箕輪初心★源頼朝25【武闘派:加藤景廉②】&伊豆の墓

加藤景廉(かげかど)は暗殺で歴史を変えた偉人かもしれない」
・治承4年(1190)8月17日、源頼朝が挙兵した。加藤景廉は
伊豆国目代:山木兼隆を討ち取るという歴史的偉業を成し遂げた。
・建久4年(1193) 加藤景廉は源頼朝の命で安田義資を誅殺。
・建仁3年(1203) 加藤景廉は北条時政の命で比企能員を斬殺。
結構、暗殺&謀殺には、多く関わっている。加藤景廉は狩野茂光
の甥っ子である。子孫には、松山城の加藤高明や遠山の金さんが
いる。



【1】加藤景廉の本領:牧之郷



【2】加藤景廉の墓&一族の墓
長倉書店で道を聞いた。
五輪塔を保護している覆い屋は菩提寺:真言律宗金剛廃寺の跡と推定
される場所の少し北にある。丸大食品裏手の伊豆箱根鉄道駿豆線の線
路に沿った狭い農道に面している。近くには駐車スペースはない。

①加藤景廉一族の廟所・・・6基の巨大な五輪塔   
.
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丸大食品裏=東の伊豆箱根鉄道駿豆線の踏切を
渡った。
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・左折した。
・墓は線路に沿った狭い農道に面していた。

・近くには駐車スペースはない。

①加藤景廉一族の廟所・・・6基の巨大な五輪塔   
画像
.
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②覆屋の右「真言律宗金剛寺跡」の石碑
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 加藤景廉が建立した菩提寺・真言律宗金剛廃寺の跡    
. 丸大食品から狩野荘にかけての一帯らしい。

③案内板
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④五輪塔の周辺には寺中・堂の前・弥陀堂・弥宣屋敷などの地名が
 残り鎌倉期の瓦なども出土しているそうである。
 金剛廃寺の跡で江戸時代には銅製の骨蔵器が掘り出された。



★★ 加藤景廉(かげかど)の生涯 ★★
・治承4年(1190)8月17日、源頼朝が挙兵した。加藤景廉は
伊豆国目代:山木兼隆を討ち取るという歴史的偉業を成し遂げた。

 ※源頼朝は山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。


※目代:山木兼隆を倒しても源頼朝の兵力のみで伊豆1国を
  掌握するにはほど遠かった。
  平家方の攻撃は時間の問題であった。

  三浦義澄・和田義盛らの三浦一族が源頼朝に参じる
  べく三浦を発した。
  途中、弟の大庭景親の党類の館に火を放った。 
  三浦義澄一族は台風のために合流が遅れた。
  源頼朝は相模の三浦一族を頼みとしていたがなかなか参着
  してこなかった。

  大庭景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、夜戦
  を仕掛けることにした。
  闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかった。

  北条時政 VS 大庭景親
「言葉戦い」をした。
大庭景親は
  「後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である。」
  と名乗った。
  北条時政が
  「かつて、源義家に従った鎌倉景正の子孫ならば、
   なぜ源頼朝公に弓を引くのか。」
   と言い返した。
  大庭景親は
  「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、
   海よりも深い。」
  と応じた。
 (★『平家物語』)
★北条時政は先陣だった。


8月20日 源頼朝は相模へ~~~~ 
  しかし、来援を約束していた三浦勢がなかなか来なかった。

  源頼朝は、伊豆韮山から北条時政以下46騎を従えて、
  相模国土肥郷(神奈川県湯河原)を目指した。
  従った者は
  北条義時・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・
  佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らである。 
  ★新田四郎忠常
  (★吾妻鏡)
  ●加籐五景員・同籐太光員・同籐次景廉
  ★老齢の加藤景員も加藤景廉らと共に従軍した。

8月20日「源頼朝挙兵・・・相模へ出発」
三浦義明の一族をはじめ、源頼朝の挙兵に同意する意志を示している
武士たちが遅参していた。
源頼朝はまず伊豆・相模両国の御家人だけを率いて伊豆国を出発
相模国土肥郷に向けて出発した。


