箕輪初心:生方▲20171111田中大喜先生講演会『新田一族の中世:「武家の棟梁」への道』

平成29年(2017)11月11日、旧榛名町で、田中大喜先生の講演会
があった。『新田一族の中世ー 「武家の棟梁」への道 ー』田中大喜著
(歴史文化ライブラリー408 吉川弘文館2015年9月 1700円+税)
を購入した。平安時代末期、高崎は新田義重の所領で、里見義成は旧
榛名に住んだ。田中大喜先生の講演の特徴は、
①鎌倉時代、源氏嫡流は足利氏であった。鎌倉末期の足利宗家は、北
条得宗家から源氏嫡流の公認された。新田一族は足利氏の家臣であった。
という見解をしていることである。②後醍醐天皇の命で足利尊氏が新田
義貞に命じて鎌倉幕府を滅亡させたという考えである。③足利尊氏は
新田義貞を武家の棟梁とみなすことにした。足利尊氏が建武新政から
離反し、政権樹立の正当化を図る目的のため、新田義貞の討伐を掲げた
ことに求められる。足利尊氏は朝敵になるのを恐れ、新田義貞をライバル
とした。つまり、足利尊氏が新田義貞が「源氏の嫡流」と公認したという
見解である。根拠は所領安堵、官途推挙である。④南朝の朝敵:足利尊氏
VS北朝の朝敵:新田義貞の構図ができた。⑤南朝:後醍醐天皇が新田義
貞を裏切ったので、新田義貞が北陸に新しい天皇を確保した。⑥しかし、
越前国で自立を図るが戦死してしまった。足利尊氏との抗争は新田義貞の
子:新田義興と新田義宗に引き継がれた。足利尊氏が作り出した新田氏と
足利氏の対抗は天皇家を巻き込んでいった。
田中大喜先生、内容の掲載許可、ありがとうございました。
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【1】三輪英先生のコンサート
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【2】▲20171111田中大喜先生講演会『新田一族の中世:「武家の棟梁」への道』


はじめに
徳川家康は新田一族の子孫と名乗った。
田中先生…もちろん、嘘である。

箕輪初心●徳川家康の姓名変更の謎『松平元康→徳川源家康』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_12.html

箕輪初心★新田岩松の歴史&男爵:新田俊純
http://m.webry.info/at/53922401/201311/article_9.htm?i=&p=&c=l&page=2&guid=on

1、『太平記』のなかの新田氏
●なぜ足利氏の宿命のライバルとして描かれたのか?
【史料1】『太平記』
①「上野国住人新田小太郎義貞と申は、八幡太郎義家17代の後胤、
 源家嫡流の名家なり(巻7)
②我(足利尊氏)は源家類葉の族(やから)なり。王氏(天皇家)を
 出て遠からず。(巻9)
③新田・足利の国の争い(天下の覇権争い)、今を限りとぞ見えたる。

●田中先生…「武家の棟梁」に新田氏・足利氏を置いている。


【史料2】『難太平記』
①「六波羅合戦の時、名越(高家)討たれしかば、今一方の大将足利殿
(尊氏)、先皇(後醍醐天皇)に降参せられたりと太平記に書きたり。
返すがえす無念の異なり。
この記の作者は宮深重の者にて、無案内にて、押してかくのごとく書きたる
にや。・・・誤りも空事も多きにや。・・・」
●田中先生…「太平記」は「宮方」、つまり、後醍醐天皇の家臣・僧が
 書いたけれど、無案内・・・よく分からないで書いている
「宮方が書いた。」説は昔の説である。

②「昔、等持寺(★足利尊氏開基)にて、・・恵珍上人・・・30巻を
 持参し給いて、錦小路殿(足利直義:ただよし)に御目にかけられしを
・・・違いめ多し。追って書き入れ、かた切り出すべき事等有り・・・・」
●田中先生…「太平記」は滅茶クチャなので訂正したたり、削除したり・・
つまり、足利家の検閲があった。


