箕輪初心★源頼朝④【治承4年(1180)8月17日の源頼朝の挙兵】

・治承4年(1180) 8月17日、源頼朝が挙兵した。ターゲットは伊豆
目代:山木兼隆&後見人:堤信遠であった。源頼朝の命で85騎が
山木兼隆&後見人:堤:堤信遠を襲撃した。18日には山木兼隆&
後見人:堤信遠の首実験をした。おそらくは、源頼朝館は八幡神
社付近にあったのではないだろうか?
(★通説は蛭ヶ小島)
・治承2年(1178)には源頼朝の長女:大姫が生まれた。
・山木兼隆の伊豆流罪は「曽我物語」の治承元年(1177)年説や
治承3年(1179)政変の後、山木(平)兼隆は伊豆知行国主:平
時忠より伊豆国目代に任ぜられたという説もある。しかし、治
承4年(1180)5月に源頼政が挙兵に失敗し、宇治で戦死した後、
伊豆の知行主は平時忠が山木兼隆を目代に推挙したとみる説
が有力である。つまり、源頼朝と北条政子が結婚した時、山木
兼隆は京都にいた。三角関係のもつれなどあろうはずがないの
だ。今回は8月17日の挙兵~20日石橋山前までを学研・小学
館・ポプラ社・中央公論社の漫画を参考に書いてみた。
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  山木邸の石碑




~~~源頼朝&伊豆シリーズ~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心★源頼朝①伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心▼伊東ダイビング2回
http://53922401.at.webry.info/201307/article_29.html

箕輪初心★源頼朝②伊東祐親の娘:八重姫の悲話&
『伊東祐親の生涯』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_20.html


箕輪初心★源頼朝③【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_24.html

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(★伊豆武将物語より)




【1】山木(平)兼隆邸
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 ・南より山木邸を望む・
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 ・この家の方が案内して下さった。
 ・車は手前の家の奧様に頼んで置かせて
  いただいた。ありがとうございました。
・石垣
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 ・民家
 「おじゃましま~す。」
 
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 ・奧の山木判官&加藤景廉の戦った場所
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★★ 源頼朝の挙兵 ★★

・治承元年(1177) 頃? 29歳
源頼朝は韮山の北条館に行った。
●北条館=北条時政の館=伝:堀越公方館
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★おそらくは北条時政から
「狩野川の中洲にある蛭ヶ島に行ってね。」
と言われたのであろう。

●蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)

伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない。
「蛭ヶ小島」は静岡県伊豆の国市にある。源頼朝の流刑地と
して知られている。しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と
記録されるのみである。『吾妻鏡』では源頼朝の流刑地につ
いて「蛭島」と記してあるだけである。江戸時代に秋山富
南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった。」と
推定し、寛政2年(1790)に「蛭島碑記」が建てられた。
長岡温泉の旅館の人の話だと「土地を寄付してくれた人が
いたから。」だという。従って、「蛭ヶ島」の正しい場所は
不明であり、当地が比定地としただけである。
発掘調査で
は弥生・古墳時代の遺構・遺物のみである。しかし、これ
が伊豆の国市指定有形文化財となっている。

源頼朝館は八幡神社=願常院&北条時政館の間の
可能性もある。守山城の東で、政子の産湯近くと勝手に
思っている。




隣村の函南の桑原・大竹地区は安達盛長の所領であった。
ここでも、安達盛長の庇護を受けた。


・治承2年(1178)頃 30歳
※源頼朝は蛭ヶ小島からいろいろな場所を訪ねたであろう
①三島神社
②函南・・・安達盛長邸・仁田忠行邸・肥田邸
③韮山・・・北条時政館・江間館・江川(宇野源氏)邸
④修善寺
⑤加藤景廉邸・工藤系狩野茂光邸
⑥白浜神社
⑦松崎・・・円通寺

※良橋太郎入道の娘:亀ノ前とできちゃった。
→また、ひと悶着あった。



~~~北条政子との出会い~~~~~~~
※北条時政の娘
①長女:北条政子21歳・・・一番美人
②次女:19歳・・・・やや不器量。源頼朝は恋文を書いた。
③3女:17歳・・・・やや不器量。
〇長男:北条泰時=江間小四郎