三浦軍との合流前・・・

これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、
海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向かった。
 
8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い   
 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
 そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。
①源頼朝の郎党・・・安達盛長、小中太光家
②伊豆の武士・・・・
  平氏系北条一族4:北条時政、北条宗時、北条義時、北条時定、
  藤原流工藤系:工藤狩野茂光&工藤親光父子
加藤景員(狩野茂光の妹婿)&加藤光員、加藤景廉父子
  宇佐美政光(助茂?)&実政(狩野の甥?)
  天野遠景&天野光家兄弟
  新田(仁田)忠常
 藤原系父:加藤景員(狩野妹婿)&光景&景廉(狩野娘婿)
  堀親家&助政父子
 大見家秀
 近藤七国平
 平佐古為重
 奈古谷頼時
 沢宗家
  義勝房成尋
 中惟重&惟平
 鎌田俊長(新藤俊長)

③近江源氏・・佐々木一族4兄弟
  佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱、
④相模の武士・・
  中村景平&盛平父子(土肥の同族)
  土肥実平一族5:土肥実平、土肥遠平、土屋宗遠、土屋義清、
   土屋忠光、
  岡崎義実&岡崎義忠(佐奈田与一義忠) 
⑤駿河の武士・・・鮫島宗家・七郎宣親父子
⑥敵将の兄・・・大庭景親、豊田景俊、
源頼朝の命を受ければ家も親も忘れて戦う覚悟という・・・。
★つまり、源頼朝の挙兵の従った相模の武士団のほとんどは
 父:源義朝時代から関係のあった者達であった。

源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎+伊東300騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
   山内首藤経俊・
   伊東祐親(狩野茂光弟)300ら・・・


 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
  そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。

 源頼朝の挙兵を知った大将大庭景親を先頭に、熊谷直実など
 3000余騎が各地から駆けつけた。
 大庭景親軍は谷ひとつ隔てて石橋山の麓に陣を構えた。布
 伊豆国の伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで
 進出して、源頼朝の背後を塞いだ。

 夜、雨が激しく降りだした。
 三浦義澄軍250騎が遅参した。

大庭景親は、源頼朝と三浦軍が合流するのを恐れ、夜討ちを
決行した。
源頼朝軍が衆寡敵せず、分散して、退却することにした。
 頼朝主従5人は、やっと朽木の洞に身を潜めることができた。
 

  この日は大雨となった。
  三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされた。
 源頼朝軍への合流ができなかった。

 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
    山内首藤経俊・伊東祐親ら・・・
  
源頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子:
  佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
  ・・源頼朝は大敗北した。
  (★『平家物語』、『源平盛衰記』)
  大庭軍は勢いに乗って追撃し、源頼朝に心を寄せる大庭軍の
  飯田家義の手引きによって辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。
 
  源頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。

  源頼朝は数日間の山中逃亡・・・死を逃れた。

8月24日 大庭軍は追撃の手を緩めなかった。
  頼朝軍の残党は山中で逃げ回って激しく抵抗した。
  源頼朝も弓矢をもって戦った。
  源頼朝軍の武士達はおいおい頼朝の元に集まった。
  土肥実平は
  「人数が多くてはとても逃れられない。源頼朝一人ならば
   命をかけて隠し通すので、皆はここで別れよう。」
   と雪辱の機会を期すよう進言した。
   皆これに従って涙を流して別れた。
 

