箕輪初心▲源頼朝20【北条時政の思惑②】&伊豆【願成就院】

・治承元(1177) 頃? 29歳の源頼朝は韮山の北条館に行った。
しかし、娘の北条政子が源頼朝の娘:大姫を生んでいた。北条
時政は北条政子&源頼朝を許す考えになっていった。
北条時政は2人の結婚をすぐに認めて、源頼朝の外戚になる
という考えがひらめいたのではないだろうか?
京都では平清盛と後白河法皇の間に対立の兆しが見え始めた。
北条時政は中央の情勢を見て、平氏政権が長続きしないこと
を見越して源頼朝を婿としたのかもしれない。一種の大博打に
出たとも考えられる。北条政子が源頼朝の正室になったことで、
平氏から源氏の政権交代かけたのであろう。治承4年(1180)
源頼朝の挙兵では北条時政は大いに貢献した。道が開けた。
そして、鎌倉幕府の初代執権となった。
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箕輪初心★源頼朝19北条時政の思惑①&【北条時政館】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_2.html



 *指している所・・・八幡神社
 *南隣が願成就院
 *北隣は北条政子の産湯&伝堀越公方跡
    (北条時政の館内)
 *守山西の平坦地は北条時政の居館があった。
   

【1】北条時政の館 ・・2回
 北条時政の館=含む伝:堀越公方館。
守山の北西~北の伝:堀越公方館にかけての一帯。
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 ※伝:堀越公方館の北条時政館の一部であったろう。


【2】北条政子の産湯・・2回



【3】八幡神社・・・・・1回
 ★私はここに源頼朝館はあったと
考えている。出撃の拠点であった。
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【4】願成就院・・・・・1回
静岡県伊豆の国市寺家83-1
国道136号線から、看板の所を曲がって直進する事約100m。
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願成就院の山門があった。
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①車を駐車場に停めた。
大御堂・宝物館の拝観料300円。
御堂・宝物館内の写真撮影は不可。水曜日休館・・・。
朝7時、開いているはずはない。

②案内看板
「創建当時の願成就院は七堂伽藍に池を配した壮大な寺院だった。
 駐車場は『南塔』の跡地ではないかと推定されている。
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③パンフレット
『当山は天守君山願成就院と称し、高野山真言宗に属す。(略)寺の
 創建は、寺伝によると奈良時代聖武天皇の天平元年(729年)5月
 15日に創立されたと伝えられるが、明らかなことは、鎌倉幕府の
 事跡を伝える「吾妻鏡」の記録から、文治5年(1189年)源頼
 朝公夫人、尼将軍北条政子の父で鎌倉幕府初代執権北条時政公が、
 頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建立したもので、その後
 は鎌倉幕府に並ぶ者なき勢力を振った北条氏の寺として、2代執
 権北条義時公・3代執権北条泰時公の3代にわたり、約半世紀の
 歳月を費やして次々に堂塔が建立され繁栄を極めた。
  その伽藍構成は、奥州平泉に藤原3代の偉業として伝えられる
 中尊寺・毛越寺・無量光院3寺院の中の毛越寺を模したもので、
 山門を入ると大きな池があり、その池の中島に掛けられた橋を渡
 って参詣するというもので藤原時代特有の寺院様式であった。」

・文治2年(1186) 北条時政が願成就院を創建? 
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 ※運慶作の仏像
(★仏像の胎内から発見された銘札)
 北条時政が源頼朝の奥州攻撃を祈願してにより建立した
 とされ、諸像が作られた。
運慶は阿弥陀三尊(中尊・阿弥陀如来座像のみ現存)
 毘沙門天立像、不動明王立像とその2脇侍であるコンガラ&
 セイタカ童子を作った。

・文治5年(1189) 願成就院が建立された。
奥州藤原氏打倒を祈願説


・現在 
 「運慶様式」=鎌倉彫刻様式として国宝に格上げされた。
 東大寺の「金剛力士像(国宝)」が有名である。




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・治承4年(1180)

4月??日 後白河法皇の子:以仁王の令旨
後白河法皇の皇子:以仁王が平氏追討を命ずる令旨を
   諸国の源氏に発した。

4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

5月10日 下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

伊豆国は平時忠の知行国になった。
 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。
山木(平)兼隆が目代になった。