●「蛭ヶ小島公園」の源頼朝&政子夫妻の像
源頼朝31歳
北条政子21歳
がであった。
次女:19歳に源頼朝は恋文を書いた。しかし、文使いの
安達盛長は、
「北条時政の長女:政子の方がいいであろう。ごたごたがあ
った時、器量がいい方が飽きが来ないであろう。」
と勝手に源頼朝と北条政子の間を取り持ったとされる。
 (★『曽我物語』)

北条政子は時政の先妻の子であった。20歳過ぎても嫁に
行かず、さびしい思いをしていたのであろう。

北条時政は大番役で京へ行っていた。
留守中に、2人は逢瀬を重ねた。
2人の大恋愛は注目の的であった。
都人の源頼朝は伊豆の娘たちの理想でもあった。

●伊豆山神社の梛の木(なぎのき)
※「梛の木」・・・・縁結びの木。
「鏡の裏側に梛の葉を入れて御守りにすると結ばれる。」
と信じられてきた。ロマンチックだよね。


逢引き=デートは間もなく、北条時政の後妻:牧ノ方
の知るところとなった。
父:大岡庄:牧三郎宗親
牧ノ方→父:大岡庄:牧三郎宗親→京の北条時政
と知らせが伝えられた。
※父:大岡庄:牧三郎宗親は池ノ禅尼の子:平頼盛の家人で
あり、源頼朝の監視&保護の役を負っていた。

・治承2年(1778) 31歳
源頼朝は北条時政の長女:政子と婚姻関係を結び、
長女:大姫をもうけた。



・治承3年(1779) 32歳
正月 北条時政は帰郷した。

 ★北条時政は源氏の御曹司か?
  許してやるか????

  

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・治承4年(1180)

4月 後白河法皇の子:以仁王の令旨
後白河法皇の皇子:以仁王が平氏追討を命ずる令旨を
   諸国の源氏に発した。

4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

●源頼朝は文覚上人(遠藤盛遠)から挙兵を促されていた。
 文覚上人のいた場所
説①伊豆国の奈古屋説・・★こっちかな?
説②松崎の円通寺説
 「源頼朝が挙兵した場合、旧知行国主系豪族の協力が見込ま
  れることが予想できる。」
 と密かに心構えを説いた。
 