  北条時政と2男:義時は甲斐国武田に向かった。
  しかし、嫡男:北条宗時は別路を向かった。

  函南の大竹
   伊東祐親の軍勢に囲まれて、北条宗時・狩野茂光が
  討ち死にした。

8月24日 箱根山中
8月25日 箱根山中
 源頼朝が覚淵の援助を受けて筥根山=箱根山に入った際に、行實
 ・永實の房に匿われた。行實の弟:智蔵房良暹は源頼朝に滅ぼさ
  れた伊豆目代平兼隆の祈祷師だった。頼朝襲撃を企んでいた。
  これを知った永實は兄:行實と源頼朝に
 「良暹にそれ程の力はないが大庭景親に連絡すれば危険です。
  取り敢えず筥根から逃げる方が良いと思います。」
 と忠告した。
 源頼朝と土肥實平と永實らは地理に詳しい者の案内で土肥郷に
 下った。
. (★「吾妻鏡」) 


8月26日 箱根山中
  3日間筥根(箱根)の山中に隠れていた。
  疲労の極に達し、加藤景員は老齢のため 動きがとれなくなった。
  ★加籐景員は足手纏いになるのを恐れたのだ。
  2人の息子に
  「お前らは無駄に命を落とすな。私を残して主家の源氏を
  探し出せ。」
  と。
  加藤光員&加藤景廉らは断腸の思いで父親:加藤景員を走湯山
 (伊豆山権現)に送り届けた。
  加藤光員と加藤景廉は甲斐国に向った。

  加藤景員は息子と別れ、伊豆山権現で出家した。

 源頼朝一行は東伊豆の土肥実平との合流し、
 湯河原方面へ出発した。

8月27日 加藤景廉は父を走湯山に残し、兄とも散り散りとなった。
申の刻(15:00~17:00)以後は風雨は強くなった。
 深夜近く、伊豆国府(三島)に着いた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
8月28日 加藤光員と加藤景廉は甲斐国大原荘(富士吉田市、
  富士河口湖町)に逃れた。
 甲斐国に落ち延びた。
 武田氏と合流して駿河に侵攻した。
●甲斐国では甲斐源氏が挙兵した
・治承4年(1180)
8月?日 武田信義、安田義定、一条忠頼ら甲斐源氏が挙兵し
甲斐国を制圧した。
(『山槐記』)
 8月25日波志田山合戦
   大庭景親の弟:俣野景久 VS 駿河国目代:安田義定
   (『吾妻鏡』)。
 10月14日 鉢田の戦い
  富士山の麓で目代:橘遠茂の3000余騎を撃破した
   (★『吾妻鏡』)。
  加藤次景廉の兄:加藤太光員は駿河目代:橘遠茂を討ち取った。

 ●信濃国では源義仲が挙兵した。



9月??日 源頼朝が鎌倉に入った。
 


10月16日 源頼朝は鎌倉を発した。
  源頼朝の軍勢は20万騎にのぼったという。
(★ 『吾妻鏡』)

10月17日 武田信義は平維盛に挑戦状を送りつけた。
  平維盛の追討軍の目的は源頼朝ではなく、甲斐源氏であった
   という見方もできる。

 
10月18日 甲斐源氏の軍勢2万余騎は黄瀬川沿いに陣する
  源頼朝の軍と合流した。
  加藤光員と加藤景廉は再び源頼朝のもへと参じて側近と
 して仕えた。
  源頼朝は10月24日に矢合わせとすると決めた。

10月18日 大庭景親は1000騎を率いて駿河の平維盛の軍
  に合流しようとするが、源頼朝&甲斐源氏に行く手を
 阻まれ、相模国に留まった。後軍を解散し逃亡した。
 大庭景親は後に源頼朝に降参するが許されず、斬られた。

10月19日 伊豆から船を出して平ら維盛と合流しようと図った
  伊東祐親・祐清父子が捕らえられた。

10月20日 富士川の戦い
  源頼朝+武田信義ら VS 京 平維盛軍
 源頼朝は平氏勢を撃破した。


  甲斐源氏の兵は富士川の左岸に進んだ。
  頼朝は駿河国賀島に進んだとある
(★『吾妻鏡』)
  
   平家方は右岸に布陣した。
   平家方は兵糧の欠乏により士気は低下し、戦える状態では
   なかった。
   平家方は4000余騎でかなり劣勢であった。
   さらに脱走者が相次いででて2000騎ほどに減ってしまう
   有様だった。
   (★『吾妻鏡』)