【史料3】『難太平記』
「義家の置き文・・『我が7代孫・・天下獲るべし。』
(足利)家時の代にあたり・・・両御所(尊氏・直義)の御前にて
 故殿(今川範国=作者
の父)も我ら(今川貞世:作者)なども拝見
 もうしたりしなり。」
●田中先生…この家時のエピソードはであろう。しかし、
先祖の願いを受けついだ。
 
●田中先生の提示【図1】「足利・新田系図」(田中大喜著)
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田中先生は足利家の作為と『太平記』の普及が一体化となり、
 足利氏の正当化の「歴史像」の生成がわかりやすく描かれている。
 と考えているようである。
 徳川家康の新田継承の考え・皇国史観・薩長史観との関連も興味深い。

★『太平記』…文保2年(1318)2月、後醍醐天皇の即位のから後光厳天皇の
 貞治6年(1367) 12月、将軍足利義詮が死去。3代将軍義満を補佐する
 細川頼之の執事就任までの約50年間の南北朝動乱を描いている。
★応永9年(1402) 『難太平記』は、今川貞世(了俊)が完成させた。



2,新田義貞の挙兵
【史料4】『太平記』巻10「新田義貞謀反の事、附天狗越後勢を催す事」
『相摸入道(北条高時)、舎弟の四郎左近大夫入道(北条泰家)に十万余
騎を差副て京都へ上せ、「畿内・西国の乱を可静(鎮圧)せよ。」と命じ
て、武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野六箇国の勢を集めた。其軍勢の
兵粮の為に、関東近国の荘園に、臨時の天役を課した。中でも、新田荘:
世良田には、有徳の者多いというこで、、黒沼彦四郎入道を使
節にして、「六万貫を五日中可沙汰。(徴収せよ。)」と、堅く命じたので、
(下知せられければ、)使節はます世良田に入部して、大勢の配下を放ち
入れて、厳しい取り立てを行った。
 新田義貞は是を聞給て(このことをお聞きになり)、
「我館の辺を、雑人の馬蹄に懸させつる事こそ返々も無念なれ、争か乍見
可怺。」
(「わが館の周辺を雑人の馬蹄に蹂躙(じゅうりん)されることは、返す返
 すも無念である。」)
「どうして見ながら堪えることができるであろうか?」
と言って、大勢の人々を(世良田に)差向け、両使を
忽ち生け捕りにした。出雲介の身柄を拘束し、黒沼入道をば頚を切り、同日
の暮には世良田の里中に晒した。』

●田中先生…北条高時は6カ国の税を集め、豊かな世良田から、6万貫を
 獲ろうとした。一貫は一文が1000枚。今の金で10万円とすれば、
 6000000000円=60億円・・・嘘だろうとおっしゃった。
北条高時は楠木正成の討つために、膨大な軍資金が必要となった。
 北条高時は資金調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を
 命令した。金沢出雲介親連は北条の親戚衆であった。
 
●田中先生の提示【図2】「新田義貞の鎌倉攻めの進路」(峰岸純夫著)
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【史料5-A】『正木文書』応永23年(1415)「岩松満親文書注文」
「一、紀五(紀政綱)方田嶋へ内状 1通
 一、長寿殿(足利尊氏)の御書(新田下野五郎殿へ)5通
 一、大休殿(足利直義)の御書(同兵部大夫殿へ) 1通
   以上   」
●田中先生…内状
は機密文書。北条氏を討つための
 1通は岩松満親の家臣:紀五(紀政綱)に
6通は新田一族に足利尊氏の命令書が下った。
●田中先生の提示【図1】「足利・新田系図」(田中大喜著)
新田氏は世良田政氏→基氏→朝氏と「氏」を使っている。
 つまり、新田氏は足利氏の傘下にあったことを意味する。
 その上、足利家時の妻は世良田政氏の娘である。


【史料5-B】『正木文書』応永33年(1426)「岩松満長文申状案」
「 元弘3年4月22日 先代退罰御内書
同年  7月    綸旨
  御感并御内書
  官途并恩賞の御申し御沙汰の御書
  (後略)」


