箕輪初心▲源頼朝【武闘派:天野遠景】:狩野茂光の娘婿?

天野遠景は藤原南家工藤氏の一族である。伊豆国田方郡天野(伊豆の国
市長岡隣天野)に住して、地名を取って天野氏と称した。天野遠景は、
工藤狩野茂光の娘を妻にしている説。狩野一族の遠縁にあたる系図もあ
るので家系は明らかでない。源頼朝の挙兵以来の数々の武勲によって九
州惣追捕使に任命され、平家残存勢力の掃討と九州の治安維持に功績を
挙げた。しかし、強引な手法による失敗で、10年後には解任されて鎌倉に
戻った。加藤景廉とともに殺人に優れた武闘派の御家人である。
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箕輪初心▲源頼朝21【狩野茂光】&伊豆【狩野日向館】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_9.html

箕輪初心★源頼朝25【武闘派:加藤景廉①】:狩野茂光の甥
http://53922401.at.webry.info/201502/article_10.html

箕輪初心★源頼朝25【武闘派:加藤景廉②】&伊豆の墓
http://53922401.at.webry.info/201502/article_11.html

箕輪初心▲源頼朝26【田代冠者信綱】:狩野茂光外孫&伊豆の田代砦
http://53922401.at.webry.info/201502/article_12.html









【1】天野遠景の館・・・★どこか知らないが。
★中島食堂付近か?東昌寺隣のホテル?
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・このホテルかな?
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【2】天野遠景の菩提寺:東昌寺前
 伊豆長岡温泉の最明寺前のセブンイレブンから南に200m・・・
 天明山東昌寺。
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 東昌寺には遠景と嫡男政景・弟の光家の位牌と共に遠景が彫った
 毘沙門天像や馬の木彫が残っているそうである。
 天野遠景が「薬師の段」に密教の智源法師を迎えて建立した薬師堂が
 東昌寺の前身であるそうである。
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 西国で流れ矢を受けて負傷した時に出会った僧から聖徳太子が刻んだ
 という薬師如来像を贈られそれを本尊としたと伝わっているそうである。
 
 


【3】天野遠景の墓・・静岡県伊豆の国市天野:東昌寺
 伊豆長岡温泉の温泉街南のセブンイレブンから
 右手200mに東昌寺、さらに南に500m・・・
 東昌寺小道から「薬師の段」の小山(山裾の人家の裏手)を見えた。

 伊豆長岡の「薬師の段」への入り口。
  駐車スペースが人家の前だった。 
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・案内板
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 石段を登って「薬師の段」へ。
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 10m四方ほどの平場に墓所が設けられ三基の宝篋印塔が
 祀られている。
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 中央が天野遠景、左が嫡男:天野政景、右が弟:天野光家の
 宝篋印塔が並んでいる。
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◆◆ 天野遠景の生涯 ◆◆
藤原南家工藤氏→天野氏

①父母
父:藤原景光
母:??

②兄弟・・天野遠景、天野光家

③妻・・・狩野茂光の娘

④子・・・天野政景
天野遠景は伊豆国田方郡天野に住して地名を取って天野氏と称した。

・平安末期
天野遠景は平家の家人で在った。

・仁安2年(1167) 源頼朝の伊豆流罪
  伊東祐親の下で幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて
  交流を持ち、親交を深めた。
  そのため、源頼朝の挙兵当初から付き従うこととなる。

・治承元年(1177) 頃? 29歳
源頼朝は韮山の北条館に行った。
★おそらくは北条時政から
「狩野川の中洲にある蛭ヶ島に行ってね。」
と言われたのであろう。
●北条館=北条時政の館=伝:堀越公方館
幽閉生活を送っていた源頼朝や安達盛長と狩や相撲を通じて交流を
 持ち親交を深めていた。
天野遠景・息子:政景&弟:光景とともに参戦する
天野郷が源頼朝の配流先:蛭ヶ小島に近かった。
※伊豆長岡の守山の南は天野で、北が北条時政館である。
 蛭ヶ小島まで車で3~4分しかない。