  ●逸話「斉藤実盛の坂東武者は強い。」・・・平維盛がびびった。
(★平家物語)

  両軍が対峙した夜、平氏軍は突如撤退した。
  


●逸話「水鳥エピソード」
  その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の
  浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大
  群が一斉に飛び立った。
  「その羽音はひとえに軍勢の如く」
  驚いた平家方は大混乱に陥った。
  (★『吾妻鏡』)
 「兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬
  にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る
  者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰された。」
(★『平家物語』)
  総大将:平維盛は撤退をした。平家方は総崩れになって逃げ
  出した。
  遠江国まで退却するが、全軍散り散りになり、平維盛が京へ
  逃げ戻った時にはわずか10騎になっていた。
上総一族の大番役として京都にいた印東常茂は平家の先陣押領使
  として加わっていたが、上総広常は印東常茂を討った。
  上総介広常は名実とともに上総氏の当主になった。


 大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結した。

源頼朝は
「一気に京へ攻め入ろう。」
と拳を上げて叫んだ。
「上洛していっきに平家を討て。」
と命じた。

しかし千葉介常胤、三浦義澄、上総介広常らはこれに反対した。
まだ源氏に服属しない常陸の佐竹義政・秀義らが背後にいた。
「東国を固めることが先決です。」
と主張した?と諫めた?

源頼朝はこれに従わざるをえなかった。
上総介広常のみが言ったという説もある。・・
「京をせめるより、関東を制圧する方が先です。」

源頼朝は佐竹、志田を攻撃することにした。そした、引き返した。



10月21日 源義経が平泉から駆けつけてきて、兄源頼朝と
  劇的な再会をした。
●黄瀬川八幡神社の対面石
【1】頼朝と義経が対面し平家打倒を誓ったとされる
 現黄瀬川駅付近で 若い武者が源頼朝との対面を願い出た。
「弱冠一人」、
 (『吾妻鏡』)
若者20余騎を率いていた。源頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉
 から駆けつけた弟の九郎義経であった。
 土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠は怪しんで取り次ごうとしなかった
  が、騒ぎを聞きつけた源頼朝は
  「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう。会おう。」
  と言い、対面がかなった。
  源義経の手を取って涙を流した。
  (『源平盛衰記』)
一人の若者が黄瀬川の陣を訪れて鎌倉殿にお会いしたいと申し出た。
しかし土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実らは怪しみ取りつがなかった。
頼朝はこの事を聞いて
「年のころを思えば奥州の九郎ではないか。会おう。」
と仰ったので、実平が案内したところ果たして義経であった。
義経は頼朝の御前に進み、互いに昔を語り合って涙を流した。
頼朝は「白河院の御代、曽祖父の陸奥守八幡太郎義家殿が後三年の
役で戦われた時、新羅三郎義光殿が兄の苦戦を伝え聞き、官職を投
げうって密かに奥州に下り、兄を助けてたちまち敵を滅ぼされた。
この度、九郎がやってきたのはこの先祖の吉例と同じである。」
と大そうお喜びになった。

★6冊中・・・5冊はこの説であった。

【2】普通は「弟よ」・「兄さん」と言って感激の対面を期待し
 たでしょうが・・。しかし、源頼朝は源義経を馬から降ろし、
 片膝ついて座ることを命じた。
 そして、馬上から源義経の肩に土足を置いた姿を、多くの
 従者に見せた(伝)。 
 源義経はこのことを恨んで、後に兄:源頼朝に背くことに
 なった(伝)。・・・こんな説も読んだ。
 まるで、忍城の???と上杉謙信みたい。
 ★歴史好きの方の中に「源頼朝が嫌い&憎い」という方が
 多いと思う。・・・実は私も嫌いで、ブログ取り上げるのに
 3年もかかった。
 源頼朝の再会場面は、徳川家康が「武士の世で、主人は1人」
 ということを宣言した現れである。徳川&松平の関係のように
 兄弟であれ、「自分が一番。」と例外なく伝えたかった。
 為政者って我が儘ですね。・・・何をか言わんや・・・・。

