箕輪初心:生方▲真田丸104【第30回「黄昏」】秀吉のボケ&韓国D「火の女神ジョンイ」

①文禄5年(1596) 閏7月13日 慶長伏見地震大地震に見舞われ、
落成を前に伏見城は倒壊した。②昌幸は秀吉から普請を命じられ
ていたが、生きがいを失いふさぎこむ。③秀吉は「再び大陸へ攻
め込む。」と言い出した。慶長の役である。④バテレンへの弾圧を
強めた。きりが親しくなった玉:細川ガラシャらキリシタンたち
に危機が迫る。⑤秀吉の老いがますます進み、家康・景勝ら大名
たちに混乱する。信繁・三成・吉継らは必死に隠そうとするが…
⑥醍醐の花見で、木から花咲じいさんが落ちた。病状さらに悪化。
徳川家康の命で井伊直政は箕輪城から高崎城の移城を準備し
始めた。
秀吉の死は2年後の慶長3年(1598))8月18日である。
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真田昌幸&吉野太夫
 史実では真田昌幸と交流があったという記録もない。
 全ては三谷幸喜のフィクションだろうな・・・・・。




●▲■韓国ドラマ「火の女神ジョンイ」
女性として初めて<沙器匠(さぎじゃん)>の座に上りつめた朝鮮一
の陶工「ユ・ジョン」の波瀾万丈な半生を描いたドラマである。
ユ・ジュンイというのは、「火の神ジョンイ」の創作上の人物である。
「ユ・ジュンイ」のモデルとなっているのは、「有田焼の母」とも称
されるペク・パソン(百婆仙)だそうである。ペク・パソン(百婆仙)
の本当の名前は、伝わっていない。なので、ペク・パソン(百婆仙)
をモデルとしているだけであるが、・・・・。「真田丸」同様、ドラマと
史実がごちゃになってしまいそう。
「火の女神ジョンイ」では、一緒に育った関係でジョンイは「テド兄
さん」と呼んでいる。金泰道(キム・テド)はドラマの中では、護衛
武士として登場し、ジョンイを守る最中に死ぬという設定になって
いる。ドラマでは、日本に連れて行かれる前までのユ・ジョンイが
朝鮮王朝初の女性陶工になるまでの活躍が描かれている。




箕輪初心★佐賀:有田焼『九州伝統文化館』&『鍋島藩御用窯』
http://53922401.at.webry.info/201112/article_14.html

箕輪初心★佐賀『有田焼の巨匠』=柿右衛門・萬二・今右衞門
http://53922401.at.webry.info/201112/article_13.html

箕輪初心●北九州4県の旅「城&焼き物&グルメ」
http://53922401.at.webry.info/201110/article_13.html


箕輪初心◆海外№20韓国①「ソウル・扶余・公州・ロッテワールド・利川」
 ★利川(イチョン)
http://53922401.at.webry.info/201108/article_1.html


箕輪初心◆海外№44韓国③「世界遺産:慶州・海印寺」
http://53922401.at.webry.info/201108/article_3.html
★新羅焼

箕輪初心◆№77韓国6回目3ー③【利川の焼き物】
http://53922401.at.webry.info/201209/article_7.html

箕輪初心■鹿児島:薩摩焼の歴史&第14代:沈寿官先生
http://53922401.at.webry.info/201109/article_18.html


箕輪初心●佐賀【唐津城】=ライトアップされた城
http://53922401.at.webry.info/201112/article_16.html

箕輪初心:生方△萩焼【三輪休雪・吉賀将夫】&『萩焼の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_25.html




●文禄・慶長の役の後、倭軍は引き上げるに際して5~6万の朝鮮人を
捕虜として連行した。その中には優れた陶工が含まれていた。特jに、
有田焼、唐津焼、萩焼、薩摩焼などはこの時に連れてこられた朝鮮
陶工が始めたものである。