・治承2年(1178)頃 30歳

~~~北条政子との出会い~~~~~~~
※北条時政の娘
①長女:北条政子21歳・・・一番美人
②次女:19歳・・・・やや不器量。源頼朝は恋文を書いた。
③3女:17歳・・・・やや不器量。
〇長男:北条泰時=江間小四郎


●「蛭ヶ小島公園」の源頼朝&政子夫妻の像



源頼朝は北条時政の長女:政子と婚姻関係を結び、
長女:大姫をもうけた。

・治承3年(1179) 治承3年の政変
知行国主の変更により、坂東各地では新知行国主に近い存在となった
平氏家人や平氏方目代により旧知行国主系の豪族達が圧迫されて
いった。
 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・治承4年(1180)

4月 後白河法皇の子:以仁王の令旨
後白河法皇の皇子:以仁王が平氏追討を命ずる令旨を
   諸国の源氏に発した。

4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

5月10日 下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
伊豆国は平時忠の知行国になった。
※平時忠(????~1189)
「平家にあらずんば人にあらず」
 と言った平清盛の義理の弟にあたる人物である。
①平清盛の妻:時子は平時忠の妹である。
②後白河法皇の后の建春門院滋子は平時忠の妹であった。

 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。
山木(平)兼隆が目代になった。

 伊豆国では目代:山木(平)兼隆は急速に伊豆で勢力を振る
うようになっていった。
 また、目代であるが故、旧知行国主系の工藤系狩野茂光や
 北条時政から反感を持たれた。
また、山木兼隆は源頼朝の監視も命じられていた。


6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。



6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
  胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 

 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
①反対派
 山内首藤経俊は
 「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
 鼠が猫をとるようなものだ」
 と嘲笑した。
②迷った派
波多野義常は返答を渋った。
③賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。この一族も同心となった。


8月2日 大庭景親が本領:藤沢に下向した。
  源頼政の孫:源有綱が伊豆国にいた。
   大庭景親が源有綱追捕を平清盛から命を受けていた
  のだ。
  源頼朝らの緊張が高まった。

  
●源頼朝は挙兵に対して、慎重に行動した。
①期日
 源頼朝は8月17日早朝をもって挙兵することを決めた。
  8月17日は三嶋大社の祭の夜であったからである。
②ターゲット
 まず手始めに伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。
 源頼朝は最初の標的を伊豆国目代・山木兼隆と定めた。
そして、後見人:堤信遠と決めた。

8月4日~
③周辺見取り図&屋敷の見取り図
 源頼朝は藤原邦通に命じて地図を書かせた。
 ※藤原邦通は元大和判官であったが、伊豆に
 流され、源頼朝の祐筆(代筆人)になっていった。

 藤原邦通は和歌の歌会に山木兼隆から呼ばれて
 数日間滞在した。
 藤原邦通は館の内部や建物の見取り図・
 周囲の地形を絵地図に書いた。
★「尾根の張り出した一部を削って、屋敷を設け
入口は中世の虎口風になっていること。・・」
200m奥は香山寺で、ここも要害になっている。」
★これは私の創作である。・・・

8月6日~
④安達盛長から知らせを受けて、味方に付いてくれそうな
 相模や伊豆の豪族たちに連絡しておいた。
中伊豆・・工藤系狩野茂光、加藤景廉(かとう かげかど)・天野遠景
仁田忠常:肥田??
東伊豆・・土肥実平・宇佐美祐茂    
相模・・・岡崎義実、
     渋谷重国宅居候:佐々木盛綱