【史料6】『無量寿寺文書』康永元年(1342)「鹿島俊氏申状写」
関城に於いて大将三州(高師直)、直に召しおかるる申状
「元弘3年5月12日、上野世良田に馳せ参り、将軍若君(
 千寿王=後、足利義詮)に参らせむの処、新田三河弥二郎満義
 〈世良田〉に付けられ、・・・
●田中先生…千寿王4歳は鎌倉にいた。
 ★元弘3年(1333) 後醍醐上皇が名和長年ら名和一族を頼って隠岐島
  から脱出し、伯耆国船上山にて挙兵した。
 足利高氏(尊氏)は後醍醐上皇を討つために、鎌倉幕府軍の総大将と
 して上洛した。
千寿王は母:赤橋登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留
 め置かれた。
 足利高氏の正室:赤橋登子は鎌倉幕府最後の執権:北条守時の妹である。
 4歳の千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され、鎌倉を脱出した。 
 鎌倉幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方した。
5月7日 足利高氏が六波羅を制圧した。
 5月8日 新田義貞が綸旨を報じて蜂起した。
  ★六波羅における勝利を翌日に知ることはできない。
 新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。
 新田軍は、新田義貞一族の脇屋義助、大舘宗氏、堀口貞満、岩松経家、
 里見義胤、江田行義、桃井尚義らであった。
 総勢でもたった150騎ばかりであったと言われている。
◆ 一般には、利根川に至ったところで越後国の新田党(里美、鳥山、田中、
 大井田、羽川など)や甲斐源氏・信濃源氏の一派が合流した。
 軍勢は7000騎にまで及んだ。
 5月9日、利根川を越えたところで足利高氏の嫡子:千寿王(後足利
 義詮)が紀五左衛門に伴われて合流した。
 
 ●田中先生…「上記の史料から、合流は5月12日以降であるよ考えて
 いるようである。

  新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。
 5月11日小手指原の戦い
   桜田貞国が率いる鎌倉幕府軍を撃破した。

 5月12日 久米川の戦い
  新田軍が撃破した。
  鎌倉幕府軍は、武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止める
  べく、分倍河原(現東京都府中市)に撤退した。
 
 5月12日 新田義貞一族:新田三河弥二郎満義に匿われた。
  千寿王は世良田で蜂起し、新田義貞の軍の後を追っていた。
    [千寿王の参陣した。
  4歳の千寿王が率いていたのはわずか200であった。
  
  新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した。
 5月15日~16日 分倍が原の戦い
 千寿王は様子を見ていて、新田義貞が勝ったので合流した。

 千寿王は、父の名代として、足利家臣らの補佐により、鎌倉攻め
 参加の武士に対し軍忠状を発付した。
 新田義貞と足利高氏の関係が悪化する原因となった。
 千寿王は鎌倉攻めに参加した。

 上野、下野、上総、常陸、武蔵の鎌倉幕府に不満を持った武士たち
 が次々と集まり、新田軍は20万7千まで膨れ上がったとも言われる。
『太平記』は20万7,000騎、『梅松論』は20余万騎。

【史料7】『大塚員成(かずしげ)申状案断簡』建武元年(1334)
「常陸国大塚員成・・・(略)・・・
 鎌倉合戦の時、若御料(千寿王)御座の由承り及び、・・・
 新田中務権大輔(だいぶ)幸氏大将軍として軍忠を致す、注進文明
 なり。就中、6月1日より・・・二階堂御所(千寿王の館)山上の
 陣屋勤仕不退去の条、紀五左衛門尉(岩松家臣:紀政綱)明白なり。
 ・・・・」
●田中先生…新田義貞が勝ったので、千寿王が姿を現した。


【史料8】『梅松論』
6月 「鎌倉攻略の功労者」は新田義貞である。
 鎌倉は、義貞のものとはならなかった。
鎌倉にも報われない人がいた。
得宗北条高時が倒れた後、鎌倉には2つの勢力が並び立っていた。
新田義貞と千寿王である。