有田焼といえば、李参平(イ・サムピョン)が有名で、彼ら陶工を
祀る神社もある。李参平は、豊臣秀吉の朝鮮侵略で拉致された陶工
の一人であり、日本に磁器の技を伝えた。李参平の存在が大きかっ
たため、忘れられてしまった陶工がペク・パソン(百婆仙)と夫:深海
宗伝(金泰道=キム・テド)である。
史実ではペク・パソンと金泰道(キム・テド)は2人は結婚している。
慶長の役の際に渡来し、武雄の領主:後藤家信の庇護をうけ、陶磁器
製造の道を開いた。姓の「深海」は、祖国を忘れないために、地名から
とったという。作品は藩や寺に献上された(伝)。また、妻:ペク・パソン
(百婆仙)は960余人の陶工を指導し、「有田焼の母」と称される女性
である。
有田の陶祖と祀られている李参平は、色付け有田焼の基礎を作った。
金泰道=キム・テド、そしてペク・パソン(百婆仙)は武雄と有田で
白磁を焼き続け、有田焼の礎を築いた。




●▲■韓国ドラマ「火の女神ジョンイ」
女性として初めて<沙器匠(さぎじゃん)>の座に上りつめた朝鮮一
の陶工「ユ・ジョン」の波瀾万丈な半生を描いたドラマである。
「火の女神ジョンイ」では、一緒に育った関係でジョンイは「テド兄
さん」と呼んでいる。ユ・ジョンイの夫:陶工:金泰道(キム・テド)
はドラマの中では、陶工ではなく、護衛武士として登場し、チョンイ
を守る最中に死ぬという設定になっている。ドラマでは、日本に連れ
て行かれる前のチョンイ(ユ・ジョン)が朝鮮王朝初の女性陶工にな
るまでの活躍が描かれている。百婆仙の本当の名前は、伝わっていな
い。ユ・ジュンというのは、「火の神ジョンイ」の創作上の人物である
ので、「有田焼の母」とも称されるペク・パソン(百婆仙)をモデルと
しているだけかもしれない。「真田丸」同様、ドラマと史実がごちゃに
なってしまいそうである。
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 (★Hpより引用)

陶工:金泰道(キム・テド)
&ペク・パソン(百婆仙)の生涯


・永禄4年(1561) (明宗16年)ペク・パソンが生まれた。

・天正18年(1590) (朝鮮王朝第14代王「宣祖(そんじょ)23年)
朝鮮通信使が豊臣秀吉にあった。 
★「火の神:ジョン」・・・面白いよ~ん。
①第23話
テピョン=ジョンと光海君(カンヘグン)が会って、
「ウルタムの娘だと知られたそうだな。」
と・・・・光海君は、ジョンが大好きなのだ。
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韓国映画のネチネチ・ベトベトした感じは慣れてくると、平気
 になるのだ。

②26話
ジョンイがテド兄さん(実兄ではない)から父親の命を奪った黒幕が
い廊府だったと聞いた。ジョンイは、王宮に残る決意をする。
テド兄さんは、とっても優しいのだ。
目の見えなくなったジョンイを慰める。
韓国イメージの5角形の顔が出てこない。
  男も整形している人が多いのかなあ。
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②第28話
日本から朝鮮の陶器・磁器を買い付けに武士:ケンゾウが来た。
ジョンの幼なじみ意地悪ファリョンが武士:ケンゾウに陶器・磁器
を売りつけた。
倭国のケンゾウの「ちょんまげ」が、頭頂部にも髪がある。
何か変?気になるのだ。
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③第29話
日本から朝鮮の陶器・磁器を買い付けに武士は来た。
ファリョンが武士:ケンゾウに2回目の陶器・磁器を
売りつけた。
ファリョンは、ジョンに嫉妬し、ジョンが死んでもいいというぐらい酷
い仕打ちをする。
意地悪さがたまらない魅力なのだ。
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④第30話 
王は朝会の時、
「豊臣秀吉が韓国を攻めて来るだ。」
という情報が入った。
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長官:テジェハク「秀吉に攻められた時の脅威について話し合ってお
いた方が良い・と言う。
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意見に怒った王は、解任と島流しまで命じた。
「火の女神:ジョンイ」を楽しいですよ。
私も36~7年、現代の名工・黄綬褒章受章の師匠「青木昇先生」
に教わっているし、・・・