の中から・・・

一人一人を招いて個人面接し、計画を打ち明けた。
「まだ、誰にも話していないのだが、そなたを頼りに思う故、
 打ち明けるのじゃ。わしは葉月17日に挙兵する。
 山木兼隆を討とうと思うが、いかがじゃ?」
★源頼朝は裏切りを恐れ、そして、真の忠義の武士として
 確かめながら、確実な家臣を得ていった。

⑤藤原邦通は源頼朝のもとへ持ち帰りった。
 源頼朝は信頼できる北条時政を招いて相談した。
③襲撃コース
山木(平)兼隆の館は、北条館から真東300m程の所にある。
   蛭ヶ小島~江川館経由で5km程の所にある。
蛭ヶ小島からなら、2km程の場所にある。
山木(平)兼隆の開山の香山寺はさらに200m程先にある。
山木兼隆の館は現江川館東300mの要害の地にある。
 蛭ヶ小島~江川館経由では馬が通るのが大変な場所であった。

8月11日
 源頼朝は岡崎義実と息子:佐那田与一義忠に 
「土肥実平と一緒に参上せよ。」
 と、命じた。

8月16日  決行の前日の夜。
佐々木定綱・経高・盛綱・高綱
佐々木四兄弟の到着が遅れていた。
「佐々木兄弟はまだか?」
 雨が降りしきる中、源頼朝は焦りを感じながら
 北条館?蛭ヶ小島館で待っていた。

 もしや佐々木兄弟が裏切ったのではないだろうか?
渋谷重国に諭されたかな・・・
 9日には、大庭景親が渋谷重国邸の佐々木秀義を
 訪ねて、警告を発しているしな~~~?
挙兵が発覚したのだろうか?
しかし、最も頼りにしている近江源氏:佐々木秀義の
 息子達である。絶対に裏切るわけがない。・・・。

 源頼朝は疑心暗鬼心になっていった。



8月17日 


8月19日
 襲撃隊は暁に帰還した。

 早朝、源頼朝は山木兼隆と
 郎党たちの首を庭にならべさせた。
 源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。
 集まった伊豆・相模の武士たち40騎余り。


 源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚
 での非法を停止させる命令を発給した。
 (★『吾妻鏡』)

 ※源頼朝は山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。


※目代:山木兼隆を倒しても源頼朝の兵力のみで伊豆1国を
  掌握するにはほど遠かった。
  平家方の攻撃は時間の問題であった。



8月20日「源頼朝挙兵・・・相模へ出発」
三浦義明の一族をはじめ、源頼朝の挙兵に同意する意志を示している
武士たちが遅参していた。
源頼朝はまず伊豆・相模両国の御家人だけを率いて伊豆国を出発
相模国土肥郷に向けて出発した。
①源頼朝の郎党・・・安達盛長、小中太光家
②伊豆の武士・・・・
  平氏系北条一族4:北条時政、北条宗時、北条義時、北条時定、
  藤原流工藤系:工藤狩野茂光&工藤親光父子
加藤景員(狩野茂光の妹婿)&加藤光員、加藤景廉父子
  宇佐美政光(助茂?)&実政(狩野の甥?)
  天野遠景&天野光家兄弟&嫡子:天野政景
  新田(仁田)忠常
 藤原系父:加藤景員(狩野妹婿)&子:光景&景廉兄弟
  堀親家&助政父子
 大見家秀
  近藤七国平
  平佐古為重
  奈古谷頼時
 沢宗家
  義勝房成尋
 中惟重&惟平
 鎌田俊長(新藤俊長)

③近江源氏・・佐々木一族4兄弟
  佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱、
④相模の武士・・
  中村景平&盛平父子(土肥の同族)
  土肥実平一族5:土肥実平、土肥遠平、土屋宗遠、土屋義清、
   土屋忠光、
  岡崎義実&岡崎義忠(佐奈田与一義忠) 
⑤駿河の武士・・・鮫島宗家・七郎宣親父子
⑥敵将の兄・・・大庭景親、豊田景俊、
源頼朝の命を受ければ家も親も忘れて戦う覚悟という・・・。
★つまり、源頼朝の挙兵の従った相模の武士団のほとんどは
 父:源義朝時代から関係のあった者達であった。

●天野遠景&息子:天野政景、弟:天野光家とともに参戦した
韮山から相模国土肥郷(現湯河原)に進軍する頼朝軍勢の中に
いた。
(★①吾妻鏡の初見は治承4年8月20日)


三浦軍との合流前・・・

これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、