 伊豆国では目代:山木(平)兼隆は急速に伊豆で勢力を振る
 うようになっていった。
 伊豆国衙の実権は伊東氏が掌握して工藤や北条氏を圧迫した。
 また、目代であるが故、旧知行国主系の工藤系狩野茂光や
 北条時政から反感を持たれた。

6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。


6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
   胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 

 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
①反対派
 山内首藤経俊は
  「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
  鼠が猫をとるようなものだ。」
  と嘲笑した。
②迷った派
  波多野義常は返答を渋った。
③賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
 ※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。
佐伯一族も永江一族も同心となった。


8月2日 大庭景親が本領:藤沢に下向した。
  源頼政の孫:源有綱が伊豆国にいた。
   大庭景親が源有綱の追捕を平清盛から命を受けていた
  のだ。
  源頼朝らの緊張が高まった。
風雲急を告げた。・・・・・
平氏方の追及の手が東国にも伸びてきた。
  源頼朝自身が危機の中にあることを悟った。

源頼朝は北条時政に相談した。
  平家打倒の挙兵の打ち合わせに大日堂=現願成就院の地が
  使われたらしい。北条館の100m東は八幡神社で、その
東隣が現願成就院~旧願成就院である。
★おそらくは北条時政にとっては、挙兵のきっかけの場所で
あったのに違いない。

  源頼朝は8月17日をもって挙兵することを決めた。
  まず手始めに、伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。
  源頼朝は最初の標的は伊豆国目代:山木兼隆と定めた。


8月4日 源頼朝は祐筆:大和判官邦通に山木邸付近の
見取り図を書かせた。

8月6日~□□日? 源頼朝の挙兵裏工作開始
 源頼朝は工藤系狩野茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐美祐茂
 (すけもち)・天野遠景・佐々木盛綱、加藤景廉らを招集し、
 一人ずつ私室に呼び、個別にそれぞれと密談を行い、意見
 を聞き、賛同を得た。
 「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって
 話す。」
 と言い、自分だけが特別に頼りにされていると錯覚させた。
(★『吾妻鏡』治承4年8月6日条)

8月11日 源頼朝は岡崎義実&子:佐奈田義忠に使いを送
 った。
 「8月17日、土肥実平と参上せよ。」

8月16日
 挙兵の前日に至るが、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら
 佐々木兄弟が参じなかった。
 源頼朝は佐々木盛綱に計画を漏らしたことに疑心暗記に
 なり、後悔した。
 
8月17日
 山木館の襲撃は朝駈けを図っていたが、佐々木兄弟の遅参
 によって計画がくるってしまった。
 源頼朝は
 「明朝を待たずに直ちに山木館を襲撃すべし。
  山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん。
山木の館を放火すべし。・・・
 と決意を述べた。
 襲撃の成否を確認したいと配下に相談した。。

 北条時政は
 「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに牛鍬大路は人が
  満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道の蛭
 島通を通ってはどうか。」
 と進言した。
 源頼朝は
 「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創であり、間道は用
 いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。
 大道を通るべし」
 と命じた。

 源頼朝は三島神社祭礼に安達盛長を名代として参列させ
 ていた。

 挙兵当日の8月17日(新暦9月8日)佐々木兄弟が
 急ぎ疲れた体で参着した。
「洪水により遅れた。」
 源頼朝は涙を流してねぎらった(伝)。


夜、・・・・
 山木兼隆の雑色男=召使いが源頼朝の家の下女と恋仲で、
 北条館に来た。
 源頼朝は「多くの武者の集まっている。」
 と告げ口される恐れがあるので用心のため生け捕った。



源頼朝の命で進軍した。
深夜一行は進発。
北条時政は、途中の肥田原で、佐々木定綱に
「山木兼隆の後見役:堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けて
これを討て。」
と命じた。
①仁田兄弟&佐々木兄弟・・後見人:堤信遠邸へ 
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かい、子の刻に佐々木
経高が館に矢を放った。
「源家が平家を征する最前の一箭なり」
 (★『吾妻鏡』)
新田忠常は筏を組んで、堀を渡って一男乗り・・。(伝)
  新田(仁田・日田)忠常は満13歳。
  堤信遠の郎従が応戦して矢戦になり、佐々木経高は矢を
  捨てて太刀を取って突入。
  堤信遠も太刀を取って組み合いになった。
  佐々木経高が矢を受けて倒れるが、佐々木定綱、佐々木
  高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取った。
  