・文禄元年(1592) 文禄の役。
 豊臣秀吉は「日輪の子」も夢をみたという。

 豊臣秀吉は寧波(ニンポー)を終の住処と考えていた。
 寧波は奈良時代より大陸に渡る日本人の上陸地と
 して知られていた。中国の上海の南方の美しい港町である。
 
4月13日 肥前名護屋城に兵を集めた。
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 豊臣秀吉は「日輪の子」と称した。
 国書を「予の願は他に無し、ただ佳名を三国(日本、中国、
 天竺=インド)に顕(あらわ)さんのみ」と結んだ。
 秀吉の朝鮮出兵は個人的な野心から発したものであった。

 天下統一によって大名たちが新たな恩賞を得ることができず、
 不満が生じることを恐れたからである。
 「真田丸」でもそう説明していた。
 第一回目の「文禄の役」は明の平定が目的であった。
 豊臣秀吉は明を征服せんとの野望を以て、「仮道入明」の旗を立て、
 小西行長軍1万8千余人を先陣に、釜山に上陸し瞬く間に占領した。
 鍋島直茂、加藤清正軍2万2千余人は慶州へ・・・。
 慶州の仏国寺・芳皇寺などを焼いた。
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 日本軍15万8千余人は次々に上陸した。

  朝鮮王朝第14代王「宣祖(そんじょ)王は漢城(現ソウル)
  から平壌に撤退した。
  加藤清正、小西行長らに率いられた倭軍は首都:漢城を落とした。

  漢城をはじめ朝鮮全国の都市農村がほとんど焦土と化した。
 「切り付け打ち捨て、踏み殺し、女も男も犬も猫もみな切り捨てて戦神
 の血祭とした。」 
 (★「吉野甚五左衛門覚書」)

  倭軍はさらに平壌まで進んだ。
 
  しかし、朝鮮の民衆も加わって抵抗が激しくなった。
 両班(やんばん)や僧侶が指導する義勇兵が挙兵した。
  明が援軍を派遣して平壌を奪還した。

 倭軍は苦戦に陥った。

  戦線は膠着し、長期戦に転じた。
  李舜臣の朝鮮水軍が豊臣水軍を各地で破り、制海権を握った。
  豊臣軍は補給路をたたれ、飢えに苦しむこととなった。
  
豊臣秀吉の野望=歴史の波に飲み込まれ、多くの朝鮮の人々が
 犠牲となり、また、多くの日本兵も戦死した。


・文禄3年(1594)  明も戦争の長期化を避けようとして、講和交渉
に応じ、一旦停戦が成立した。

しかし、豊臣秀吉は朝鮮各地に倭城を築かせて、部将を配置した。
  て、朝鮮南部の領有をはかった。
 
 ペク・パソン(百婆仙)は文禄の役の戦乱をかろうじて生き延びた。

 豊臣秀吉の文禄の役(壬辰倭乱、1592~1593)の時に夫:深海宗伝
 と共に朝鮮から連れてこられた。・・・と某Hpあったが、・・・

・慶長元年(1596)
  朝鮮王朝第14代王「宣祖(そんじょ)王は第2回朝鮮通信使
  を送り、豊臣秀吉に面会させた。

   明の使節が豊臣秀吉との講話を折衝した。
   秀吉は
   ①明の降伏すること、
   ②皇帝の娘を天皇に嫁すること、
   ③朝鮮の南半分を割譲すること、
   などを条件とした。
   講話は決裂した。

  豊臣秀吉は再出兵を決意した。


・慶長2年(1597)2月21日付 『立花家文書』朱印状
 「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」
 「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中
  心として築城すること」
   (★『立花家文書』等)
  朝鮮半島の南西部を侵攻し、半島南部にさらに城を築き城主を
  定めて領土化とするという計画だった。
  「慶長の役」は朝鮮平定・・・支配下に置くことが目的であった。