海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向かった。
 
8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い   
 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
 そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。

源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎+伊東300騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
   山内首藤経俊・
   伊東祐親(狩野茂光弟)300ら・・・


 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
  そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。

 源頼朝の挙兵を知った大将大庭景親を先頭に、熊谷直実など
 3000余騎が各地から駆けつけた。
 大庭景親軍は谷ひとつ隔てて石橋山の麓に陣を構えた。布
 伊豆国の伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで
 進出して、源頼朝の背後を塞いだ。

 夜、雨が激しく降りだした。
 三浦義澄軍250騎が遅参した。

大庭景親は、源頼朝と三浦軍が合流するのを恐れ、夜討ちを
決行した。
源頼朝軍が衆寡敵せず、分散して、退却することにした。
 頼朝主従5人は、やっと朽木の洞に身を潜めることができた。
 

  この日は大雨となった。
  三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされた。
 源頼朝軍への合流ができなかった。

 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
    山内首藤経俊・伊東祐親ら・・・
  
源頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子:
  佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
  ・・源頼朝は大敗北した。
  (★『平家物語』、『源平盛衰記』)
  
が、敗北を喫して天野遠景は敗走した。

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大庭軍は勢いに乗って追撃し、源頼朝に心を寄せる大庭軍の
  飯田家義の手引きによって辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。
 
  源頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。

  源頼朝は数日間の山中逃亡・・・死を逃れた。

8月24日 大庭軍は追撃の手を緩めなかった。
  頼朝軍の残党は山中で逃げ回って激しく抵抗した。
  源頼朝も弓矢をもって戦った。
  源頼朝軍の武士達はおいおい頼朝の元に集まった。
  土肥実平は
  「人数が多くてはとても逃れられない。源頼朝一人ならば
   命をかけて隠し通すので、皆はここで別れよう。」
   と雪辱の機会を期すよう進言した。
   皆これに従って涙を流して別れた。
 

  北条時政と2男:義時は甲斐国武田に向かった。
  しかし、嫡男:北条宗時は別路を向かった。

  函南の大竹
   伊東祐親の軍勢に囲まれて、北条宗時・狩野茂光が
  討ち死にした。
  外孫:田代信綱が狩野茂光は肥満のため、自分を殺してくれ
  と頼んだ説もある。

8月24日 箱根山中
天野遠景は伊豆国内で平氏方と交戦したとみられる。

8月25日 箱根山中
 源頼朝が覚淵の援助を受けて筥根山=箱根山に入った際に、行実
 ・永実の房に匿われた。行実の弟:智蔵房良暹は源頼朝に滅ぼさ
  れた伊豆目代平兼隆の祈祷師だった。頼朝襲撃を企んでいた。
  これを知った永実は兄:行実と源頼朝に
 「良暹にそれ程の力はないが大庭景親に連絡すれば危険です。
  取り敢えず筥根から逃げる方が良いと思います。」
 と忠告した。