②北条時政本隊・・・山木判官(目代)平兼隆邸へ
 北条時政らが韮山にある平兼隆の目代屋敷を襲撃。
 北条時政の本隊は山木館の前に到着すると矢を放った。
  その夜は三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に
  出払たっていて、さらに黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。
  山木館に残っていた兵は激しく抵抗した。
  
  堤信遠を討った佐々木兄弟や仁田忠常も加わり、激戦と
  なった。・・・容易に勝敗は決しなかった。

  源頼朝は山木館から火の手は上がらないのいで、
  焦った。
  源頼朝は警護に残っていた加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家
  を山木館へ向かわせた。
  加藤景廉には長刀を与え、
 「これで兼隆の首を取り持参せよ。」
  と命じた。
  加藤景廉、佐々木盛綱は山木館に乗り込んでいった。
  遂に山木兼隆を討ち取った。
  山木館に火が放たれた。~~~悉く燃え尽きた。
  襲撃隊は暁に帰還した。
  源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。

●北条時政43歳、源頼朝34歳

8月19日 
  源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚で
  の非法を停止させる命令を発給した。
 『吾妻鏡』はこれを「関東御施政の始まりである」
 と特記している。

 山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。

※目代:山木兼隆を倒しても源頼朝の兵力のみで伊豆1国を
  掌握するにはほど遠かった。
  平家方の攻撃は時間の問題であった。

  三浦義澄・和田義盛らの三浦一族が源頼朝に参じる
  べく三浦を発した。
  途中、弟の大庭景親の党類の館に火を放った。 
  三浦義澄一族は台風のために合流が遅れた。
  源頼朝は相模の三浦一族を頼みとしていたがなかなか参着
  してこなかった。

  大庭景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、夜戦
  を仕掛けることにした。
  闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかった。

  北条時政 VS 大庭景親
「言葉戦い」をした。
大庭景親は
  「後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である。」
  と名乗った。
  北条時政が
  「かつて、源義家に従った鎌倉景正の子孫ならば、
   なぜ源頼朝公に弓を引くのか。」
   と言い返した。
  大庭景親は
  「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、
   海よりも深い。」
  と応じた。
 (★『平家物語』)
★北条時政は先陣だった。


8月20日 源頼朝は相模へ~~~~ 
  しかし、来援を約束していた三浦勢がなかなか来なかった。

  源頼朝は、伊豆韮山から北条時政以下46騎を従えて、
  相模国土肥郷(神奈川県湯河原)を目指した。
  従った者は
  北条義時・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・
  佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らである。 
  ★新田四郎忠常・・ほかに新田(仁田)の名が見られ
   ないので単独参加なのだろうか?
  (★吾妻鏡)
  三浦軍との合流前・・・

  これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、
  海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向か
  った。
 
8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い 
 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
  そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。

 源頼朝の挙兵を知った大将大庭景親を先頭に、熊谷直実など
 3000余騎が各地から駆けつけた。
 大庭景親軍は谷ひとつ隔てて石橋山の麓に陣を構えた。布
 伊豆国の伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで
 進出して、源頼朝の背後を塞いだ。

 夜、雨が激しく降りだした。
 三浦義澄軍250騎が遅参した。
 三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされた。
 源頼朝軍への合流ができなかった。
大庭景親は、源頼朝と三浦軍が合流するのを恐れ、夜討ちを
決行した。

源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
    山内首藤経俊・伊東祐親ら・・・

 源頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子:
  佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
  ・・源頼朝は大敗北した。
  (★『平家物語』、『源平盛衰記』)
  源頼朝軍が衆寡敵せず、分散して、退却することにした。
  
 
 大庭軍は勢いに乗って追撃し、源頼朝に心を寄せる大庭軍の
  飯田家義の手引きによって辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。
 
  源頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。
 源頼朝主従5人は朽木の洞に身を潜めることができた。 
   
