箕輪初心:生方▲箕輪城№233「2016群馬県展:桑原秀栄先生の作品」&「群馬」の馬と名前の由来

「平成28年(2016)12月3日、栁澤佳雄先生に彫刻家:桑原
秀栄先生(前橋市文京町)を紹介していただいた。2008年5月
10日、前橋市上泉町の自治会館内に建立した「剣聖・上泉伊
勢守秀綱(銅像部は2,15m.台座まで全高3,75m)の作者である。
2016年日展新友会の会員になっておられた。従って、群馬県展
の彫刻部門の審査員であり、展示する担当であった。
加藤啓治先生(高校同級生)&山名将夫先生(お嬢様の知人)
の絵もあった。★高崎駅前か市役所に「長野業政」と「井伊直政」
の銅像を立て、高崎市をPRして欲しいもんだ。磯崎新氏と
桑原秀栄先生に造らせてくれるといいのだが・・・。箕輪城
ガイダンス施設前では遅すぎる。

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 (★上泉城内:上泉伊勢守秀綱公生誕500年記念像
    作者・・・桑原秀栄先生)
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 (★柳沢佳雄先生:創新館の桑原秀栄先生作の像)

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 (★桑原秀栄先生の日展親友会作品)

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 ★凄い作品はお尻まで綺麗なのだ。



もしかして、栁澤佳雄先生は彦根で一緒に見た井伊直政の
の「銅像」の設立を願望しているのでは????
 高崎駅前には郷土の偉人の銅像はない。個人的には
①長野業政&②井伊直政の銅像があってもいいだろう。
長野業政は長野堰を開発した。中嶋宏会長・西山氏・井田
氏・清塚氏などの努力により、世界灌漑遺産になった。
武田信玄&馬場信房、和田信業は和田城を整備した。
高崎城の原型&城下町を造らせたのは井伊直政である。
(★井伊直政は高崎城には6ヶ月しかいなかったが・・)
「磯崎新氏か桑原秀栄先生に造らせてくれんかのう。
井伊直政で「彦根市」と姉妹都市になろうよ。全国区だよ。
高崎PRの・・・・




【0】群馬県立近代美術館
「明治百年記念事業」として「旧東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」跡
の国有地に建設された県立公園『群馬の森』の付属施設として、群馬
県立歴史博物館・群馬県立近代美術館が併設された。
昭和49年(1974) 10月に開館した。
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【1】馬の像「磯崎新作」
★栁澤佳雄先生も知っておられた。・・・・
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・大きいね。
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・上代  群馬県&栃木県域とともに「毛野国」であった。
 都に近い方から上下に分けられ「上毛野国(かみつけぬのくに)
 」となった。
 上毛野国には9の「馬の牧」と朝廷用の牛車1つの「牛の牧:牛池
 (前橋市元総社・国分寺の隣)」があった。
①高崎市箕郷町善地駒寄には「群馬の松伝説」がある。
②善地には「治尾の牧」があった。
②善地には「車持古墳」がある。
 榛名山の南東に勢力をもっていた豪族「車持君(くるまもちのきみ)」
 の名前を使った古墳なのだ。
 一般には旧群馬町の保渡田古墳群が「車持君」の墓と言われている。
 古墳時代には馬骨や馬歯、馬具が遺跡から出土していて、日本在来
 種の馬の存在が確認される。木曽馬・道産子がそれにあたる。
 保渡田古墳群:八幡塚古墳からは「馬の形象埴輪」
 ・薬師塚古墳から「青銅製の馬具:杏葉・轡などが古墳玄室から
  出土した
 渡来人・帰化人が馬の生産などに関わっていたのだ分かる。
 
 また、日本馬の古来種は、モンゴル高原であるとする説もある。
 古墳時代に馬モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された
 蒙古系の馬だいた。体高130cm程である。
 古墳時代では小型馬が主流であった。
 信濃国の「望月の牧」の隣:浅科では「モンゴル馬3頭」を育てた記録
 があるそうだ。中型馬が存在したのだ。

・奈良時代  
 蒙古系の中型馬が平城京を中心に増加した。

・平安時代  
  新羅系渡来人・帰化人も増えた。
  上野にも新羅系渡来人:吉井氏などが馬の生産をしたのであろう。

・戦国時代
  信濃浅科では、中型馬が生産され、武田信玄軍の騎馬軍団に
 使用された。武田配下:小幡信定が強かったのはモンゴル馬&在来種
 +モンゴル馬も交配種がいたのた。軽自動車と普通車の差位はあった
 のであろう。
 しかし、サラブレッドはいなかった。

・幕末、
 倉渕にやって来た「小栗上野介忠順」はサラブレッドに
乗っていた。
 
・戦争時代
 僕んちの母系曾祖父・祖父も馬を育てていたが、軍隊に取
 られたそうである。泣く泣く供出したそうである。

・昭和時代
 「磯崎新」氏は何故、サラブレッドを造られたのだろうか?
 サラブレッドは、18C初頭にイギリスでアラブ馬やイギリス在来種
 ハンターから競走用に品種改良された馬である。
 スポーツカーってとこかな?
 