 源頼朝と土肥実平と永實らは地理に詳しい者の案内で土肥郷に
 下った。
. (★「吾妻鏡」) 


8月26日 箱根山中

8月27日


9月??日 源頼朝が鎌倉に入った。
  天野遠景は源頼朝と合流できた。

10月16日 源頼朝は鎌倉を発した。
  源頼朝の軍勢は20万騎にのぼったという。
(★ 『吾妻鏡』)

10月17日 武田信義は平維盛に挑戦状を送りつけた。
  平維盛の追討軍の目的は源頼朝ではなく、甲斐源氏であった
   という見方もできる。

 
10月18日 甲斐源氏の軍勢2万余騎は黄瀬川沿いに陣する
  源頼朝の軍と合流した。
  加藤光員と加藤景廉は再び源頼朝のもへと参じて側近と
 して仕えた。
  源頼朝は10月24日に矢合わせとすると決めた。

10月18日 大庭景親は1000騎を率いて駿河の平維盛の軍
  に合流しようとするが、源頼朝&甲斐源氏に行く手を
 阻まれ、相模国に留まった。後軍を解散し逃亡した。
 大庭景親は後に源頼朝に降参するが許されず、斬られた。

10月19日 伊豆から船を出して平ら維盛と合流しようと図った
  伊東祐親・祐清父子が捕らえられた。
駿河の平家軍に合流するため伊豆国鯉名(現在の小稲)から
  船出しようとした伊藤祐親を捕えて連行した。
 (★②吾妻鏡)
●下田市小稲・・

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箕輪初心▼神子元ダイビング=ハンマーヘッドに遭える怖い場所
http://53922401.at.webry.info/201308/article_7.html

2014伊豆ダイビング③神子元5回目
http://53922401.at.webry.info/201407/article_26.html

▼▼ 箕輪初心◆神子元ダイビング:ハンマーヘッド ▼▼
http://53922401.at.webry.info/201308/article_7.html
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10月20日 富士川の戦い
  源頼朝+武田信義ら VS 京 平維盛軍
 源頼朝は平氏勢を撃破した。


  甲斐源氏の兵は富士川の左岸に進んだ。
  頼朝は駿河国賀島に進んだ。
(★『吾妻鏡』)
  
   平家方は右岸に布陣した。
   平家方は兵糧の欠乏により士気は低下し、戦える状態では
   なかった。
   平家方は4000余騎でかなり劣勢であった。
   さらに脱走者が相次いででて2000騎ほどに減ってしまう
   有様だった。
   (★『吾妻鏡』)

  ●逸話「斉藤実盛の坂東武者は強い。」・・・平維盛がびびった。
(★平家物語)

  両軍が対峙した夜、平氏軍は突如撤退した。
  
 ●逸話「水鳥エピソード」
  その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の
  浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大
  群が一斉に飛び立った。
  「その羽音はひとえに軍勢の如く」
  驚いた平家方は大混乱に陥った。
  (★『吾妻鏡』)
 「兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬
  にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る
  者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰された。」
(★『平家物語』)
  総大将:平維盛は撤退をした。平家方は総崩れになって逃げ
  出した。
  遠江国まで退却するが、全軍散り散りになり、平維盛が京へ
  逃げ戻った時にはわずか10騎になっていた。
 大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結した。

源頼朝は
「一気に京へ攻め入ろう。」
と拳を上げて叫んだ。
「上洛していっきに平家を討て。」
と命じた。

しかし千葉介常胤、三浦義澄、上総介広常らはこれに反対した。
まだ源氏に服属しない常陸の佐竹義政・秀義らが背後にいた。
「東国を固めることが先決です。」
と主張した?と諫めた?

源頼朝はこれに従わざるをえなかった。