8月24日 大庭軍は追撃の手を緩めなかった。
  頼朝軍の残党は山中で逃げ回って激しく抵抗した。
  源頼朝も弓矢をもって戦った。
  源頼朝軍の武士達はおいおい頼朝の元に集まった。
  土肥実平は
  「人数が多くてはとても逃れられない。源頼朝一人ならば
   命をかけて隠し通すので、皆はここで別れよう。」
   と雪辱の機会を期すよう進言した。
   皆これに従って涙を流して別れた。
 北条時政と2男の:義時は甲斐国武田に向かった。
 しかし、嫡男:北条宗時は別路を向かったが、伊東祐親の
  軍勢に囲まれて討ち死にした。

  大庭軍は山中をくまなく捜索した。
  大庭軍の梶原景時が源頼朝の居場所を突き止めた。
 
 しかし、梶原景時は
  「・・・・・・・」
  が知って知らぬふりをした。梶原景時は
 「人跡なく、向こうの山が怪しい。」
  と大庭景親を導き、源頼朝の命を救ったのである。
●土肥の椙山の「しとどの窟」
  ・・エピソード=伝説の地として伝わっている。
★先頭にいた梶原景時に見つかってしまった。
 この時、梶原景時が
「源頼朝を見つけたぞー!」
と言えば、私歴史は大きく変わった。
しかし、梶原景時洞穴に身を隠している源頼朝の目と会った瞬間、
梶原景時は
「ここにはいない、別な山だ。」
と言って、追っ手を率いて、その場を立ち去った。

「慥かに御在所を知ると雖も、有情の慮を存し、此山人跡無しと
 称し、景親の手を曳いて傍峯に登る。」
 (★『吾妻鏡』)
★梶原景時は平氏での自分の出世を棒に振った。源頼朝と会った
 瞬間、助けてしまった。しかしこれが縁で後に梶原景時は源頼
 朝から重用されることになった。