源頼朝と源義経が対面したのは頼朝勢が鎌倉から足柄・箱根を越え
黄瀬川に向かう途上の大庭野(神奈川県藤沢市大庭)となっている。
  (★『平治物語』)

※この後、佐竹秀義、志田義広、足利忠綱などの源頼朝に従わぬ豪
 族達との対立を制して、源頼朝は坂東での覇権を徐々に確立して
 いくことになる。新田義重は12月に味方になった。
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 


・寿永元年(1182)
6月7日 由比ヶ浜で行われた弓馬披露の宴席において気を失い
運びだされた。佐々木盛綱の介抱を受けた。

 6月8日 源頼朝は車大路(由比ヶ浜の近くを東西に走る道路
   材木座一丁目付近)
    にある加藤景廉の屋敷を見舞った。

  源頼朝は加藤景廉の回復を確認した。
  亀の女のいる小中太光家に向かう供を命じた。
  加藤景廉の見舞いか妾宅訪問か・・★目的は判らない。


・寿永元年(1181)6月7日 加藤景廉は酒宴中に気を失った。
 源頼朝は由比浦に出た。壮士らは各々、弓馬の芸を御前に披露した。
  まず牛追者などが行われた。
  下河辺行平、榛谷重朝、和田義盛・義茂、佐原(三浦)義連、愛甲
  季隆が射手となった。
  次いで股解沓(ももときぐつ=乗馬用の皮の靴)を長さ八尺の串
 にさし、愛甲季隆を召して射させた。
  5回これを射て、あたないことがなかった。
 源頼朝が愛甲季隆が走った馬の跡と的の距離を計らせたところ、
 その距離は八杖(杖=60歩または72歩)であった。そこでこの杖数
 を基準に馬場を定めるよう仰った。
 その後、盃酌の儀があり、興宴に時を過ごした。
  晩になり、加藤景廉が座で気を失った。皆が集まり騒ぎとなった。
 佐々木盛綱が大幕を持ち、加藤景廉を包み抱えて退去し療養を行った。
 これによって酒宴はお開きとなった。


・壽永3年(1184) 伊賀国の合戦=伊勢平氏の乱
源頼朝は逃亡した平家一門の郎党を殲滅するよう大内惟義・
  加藤五景員入道父子・瀧口(山内首藤)経俊らに命じた。
  雑色(召使い)の友行と宗重の両名がその旨の書状を携
  えて出発した。
. (★吾妻鏡)
 
・文治元年(1185)1月26日 平氏追討
 加藤景廉が病身を押して豊後上陸した。
 源範頼の命を受けて臼杵惟隆、緒方惟栄らは82艘の兵船を献じた。
 また、周防国の住人、宇那木遠隆が兵糧米を献じた。
 これによって源範頼は船出して豊後国に渡った。
 同時に渡ったのは以下の武士である。
北条義時、足利義兼、小山朝政、小山宗政、小山朝光、武田有義、
 藤原親能、千葉常胤、千葉常秀、下河辺行平、下河辺政能、浅沼広綱、
 三浦義澄、三浦義村、八田知家、八田知重、葛西清重、渋谷重国、
 渋谷高重、比企朝宗、比企能員、和田義盛、和田宗実、和田義胤、
 大多和義成、安西景益、安西明景、大河戸広行、大河戸行元、中条家長、
 加藤景廉、工藤祐経、工藤祐茂、天野遠景、一品房昌寛、土佐房昌俊、
 小野寺道綱
 このうち、千葉常胤は老体をものともせず、風波を凌ぎ進んだ。
 加藤景廉は病身をおしてこれに従った。
 下河辺行平は兵糧が尽きて狼狽えたが、甲冑を売って小船を買い取り、
 皆に先んじて棹さして進んでいった。皆は不審に思い
 「甲冑を着けずに大将軍の船に乗り戦場にいくつもりか?」
 と問うた。
 下河辺行平は
 「自分の命はもとよりこれを惜しまず。しからば甲冑を着けずといえ
 ども、自身の意のままとなる船に乗って、一番乗りを成し遂げん。」
 と答えた。そして武将たちも船出した。源範頼いわく
 「周防国は西は太宰府に接し、東は京に近い。京都と関東と密に連絡を
 とりあって計略を巡らすようにという、頼朝の兼ねてからの命がある。
 よって精強な兵に周防を守護させたいと思う。誰を選ぶべきであろう
 か。」 千葉常胤が答えた。
 「三浦義澄は精兵であり、多勢でもあるから早く仰せ付けられるが
 よろしでしょう、」と。
 三浦義澄に伝えたところ、義澄はこういって辞退した。
 「一番乗りを得ようとしているところ、この地に留まってはいかにし
 て功を立てることができましょうか。」
 しかし、勇敢な者をだからこそこの地を守るようにとの再三の命に、
 ついに三浦義澄は周防国に陣を構えることとなった。