【図3】「元弘3年新田氏証判着到帳・軍忠状一覧
新田義貞→市河経助・市河助泰・税所久幹・市村王石丸代後藤信明
     塙政茂の5名
大館幸氏?→大塚員成
岩松経政?→熊谷虎一丸
岩松経家?→布施資平
大館氏明→石川義光・大河戸隆行・天野経顕
里見氏義→三木俊連
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●田中先生…新田義貞は所領安堵する力を持っていた。
「大将に功を認めてもらい、恩賞・安堵を確実にしたい」
 諸将の気持ちである。
 鎌倉時代からの「御恩と安堵」・「一緒懸命」であった。

【史料8】『梅松論』
 しかし、力の差は、日を追って開いていった。
 千寿王が鎌倉の主となりつつあった。
『諸將悉く四歳の若君に屬し奉りし』(梅松論)
「(鎌倉に集まった)諸将は悉く4歳の若君に従った。」

●田中先生…鎌倉幕府での地位は従属関係であった。
 新田義貞が千寿王に逆らうつもりはなかった。

 建武政権での地位の差にもよる。
千寿王の父足利高氏は、京で後醍醐天皇から鎮守府将軍に任じられた。
新田義貞は恩賞も受けていなかった。
建武政権は「恩賞は綸旨で行なう」と宣言していた。


【史料8】『梅松論』
「・・・鎌倉中は連日空騒ぎして不穏な事態になったので、細川和氏・
 頼春・師氏兄弟3人が義貞の寝所に向かい、・・・尋問したし、
 義貞の関与について明らかにしたいと申し入れた。・・・
 義貞は「自分には野心はない。」と話した。」

 ★京の高師直は、鎌倉の掌握を進めるため、細川一族を鎌倉に派遣した。
 『京都より細川阿波守和氏。舎弟細川源藏人頼春・細川掃部介師氏
 の兄弟三人』が来て、御年四歳の千寿王に代わり、実際に鎌倉を
 治めた。足利尊氏の親戚衆細川氏・高氏の家臣達であった。
 役目は、千寿王の対抗馬:新田義貞を警戒し、家臣であることを認める
 ことであった。
 2つの勢力の間には軋轢が生じるようになった。

『鎌倉中は連日空騒して不穏な事態になった。』
●田中先生…鎌倉では、連日空騒ぎが起こり、治安が悪化した。
 新田義貞の鎌倉における居場所は、日に日に失われていった。
ある日、
『和氏・頼春:師氏の三人兄弟は義貞の宿所に向て事の子細を問尋
て。義貞の関与について明らかにしたい・・・』
●田中先生…途中から、5人に発給して以後、岩松や大館の親戚衆が
 発給している。
新田義貞は鎌倉を離れ、新田一族と共に京に上った。
 おそらく6〜7月にかけての事だと考えられる。

細川和人・頼春・師氏三兄弟は、義貞の宿所に向かい、騒動の子細を
問い正して、(足利に不服があるなら)勝負を決しようではないかと
脅した。と覗える。
新田義貞は屈辱であっただろう。
「鎌倉攻略に参加もしなかった輩が偉そうに・・・。今に見ておれ。
わしが将軍になってやる。」




3、越前に描いた夢
【史料9】『足利直義軍勢催促状』建武2年(1335)12月2日
「新田右衛門佐義貞を誅伐せらるるべきなり。
 一族を相催し、馳せ参じべきの状件の如し
 建武2年(1335)12月2日 佐馬頭(花押影) 
 那須下野太郎(資家?)殿 
  」
●田中先生…論理のすり替えをした。

  
【史料10】『太平記』巻14「節度使下向の事」
①「懸ける程に(そうこうしてうるうちに)、十一月八日新田左兵衛督
義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し給て(賜り)、兵を召具し(率いて)
参内せらる。馬・物具は誠に爽に(颯爽としていて)勢ひ有て被出立
たり(様子だった)。内弁・外弁・八座(参議)・八省、(紫宸殿)の
階下に陣を張り(整列し)、中議の節会(せつえ)被行て(行われて)、
節度(節刀=天皇の刀)を被下(いただいた)。」
治承四年に、権亮三位中将惟盛を、頼朝進罰の為に被下時、鈴許給りた
りしは不吉の例なればとて、今度は天慶・承平の例をぞ被追ける。
②「義貞節度を給て、二条河原へ打ち出て、先ず尊氏卿の宿所:二条
高倉へ舟田入道を指向て、時の声を三度挙げさせ、「エイエイオーかな?」
流鏑(鏑矢=ビューンと音がするので、戦闘開始の合図となる。)三矢
(3回の矢)を射させて、中門の柱を切落とした。」