 源頼朝は数日間の山中逃亡・・・死を逃れた。
源頼朝、土肥実平らは箱根権現社別当行実に匿われた。

 源頼朝&土肥実平の一行は箱根権現社別当:行実に匿われ
 た後に箱根山から真鶴半島へ逃れた。


8月28日 真鶴岬の北の付け根:岩から船で安房国へ
  脱出した。
  真鶴岬の岩(神奈川県真鶴町)から出航・・・・。
  北条時政らも引き返して船を仕立て、海上で三浦一族と
 合流し、安房国を目指して落ち延びた。

~~~三浦義澄 VS 畠山重忠~~~~~~~~~~
8月25日
 源頼朝と合流すべく三浦半島を出た三浦義澄、和田義盛ら
 三浦一族500騎は丸子川(酒匂川)の辺りまで来ていた。
 しかし、豪雨の増水のために渡河できなかった。
 源頼朝軍の敗北を知り、引き返した。

 三浦一族は鎌倉の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇
 した。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。
   
※小壺坂合戦、小坪合戦
 三浦義澄 VS 畠山重忠

 和田義盛の弟:和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまった。
 これに怒った畠山重忠が応戦した。
 和田義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。
 双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た。
 停戦で双方が兵を退いた。

8月26日
 秩父氏系平氏の畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら平家方の
 大軍が三浦半島に押し寄せた。
※衣笠城の戦い
 三浦一族は本拠ので防戦するが、城を捨てて船で海上へ逃れ
 ることにした。
 三浦義明89歳
 「源氏累代の家人として、再興に立ち会うことができた。
  これ程の喜びはない。武衛(頼朝)のために我が老命を
  奉げて子孫の勲功を募らん。皆は彼の生死を確かめよ。」
 と言って、城に残り、討ち死にした。

  三浦一族の長老三浦介義明(89歳)を残して、船で
  安房に逃れた。北条時政らも安房に逃れた。

※石橋山の戦いで源頼朝を破った大庭景親と伊東祐親は平家方に
 合流しようとするが失敗した。
 大庭景親は降参するが許されずに斬られた。
 伊東祐親は捕えられ自害した。

 


8月28日 源頼朝らも土肥の真鶴岬から小舟に乗って安房に
  向かった。
 
◆◆源頼朝の関東平定 ◆◆
8月29日
 源頼朝は安房国の平北郡猟島(現勝山付近)へ上陸した。
  北条時政・和田義盛・三浦義澄らの出迎えを受けた。
 
 源頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請
 すべく使者を派遣した。
 源頼朝は江戸湾に沿って南下し洲崎明神に参詣した。

9月3日 源頼朝は勝山から使者を送り、味方の参陣を待つこと
  にした。
  上総介広常の元には和田義盛が派遣された。  
  千葉介常胤の元には安達盛長が派遣された。

  小山朝政ら下野・下総・武蔵の有力豪族にも使いを
  送った。

  甲斐・信濃の豪族にも北条時政を派遣した。


9月8日 北条時政は甲斐源氏を味方に引き入れる密命を受けて
  甲斐に赴いた。

9月10日 北条時政は安田義定と源義仲に呼応して、
信濃に従軍した。


9月15日 武田信義&一条忠頼のいる逸見山に到着した。
  「頼朝の仰せの趣」を伝えた。

★ちなみに、北条時政の4代前の妹が源頼義の妻となっている。
 武田信義・安田義定は10親等にあたる。

9月20日 下総の源頼朝から手紙が届いた。
 「平氏が坂東に進行中・・合流せよ。」
※つまり、武田軍を早く、頼朝軍に合流させよ。」
 という指示であった。
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9月9日、千葉介常胤から
  「先祖以来の故地で、要害の地鎌倉にお入りを」
  という使者が来た。


9月13日 源頼朝は安房国を出て上総国に向かった。

9月17日 源頼朝は下総国府で千葉介常胤と合流した。


9月19日 源頼朝は上総広常と会見した。
  上総広常は大軍を率いて参上したのだった。
  
安房においては頼朝は再挙した。
  安西氏、千葉氏、上総氏などに迎えられた。
  房総半島を進軍して武蔵国へ入った。
  平氏方の目代に圧迫されていた千葉氏、上総氏などの東国武士
  が平氏方目代や平氏方豪族を打ち破りながら続々と参集した。
  
  1か月かけて数万騎の大軍に膨れ上がった。

 
9月19日 源頼朝は下総と武蔵の境の隅田川で、上総介広常
  の2万騎を迎えた。
  しかし、頼朝は広常の遅参を厳しく責めました。
  頼朝の「許容の気無し」の態度に、広常は「害心を変じ、和順」
  (日和見を改め、頼朝に服属)しました。
  傲慢な千葉介常胤をしかった。

10月2日 上総・千葉両氏の支持を受けた源頼朝は、
  太井川・隅田川の両河を渡った。