 明は14万人の兵を送ってきた。
 朝鮮民衆の抵抗も激しかった。
 朝鮮水軍の亀甲船の追撃・補給路を断つ作戦で、
 倭軍の食糧事情も悪くなった。

 12月22日 蔚山倭城に明・朝鮮連合軍56,900人が襲撃してきた。
  加藤清正をはじめ日本軍は、食糧準備の出来ていないままの籠城戦
  となり苦戦した。
  多大な戦死者がでた。
  

・慶長2年(1597) 1月3日
  毛利秀元等の援軍が到着した。
   翌日に水陸から明・朝鮮軍を攻撃し敗走させて倭軍が
  勝利した。

  その後、倭城郭群が完成し、九州衆が城の守備のために
  朝鮮に残留した。

  四国衆・中国衆と小早川秀秋は順次帰国して、
  3回目の派遣に備えた。
  
 しかし、加藤清正と小西行長は戦略上で対立した。
 国内の大名たちも朝鮮出兵に嫌気がさしていた。


・慶長4年(1599) 豊臣秀吉は朝鮮に3回目の大軍を再派遣して
  攻撃する計画を発表していた。
 8月18日 でも、豊臣秀吉は死去した。
 
 五大老や五奉行を中心に、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。

 文禄・慶長の役後、朝鮮人捕虜は5~6万人が日本に連れてこられた。
 朝鮮の陶工も多くいた。
 金泰道=キム・テド、そしてペク・パソン(百婆仙)が朝鮮半島の
 南端の金海(慶尚南道金海市)で鍋島軍に捕えられた。
 
 肥前の武雄(佐賀県)城主:後藤家信の捕虜となった。
 ペク・パソン(百婆仙)は夫:深海宗伝と共に荒れた玄界灘を
 渡り異国の地:武雄(佐賀県)に着いた。
 最初は武雄(現武雄市内田村)に住み陶器を製作していた。
 そして磁器と陶器を焼き、陶器を献上していた。
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・慶長12年(1607) (朝鮮王朝第14代王「宣祖(そんじょ)王40年)
江戸時代はじめての朝鮮通信使が幕府に派遣された。
 
 6月29日  江戸で2代将軍:徳川秀忠に国書を奉呈し、帰路に
  駿府で家康に謁見した。
  朝鮮通信使が再開され、帰国する朝鮮人もいた。
 第1次で約1300人が帰国した。しかし、南蛮などに奴隷として
 売られた者、滞在の長期化で日本に家族ができた者もおり、
 第3次の頃には子や孫の世代になっていた。
 帰国をしたのは6000人から7500人ほどとされる。
 
・元和2年(1616) 李参平が有田の泉山で白磁を発見した。

・元和4年(1618) 百婆仙の夫が死んだ。
百婆仙は子供の平左衛門(深海宗海)と共に焼き物の製作
  を続けた。

・寛永7年(1630)有田で良質の陶石が発見された。
  百婆仙は70歳の頃に一族と有田に移り住んだ。
  渡来陶工の一族960余名の陶工集団を伴って有田
   稗古場(ひえこば)に窯を開いた。
   百婆仙は家族や多くの朝鮮人陶工から敬愛された。

   「有田焼の母」と慕われ、有田焼の生産に従事した。
   多くの陶工のリーダーとなったといわれている。
  有田焼の興隆に大いに貢献した。

 ★ 「有田焼の母」と呼ばれるのに相応しい女棟梁だった。
  「火の女神ジョンイ」と同じだ。 
  ★薩摩焼の「沈寿官」と同じで帰らなかった。 



・明暦2年(1656) 3月10日 百婆仙は96歳で亡くなった。
  
弟子・子孫たちは容貌が温和で長寿を保った彼女を、
  敬愛の念を込めて 「百婆仙(ひゃくばあせん)」と呼んだという。

・江戸時代中期
  しかし、有田焼に尽力した女性のことは、長い歴史
  の間に埋もれ、人々の口から語り継がれることは
  ほとんどなかった。
  資料・文献も残っておらず、本名ですら定かではない。