上総介広常のみが言ったという説もある。・・
「京をせめるより、関東を制圧する方が先です。」

源頼朝は佐竹、志田を攻撃することにした。そした、引き返した。



10月21日 源義経が平泉から駆けつけてきて、兄源頼朝と
  劇的な再会をした。


源頼朝と源義経が対面したのは頼朝勢が鎌倉から足柄・箱根を越え
黄瀬川に向かう途上の大庭野(神奈川県藤沢市大庭)となっている。
  (★『平治物語』)

※この後、佐竹秀義、志田義広、足利忠綱などの源頼朝に従わぬ豪
 族達との対立を制して、源頼朝は坂東での覇権を徐々に確立して
 いくことになる。新田義重は12月に味方になった。
 


・寿永3年(1183)
3月頼朝と義仲は武力衝突寸前となった。
天野遠景は信濃国を中心に勢力を拡大する木曾義仲への使者を務め、
  木曾義仲の嫡子:義高を人質とすることに成功した。

  木曾義仲が11歳の嫡子:義高を人質として鎌倉へ差し出すことで、
  両者の和議が成立した。

  木曾義高は信濃の名族:滋野氏系:海野幸氏や望月重隆らを伴い、
  頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った
  (※源義高と大姫は又従兄妹にあたる)。

 7月 木曾義仲は平氏を破って入京する。
鎌倉の源頼朝が平家追討の準備をして居る頃、~~~~~~~~
京では木曾義仲が源頼朝に先んじて平家を都から追い落として上洛を
してしまった。



12月20日 上総権の介広常を謀反を企んだ罪で誅殺。
 双六を楽しんでいた上総広常を梶原景時と天野遠景が殺したものである。
 息子:能常は自害した。


・元暦元年(1184)6月16日、
源頼朝の命を受け、甲斐源氏の一条忠頼を謀殺した。
  甲斐源氏武田信義の嫡子:一条忠頼を鎌倉の酒宴で謀殺。
  駿河での勢力拡大を恐れた源頼朝の命令による。
 
 『源頼朝は「一条忠頼には威勢を振りかざして勝手な振る舞いが多い。」
 と考え、御所で殺害した。夕刻に忠頼を招いて対座し御家人の列する中
 で酒宴を行った。討手役の工藤祐経が銚子を持って進み出たが、相手は
 名だたる武将なので躊躇して顔色が変った。それを見た小山田有重が
 「酌などは老人の役目。」
 と言って座を立ち、工藤祐経から銚子を受け取った。
 子息の稲毛重成と榛谷重朝が肴を持って忠頼の前に進み出た。
 小山田有重は
 「膳を勧めるには故実に従ってこのように。」 
 と子息に教えて袴の裾を括った時に、天野遠景が一条忠頼の左から近
 寄って刺し殺した。
 源頼朝は背後の障子から奥に入った。
 庭に控えていた一条忠頼の供侍は太刀を抜いて駆け上がり多勢に傷を
 負わせたが討ち取られた。
 従者の一人:山村小太郎は天野遠景を狙ったが俎板を投げつけて昏倒
 させ、郎従が首を獲った。』 
 (★③「吾妻鏡」一条忠頼の暗殺)


8月源範頼の平氏追討軍に従い周防国から豊後国へ渡る。
平家追討軍では、遠景(とおかげ)は頼朝の代官・源範頼に従い
 西国を攻め進み周防国から九州・豊後国へ渡る。

 


・文治元年(1185)3月11日
平家滅亡後、平家追討に大功ありと認められた。
 天野遠景は、12人の内の一人として源頼朝より感状を受けた。
 

・鎌倉幕府成立
  ①天野遠景は追放された源義経の探索に従事した。
  
 ②天野遠景は鎮西に於ける鎌倉幕府勢力の確立を目的に創設された
   九州惣追捕使に補任された。
   大宰府の機構に関与して実権を握った。


 肥前国での豪族の狼藉の停止・・・・
 宇都宮信房と鬼界ヶ島の平氏残党を討伐・・・
 
 天野遠景は九州大宰府で10年近くの長きに渡って活躍した。
 しかし、天野遠景は鎮西御家人らの協力は得られなかった。
 また。天野遠景の鎮西での寺社や荘園領側の抵抗も激しく続いた。


・建久5年(1194) 頃 天野遠景は奉行職を解任された。
  天野遠景は鎌倉へ帰還した。


・建久10年(1199) 正月 源頼朝が死去。
   天野遠景は出家して蓮景と号した。

・正治2年(1200) 梶原景時の乱
加藤景廉と親しかった梶原景時が滅ぼされた。
  加藤景廉は連座して失脚した。


・建仁3年(1203) 比企能員の変  
8月 源頼家が重病に陥った。
8月27日 北条時政は「一幡と源頼家の弟:源実朝に
  源頼家の遺領分与を決定した。
  関東28ヶ国地頭職と総守護職を一幡に譲る。