  武蔵国に入った。
  源義経の傘下に上総の葛西清重、南武蔵野の足立遠元
   (安達盛長の年上の甥)が加わった。
江戸城の江戸重長も源頼朝の傘下に入った。
  源頼朝は三浦義澄の敵:畠山重忠の参陣を許した。
一度は敵対した秩父平氏氏系畠山重忠・河越重頼・
  江戸重長らも従えることになった。
  

10月6日 源頼朝は「凡そ扈従の軍士幾千万を知らず」
  という大軍を率いて、鎌倉に入った。

●源頼朝は鎌倉に入った。
源頼朝はかつて父:源義朝と兄:義平の住んだ
  鎌倉へ入った。
  大倉の地に大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。
  また、先祖の源頼義が京都石清水八幡宮を勧請した鶴岡
  八幡宮を移した。
  父:源義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立を行った。

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10月13日 北条時政は甲斐源氏:武田信義&長男:一条
 忠頼&次男:武田信光&安田義定(武田信義の弟)は共に
 駿河に進攻した。
 甲斐源氏:武田・安田・一条・・・
信濃源氏:平賀・小笠原・井上・・・・・
トータル1万人・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  
  源頼朝軍1万も黄瀬川に到達した。
  

10月18日 北条時政は源頼朝に参会した。
  北条時政は甲斐源氏&信濃源氏との連携を成し遂げたので、
  源頼朝から報償を与えられた。


10月20日 富士川の戦い
 源頼朝+武田信義ら VS 京 平維盛軍
源頼朝は平氏勢を撃破した。
 
 大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎでた。
 平維盛軍には、斉藤氏もいた。
 「関東武士は強い。・・・」
 などと言ったという。
 水鳥に驚いて退却したという話もある。
 目立った交戦もないまま、平氏軍は敗走した。

10月21日 源義経が平泉から駆けつけてきて、兄源頼朝と
  劇的な再会をした。
 ★普通は「弟よ」・「兄さん」と言って感激の対面を期待し
 たでしょうが・・。しかし、源頼朝は源義経を馬から降ろし、
 片膝ついて座ることを命じた。
 そして、馬上から源義経の肩に土足を置いた姿を、多くの
 従者に見せた(伝)。 
 源義経はこのことを恨んで、後に兄:源頼朝に背くことに
 なった(伝)。
 ★歴史好きの方の中に「源頼朝が嫌い&憎い」という方が
 多いと思う。・・・実は私も嫌いで、ブログ取り上げるのに
 3年もかかった。
 源頼朝の再会場面は、徳川家康が「武士の世で、主人は1人」
 ということを宣言した現れである。
 兄弟であれ、「自分が一番。」と例外なく伝えたかった。
 為政者って我が儘ですね。・・・何をか言わんや・・・・。

武田信義は駿河の守護になった。
安田義定は遠江の守護になった。

 源頼朝&北条時政は鎌倉に戻った。

※この後、佐竹氏、新田などの源頼朝に従わぬ豪族達と
 の対立を制して、源頼朝は坂東での覇権を徐々に確立して
 いくことになる。

12月24日  新田義重はやっと源頼朝に謁見した。
子供の里見義成や山名義範はすでに有力御家人に
なっていた。

・治承4年(1180) 末~
  鎌倉政権下においては北条時政はあまり目立たなくなる。
  源頼朝は有力御家人の起用するようになったので、
  有力御家人が台頭してきた。
 
・治承5年(1181)


・寿永元年(1182)亀の前事件
源頼朝は4人目の女性:愛妾:『亀の前』を伏見広綱の宅に
 置いて寵愛していた。
 
 北条政子は源頼家を出産した。
 直後、北条時政の妻(継母)牧の方から:「浮気中・・。」
  知らされた。北条政子は激怒した。

 11月10日 牧の方の父:大岡庄:牧宗親に命じて伏見広綱宅
  を破壊した。

11月12日 源頼朝は牧宗親を鎌倉に呼び出した。
  源頼朝は牧宗親の髻を切って辱めた。

  北条時政は舅:牧宗親への仕打ちに怒り、北条一族を率いて
  鎌倉から伊豆へ立ち退いた。

・寿永2年(1183)
『吾妻鏡』が欠文のため不明。

・元暦元年(1184)
 3月 北条時政は土佐に書状を出した。
 ※ほとんど表舞台に出てこなくなった。

 
 甲斐源氏主流の武田信義が失脚した。
 ※武田信義後の駿河東の守護は北条時政と見られている。
 ①妻牧の方の父:牧宗親の所領:大岡牧(沼津)があった。
 ②娘婿:阿野全成の阿野荘もあった。
  縁戚の所領を足掛かりに駿河東への進出を図っていたと
  考えられる。


・文治元年(1185)
3月 平氏滅亡。
   5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結した。

 10月 源義経・行家の頼朝に対する謀叛が露顕した。
   (★『玉葉』10月13日条)。
 
10月18日 後白河院は源義経の要請により源頼朝の追討
   宣旨を下した。
   ~~~苦しい状況に追い込まれた。