・元暦2年(1185)
 2月29日 加藤景員の源頼朝への訪問
  加藤景廉の父:加藤五景員は鎌倉に戻っていた。
  病弱の加藤景廉を気遣う姿を源頼朝に見せている。
  (★「吾妻鏡」) 
 
 加藤五郎入道(景員)が御所に参じて一通の書状を御前に置き、
  何も聞かないのに落涙した。暫くして語るには
  「息子景廉は三州(範頼)に従い鎮西(九州)に下っております。
  先月は周防(山口県東部)から豊後(大分県)に渡る際に重病を
  押して小舟に乗り従った、と書いてあります。主君のため戦場で
  死地を潜り今また病に侵され死の淵を彷徨っていると思うと老残
  の身を置く所もありません。」
 と・・・。源頼朝も涙を流して,加藤景廉の書状を読み、
 「側近として留まれと命じたのに天下の大事だからと出陣してし
  まった。例え病死しても敵を討つため戦場で討死した扱いに
  しよう。」
  との旨を語りかけた。

 3月6日 加藤景廉の病状について心を痛めた源頼朝は
 「療養を心掛け平癒したら早く鎌倉に戻させるよう。」
  源範頼に書状を送った。
  また、厩屋に飼っていた大庭景義献上の小鴾毛(赤みのある
  葦毛の馬)を送り、乗って帰るようにと大江廣元に手配を命じた。

壇ノ浦合戦
  平家一門が滅亡した。
 

・文治5年(1189) 7月~9月 奥州合戦
加藤次景廉は奥州合戦でも功績を挙げた。
牧之郷は平家追討に転戦した一族の勲功:特に緒戦の山木攻めで平兼隆
を討ち取った戦功などにより狩野領から割譲し、旧領の扱いに準じて
加藤一族に安堵された。

 兄:加藤光員は源頼朝が覇権を握った後は伊勢国に所領を得た。
 伊勢平氏の乱(三日平氏の乱)に功績を挙げ、検非違使→
 伊勢守となった。



・建久3年(1192) 源頼朝が征夷大将軍となった。鎌倉幕府成立。
 ※実質的には、それ以前。
加藤景廉は比企能員の討伐や和田合戦などで北条氏に協力した褒賞で
 美濃国遠山荘(現恵那市と中津川市)を領有した。
 加藤景廉と嫡男:景朝は美濃国遠山に要衡岩村城を築いた。
 嫡子:加藤景朝に譲って牧之郷に戻った。
 加藤景朝は遠山荘(恵那市・中津川市+瑞浪市の一部)の地頭に任じ
 られた。傍流の子孫からは遠山左衛門尉景元(金さん)が出ている。