・現在、アラブ地方では、馬が油を絞るのに使っているけれど、・・・



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「群馬県」という地名を考えると、「馬が群れている。」風景をイメ
ージしてしまう。でも、「群馬」の由来は馬とは全然関係ないのだ。

・古墳時代 「車持君」がいた。
 「群馬」の由来は 「車持君」に由来すると思われる。

・白鳳時代・・・藤原京(964~710)の時代・・・・
 藤原京跡から出土した木簡に
 「上毛野国車評(くるまのこおり)桃井郷贄鮎」とある。

・大宝元年(701)大宝律令によって「車評」から「車郡」となった。
 
・和銅6年(713) 諸国の風土記編集の勅令により、国・郡・郷名は
漢字二文字で表すこととされた。
 「上毛野国(かみつけのくに)」は「上野国(こうずけのくに)」
  になった。
 「車(くるま)郡」は「群馬(くるま)郡」に改められた。
 現在の群馬県域はほぼ上野国と一致している。
 「群馬」の由来は「車」からだったのだ。

・幕末
 やくざ893屋さんは
「おひかえなすって、てめ~は、生国と発っしまするは・
 上州??郡の・・・・。・・・。」
 国定忠治・大前田英五郎・・・とかいるっけなあ。

・明治4年(1871) 廃藩置県
高崎県と呼んだ時もあったが、・・・・
10月28日 (太陽暦12月10日)第1次群馬県が成立した。
  高崎・前橋の大部分を含み大郡であった群馬郡を県名とすることが
  ふさわしいと判断された。
この時、山田郡・・・現太田や桐生。館林・邑楽は栃木県で
あった。

・明治9年(1896)8月21日 第2次群馬県が成立した。
群馬県が統廃合でほぼ現在の形となった。
楫取素彦が熊谷県令から群馬県令になった。

・昭和60年3月「群馬県民の日を定める条例」が制定された。
   「10月28日は群馬県民の日となった。」
おやげねえ。太田・桐生・館林は群馬じゃねえみたい。

・現在 「上州(じょうしゅう)」「上毛(じょうもう、かみつけ)」
     を用いることがある。



【2】桑原秀栄先生の群馬県展の彫刻等立体作品の解説
桑原秀栄先生の今年の県展作品を紹介していただいた。
箕輪城語り部の会:竹内先生の教え子である。

気づいた。桑原秀栄先生は彫刻・彫金部門も選者では?
展示コーディネートは桑原秀栄先生だった。


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【3】群馬県展の県展洋画部門
①加藤啓治先生の絵
 俺の興味あるのは、「加藤啓治先生だ。審査員ですがね。」
何故って、高校2年現吉岡村の加藤啓治氏は同じ美術部の
 今井氏、吹奏楽の私を誘って、東京上野の西洋美術館の
 「ゴヤ展」に行ったからなのだ。
 俺が小学校2年の時、狩野守先生に付いたと言ったせいか
 もしれない。で、加藤は東京芸大に行った。
 吉岡町「角藤」に加藤の絵があった。
 今年はなかったけど。
  4=59に加藤の絵があった。教えていただいたのだ。
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②山名将夫先生の絵
 私はお嬢様の3年の時の担任であった。
 焼き物師匠:青木昇師匠宅にもたくさんある。
 高崎市立美術館にも3人展をみに行った。
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【4】山口薫常設展





【5】群馬県展工芸部門:陶芸作品

①南雲一族の作品
 ★南雲先生作品を日展で6~7回見ているのだ。
今年はオーソドクックス作品だった。
やっぱ、凄い。金を2次的に使っているけれど。

②天田俊彦氏の作品・・・県展レベル、おめでとうございました。
 ★凄すぎ・・・
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★明日は彫刻・山口薫を分離させよう。

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この記事へのコメント

棟治
2016年12月05日 23:03
井伊直政の銅像はいいですね、駅前広場とかに似合いそう。
長野業政は、東明屋の内出に今度出来るであろう箕輪城迎賓館前辺りとか。
そしてそこで配られるパンフレットの中には、あのお方が二の丸を掃き清める姿があれば最高である。

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