・伊万里・・・鍋島藩御用釜が造られた
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・平成28年)2月
【ギャラリー:ペクパソンと日韓友好の館「百婆仙」】を開設すること
になった。



◆参考サイト
深海家と家永家
「百婆仙は同族工人九百六十人を引き連れて有田の稗古場へ転住」
http://www.enogu-fukaumi.co.jp/souden/

http://www.baekpasun.com/about.html

嶋村初吉のブログ
http://ameblo.jp/hatsuyoshi-shimamura/entry-12031608703.html







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●▲■ 真田丸【第30回「黄昏」】秀吉のボケ老人

◆ナレーター
「秀吉は


※文禄5年(1596) 閏7月13日 慶長伏見地震。
マグニチュード7.25~7.75と推定される直下型地震で、京都や堺で
 合計1000人以上の死者が出た(伝)。
 伏見城の天守閣も崩壊して600人が圧死した(伝)。

 真田安房守はやっとやる気が出てきたのに、この大地震によって、
 伏見城は大破した。

●伏見城
伏見城の築城に熱き思いを蘇らせていた昌幸はふさぎ込み・・・


●大坂の遊郭
昌幸は気を紛らわせるために大坂の遊郭にいる吉野太夫の元へ
と足繁く通った。

◆ナレーター
「・・・・」

●伏見城
幸繁「・・・」
信幸「ほりの普請を・・・」


◆ナレーター
「太閤豊臣秀吉は、再び明を攻めるために大陸へ出兵すると宣言した。
 世に言う慶長の役である。」



●大坂城

秀吉「バテレン追放令・・・」
  「耳を削ぎ、鼻を・・・。」
 と命ずる
※天正15年(1587) 豊臣秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、
 博多で「伴天連追放令」を出した。
  (★「伴天連」とはキリスト教宣教師:パードレのこと)
 『天正十五年六月十八日付覚』
(★松浦家文書)・・・みたよ~ん。

箕輪初心■長崎:平戸=異国情緒が残る街&グルメ
http://53922401.at.webry.info/201112/article_11.html


<原文>

一、日本は神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、
   太以不可然候事
一、其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、
   前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、
   當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、
   下々として猥義曲事事。
一、伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候
  ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハ
  おかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。
  其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。

一、黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買い
  たすへき事。
一、自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれ
   にてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。

已上
        天正十五年六月十九日 朱印
                     吉利支丹伴天連追放令

◆大意~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1.日本は神国(神々によって護られている国)であるのに、キリシタン
  の国より邪法を広めたことは、おおいに許されざることなり。全く
  もってけしからんことである
2.(キリシタンとなった大名が)その国郡(土地)の者をキリシタン
  の教えに近づけて信者にし(バテレンに近づけてキリシタン門徒に
   し、)神社仏閣を打ち破らせたことは前代未聞である。聞いたこ
   とがないど~~~。国郡在所知行などを給人(=大名・家臣)
  に下されたのは、当座のこと(=一時的なこと)である。天下
   よりの御法度(法律)を従ってよく守り、諸事その法度が意
  とするところを実現するべきなのに、下々として(天下の法度を)
  みだりに破るにことは許されざることである。いいかげんな態度
  はけしからん。

 
3.(天下人が)バテレン(キリシタンの国の神父)がその智恵の法
 (教え)をもって、こころざし次第に信徒を広げる(信者をどんど
 ん増やす)ことを許せば、右のごとく(前に書いたとおり)に日本
 中の仏法を破ることことになり許されざることである。従って、
 バテレン(キリスト教徒)を日本の地に置くことはできないので、
 今日により20日の間に用意し帰国すべし。キリスト教徒であるの
 に自分は違うと言い張るのはけしからん。