・建久4年(1193)
11月 永福寺薬師堂供養の間に、安田義資が艶書を女房の聴聞所に投げ
 込んだ。女房が梶原景季の妾:竜樹前に話したことから、夫:梶原景
 季、父:蔭山景時に伝わり、さらに源頼朝の耳に入った。
 源頼朝は真偽を糾明した。
 加藤景廉は源頼朝の命を受けて安田義資を誅殺した。
安田義資の父:安田義定は縁坐により処分された。
 
12月 加藤景廉は安田義定の所領:遠江国浅羽庄(袋井市)の地頭に
 任じられた。


・正治2年(1200) 梶原景時の乱
加藤景廉と親しかった梶原景時が滅ぼされた
  加藤景廉は連座して失脚した。

・建仁3年(1203) 比企能員の変  
8月 源頼家が重病に陥った。
8月27日 北条時政は「一幡と源頼家の弟:源実朝に
  源頼家の遺領分与を決定した。
  関東28ヶ国地頭職と総守護職を一幡に譲る。
  関西38ヶ国地頭職を源実朝に相続する。
 と、いうものだった。
 
  比企能員は、分与に不満を持った。
 源頼家に源実朝擁立を計る北条時政の謀反を訴えた。

 源頼家は北条時政追討を比企能員に命じた。
 
 しかし、密議を障子の影で立ち聞きしていた北条政子が
 父:北条時政に告げた。
 北条時政は大江広元の支持を取り付けた。
 
9月2日 北条時政は仏事の相談があるとして比企能員を
 北条時政の名越邸に呼び出した。
 密議が漏れている事を知らない比企能員は平服のまま
 北条時政の館に向かった。
 比企能員は門を通って館に入った。
 玄関を通って北の客間に向う所を襖の陰に隠れていた加藤
  景廉と仁田忠常が左右の腕を捉え、横の竹薮に引き据えて
 天野遠景?が刺し殺した。
 北条時政は縁先に出てこれを眺めた。
  (★「吾妻鏡」) 


 比企一族は、比企能員の謀殺の知らせを聞いた。
 一幡のいる小御所に立てこもって防戦した。
 大軍に攻められ、小御所に火を放ち一幡とともに自害した。
 比企能員の嫡男:余一兵衛尉は女装して逃れようとしたが、
 道端で捕らえられ殺害された。比企一族は悉く殺害された。
(★『吾妻鏡』)

 源頼家は病が重くなったので出家し、家督を一幡に譲ろう
 とした。一幡を擁する比企能員の世になるのを恐れた。
 北条時政が比企能員を呼び出して殺害し、源頼家を
 大江広元の館に移して一幡を殺そうと刺客を差し向けた。
 一幡は母が抱いてかろうじて逃げ出したが、残る比企
 一族はみな討たれた。
 その後、一幡も北条義時の郎党に刺し殺された。
(★『愚管抄』)
    

9月?日
  源頼家が病気から回復すると
源頼家は、妻子と共に外戚:比企能員が北条時政によって殺された
  されたことを知った。源頼家は激怒した。
 
  
  源頼家は北条時政の追討の命令(御教書)を発した。
  御教書は仁田忠常の元にも届いた。
  源頼家からの信任も厚かったことが逆に災いした。
  仁田忠常は源頼家の命令に従うべきか、北条時政に
  就くべきか悩んだ。・・
仁田忠常は源頼家から北条討伐を命ぜられ、板挟みとなった。

9月6日   
  北条時政は比企能員追討の恩賞を与えるため、仁田忠常を名越邸
 に呼んだ。
 仁田忠常が夕刻に入ったまま夜になっても出て来なかった。
 仁田の舎人が不審に思い馬を引いて屋敷に戻り、弟の五郎と六郎に
 報告した。
 比企能員を殺した恩賞のために、北条時政の名越邸に入った仁田忠常
 の退出が遅いため怪しんだ郎党が屋敷に戻ってそれを報告した。
(★吾妻鏡)

 弟:仁田五郎と仁田六郎の2人は比企能員追討の前に将軍:頼家が
 北条時政追討を命じたのが漏れ疑われて罪に問われたと勘違いし
 たのだ。
 弟:仁田五郎忠正と仁田六郎忠時の2人は北条義時邸に駆け付け戦
 って討ち取られた。
 仁田忠常は北条時政の名越邸を出て、帰宅の途中で事件を知った。
 「こうなっては命を捨てるしかない。」
 と御所に参上し加藤景廉に討ち取られた。
★比企能員謀殺の4日後、些細な行き違いから加藤景廉に殺された。
 或いは北条時政の謀略か?