  関西38ヶ国地頭職を源実朝に相続する。
 と、いうものだった。
 
  比企能員は、分与に不満を持った。
 源頼家に源実朝擁立を計る北条時政の謀反を訴えた。

 源頼家は北条時政追討を比企能員に命じた。
 
 しかし、密議を障子の影で立ち聞きしていた北条政子が
 父:北条時政に告げた。
 北条時政は大江広元の支持を取り付けた。
 
9月2日 
※北条時政は日頃から信心している薬師如来像供養の名目で
 比企能員を自邸に招いた。
 (北条時政は仏事の相談があるとして比企能員を
 北条時政の名越邸に呼び出した。)
※比企能員の家人は怪しんで武装した兵を伴うよう進言したが
 比企能員は
 「疑念を招いたり世間を騒がせたりするから。」
 と言って受け付けなかった。
 (密議が漏れている事を知らない比企能員は平服のまま
 北条時政の館に向かった。)
 ※一方の時政は甲冑を着けた弓の名手2人を門に立たせ、更に
 腹巻を着けた天野遠景と仁田忠常を西南の板戸の陰に待機させた。
 やがて平服の能員が郎党2人と雑色5人を従えて到着した。
(比企能員は門を通って館に入った。)
 ※廊下から北側の座敷に向った。
(玄関を通って北の客間に向う所を襖の陰に隠れていた加藤
  景廉と仁田忠常が?)
天野遠景と仁田忠常が飛び掛って、比企能員の両腕を掴んで
  押え付け、庭の竹薮に引きずり込んで刺し殺した。
  左右の腕を捉え、横の竹薮に引き据えて天野遠景が刺し殺した。

 北条時政は縁先に出てこれを眺めた。
  (★④「吾妻鏡」) 
 

 比企一族は、比企能員の謀殺の知らせを聞いた。
 一幡のいる小御所に立てこもって防戦した。
 大軍に攻められ、小御所に火を放ち一幡とともに自害した。
 比企能員の嫡男:余一兵衛尉は女装して逃れようとしたが、
 道端で捕らえられ殺害された。比企一族は悉く殺害された。
(★『吾妻鏡』)

 源頼家は病が重くなったので出家し、家督を一幡に譲ろう
 とした。一幡を擁する比企能員の世になるのを恐れた。
 北条時政が比企能員を呼び出して殺害し、源頼家を
 大江広元の館に移して一幡を殺そうと刺客を差し向けた。
 一幡は母が抱いてかろうじて逃げ出したが、残る比企
 一族はみな討たれた。
 その後、一幡も北条義時の郎党に刺し殺された。
(★『愚管抄』)
    

9月?日
  源頼家が病気から回復すると
源頼家は、妻子と共に外戚:比企能員が北条時政によって殺された
  されたことを知った。源頼家は激怒した。
 
  
  源頼家は北条時政の追討の命令(御教書)を発した。
  御教書は仁田忠常の元にも届いた。
  源頼家からの信任も厚かったことが逆に災いした。
  仁田忠常は源頼家の命令に従うべきか、北条時政に
  就くべきか悩んだ。・・
仁田忠常は源頼家から北条討伐を命ぜられ、板挟みとなった。


9月6日   
  北条時政は比企能員追討の恩賞を与えるため、仁田忠常を名越邸
 に呼んだ。
 仁田忠常が夕刻に入ったまま夜になっても出て来なかった。
 仁田の舎人が不審に思い馬を引いて屋敷に戻り、弟の五郎と六郎に
 報告した。
 比企能員を殺した恩賞のために、北条時政の名越邸に入った仁田忠常
 の退出が遅いため怪しんだ郎党が屋敷に戻ってそれを報告した。
(★吾妻鏡)

 弟:仁田五郎と仁田六郎の2人は比企能員追討の前に将軍:頼家が
 北条時政追討を命じたのが漏れ疑われて罪に問われたと勘違いし
 たのだ。
 弟:仁田五郎忠正と仁田六郎忠時の2人は北条義時邸に駆け付け戦
 って討ち取られた。
 仁田忠常は北条時政の名越邸を出て、帰宅の途中で事件を知った。
 「こうなっては命を捨てるしかない。」
 と御所に参上し加藤景廉に討ち取られた。
★比企能員謀殺の4日後、些細な行き違いから加藤景廉に殺された。
 或いは北条時政の謀略か?


・承元元年(1207年)6月2日 治承4年以来の勲功11ヶ条を挙げて
 恩賞を望んだ。



・承久3年(1221) 承久の乱
嫡男::天野政景(母は狩野茂光の娘)は承久の乱の功績によって
 武蔵・上野・遠江 ・美濃など各地に所領を得た。
上野の桃井郷(★榛東村)


・晩年・・・・伊豆に引退した天野遠景は不遇であったらしい。
 伊豆天野に真言密教の智源法師を迎えて薬師堂を建て、共に
  修羅場を生き抜いた持仏の薬師如来像を祀って読経しつつ
  余生を送ったという。


・????年 死亡。 時期は不明
  天野遠景の墓・・・伊豆長岡近くの東昌寺にある。