・・・(中略)・・・・
先当家の一族には、舎弟脇屋右衛門佐義助・式部大夫義治・堀口美濃守
貞満・錦折刑部少輔・里見伊賀守・同大膳亮・桃井遠江守・鳥山修理亮
・細屋右馬助・大井田式部大輔・大嶋讚岐守・岩松民部大輔・篭沢入道
・額田掃部助・金谷治部少輔・世良田兵庫助・羽川備中守・一井兵部大
輔・堤宮内卿律師・田井蔵人大夫、是等を宗との一族として末々の源氏
三十余人其勢都合七千余騎、大将之前後に打囲たり。他家の大名には、
千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱・菊池肥後守武重・大友左近将監・厚
東駿河守・大内新介・佐々木塩冶判官高貞・同加治源太左衛門・熱田摂
津大宮司・愛曾伊勢三郎・遠山加藤五郎・武田甲斐守・小笠原信濃守・
高山遠江守・河越三河守・皃玉庄左衛門・杉原下総守・高田薩摩守義遠
・藤田三郎左衛門・難波備前守・田中三郎衛門・舟田入道・同長門守・
由良三郎左衛門・同美作守・長浜六郎左衛門・山上六郎左衛門・波多野
三郎・高梨・小国・河内・池・風間、山徒には道場坊、是等を宗との兵
として諸国の大名三百二十余人、其勢都合六万七千余騎、前陣已に尾張
の熱田に著ければ後陣は未だ相坂の関、四宮河原に支たり。東山道の勢
は搦手なれば、大将に三日引下て都を立けり。其大将には、先大智院宮
・弾正尹宮・洞院左衛門督実世・持明院兵衛督入道々応・園中将基隆・
二条中将為冬、侍大将には、江田修理亮行義・大館左京大夫氏義・嶋津
上総入道・同筑後前司・饗庭・石谷・猿子・落合・仁科・伊木・津志・
中村・々上・纐纈・高梨・志賀・真壁十郎・美濃権介助重、是等を宗と
の侍として其勢都合五千余騎、黒田の宿より東山道を経て信濃国へ入け
れば、当国の国司堀河中納言二千余騎にて馳加る。其勢を合せて一万余
騎、大井の城を責落して同時に鎌倉へ寄んと、大手の相図をぞ待たりける。


【史料11】『足利尊氏軍勢催促状』建武3年(1336)
「新田義貞の与党人等を誅伐すべき由、院宣(光厳上皇の宣下)の
下さるところなり。・・・(略)


●田中先生…論理のすり替えをした。
①建武3年(1336)建武の新政にそむいた足利尊氏が京都にはいり、
 持明院統の光明天皇をたて北朝を開いた。
 大覚寺統の後醍醐天皇は吉野にのがれて南朝を開いた。
②光厳天皇は弟:光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と
 合わせた2代15年の間、光厳上皇は院政を行った。
③新田義貞は大覚寺統の後醍醐天皇の朝敵:足利尊氏を討っていた。 
 足利尊氏は持明院統の光厳上皇から院宣をもらい、朝敵として
 新田義貞を討つようにした。
 
【史料12】『太平記』巻17「儲君(ちょくん)を立てて義貞に著けらる事」
立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事
①「暫有て(しばらくして)、義貞朝臣父子・兄弟三人、兵三千余騎を
召具して(率いて)被参内たり。・・・(略)・・・・主(天皇)
上例(いつも)よりも殊に玉顔を和げさせ給いて、義貞・義助を
御前近く召れ、御涙を浮べて被仰られた。
「(堀口)貞満が朕(天皇である私)を恨み申つる処、一儀其謂ある
に似たり(一理あるようではあるが)といへ共、猶遠慮の不足に当れり。」