・建暦3年(1213)5月 和田義盛の反乱
侍所別当の和田義盛は2代執権:北条義時に度重なる挑発を受け
 て、姻戚関係にあった横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打
 倒するための挙兵をした。
 しかし、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一
 族は将軍御所を襲撃した。
 合戦は2日間にわたり続くが将軍:源実朝を擁し、兵力に勝る幕府軍
 が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は敗死した。
 結果・・北条氏の執権体制はより強固なものとなった。

 

・建保7年(1219) 源実朝の暗殺
   加藤景廉は警備を行っていた責任を感じ、出家した。
    「覚仏」と名乗った。
加藤景廉は本領の牧之郷に帰り、加藤一族の菩提寺として
   真言律宗金剛寺(廃寺)を建立した。  
   源平合戦や奥州合戦での死者を弔った(伝)。

・承久3年(1221) 承久の乱
6月 鎌倉幕府の最高権力者:第2代執権北条義時が時の
   後鳥羽上皇から追討の院宣を受けながら、後鳥羽上皇及び朝廷軍を
   叩き潰し、幕府方が朝廷を圧倒した。

兄:加藤光員は加藤後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対抗して創設した西面
 の武士であった。兄は上皇側に与したため本領の狩野牧之郷は没収
 され、加藤景廉の所有となった。
 承久の乱の直後に没したと考えられている。


8月 加藤景廉は没した。享年65歳。
  源頼朝挙兵以来の宿老:加藤景廉は亡くなった。

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・文暦2年(1235) 8月21日
加藤景廉の長男:景義と2男:景朝が狩野庄の内牧郷地頭職の相続を
 巡って訴訟を起こした。幕府評定衆は加藤景朝が父から義絶されてい
 たのを理由に加藤景義を支持した。3代執権:北条泰時は以前に
 北条政子が加藤景朝に与えた御教書を根拠に加藤景朝の勝訴を宣
 した。
★遺産の相続が絡むと一族兄弟の円満は望めないようである。





~~~戦国時代~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
① 加藤景廉嫡男:景朝は遠山荘(中津川)の地頭を継承して遠山姓
 を名乗った。
●岩村城
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箕輪初心●岐阜の城⑧『岩村城1回目』=紅葉写真集
http://53922401.at.webry.info/201210/article_21.html

箕輪初心●岐阜の城8-③『岩村城の女城主=信長の叔母なのだ。』
http://53922401.at.webry.info/201210/article_24.html



②江戸時代に庶流の苗木遠山氏は苗木藩(中津川市)一万石の大名と
 なった。
●苗木城
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箕輪初心●岐阜の城⑩『苗木城』=お城ファン必見の城
http://53922401.at.webry.info/201210/article_26.html



③庶流で旗本になった明知遠山氏(恵那市)の子孫からは後北条氏
 の銃身として活躍した遠山直景がいる。
 江戸南町奉行の遠山金四郎景元=遠山の金さんも子孫である。
●明智城
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箕輪初心●岐阜の城⑨『明智城』=明智光秀の城か?
http://53922401.at.webry.info/201210/article_22.html




④加藤景廉の子孫・・・豊臣秀吉の賤ヶ岳の七本槍の一人:
  加藤嘉明もいる。
●松山城
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箕輪初心●愛媛「松山城」2-①二の丸●100名城
http://53922401.at.webry.info/201101/article_24.html

箕輪初心●愛媛「松山城」2-②本丸
http://53922401.at.webry.info/201101/article_25.html




★明日は田代信綱かな?

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