北条時政は次第に北条政子&源頼朝を許す考えになって
 いった。


5月10日 下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、源頼政は平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

~~~平時忠&山木兼隆~~~~~
◆◆ 山木兼隆
 生年不詳~治承4年(1180)8月17日(10月8日)

・桓武平氏系伊勢平氏の流れ・・・
  大掾氏の庶流和泉守:平信兼の子である。
平兼隆または大掾兼隆(だいじょう かねたか)ともいう。

・治承3年(1179) 検非違使少尉=判官であった父:平信兼
  訴え、伊豆国山木郷に流罪となった。
  ※詳しい事情は不明である・・・。

・治承3年(1179) の政変
山木(平)兼隆は治承3年の政変の後、伊豆知行国主:平
時忠より伊豆国目代に任ぜられたという説もある。

 この時、平時忠は伊豆知行国主
ではなかった。

 治承3年の政変に伴う知行国主の変更により、坂東では
 新知行国主に近い存在となった平氏家人や平氏方目代により
 旧知行国主系の豪族達が圧迫されていった。


・治承4年(1180)5月下旬 源頼政が挙兵に失敗。
  源頼政が宇治で戦死した後、伊豆知行主は平時忠がなった。
伊豆国は平時忠の知行国になった。

※平時忠(????~1189)
「平家にあらずんば人にあらず」
 と言った平清盛の義理の兄にあたる人物である。
①平清盛の妻:時子は平時忠の妹である。
②後白河法皇の后の建春門院滋子は平時忠の妹であった。

 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。

山木(平)兼隆が目代になった。

★山木兼隆を目代に推挙したとみる方が妥当であろう。
 つまり、源頼朝と北条政子が結婚した時、山木兼隆は京都
 にいた。三角関係のもつれなどあろうはずがないからである。


・治承4年(1180) 5月下旬 
 伊豆知行国主:平時忠は山木(平)兼隆を伊豆国目代に
 任じた。
   
  
 伊豆国では目代:山木(平)兼隆は急速に伊豆で勢力を振る
 うようになっていった。
国司(現在の知事・・朝廷が貴族に命じる位最高職)や目代(国主の
代理人)が勝手に税をとったり、領地を奪ったりということが当たり
前になっていた。
伊豆の国の目代:山木判官は平家の権威を利用して勝手な政治を
していた。

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 また、目代であるが故に、旧知行国主系の工藤系狩野茂光や
 北条時政から反感を持たれた。
 ★狩野茂光&伊東祐親&宇佐美祐茂は藤原流工藤系であった。
特に藤原流工藤系狩野家は源為朝を討った伊豆の総大将で
あった。
 ★北条時政は平氏系であった。
さらに、平清盛に近い系統が入って来たことになった。
また、山木兼隆は源頼朝の監視も命じられていた。


6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。



6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
  胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 

 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
①反対派
 山内首藤経俊は
 「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
 鼠が猫をとるようなものだ」
 と嘲笑した。
②迷った派
波多野義常は返答を渋った。
③賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。この一族も同心となった。


8月2日 大庭景親が本領:藤沢に下向した。
  源頼政の孫:源有綱が伊豆国にいた。
   大庭景親が源有綱追捕を平清盛から命を受けていた
  のだ。
  源頼朝らの緊張が高まった。

  
●源頼朝は挙兵に対して、慎重に行動した。
①期日
 源頼朝は8月17日早朝をもって挙兵することを決めた。
  8月17日は三嶋大社の祭の夜であったからである。

②ターゲット
 まず手始めに伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。
 源頼朝は最初の標的を伊豆国目代・山木兼隆と定めた。
そして、後見人:堤信遠と決めた。

8月4日~
③周辺見取り図&屋敷の見取り図
 源頼朝は藤原邦通に命じて地図を書かせた。
 ※藤原邦通は元大和判官であったが、伊豆に
 流され、源頼朝の祐筆(代筆人)になっていった。

 藤原邦通は和歌の歌会に山木兼隆から呼ばれて
 数日間滞在した。
 藤原邦通は館の内部や建物の見取り図・
 周囲の地形を絵地図に書いた。
★「尾根の張り出した一部を削って、屋敷を設け
入口は中世の虎口風になっていること。・・」
200m奥は香山寺で、ここも要害になっている。」
★これは私の創作である。・・・

8月6日~
④安達盛長から知らせを受けて、味方に付いてくれそうな
 相模や伊豆の豪族たちに連絡しておいた。
安達盛長は、源頼朝の乳母比企局の娘婿として、伊豆配流の初めから
奉仕していた。
※北条時政と嫡男:北条宗時・次男:北条義時も承知していた。


中伊豆・・工藤系狩野茂光
     ・加藤景廉(かげかど)・・・狩野茂光の娘婿
     ・天野遠景
     ・小中太光秀
・仁田忠常
・肥田宗直

東伊豆・・・土肥実平&次男:土肥遠平&3男:土屋宗遠      
     ・宇佐美祐茂    

相模・・・・岡崎義実&子:佐那田
      佐々木盛綱・・・渋谷重国宅居候
     (★佐々木秀義と子:定綱・経高・盛綱・高綱の4兄弟)
      大庭景義(景親の兄)


 一人一人を招いて個人面接し、計画を打ち明けた。
「まだ、誰にも話していないのだが、そなたを頼りに思う故、
 打ち明けるのじゃ。わしは葉月17日に挙兵する。
 山木兼隆を討とうと思うが、いかがじゃ?」

源頼朝は裏切りを恐れ、そして、真の忠義の武士として
 確かめながら、確実な家臣を得ていった。


⑤藤原邦通は源頼朝のもとへ持ち帰りった。
 源頼朝は信頼できる北条時政を招いて相談した。

③襲撃コース
山木兼隆の館は現江川館東300mの要害の地にある。
 山木(平)兼隆の開山の香山寺はさらに200m程先にある。


A 山木(平)兼隆の館は、北条時政館
  あるいは八幡神社から真東5~6km程の所にある。
   蛭ヶ小島~江川館経由で5km程の所にある。

B 蛭ヶ小島からなら、2km程の場所にある。
  嘗て狩野川が流れていて、蛭ヶ小島~江川館経由では馬が
  通るのが困難な場所であった。



8月11日
 源頼朝は岡崎義実と息子:佐那田与一義忠に 
「土肥実平と一緒に参上せよ。」
 と、命じた。


8月16日  決行の前日の夜。
佐々木定綱・経高・盛綱・高綱
佐々木四兄弟の到着が遅れていた。
「佐々木兄弟はまだか?」
 雨が降りしきる中、源頼朝は焦りを感じながら
 北条時政館?八幡神社付近?現蛭ヶ小島館で待っていた。
 
吾妻鏡に「高い木から煙を見晴らせた。」
  とあるから、守山の北条時政館か八幡神社が有力であろう。
何故なら、実際に行って見ると常願寺&北条時政館の間が
後の韮山&江川邸を越えて見える最高の場所である。



 もしや佐々木兄弟が裏切ったのではないだろうか?
渋谷重国に諭されたかな・・・
 9日には、大庭景親が渋谷重国邸の佐々木秀義を
 訪ねて、警告を発しているしな~~~?
挙兵が発覚したのだろうか?
しかし、最も頼りにしている近江源氏:佐々木秀義の
 息子達である。絶対に裏切るわけがない。・・・。

