箕輪初心:生方▲群馬:安中【茶臼山城】&ちょっと飽間→秋間の歴史

富岡武蔵氏の案内で余湖さん・野口さん・たかしさん・櫻井さん
と一緒に登った。安中秋間【茶臼山城】は安中市西上秋間の茶臼
山山頂にある。何でこんな所に城を造ったの?という訳の分から
ない城である。戦国時代初期には秋間は飽間(あきま)氏の本拠
地であった。山崎一氏は「群馬県古城塁祉の研究」で、飽間氏の
本城は東上秋間にある内出城(馬場・・・みのりが丘入り口)で
あるとしている。茶臼山城は飽間氏の支城であった。南北朝時代、
飽間氏が新田義貞に従い、府中で戦死した。・・・その後、廃城に
なった。戦国時代、安中忠政(重繁)・忠成(景繁)の家臣?となっ
た秋間7党の誰かがいたかもしれない。山登りは40分~50分
程かかった。
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箕輪初心●群馬:旧安中の城【山崎26城<井上35城】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_11.html



◆訪問日・・・平成27年(2015)12月26日
富岡武蔵氏の案内で余湖さん・野口さん・たかしさん・櫻井さん
と一緒に登った。

①松井田の坂本城=城の峯城→②松井田の愛宕山城→③倉渕の鑰掛城
→昼食倉渕「ます池」→④安中の茶臼山城→⑤榛名の鷹留城→⑥榛名
の松山城→⑦榛名の雉郷城(暗くなちゃったので登らなかった。)
みんなと別れた。

●昼食・・・・倉渕「ます池」
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①富岡武蔵氏・・・群馬の城巡り700城?長野の城700城?
 10年間、自性寺焼:青木昇門下で焼き物仲間であった。
茶臼山城・・・富岡武蔵氏
http://tomioka.at.webry.info/201103/article_5.html

②余湖さん・・・・・千葉の城ブログ№1~2
茶臼山城(安中市西上秋間茶臼山)・・・余湖さんのHp
http://milky.geocities.jp/yogototigi/gunma/annnakasi03.htm
この城は2015年12月26日の山城の日で訪れた。当初はターゲ
ットに入っていなかったのであるが、鑰掛城を訪れた後、食堂で
マス重弁当を食べながら、午後の予定について相談した時、富岡
武蔵殿に「茶臼山城に行けないか」と相談してみた。というのも、
茶臼山城にはそのうち行こうと考えてはいたのだが、この城は
ちゃんとしたルートで登らないとかなり危険なことになる山城
らしいので、一人で行くのには不安だったのである。幸いなこと
にOKということになったので、お昼を食べた後、すぐに茶臼山
に向かうことになったのであった。富岡武蔵さん、ありがとうご
ざいます。今になって思うと、やはり一人で行かなくてよかった
という思いと、行けてよかったという思いの2つが混交とした気
持ちである。このような山を一人で登っていったら、そうとう不
安になってしまったことであろうし、一人で訪れることはお勧め
しない。
 (余湖さんのHpをコピーさせていただきました。)

③野口さん・・・・・余湖さんの仲間
④たかしさん・・・・余湖さん城仲間
⑤櫻井さん・・・・・群馬の城好き
⑥箕輪初心・・・・・私は富岡武蔵さんのかつての陶芸仲間





●≪アクセス≫
富岡武蔵「茶臼山城は安中市西上秋間の茶臼山山頂596m
     にあるよ。」
道路地図に茶臼山の場所は記載されている。

・安中の安中城の「城下」の信号などから、ひたすら秋間梅林
 を目指して進む。県道125号線の秋間小学校→内出城・・
恵宝沢・・・秋間梅林が有名である。
「群馬フラワーハイランド入口」の案内看板設置場所を矢印方向
ではなく右に直進する。
そのまま、秋間川沿いに上流へしばらく進む。

右に「茶臼山登山口」と小さな看板がある。
しかし、案内版は腐っている。字も読みづらい。

●「茶臼山登山口」
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①箕輪初心:生方号と
②富岡武蔵号はここに停車した。
③余湖さん号は奥に進んだ。

富岡武蔵氏「行きは40分~50分かかるよ。・・・」
★あ~あ、行く気ねえ。いやだなあ。
富岡武蔵氏「登り道にはリボンが木に結んであり迷うことは
    ないよ。
    茶臼山は標高596m・・・比高200m~300m
    だよ。

入口の案内板の10m先の橋を渡る。
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未舗装の山道を進んでいったところが茶臼山である。

③3分程歩いた場所に余湖さん号があった。、
 車2台ほど停められるスペースである。
 合流して未舗装の林道を進んでいった。

 案内表示はない。現在は朽ち落ちたのであろう。
 リボンがあった。
  富岡武蔵氏が先頭でがんがん進む。・・・
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  それほど急傾斜ではない林道が続く。
  私は遅れがちになる。
  ★私はたばこの吸いすぎで山登りが弱くなったのである。
   最近は山登りが大嫌いになった。百名山だって、70
以上登っているし、キリマンジャロ山5895mも
登頂した体力はどこにいってしまったのであろう。
  
