箕輪初心●埼玉熊谷『成田氏館』&行田『忍城』

【成田氏館】は天喜元年(1503)~延徳3年(1491)の間、藤原鎌足
の末裔である成田氏の初代助高から9代親泰が居を構えた館跡で
ある。延徳元年(1489)忍大丞を滅ぼし、その後忍城を築き本拠を
移した。【忍城】は忍城は関東7名城の一つとして有名である。
★平成24年(2012)11月10日、映画「のぼうの城」をみた。
成田長親=「(でく)のぼう様」は忍城主:成田氏長の実弟:成
田泰季の長男である。のぼう様500が守る忍城は石田三成20000
の水攻めでも落ちなかった堅固な城である。
今回は成田一族の歴
史をもう少し追ってみたい。
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【1】成田氏館

■訪問日・・・平成26年(2014)7月6日
桶川の牧野氏陣屋→武城→川田谷歴史博物館→三ツ木城→
泉福寺→川島の廣徳寺→北本の石土城→鴻巣の勝願寺→
伝:源経基館→中山道→熊谷の成田氏館→川本の畠山重忠館
に行った。

●伝:源経基館で成田氏館跡をナビで検索すると、17,2
kmあった。できるだけ、本当の中山道を進んだ。
熊谷駅の前を行く。点字博物館前を通り、成田小学校の
北である。一方通行である。ちょっと分かりずらかった。

●住所検索・・・熊谷市上之533辺りである。



●石碑と標柱発見
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●標柱説明
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天喜元年(1053)~延徳3年(1491)
の間、成田氏の初代助高から9代親泰が居をかまえた館跡。
指定年月日 昭和37年11月3日

忍城に移るまで成田氏の居館だった成田氏館・・・。
地名から成田氏を名乗ったのだ。


●赤い屋根の建物は牛舎
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★「のぼうの城」成田氏の居館跡
  石碑の標柱のみか・・・。
  二重の堀を構えた方形館であったらしい。
  外郭約130m
  内郭約60m×60mと推定されているという。


★龍淵寺には行けなかった。

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【2】忍城 

①平成19年(2007)7月29日・・忍城見物
★私の興味は、箕輪城主:長野業政が成田家に
 娘を嫁がせたかどうかであった。結果・・不明。
②平成23年(2012)12月2日~『のぼうの城』
を読んだ。和田竜の歴史小説である。
③平成24年(2012)10月28日の箕輪城祭りに、行田
市のボランティアガイド:秋池氏と話した。秋池氏から、
「秋池氏の先祖は、忍城主:成田氏長の客分家老で、
大河内久綱(松平伊豆守信綱の父)家臣:秋池出羽守義勝
として小田原城に参陣。」など興味ある話をいただいた。
また、秋池氏は映画「のぼうの城」の野村萬斎氏・
芦田まなちゃんなどとの記念撮影を見せて下さった。
④平成24年(2012)11月10日、映画「のぼうの城」
⑤忍城を書くことにした。でも、写真不足だ。


●秋池氏の甲冑
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◆◆ 秋池氏の仲間のHp ◆◆
 野村萬斎さんたちと記念撮影したそうである。
http://nobou-movie.jp/sp/sp_cast.html


■訪問記・・平成19年(2007)7月29日

●さきたま古墳群を見学後、忍城に行った。
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●藩校入り口   
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●鐘楼
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学芸員に質問
①長野業政は、成田顕泰?長泰?に自分の娘をくれたの
  か?  →系図や成田文書にはなかった。
②北条氏照が忍城・騎西城・唐沢山城・太平山城と侵攻
 して行ったが、成田氏はどう対応したか?
     →北条氏にうまく取り入って対応した。
★説明不十分だが、学芸員は若く優秀だった。


■見所・・・復元3層櫓(行田市博物館)
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★この後、岩槻城に向かった。


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箕輪初心▲『宗長泊の謎の長井氏館』
http://53922401.at.webry.info/201409/article_7.html

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http://53922401.at.webry.info/201409/article_5.html

箕輪初心▲熊谷妻沼日向:長井神社&【日向城】
http://53922401.at.webry.info/201409/article_4.html

箕輪初心▲熊谷上須久八幡神社&善ヶ島【東城】:幻の城砦発見
http://53922401.at.webry.info/201409/article_3.html