●田中先生…足利尊氏は後醍醐天皇と和睦をした。つまり、
 後醍醐天皇が裏切って、足利尊氏に乗り換えた。

「尊氏超涯の皇沢に誇て、朝家を傾んとせし刻、義貞も其一家なれば、定
めて逆党にぞ与せんと覚しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助て命を
天に懸しかば、叡感更に不浅。只汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治め
ん事をこそ思召つるに、天運時未到して兵疲れ勢ひ廃れぬれば、」

②「尊氏に一旦和睦の儀を謀て、且くの時を待ん為に、還幸の由をば被仰出
也。此事兼も内々知せ度は有つれ共、事遠聞に達せば却て難儀なる事も有ぬ
べければ、期に臨でこそ被仰めと打置つるを、貞満が恨申に付て朕が謬を知
れり。」
●田中先生…「足利尊氏に一端和睦を見せかけて、しばらく時を稼ごう
 と京都に戻ることにした。このことを内々に知らせたかったが、新田
 ・堀口までに聞こえてしまった。かえって難しい事態になってしまうと
 思って、その時が来たら、話そうと黙っていたが、堀口貞満に恨み言を
 言われ、私は間違いであると悟ったのだ。
 といいわけをした。と考えられる。

「越前国へは、川島の維頼先立て下されつれば、国の事定て子細あらじと
覚る上、気比の社の神官等敦賀の津に城を拵へて、御方を仕由聞ゆれば、
先彼へ下て且く兵の機を助け、北国を打随へ、重て大軍を起して天下の藩
屏となるべし。但朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春
宮に天子(天皇)の位を(皇太子=恒良親王)譲て、同北国へ下し奉べし。」

●田中先生…ということで、
今度は新田義貞は恒良親王を立てて、足利尊氏を討つことにした。


【史料13】『新田義貞副状』延元元年(1336)
「尊氏・直義い下 朝敵追討の事、・・・綸旨(天皇の命令)を遣わし、
 ・・・・去る十日、越前国敦賀津に臨光(天皇の行幸・移動)有る所なり。」
●田中先生…新田義貞が綸旨を出させて貰える立場にあった。
 金が崎城は北陸王朝があった。



4,「武家の棟梁」新田氏誕生
【史料14】『園太暦(えんたいりゃく)』観応3年(1353)
①「・・・先月18日、関東の凶徒(足利氏側の武士)は武蔵国狩野川
の城(●田中先生…神奈川県、私は伊豆の狩野城だと思う)没落した。」
②「・・・大王(宗良親王)たちは上野国と信濃国の堺にある碓氷峠ま
 で、進出され・・・」
③新田一族諸将は15日に上野を発ち
・・・
 園殿」
●田中先生…新田義宗は宗良親王を鎌倉で擁立しようとした。  
1カ月後、新田義宗は大敗した。


***略**********************

まとめ
新田氏は足利尊氏の喧嘩相手に選ばれ、互いに朝敵となった。
お互い武家の棟梁として、所領安堵や官位推挙できる立場にあった。
新田義宗も所領安堵できる立場にあった。
『太平記』は新田氏を持ち上げることで、足利氏がもっと凄い事を
強調していることに特徴があると田中大喜先生はおっしゃっている。
本のサイン、ありがとうございました。


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新田一族の中世: 「武家の棟梁」への道 (歴史文化ライブラリー)
上野新田氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)田中大喜著*****

目次
『太平記』のなかの新田氏―プロローグ

1,新田氏の成立(成立前史・新田氏成立の政治史)

2,雌伏の時代
(鎌倉幕府の成立と新田氏・新田本宗家と足利氏―足利一門への歩み①)
(里見氏・山名氏・世良田氏と足利氏―足利一門への歩み②)

3,地域権力としての姿
(新田氏の軍事的テリトリーをたどる・新田氏の求心力を探る)

4,「武家の棟梁」新田氏の誕生
(新田氏の自立・越前に描いた夢・義興と義宗の挑戦)