 ~~~源頼朝は疑心暗鬼心になっていった。



8月17日 
●早朝・・・源頼朝は襲撃は朝駈けを考ええていたが、
  佐々木兄弟の遅参によって計画がくるってしまった。


●未の刻:午後2時頃 やっと佐々木四兄弟が到着した。
兄 「佐殿(頼朝様)、只今、着き申した。・・・
 源頼朝は
「おお、よくぞ、参った。これで、100人力?・・・・」
 兄「遅参の段、お許し下さいませ。」
 弟「何とお詫び申し上げてよろしいやら
  酒匂川の洪水で道をはばまれておりもうした。」

 頼朝「そなたたちが遅れたので、挙兵ができなかった。
  でも、そなた達のおかげで,出陣できる。」

四兄弟は許された。

●夕方・・・・山木兼隆の雑色男=召使が源頼朝の家の下女と
     恋仲で今日もゲートをしに来た。
     源頼朝は用心のため生け捕った。


●深夜・・源頼朝が命を下した。
 源頼朝は
 「明日を待っていては敵に気付かれてしまう。
 そうなっては手遅れになる。時は今じゃ。
 明朝を待たず、直ちに山木館を襲撃すべし。
 山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん。
 山木の館を放火すべし。
 それをもって襲撃の成否を確認すべし。」
と命じた。
 
源頼朝を応援する武士の士気を上がった。
「いよいよですなあ?」
「ようし、・・・」
と気合いがみなぎった。

 北条時政は
 「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに、牛鍬大路は
  人が満ちて、襲撃を気取られる恐れがあり申す。
  間道の蛭ヶ島通を通ってはいかがか?」
  と進言した。源頼朝は
 「余も最初はそう思った。しかし、挙兵の始まりである。
  間道は用いるべきではない。王道を通るべし。
  ・・・また、蛭ヶ島通りでは騎馬が難渋する。
  あえて牛鍬大路から行くべきであろう。」
  と命じた。
 
 北条時政は
 「あい、わかり申した。」
こうして牛鍬大路を進むことに決まった。
 
 ★慎重な源頼朝は正面攻撃を命じたのであった。 
簡単に言うと、元の狩野川の分流などがあるので、
北条館~原~肥田を右折・・・仁田方面へ・・・


●北条時政一行は出発。
 「では、・・・」
 源頼朝は
 「くれくれも、兼隆を討つとったあかつには、家に火を
  放ってくだされよ。忘れるでない。」

 北条時政は手勢40騎程を率いて正面の牛鍬大路を北
 に進んだ。
北条時政は、途中の肥田原で、佐々木定綱に
「山木兼隆の後見役:堤信遠は勇士であるので、心して
  堤を討て。道案内をつけよう。」
 と命じた。