4.黒船(南蛮の貿易船)は、商売をしに来ているから、これとは全く
  別のことである。今後も商売を継続すること。
5.今後は、国法=仏法を妨げないものであれば、商人でなくとも、
  いつでもキリシタン国より往復するのは問題ないので、それは
  許可する。往来することは自由である。
    以上 天正15年(1587)6月19日

天正15年(1587) 6月19日       
 豊臣秀吉は織田信長と同様に、キリスト教の布教は認めていたが、
 九州平定後、長崎がイエズス会のものとなり、要塞(ようさい)化
 されていることを知って驚いて、バテレン追放令を出した。


◆豊臣秀吉がバテレン追放令を出した理由
1.キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
2.神道・仏教への迫害を好まなかったため。
3.ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。
4.秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシ
  タンであることを理由に拒否したため。
(★ウィキペディアより)

事実上は信仰の自由を保障するもので、サン=フェリペ号事件が
起こるまではほとんど空文化していた。

・文禄5年(1596年)サン・フェリペ号事件
 伏見の大地震の年に土佐国浦戸(うらど)(現高知市)に漂着した
 スペイン船「サン・フェリペ号」の船荷などを豊臣秀吉が没収した。
 これに抗議する航海長の発言やポルトガル人の告げ口により
 豊臣秀吉はスペインが日本征服を計画していると疑い、キリシタンを
迫害するようになった。
秀吉は、キリスト教を信仰するキリシタンへの弾圧を強め始める
のであった。


●細川家
ガラシャ「・・・」
吉造 「・・・・」
きり「キリシタン・・・・・」
きりがキリスト教に興味を抱き、キリスト教によって縁を持つことと
なった。
細川忠興の妻・細川ガラシャの身に危険が迫ることとなるの
であった。

※天正14年(1586)7月~15年(1587)4月 秀吉の九州侵攻
細川ガラシャがキリスト教に興味を持ったのは、秀吉が九州攻撃
 の頃、夫:細川忠興(ただおき)から高山右近の話を聞いてキリ
 スト教に興味をもったとされている。
史実は細川ガラシャの夫が九州征伐へ行った留守に、教会に通い、
 クリスチャンになったが、バテレン追放令のことを知り、夫:
 細川忠興にも秘密にしていたので秀吉の迫害はなかった。


◆ナレーター
「・・・秀吉の体は老いに抗う事が出来ず、変わりゆく秀吉によって
諸大名は動揺と混乱が渦巻くこととなる。」


●大坂城
大谷「・・・・・」
信繁や三成ら、秀吉の側近たちは必死にその事実を隠そうとするので
あったが・・・・・


●駿府城
家康「秀吉はもうろくしておるのか?
本多正信「お待ちください。・・・今、」
本多忠勝「・・・えい。・・・」

●京の真田
「叙情でございます」 」



●遊郭


◆ナレーター
「文禄の役後の講和交渉で、明の使節団がやって来た。・・・」
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 西笑「・・・」