  それをどんどん進んでいく。
  途中、道が崩れていたり、ヤブ化したりしているる所もあるが、
  とにかくひたすら進んでいった。
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  途中に岩盤の脇をトラバースしたり、大岩の下を通ったりと
  危険な箇所もある。
★やはり、一人は怖い。富岡武蔵さんは3回目の挑戦で
やっと行けたと言っていたが、こんな所を独りで来たのか
俺なら、独りでは絶対来ない。
 
一度、間違ったが、私は道を発見した。

 余湖さん「左の急斜面の上が目指す茶臼山城のはず・・。
       来すぎたんじゃないかなあ?」
富岡武蔵氏も「・・・通り過ぎてしまった感じ。・・・」
  途中で茶臼山を行き過ぎてしまったらしい。
みんながやや不安になった。
しかし、山頂が城だと分かっている。
  山道は続いていた。だいぶ進んでいたので・・・、
  結局、途中から道なき道を直登をすることになった。

  直登・・・★きつい。
  比高は50m~100m

  やっと山頂部分に到達した。しかし、何もない。
余湖さんは、右の山頂をのぞき?確かめに行った。
  富岡武蔵氏は左の尾根に向かってトラバースした。
山道を通り過ぎたと
余湖さんが「・・城はない。」
  後で、何もないのは山頂部というのは、城の北の尾根続き
  であった。
尾根を南に少し降っていく。
  すると、いきなり大堀切が見えてきた。
富岡武蔵氏が「堀切があったよ~。」と叫んだ。

  茶臼山城に到達したのである。
  みんなはほっとした。
 山登りは40分から50分程度かかった。

●縄張り図
①「群馬県古城塁祉の研究下巻」:山崎一著
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②「境目の山城と館 上野編」:宮坂武雄著
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③余湖さん作成の縄張り図
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1)大堀切
「虎口跡」と書かれた標柱があった。・・間違いであろう。
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・尾根と行く。
 堀切から自然傾斜の登りとなる。
 この表示も変?
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2)左(東)に帯郭が見える。・・・・東の帯郭5~6m幅

3)さらに左(東)に腰郭が見える。・・・

4)北の腰郭。・・・2m×10m?武者走りだろう。
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帯曲輪となって左右に延びて行っている。
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・最後の腰郭を登りきると・・・
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・城壁


5)本郭
・虎口?・・・コブのようになっている。

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※本郭は長軸20m短軸15m程の楕円形であった。

・「茶臼山」と書かれた表示
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・案内板
茶臼山城についての案内板も設置されていた。
 木に墨で書いた案内板である。
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「茶臼山城の築城は古く、鎌倉時代の建久4年(1198)源頼朝が三原野
の狩りを行った際に、飽島太郎正勝に築かせ、飽島氏を城主として
封じたという。飽島氏は当地の豪族で、現在の「秋間」地名の元と
なった一族である。
 以後、累代飽島氏の居城となる。南北朝時代には、飽島勝成は、
南朝方の新田義宗に従って、笛吹峠で足利軍と合戦して戦死した。
 後に、飽島勝俊の代になり、吉良氏の打出城に移ったために
茶臼山城は廃城となった。
・・・・後略。
秋間史跡保存会


◆ 秋間の伝説と歴史 ◆
「飽馬」伝説
「飽馬」の語源は古く、日本武尊に由来しているという。
 東国平定を命じられ遠征してきた日本武尊が、房州を経て上州を
碓氷峠に向かう道すがら馬に乗っていることに飽きて、馬を停めて
暫く休んだ。馬に飽きたことから「飽馬」の地名になった。

・古墳時代~東山道が造られた。

・古代 国分寺の瓦に飽間の土も使われた。


・建久3年(1197)説 飽間氏が茶臼山城を築城。(★安中の漫画)
・建久4年(1198)説  飽島太郎正勝が茶臼山城を築城。
              (★秋間史跡研究会)
  ※飽島氏が「飽間」の元になった説


・元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉を攻めた。
  飽間盛貞は分倍河原で討死にした。
  飽間家行と飽間定長は相模国村岡で討死にした。
★しかし、「太平記」では飽間氏であって、飽島氏ではない。

・南北朝時代
  飽間三郎勝成は、足利尊氏との戦いで武蔵で死亡。
        
  足利一族の吉良治家の築城?(伝)
        →内出城に移住(170年空位?)
・応永年間・・・・・飽間氏が秋間茶臼山から移住。 

・版碑によれば飽間氏は「飽間斉藤」という呼称も使っていた。
(★「妙義の性神風土記」)