①仁田兄弟&佐々木兄弟・・後見人:堤信遠邸へ
 ★畑毛温泉近くの山木の北のはずれにあった? 
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かった。
佐々木兄弟は堤信遠の館を。

 ・子の刻(午前0時)堤信遠の館前に着いた。

 長男:佐々木定綱と4男:佐々木高綱は館の裏手に
 まわり、次男:佐々木高経は庭に進んだ。
 キリキリキリ・・・・と弓を引いた。
 ピュー~~~~ン。
 ブスッ・・・

 次男:佐々木経高が館に矢を放った。

  「源家が平家を征する最前の一箭なり」
 (★『吾妻鏡』)
新田忠常は筏を組んで、堀を渡って一番乗り・・。(伝)
 新田(仁田・日田)忠常は満13歳。
 堤信遠の郎従が応戦して矢戦になった。
 
 佐々木経高は矢を捨てた。
 「かかれっ。」
 佐々木経高は太刀を取って突入した。
 堤信遠が縁側から庭に飛び出し、
 「何奴じゃあ?」

 「我こそは、佐々木秀義が次男:佐々木次郎経高。
 堤信遠殿、命もらいうける。」

 「何? 佐々木の子とな?」

堤信遠も太刀を取って組み合いになった。
 佐々木経高 VS 堤信遠。

  一騎打ち・・・カン、カン、キーン。
 火花が飛び散った。
 
 佐々木の家臣が放った遠矢が佐々木経高の肩にあたった 。
 「げっ・・・。」
 ★いたいよ~ん。

 その時、
「加勢するぞ」
 と長男:佐々木定綱&4男佐々木伊高綱が参戦した。
 「兄上、頼みましたぞ。・・・」
 
 激闘の末に堤信遠を討ち取った。

※佐々木経高が矢を受けて倒れるが、佐々木定綱、佐々木
 高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取った。
 (★吾妻鏡)


②北条時政本隊・・・山木判官(目代)平兼隆邸へ
 北条時政らが韮山にある平兼隆の目代屋敷を襲撃。
 北条時政の本隊は山木兼隆の舘の前の天満坂まで
  来た。
画像

 キリキリキリキり・・・・
 と、矢を放った。
 ピュー・・・ン。
 ブスッ、バシッ、ドスッ。
 矢は家臣に刺さった。
 「いてえ。」

 山木館は騒然となった。

 その夜、三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に
 出払っていた。そして、沼津の黄瀬川の宿で酒宴を行って
 いた。
 山木館に残っていた兵は激しく抵抗した。
  

 「兼隆を、討ち入れ・・・っ。」
 と、北条時政の本隊は虎口に登って、なだれ込んだ。

 
 しばらくして、堤信遠を討った佐々木兄弟や仁田忠常も
 加わり、激戦がさらに続いた。
 
 しかし、容易に勝敗は決しない。・・・・・
 山木の手勢は実際には10数名であった。
北条時政のわずか30数名の手勢は苦戦を強いられた。
(★伊豆武将物語:小野眞一著)
 
 源頼朝は北条時政の北条館(★後の伝:堀越御所かな?)
 から様子をうかがっていた。
 
 配下の者を北条館の南:守山下の八幡神社の木の上から
 見晴らせていたが、煙が上がらないので・・
 いっこうに報告がない。

 山木館から火の手は一向に上がらない。
 「う~ん、まだか・・・・。」

 源頼朝は、焦り始めた。
 そして、だんだん不安が募ってきた。

 
 源頼朝はついに自分の警護に残っていた加藤景廉・佐々木
 盛綱・堀親家3名を山木館へ向かわせることにした。
 「すぐに、山木館に赴き、加勢せよ。」
 3人は
「心得ました。」
 と答えた。
 「あいや、景廉、待て。・・・」
 北条館を駆け出そうとした加藤景廉を
 源頼朝は呼び止めた。
 「はっ、・・・。」 
 そして、加藤景廉に薙刀を渡しながら、
 「これで、兼隆の首を取り、持参せよ。」
  と命じた。
 