11月24日 北条時政は源頼朝の命を受け、1000騎の兵を
率いて入京した。
  北条時政は源頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。

11月28日 文治の勅許
  北条時政は吉田経房を通じて、源義経らの
  追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせること
  に成功した。

 
 ●北条時政の任務
  ①京都の治安維持
  ②平氏残党の捜索
  ③源義経の問題の処遇
  ④朝廷との政治折衝
  ・・・職務は京都守護と呼ばれるようになった。
  
  「北条時政は事において賢直、貴賎の美談するところなり」
  (★『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、
  「公平を思い私を忘るるが故なり」
  (★『吾妻鏡』文治2年3月24日条)
   と概ね好評だった。

  北条時政は源義経失脚後の混乱を収拾し、鎌倉幕府の畿内
  7ヶ国での軍事体制を再構築した。



・文治2年(1186)
3月1日 北条時政は「七ヶ国地頭」を辞任した。
   
 3月下旬 甥:北条時定以下35名を洛中警衛に残して京
   を離れ、鎌倉に戻った。
   京都守護には一条能保が就任した。
 ※北条時政の在任期間は4月間と短かかったが、
  重要な役割を果たした。

4月 北条時政は鎌倉に帰還した
   北条時政は表立った活動はしなくなった。

   願成就院を建立開始した。
★治承4年(1180)の源頼朝の挙兵を相談した
大日堂の跡地であった。
   運慶に阿弥陀如来(国宝)など諸仏を
造らせた。
 (★木像内の銘文)
  本拠地:伊豆の掌握に力を入れていた。

・文治3年(1187)

・文治4年(1188)

・文治5年(1189)
6月6日 願成就院を建立
   奥州藤原氏&源義経への追討悲願=戦勝祈願のため
   北条(伊豆の国市北条)の地に造らせた。



・建久3年(1192) 鎌倉幕府
「1192 造ろう 鎌倉幕府 」
後白河院の崩御

・建久4年(1193) 上野→下野→駿東の富士の巻狩り
3月 源頼朝は上野国&信濃国御家人を招集して
     上野国の三原野で巻狩りをした。

★源頼朝の意図 
 ①『コ』の字に鹿やウサギを追い込むことから軍事演習
   であった。・・実質的には、各武将の組織力を見る
ねらいがあったと勝手に想像してしている。
②坂東周辺地域に対する権威の示威行動であった。
鎌倉→鎌倉上道=河越&畠山への威圧→上野国:
山名=山名義範・寺尾=新田義重&八幡&里見=里見
義成への従臣の確認・安中板鼻の安達盛長の支配の状況
確認→新田一族の道案内・・・三原野(現群馬県長野原
仮猪付近)で、滋野一族系の海野・禰津・望月・・・
禰津家は鷹狩の当代随一の家系であった。
※木曽義仲の従兄弟依田(上田市)・井上源氏(中野市)
は木曽義仲についたので不明。・・・

源頼朝は草津温泉に入りに行ったとか?
「頼朝の湯」

吾妻→・・吾妻川・・利根川・・東山道・・・

 続いて下野国の御家人を招集して下野国那須野で
   大規模な巻狩りを催した。

宇都宮一族の家臣確認・・・那須家の服従度の観察

有力御家人:小山政光の接待・・・

・・鎌倉中道・・・
足立遠元の接待・
  江戸重長の接待・・・

鎌倉・・・相模・伊豆の視察・・・

富士の巻き狩り・・・



5月~富士で巻狩り(★現沼津市~富士宮市)
  駿河守護:北条時政が狩場や宿所を設営した。

奥州合戦以来となる大規模な動員である。
 5月28日 曾我兄弟の仇討
夜、雷雨の中、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父の仇:
  工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件が勃発する。
  混乱の中で多くの武士が殺傷された。
  兄:曾我祐成は仁田忠常に討たれた。
  弟:曾我時致は源頼朝の宿所に突進しようとして生け捕
  られた。
  曽我時致の烏帽子親が北条時政であった。

  伊豆の有力者:曾我祐経の横死は北条時政に有利に働い
  た。

・建久5年(1194)
8月 遠江国:安田義定(武田信義弟)が反逆の疑いで
    処刑された。
   安田義定後の遠江守護は北条時政がなった。
   

  11月1日、伊豆国一宮:三島神社の神事経営を沙汰した。
 
・正治元年(1199) 源頼朝が死去。
  13人の合議制に名を連ねた。
   幕府の有力者として議長になった。

  嫡子:源頼家が2代将軍となった。
 

12月 梶原景時の変
  源頼朝在世中の侍所別当:梶原景時抑えられていた有力
  御家人など1000人の不満が噴出した。
  
 北条時政は弾劾の連判状に署名をしていないが、
 梶原景時の糾弾のきっかけとなったのは北条時政の娘:
 阿波局(阿野全成の妻)であった。
 梶原景時は駿河国清見関について、いちゃもんをつけたこと
 から始まった。つまり、北条時政の勢力範囲であった。