秀吉の前で明使からの冊封状を読み上げた。

◆ナレーター
「・・・日本国の、・・・」

●大坂城」
「戦じゃ。・・・」


◆ナレーター
「・・・再び、大軍勢を率いて、朝鮮に渡ることになった・・・」


●大坂城
三成「涙ぐんではこまります。」
清正「・・・これより、海を渡って、朝鮮に行きます。・・・」

秀吉は皆を呼ぶ。
「拾のこと・・・・」


●京の真田
「・・・だれも・・・」

「・・ひとまず、・・」
「沼田の」


正妻:春「何かお困りですか?」

幸繁「・・・豊臣家を背けない。儀をつらぬくと」

●沼田城・・・矢沢・三十郎・内記
信幸「・・・」
きり「・・・」
内記「・・・」

・・・
◆ナレーター
「矢沢の死・・・享年80・・・」


●大坂城
秀吉「千利休はどこじゃ?」
三成「・・おりません。」

秀吉は石の上で、・・・
秀吉「茶室どっちだ。利休が・・・・」

三成「拾を5歳で元服させましょう。・・・」


◆ナレーター
「拾は5歳で元服し、豊臣秀頼となった。」


●駿河城

正信「・・・老い先、短い命・・・」



●伏見城 
秀吉・・おんぶ

「半分だけ、・・・」

「今日から、天使様・・・
  わしは後見人なんだ。」
「秀頼様が・・・」


◆ナレーター
「・・・・・」

●大坂城
上杉景勝が現れた
景勝「・・」
秀吉「会津に行ってくれ。」
秀吉「伊達の牽制は表向きで、徳川の動きを牽制してくれ?
   ・・・・秀頼をたすけてやってくれ。」

◆ナレーター
「醍醐の花見は慶長3年(1598)3月15日に行われた。
 「・・・豊臣一門の女たち・・・1300人・・・」
★文禄3年の「吉野の花見」と並ぶ二大花見と言われている。
 秀吉の有名な花見、「醍醐の花見」である
花見に招かれたのはほとんど女ばかり1300人・・・まさに
ハーレムの宴だったといわれている。
男ども諸大名&家臣は警護や出店の運営などに携わった。

●醍醐の花見
茶々が秀頼を連れてきた。
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薫「 ・・・」

きり「・・・キリシタンになってもいいですか?」




「花さかじい・・」
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・・・

木?梯子から落ちた。
・・・

夜、秀吉は・・・うなる。


◆ナレーター
「その日から、秀吉は・・・


●伏見城

三成「・・・そろそろ・・・・」

●京の真田
こう「・・・でございます。」

信幸「なぜ、打ち明ける。」
    「とどかなかった・・」


幸繁「おかわりありません。」
信幸「危ういのなら、・・・」

信幸「殿下が死ねば、揺れる・・・」
幸繁「だれが秀頼公をたすけるのか?」


●大谷邸
幸繁「どうしたら、よいでしょう?・・・」
大谷「己自身の道を行け・・・・・・己が正しいと思うことを
    貫け、・・・・」

●京の真田亭

幸繁「・・・太閤殿下・・・・・日に日に・・」
信幸「よく教えてくれた。」
幸繁「自分の力で・・・」



●「遊郭」・・
昌幸「・・・」
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怪しい動きをする吉野太夫
*秀吉の病状を聞こうとする。
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「忍だ・・・」
吉野太夫が血を流して絶命した。
懐から手裏剣が・・・・
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昌幸「危ないところであった? 良くやった。」
出浦「同類は目を見れば、分かる。」

吉野太夫は本多正信の刺客・スパイであった。
★かっちょいい。 ・・・偽:吉野太夫を始末した。
 流石、真田忍群総帥:出浦昌相・・・・
 岩櫃城にも「出浦」の地名が残っている。






正信「死んだか。役に立たなかったのう。」
信幸「・・・」


●京真田・:
昌幸は・・・・


こう「・・・・戦地よ。」


●伏見城・・・
秀吉は家臣に俸禄をあげる。
・・・

佐吉「・・・真田源次郎には?」
秀吉「真田源次郎・・・わしはしらん。」

幸繁「お休み・・・
秀吉「真田安房守の息子だね・・・・」


秀吉「おまえもこい。」
と幸繁を誘う。
秀吉「遅いど。一松(福島正則)は・・・」
幸繁「これから上杉様と・・・」

秀吉「わしは利発な若者が好きじゃ。」

幸繁「福島様は見えません。
      吉野太夫の所へは行けません。」

寝る。

「茶々様と・・かるたを・・・
「お寧様は・・芋を煮ております。」

秀吉の死が近づいている。

・慶長3年(1598)8月18日 豊臣秀吉が死去した。
 つまり、「醍醐の花見」のわずか5ヶ月後である。
 勝利の女神は確実に徳川家康へとほほ笑みかけている。








★明日は群馬の城か伊豆の城か?

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