 加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家は蛭ヶ島通りを走り、
 山木兼隆の館に到着した。
 大鎧は20kgのあるしろものだから、息が絶え絶え
 になった。それでも走った。
 ※当時なかった現韮山高校・韮山城を右に見ながら、江川
 館のを右に見ながら、走った。
やっと3人は山木館に着いた。

 激しい戦いの最中であった。

 「加藤景廉、着き申した。」
 「佐々木盛綱、加勢し申す。」
「堀親家じゃ。兼隆はどこじゃ。」
★ってな感じで、加勢に3人が加わった。

 加藤景廉は館の中に駆け込んでいった。
そして、一目散に山木兼隆の居場所を探した。
 山木兼隆は、屋敷の一段上の館にの
 部屋に閉じこもっていた。
 
 太刀を構えてて、震えていた。
 「何故、頼朝はわらわを狙うのじゃ?」

 加藤景廉は、縁側づたいに進んだ。
 部屋の中に山木兼隆の影が見えた。

 加藤景廉は兜を脱ぎ、薙刀の先に兜を吊るし
 てかかげた。

 山木兼隆は太刀を振りかざした。
 「え~いっ。」
  太刀が欄間の鴨井に突きささった。
  「しまった。・・・ううん、ぬけ~ん。」

 山木兼隆が焦っている所へ
 加藤景廉が襖を蹴飛ばして、入ってきた。

 薙刀で、なで斬りした。
  バサッ・・・・と倒れた。
 「げっ。」
 さらに腰刀を抜き、・・・・
ブスブス、ブス~~ギリギリギリギリ~~~
  首をかっ切った。
 
 襖の上に血が飛び散った。

 加藤景廉は山木兼隆の首を薙刀の先にさし、
  高くさし上げ、・・・叫んだ。
 「加藤景廉、山木兼隆を討ち取ったりい・・・。」

 そして、加藤景廉は佐々木盛綱?頼んで
 館に火をつけた。

 しばらくして、勝利の証・・・火の手が上がった。

 
 「勝ったあ。してやったり・・・。」


 やがて、北条館の近く、八幡神社からも
 韮山の向こうに煙が上がっていくのが見えた。
 八幡神社?の木の上の見張りが
 「煙が、煙が、上がりましたあ。」
 報告した。
 源頼朝は
 「勝ったか。」
 と、歓喜の声をあげた。
画像

 八幡神社・・・願常院&北条時政館の間

三島大社の祭礼のために郎党の多くが留守だったため、
 山木兼隆は満足に戦うことができず、加藤景廉によって
  討たれたのだった。



~~~山木邸は悉く燃え尽きた。~~~~~~~~~~~~~

8月18日
 山木邸の襲撃隊は暁に帰還した。
伊豆・相模の武士たち40騎余りであった。
 源頼朝は
 「よくぞ、やった。」
 と皆を褒めた。

 早朝、源頼朝は山木兼隆と郎党の首を庭先に
 並べるよう命じた。
 
 源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。
 

 源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚
 での非法を停止させる命令を発給した。
 (★『吾妻鏡』)
 「関東御施政の始まりである」と特記している。

 ※源頼朝は山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。


8月19日
源頼朝一行は東伊豆の土肥実平との合流し、
 湯河原へ出発した。




●結果・・・影響
源頼朝が伊豆の目代:山木を殺害したという知らせが瞬く間に関東
中の豪族に知れ渡った。
 従って、平家方の軍勢にいながらも平氏に反感を持つ者や源頼朝の
恩賞にあずかるかもしれないという思惑を持っている者もかなりいた。
大庭兄弟のように親子や一族で源氏や平氏に味方している豪族もいた。
梶原景時のしとど窟で源頼朝を発見したときの動向も面白い。
坂東8平氏の千葉氏・上総氏・畠山氏・河越氏・江戸氏なども
源頼朝に従った。
源頼朝の挙兵から鎌倉入城までの過程は坂東武者達の損得勘定が働い
ていて非常に面白い。

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 (★ウイキペディアより)


【2】香山寺:山木判官が建立?:菩提寺
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★明日は石橋山の戦いかな?

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