死した。井伊直親があとを継いだ。
井伊家は直盛の遺言で中野直由が形式上、井伊谷城主になった。

  遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥った。

土地の人々が砦を築き、地名から堀川城と名付けた。
  都田川の対岸にも刑部城を築いた。
 
 徳川家康の遠江侵攻に備えた。
 しかし、未だ今川氏の勢力下であった。

 今川家の力が弱くなったのにつけ込み、密かに気賀に集まる者も
 増えていった。
 
「桶狭間の戦い」後、独立して気賀領主となったとも言われている。
「遠州気賀領主新田左衛門入道喜兼(元直平ノ家臣也)」
  (★『井伊直平公一代記』)
 井伊直盛の時代、「井伊谷七人衆」の1人であった。
新野親矩が清水城主:新田喜兼を呼んだとも言われている。
 名倉伊茂が新田友作と名乗った。

新田家は上野国(群馬県)の新田一族の末裔である。
 南北朝時代に新田義貞の子ども:新田義宗についてきた新田
 岩松系の新田である。

瀬戸方久も新田喜斎:友作を名乗った説もある。

気賀には新田友作・家臣の石田党、丸井党、蒲生党、中村党が
集まっていた。
山村修理、尾藤主膳、竹田高正などもいた。

・永禄5年(1663)
井伊直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、今川氏真
 から松平元康(徳川家康)との内通の疑いを受けた。
 今川家の縁戚でもあり、井伊直盛の妻:祐椿尼は妹であった新野親矩
 の取りなしで、陳謝のために駿府へ向かうことになった。

・12月14日(1563年1月8日)…3月2日説
  井伊直親は掛川で今川家の重臣:朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害
  された。享年27。


・永禄7年(1564) 中野直由が戦死した。
  中野直之があとを継いだ。
  奥山六左衛門はひよ(井伊直政の母・中野直之の妻の姉)の姉弟で
  あった。
 井伊家にはダレも跡継ぎがいなくなった。

・永禄8年(1565) 次郎法師は還俗し、井伊直虎と名乗り女領主に
  なった。
 今川氏真から徳政令を出すように命じられた。
井伊直虎は運搬業・貿易業(水上輸送)に目を付けた。
  (TVでは)
 今川家の力が弱くなってきたからである。
井伊直虎時代の気賀の領主は、新田友作であった。

・永禄11年(1568) 今川氏真が瀬戸方久に出した徳政令を免じる
  安堵状を出した。条件は新城の備蓄を賄うようにち付帯事項が
 付いていた。
  ※新城が刑部城・堀川城と考えられている。
 今川氏真は、徳川家康の遠江侵攻に備え、刑部城や堀川城の改修
 工事を命じた。
 そして、両城に集まったのは、各地からの牢人である。

 
・永禄11年(1568) 今川氏真の命を受けた小野正次(道好)の介入を
  受けた。小野正次(道好)に井伊谷を奪われた。

11月 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
  ★今川氏真が介入してきたことを意味する。
「井伊直虎は今川氏家臣関口親永一族:関口氏経の息子
 (次郎法師の母方の従兄弟)を井伊次郎と名乗らせて
 当主とした説もある。
 (★『鉾前神社古文書』)に唯一「井伊直虎の名がある。」
 井伊直盛嫡子「井伊直親養子」、妹に「女子」とあるだけである。
 (★『おんな城主井伊直虎と井伊家の歴史』井伊達夫著)
 
18代中村源左衛門正吉は、主君を今川家から松平(徳川家康)
 に変えた。

 
11月 徳川家康が遠江の平定に着手
  徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
  から今川家の離反の誘いを受けると、承諾した。
  菅沼忠久が鈴木重時や近藤康用も誘った。


 野田菅沼3代目当主の定盈の計らいによって菅沼忠久や鈴木重時と
 共に家康に属し、所領を安堵された。
 井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)も浜松城
  (旧引馬城)主となっていた徳川家康に加担した。

 遠州切り取りの第一歩、刑部城の攻略の先鋒は旧今川義元配下だっ
 た野田城の菅沼新八郎定盈(さだみつ)に井伊谷3人衆であった。

 近藤康用は子:近藤秀用を従軍させていた。
 老齢である上、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた
 からである。
 