  侍所別当・梶原景時が弾劾を受けて失脚した。
  梶原景時が鎌倉から追放された。
  ※山中湖に銅像がある

  
・正治2年(1200)
4月1日 北条時政は遠江守に任じられた。
  源氏一門以外で御家人として初の国司となった。
  北条伊豆・駿河・遠江3ヶ国を支配することに
なった。
  北条時政の幕閣で地位は大いに向上した。

  
  鎌倉幕府内の対立 
  源頼朝の妻:北条政子の父・・
  源頼家の乳母父:舅:比企能員(比企尼の養子)

  北条時政 VS 比企能員 



・建仁3年(1203)比企能員の変
9月2日 北条時政は比企能員を自宅に呼び出して謀殺した。
   源頼家の将軍の位を廃して伊豆国修善寺へ追放した。

   北条時政は頼家の弟:実朝を3代将軍に
   擁立した。
   自宅の名越亭に迎えて実権を握った。



~~~◆◆ 初代:執権『北条時政』 ◆◆~~~~~~~~~~~

 9月16日 12歳の源実朝に代わって北条時政が
    単独で署名する「関東下知状」が発給された
    (★『鎌倉遺文』)
    御家人たちの所領安堵などの政務を行った。

 10月9日 北条時政は大江広元と政所別当に就任した。
  ※北条時政は3代将軍:実朝や大江広元の権限を抑えて
   幕府における専制政治を確立した。北条時政が初代
   「執権」に就いたのである。
  北条時政は三浦や畠山と並ぶ軍事力を持ったので
  ある。

  同日、北条時政と3番目の妻:牧の方との間に生まれた
  長女の婿:平賀朝雅が京都守護の職務のため鎌倉を離れ
  た。
  武蔵国の国務は北条時政が代行することになった。
  
  侍所別当:和田義盛により武蔵国御家人に対し、
  北条時政に忠誠を尽くす旨が命じられた。
   (★『吾妻鏡』建仁3年10月27日条)

・元久元年(1204)
3月6日 北条時政の嫡男:義時が相模守に任じられた。
  北条時政&義時は父子で幕府の枢要国である武蔵・相模
  の国務を掌握した。

  北条時政 VS 畠山重忠
  畠山重忠は武蔵国留守所惣検校職として国内武士団を統率
  していた。
  畠山重忠は北条時政の4番目の妻の娘婿であった。


・元久2年(1205) 畠山重忠の乱
6月 北条時政は娘婿である平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を
    受けて、畠山重忠を謀反の罪で滅した。

 閏7月 牧の方事件
  北条時政は牧の方と共謀して3代将軍:実朝を公暁を唆して
 殺害しようとし、拉致した。
 北条時政は平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした。

 閏7月19日 北条政子&義時は結城朝光や三浦義村、長沼
  宗政らを遣わして、北条時政邸にいた源実朝を北条義
  時邸に迎え入れた。
  北条時政側についていた御家人の大半も北条義時に
  味方したため、陰謀は完全に失敗した。
  
  北条時政は出家した。

閏7月20日
北条時政は鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させ
  られた。
  以後、北条時政は表舞台に立つことなかった。

・建保3年(1215)
1月6日 北条時政は腫物のため、伊豆国の北条で死去した。
      享年78歳。


妻①:伊東入道の娘
男子:北条宗時(?~1180)
女子:阿波局(?~1227)・・・阿野全成(源頼朝の弟)の妻
男子:北条義時(1163~1224)

妻②:足立遠元の娘
女子:稲毛重成の妻(子は綾小路師季の妻)
男子:北条時房(1175~1240)

妻③:大岡庄:牧宗親の娘:牧の方
女子:平賀朝雅の妻→源国通の妻
女子:滋野井実宣の妻(?~1216)
女子:宇都宮頼綱の妻
男子:北条政範(1189~1204)

妻④・生母不明
女子:政子(1157~1225)・・源頼朝の妻
女子:時子(?~1196)・・・・足利義兼の妻
女子:畠山重忠の妻(子:畠山重保)→足利義純の妻
女子:坊門忠清の妻
女子:河野通信の妻
女子:大岡時親の妻







★明日は北条泰時かな?

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