『太平記』の刻印―エピローグ

▲河内源氏:新田義重~新田義貞と足利尊氏のブログ一覧*****


●河内源氏新田氏&上野国編~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

●【0】河内源氏①源頼信→②源頼義→③源義家→④源義国→
⑤新田義重
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:八幡荘』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国:八幡荘』
後編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_12.html


●【1】新田義重の関係~~~~~~
箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

箕輪初心●群馬:寺尾の城《新田義重をめぐる旅》
http://53922401.at.webry.info/201102/article_29.html

◆◆ 箕輪初心●群馬高崎:寺尾中城1回目 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_20.html

◆◆ 箕輪初心●茶臼山城=寺尾城本城・新田義重の城◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_19.html
平成25年(2013)2月10日の探検では、看板設置&
下草刈りがしてあって、大きな堀ははっきり見えた。
主郭の土塁や井戸跡・二の郭が目立っていた。南郭と
あったが、烽火台であろう。

箕輪初心●群馬『寺尾中城2回目』=新田義重の城か?
http://53922401.at.webry.info/201302/article_27.html


●【2】里見氏関係:里見義俊~
箕輪初心●里見一族①「新田から里見へ」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_33.html

箕輪初心●里見一族②「初代:里見義俊→2代・義成
~3代:義基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_34.html

箕輪初心●里見一族③「4代義秀~10代家基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_35.html

箕輪初心●里見一族シリーズ②「初代:里見義俊→2代・
義成~3代:義基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_34.html

箕輪初心★2代目:里見義成
http://53922401.at.webry.info/201309/article_30.html

箕輪初心★里見一族の歴史:リニューアル版
http://53922401.at.webry.info/201309/article_29.html


●【3】山名氏関係:山名義範~
箕輪初心●群馬:高崎「山名義範館」=子孫は山名宗全
http://53922401.at.webry.info/201102/article_31.html

箕輪初心:生方★2015高崎『山名義範』に関わる疑問点
&久保田順一先生・山本隆志先生の研究
http://53922401.at.webry.info/201510/article_21.html

箕輪初心:生方★20151017山本隆志先生講演会『山名義範の子孫:山名時氏』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_9.html

箕輪初心:生方★『山名宗全の祖父:山名時義→父:時熙』&足利義満の陰謀
http://53922401.at.webry.info/201511/article_13.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201511/article_13.html

箕輪初心★「上野国:山名義範~応仁の乱:山名宗全」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_26.html

箕輪初心●兵庫『出石:有子山城』=山名一族の古城
http://53922401.at.webry.info/201304/article_20.html

箕輪初心●群馬【蒼海(おうみ)城 】千葉氏→長尾氏→諏訪氏
http://53922401.at.webry.info/201212/article_22.html
★千葉氏は上野国にいた。

箕輪初心:生方▲20151107久保田順一先生講演会
『上杉憲顕と南北朝の動乱』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_8.html

箕輪初心:生方★20151017山本隆志先生講演会『山名義範の子孫:山名時氏』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_9.html



●【4】新田義貞と群馬~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心●太田『台源氏館』=新田義貞誕生の地説
http://53922401.at.webry.info/201303/article_21.html

◆◆ 箕輪初心●旧新田町『新田館』=新田義重館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_1.html

◆◆ 箕輪初心●旧新田町『安養寺館』=新田義貞館説 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_7.html
★新田義貞の生まれた場所の各説の詳細を記載した。
★明王院・・・峰岸純夫先生説

◆◆ 箕輪初心●群馬旧新田町『江田館』=江田行義館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_14.html

箕輪初心●群馬新田荘遺跡『反町館』=新田義貞伝説
http://53922401.at.webry.info/201303/article_15.html

◆◆ 箕輪初心●群馬『新田義重を巡る旅』 ◆◆
  『寺尾=太田説&高崎説』 
http://53922401.at.webry.info/201102/article_29.html

◆◆ 箕輪初心●群馬旧尾島『9城一覧』 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201302/article_28.html

箕輪初心●群馬旧尾島町8『岩松館=青蓮寺』源義国~岩松代々の館
http://53922401.at.webry.info/201303/article_11.html