・戦国時代 真田幸綱(幸隆)が攻めた岩櫃城主:斎藤憲広
  の母は飽間一族とある。


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主郭から南の郭を見る。
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6)本郭南西の堀
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7)南の郭
緩やかに傾斜した尾根が長く延びている。
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▼戻った。
腰郭を通り・・北東の堀→北の腰郭と戻った。
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北の腰郭は堀切に繋がっている。
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たかしさんと分かれ、先に下った。
ほかの4人はバラバラに下った。

●下の腰郭
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先の尾根が緩やかである。
余湖さんと櫻井さんを追いかけた。
野口さんが左にいる。
富岡武蔵さんは右の奥の方に向かった。
おそらく本来の大手道であろう。
たかしさんがなかなか降りてこなかった。
降りていくことにした。
しかし、正規のルートではない。
  
下りはスキー気分でささっとおりた。3分程で・・・
私は「道が見えました。」とほかの方に知らせた。
登山道におりた。
●水の手は遠いなあ。
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私が「たかしさ~ん」大声で呼んだ。
反応はなかった。

私が「たかしさんを待ちましょう。」と言った。
富岡武蔵さんが「私が残ります。」と言った。

単独では、とても登る気もなかったので、行けてよかった。
みなさん、ありがとうございました。





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◆◆ 安中氏に仕えた秋間7党の城
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(★秋間公民館長の作の秋間の城廻りは見つからず。)


【1】城郭大系・・・9ヶ所の堡塁
碓氷川の支流:秋間川流域に秋間には9ヶ所の城がある。
①茶臼山城・・・・秋間最奥の詰城
②般若沢城・・・・秋間北の烏川谷(榛名)の備えの城
③八貝戸砦・・・・内出城の背後支援の城
④蔵人城・・・・・秋間入口の抑えの城
⑤礼応寺砦・・・・内出城の背後支援の城
⑥辻城・・・・・・秋間入口の抑えの城
⑦茗荷沢砦・・・・雉ヶ尾峠&榛名雉郷城の守備の城
⑧内出城・・・・・秋間の核堡=秋間の中心の城
⑨小屋城(伊豆村城)・・・秋間南の九十九川谷の備え



【2】安中ふるさと学習館:井上慎也先生・安中の城より
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①【15】茶臼山城・・・西上秋間茶臼山
「まんが安中の歴史より」
・建久3年(1193) 飽間太郎勝正が築城?
・観応年間・・・・飽間氏の居城
・南北朝時代・・飽間三郎勝成は、足利尊氏との戦いで
        武蔵で死亡。
        足利一族の吉良治家の築城?(伝)
        →内出城に移住(170年空位?)
・応永年間・・・・・・・・飽間氏が秋間茶臼山から移住。       


② 【16】般若沢城・・・西上秋間般若沢)
・永禄・天正年間 秋間七騎の一人:五十嵐団右衛門の居住
◎見所・・・郭・堀切・土居は残存 


③【17】八貝戸の砦・・・中秋間八貝戸谷津
・永禄・天正年間 秋間七騎の一人:深掘藤右衛門の居住
◎見所・・・郭・堀切・土居は残存 


④【18】蔵人城・・・中秋間薬師谷津のゴルフ場
・永禄・天正年間 秋間七騎の一人:島崎蔵人の居住
    90m×120m   

⑤【19】礼応寺城=秋間二城・・・中秋間道城
・永禄年間 秋間七騎の一人:八城備中守忠昭の居住?
    140m×108m   


⑥【20】辻城=雁又城・・・下秋間刈又
・永禄・天正年間 秋間七騎の一人:赤見藤九郎
                ・狩俣勘解由居住
◎見所・・・郭・腰郭が残存  


⑦ 【21】御嶽山の砦・・・雉子ヶ尾・榛名上里見
  井上鉄工所裏山
・永禄・天正年間   秋間七騎の一人:奥原氏居住
◎見所・・・腰郭・堀切が残存


⑧【22】茗荷沢の砦・・・下秋間明後沢御岳山
・永禄・天正年間 秋間七騎の一人:奥原新左衛門の居住
◎見所・・・腰郭・堀切が残存


⑨【23】内出城・・・東上秋間馬場・北原
・南北朝時代・・・足利一族の吉良治家の築城?(伝)
・応永年間・・・・・飽間氏が秋間茶臼山から移住。
・明応年間・・・・・飽間氏が讃岐丸亀城に移動→廃城。
        →内出玄蕃介の城?

⑩【24】小屋城=伊豆村城・・・東上秋間伊豆村谷津
   内出城(東上秋間馬場・北原)の出城か?


⑪【25】般若沢代官所・・・・西上秋間
・元禄時代  天領代官:小倉氏に代わって、名主が世話役。


⑫ 【26】受地の陣屋=十二陣屋・・・東上秋間上受地:
   十二の集会所から南の清水氏宅
・元禄時代  米倉氏が在住。

箕輪初心●群馬:旧安中の城【山崎26城<井上35城】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_11.html






★明日は箕輪城かな?

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