▲刑部城攻め
 今川氏真から離反させて徳川方に流れた「井伊谷三人衆」:菅沼忠久
 ・鈴木重時・近藤康用に野田菅沼定盈と大将として、攻撃させた。

戦国時代に相手方武将を調略して自軍に引き入れた場合、まずはじめに
 次の戦いの先鋒に投入される。
真田幸綱・昌幸もいつも調略すると、
 ①人質を取る。②戦いに元の味方と戦わせる・・方法を使っていた。
 調略した側としては臣従の誓約がされたからと言って俄かに信
 ずるわけにはいかないのである。
  まず、先鋒をやらせて様子を窺う。自分の配下ではない新参者
  なので、負けても自分の軍には影響がない。
 今までの味方を敵として戦わせることになる。
「昨日の友は、明日には敵なのだ。」
  昨日まで味方だった武将が戦いを挑んでくので戦意も喪失しがち
 になる。調略された者は裏切りの汚名を被ったからには開き直って
 味方になった証しを証明しなければならないし。戦功を挙げなくて
 はならない。

徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込んだ。
 徳川家康は井伊谷城を攻略した。
 徳川家康から近藤康用が井伊谷を安堵された。
 近藤康用が支配することとなった。
 次いで刑部城を落城させた。
 
 今川方で近隣の堀江城主:大沢左衛門は徳川家康に抵抗していた。
 
 新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1700人を
  集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
  しかし、満潮時であったのか?城は攻略できなかった。
  

・永禄12年(1569)
2月 徳川家康は掛川城を落とした
 
 3月27日、再び堀川城を攻めた。
  中村正吉は船を出して、徳川家康を迎えた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。
  1000人以上殺され、逃げた農民ら700人の首を刎
  ねられた。
 徳川家康は合計1700人、殺した。


 堀川城の戦いにて東林寺などが消失した。


徳川家康の下命を受けて、井伊谷3人衆は堀江城を攻めた。
 今川方の守将:大沢基胤率いる城兵は激しく防戦した。
 反撃された。
 鈴木重時は近藤康用の子:登助(近藤秀用)と競い城門にたどり
 着いた。しかし鈴木重時は、大沢方の攻撃を受けて討ち死にした。
 大沢基胤は結局は和睦する形で降伏した。
 ( 現舘山寺温泉:遊園地浜名湖パルパルや旅館ホテル九重の敷地)
 鈴木重好が跡を継いだ。


~~~略~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・天正18年(1590) 井伊直政は箕輪城に入城した。
 近藤秀用・鈴木重好(井伊直政従兄弟:母が姉妹)・菅沼忠久が
 箕輪城に家老としてついてきた。


・慶長元年(1592)近藤康用の子:秀用は 箕輪城から2年で戻った。

※「慶長元年申年二月より金指に市場始り申候」
「寛保二年戌年気賀に市場初り候」
(★『都田村年代手鑑』金原下都田村の庄屋文書)
★近藤秀用が動いた可能性が高い。

・慶長6年(1601) 気賀の関所は本坂道を監視するためにに徳川幕府
  によって設けられた。
  東海道の箱根の関所、今切(新居)の関所とともに江戸に対する
  重要拠点となった。

・慶長7年(1602)井伊直政が亡くなった。
  徳川家忠に近藤秀用は許された。
近藤秀用は井伊谷1万石となった。
  林業に力を入れた。
  近藤5家に分かれた。気賀の関所にも近藤家が入った。
旗本の気賀近藤氏が関所を監理した。
  関所手形により「入鉄砲に出女」を取締りを行った。
  金指近藤氏が番所管理した。
  新居の関所と共同で浜名湖上の通行や「横越し」を監視した。

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№36【近藤康用→近藤秀用→5近藤】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_14.html

・慶長10年(1605) 気賀の町が大火に見舞われ、町並みは殆ど消失した。
  関所は被災を免れた。

・宝永4年(1707) 東海地方を襲った大地震のため今切渡船場が破壊
され通行不能となった。
  交通は本坂通に集中した。

・宝永5年(1708) 東海道は復旧した。
  幕府は本坂通の通行を禁止した。
  しかし、旅人の多くは本坂通を利用した。

・明和元年(1764) 幕府は本坂通を東海道の別道として認め道中奉行の
支配下においた。
 
・明治2年(1869) 新政府は諸道の関所を廃止した。


★明日は龍たん寺かな?

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