箕輪初心●群馬旧尾島①『新田館』=世良田総持寺
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201303/article_1.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「新田館」=新田義重館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_1.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「徳川館」=徳川義季館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_4.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「長楽寺&世良田館」=世良田頼氏館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_5.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「満徳寺」=徳川義季の娘 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_6.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「安養寺館=明王院」=新田義貞の館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_7.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「大舘館」=大舘宗氏の館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_9.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「堀口館」=堀口貞満の館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_10.html


●【5】新田義重の自立への道******

箕輪初心●新田義貞①「誕生~楠木攻め」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_40.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞②「新田~鎌倉進軍」  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_41.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_41.html

箕輪初心★新田義貞「生品神社挙兵~鎌倉進軍コース」
http://53922401.at.webry.info/201303/article_18.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201303/article_18.html

箕輪初心●新田義貞③「2度の鎌倉攻撃」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_42.html

箕輪初心■古都:鎌倉③新田義貞の鎌倉攻撃
http://53922401.at.webry.info/201202/article_2.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201202/article_2.html


+++新田義貞VS 足利尊氏+++++++++++++

箕輪初心●新田義貞④「足利尊氏との対立」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_43.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_43.html

箕輪初心▲静岡小川町『箱根竹ノ下の戦い』
(足利尊氏VS新田義貞)
http://53922401.at.webry.info/201412/article_3.html

箕輪初心●福井「金ヶ崎城」①新田義貞&②木下藤吉郎
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html

箕輪初心●新田義貞⑤「若狭に逃亡~福井で38歳没」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_44.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_44.htm

◆◆ 箕輪初心★新田義貞⑤「福井:金ヶ崎城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html

箕輪初心★新田義貞⑥「福井:そま山城」=新田義貞の最後の城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_30.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞⑦「福井:新田義貞の最後」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_44.html

箕輪初心▲群馬太田「大田山義貞院金龍寺」:新田義貞供養塔
http://53922401.at.webry.info/201403/article_25.html

箕輪初心▲本庄【金窪城】&新田義貞四天王:畑時能の最後
http://53922401.at.webry.info/201409/article_20.html

箕輪初心★新田義貞の弟:脇屋義助&子孫の動向
http://53922401.at.webry.info/201303/article_22.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201303/article_22.html

箕輪初心★新田岩松の歴史&男爵:新田俊純
http://53922401.at.webry.info/201311/article_9.html

◆◆ 箕輪初心★新田一族「千利休」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_27.html

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箕輪初心▲畠山国清①【伊豆修善寺城】南北朝時代の築城
http://53922401.at.webry.info/201503/article_4.html

箕輪初心★畠山国清②【伊豆金山城=大仁城説】
http://53922401.at.webry.info/201503/article_5.html

箕輪初心▲畠山国清③【伊豆:国清寺】→畠山義深の生涯
http://53922401.at.webry.info/201503/article_6.html

箕輪初心:生方▲群馬『彦部家の歴史:飛鳥時代~戦国時代』
http://53922401.at.webry.info/201612/article_1.html
★足利家時の家臣:彦部氏

箕輪初心★山内上杉16代①「初代~7代」=足利尊氏の母方系
http://53922401.at.webry.info/201405/article_23.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201405/article_23.html

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●【6】足利初代~8代:足利尊氏
箕輪初心◆【足利初代~8代足利尊氏】&栃木:足利氏館3回目
http://53922401.at.webry.info/201312/article_6.html

箕輪初心★足利8代目:足利尊氏=室町幕府を開幕
http://53922401.at.webry.info/201312/article_7.html
★峰岸純夫先生の本をまとめた。

箕輪初心●足利氏館跡:足利尊氏を輩出した城&100名城
http://53922401.at.webry.info/201311/article_5.html

箕輪初心◆埼玉入間『入間川御陣=徳林寺』&足利基氏の生涯
http://53922401.at.webry.info/201407/article_8.html

箕輪初心★埼玉【足利基氏館】&『足利基氏&上杉4代:憲顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_24.html


★明日は放鷹実験と二本松康宏先生講演会かな?

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