~~~天野遠景の「子孫」~~~~~~~~~~~~~~
【1】天野遠景の子孫が新田義貞の鎌倉攻めに加わり極楽寺坂で戦った。
・元弘3年(1333) 5月18日 天野経顕と天野経政は稲村ヶ崎の敵陣
  を突破して稲瀬川前浜の鳥居脇で合戦となった。
  若党の犬居左衛門五郎茂宗・小河彦七安重・中間孫五郎・藤次ら
  が討死した。
 (★「天野経顕軍忠状」) 

【2】興国寺城主:天野泰景 
  天野遠景の子孫:天野康景は徳川家康に仕えて駿河興国寺城主と
  して大名となった。しかし、家臣が盗みを働いた天領の民を殺し
  た事件が原因で駿河の代官:井出正次とトラブルになり、最後に
  は家臣を庇って大名の身分を棄てた。


【3】毛利の一家:吉川氏も同族である。
・平安時代
   藤原南家工藤流の流れを汲む。伊豆&駿河にいる。
・伊豆には工藤・伊東・河津・宇佐美・仁田・天野などがいる
 藤原為憲→藤原時理→維永:宮藤太夫→藤原維景→藤原維職
 →狩野維次→鹿野祐隆・・・
 狩野氏茂光・宇佐美祐次・伊東祐家となるようだ。
 
●駿河
 ※藤原清定の子ども 
長男:大田家清
次男:鎌原清実
3男:入江景澄→天野景光→天野遠景→天野政景
4男:景兼→船越遠兼
吉川景義
    入江景義の子:経義が駿河入江荘吉川(現静岡市清水区)
   の地名「吉川」を取って初代吉川氏となった説もある
   
・鎌倉時代
   梶原景時追討で功を挙げ、播磨国福井荘(現兵庫県姫路市)
   でを得た。
   承久の乱で功を挙げて、安芸国大朝荘(現広島県北広島町)
  の地頭となった。
・正和2年(1313) 吉川経光が駿河国から安芸国大朝へと変えた。
 子孫が安芸吉川氏(宗家)、石見吉川氏、播磨吉川氏、駿河
  吉川氏、境氏吉川氏に分かれた。




★明日は大見氏かな?

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