箕輪初心▲埼玉熊谷妻沼【西城城】=成田氏→斉藤氏→長井氏
http://53922401.at.webry.info/201409/article_2.html

~~中山道:大宮→上尾→桶川→鴻巣→熊谷→深谷→本庄~~
箕輪初心▲埼玉【岩槻城】=後北条時代は2万都市?
http://53922401.at.webry.info/201407/article_18.html

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博物館』
http://53922401.at.webry.info/201407/article_19.html

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http://53922401.at.webry.info/201407/article_20.html

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箕輪初心▲埼玉桶川『三ツ木城』=足立遠元の館?
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&関宿城→田辺城
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箕輪初心■埼玉桶川【武城】= 足立遠元関連の城館跡?
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http://53922401.at.webry.info/201408/article_24.html

箕輪初心★熊谷:熊谷次郎直実&熊谷寺
http://53922401.at.webry.info/201408/article_25.html

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http://53922401.at.webry.info/201409/article_1.html

箕輪初心▲埼玉熊谷旧妻沼【西城城】=成田氏→斉藤氏→長井氏
http://53922401.at.webry.info/201409/article_2.html


箕輪初心★埼玉熊谷【斎藤実盛館】=実盛と義仲の因縁
http://53922401.at.webry.info/201406/article_18.html


箕輪初心○埼玉【深谷城】&『深谷上杉氏の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201406/article_4.html

箕輪初心●埼玉【人見氏館】=猪俣人見氏→庁鼻和上杉氏
http://53922401.at.webry.info/201406/article_5.html

箕輪初心★埼玉深谷市【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:
庁鼻和上杉憲英~
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html



箕輪初心●埼玉【東方城】=深谷城の支城
http://53922401.at.webry.info/201406/article_6.html

箕輪初心●埼玉深谷市普済寺【岡部氏館】&岡部忠澄の墓
http://53922401.at.webry.info/201406/article_19.html

****鎌倉街道上道に沿って、寄居→嵐山→所沢************
箕輪初心◆鎌倉街道上道:埼玉編
http://53922401.at.webry.info/201407/article_17.html

箕輪初心■埼玉川本【畠山重忠公史跡公園】
:畠山重忠公生誕の地
http://53922401.at.webry.info/201407/article_16.html








【3】成田氏の出自
①藤原道長とする説
道長の孫も子:藤原任隆が武蔵国幡羅郡へ下向し、
 その曾孫:藤原助隆が成田を名乗ったとする。
  (★『藩翰譜』)。

②藤原基忠とする説
基忠説は江戸時代に成田氏末裔が作成した「成田氏系図」
 の藤原行成の弟:基忠を祖とする。藤原基忠が武蔵守と
 なり、武蔵国崎西郡に居住したのが始まりとされる。
 『続群書類従』の「成田氏系図」「忠基」となっている
 そうである。騎西郡を開拓した。
※熊谷市史はこの説を採っている。

③武蔵七党の横山党説
 横山党説は『武蔵武士』(渡辺世祐・八代国治 共著)が
 提唱したもので、小野篁(たかむら)の小野姓横山党の
 横山資孝の子:成任が成田を称した。
小野篁は足利学校の創設者とする説もある。





【4】成田一族の歴史

・平安時代
・天禄年間(970~973) 藤原鎌足の末裔・・・
成田氏の祖とされる藤原伊尹(これただ)の子:義孝の
  子の次男:藤原忠基が埼西郡の武蔵守になって荘園を
  開拓した。藤原忠基の子:宗直が埼西の郡司になった。
  藤原宗直の孫:藤原道宗が幡羅郡に荘園を広げた。

●初代:藤原忠基は騎西郡司となった。
 
●2代:藤原宗直が騎西郡を発展させた。
●3代:藤原家忠が継いだ。
 
●4代:藤原道宗は幡羅郡にまで荘園を拡張した。
   幡羅太郎と名乗った。

・長元5年(1032)幡羅郡西城(熊谷市妻沼)に館を構えた。
・       藤原道宗は幡羅郡に土着して構えた
居館=西城の地・・・が始まりとされている。
(★成田氏系図)

・????年 上須戸に【東城】を築城した。
  藤原道宗の長男:藤原助高も住んだ。


●5代:藤原助高
・永承6年(1051)~康平5年(1062)「前九年の役」
武功をあげた齋藤実遠が源頼義より長井庄を与えられ
西城に居館した。
 私市直季は大里郡熊谷郷(★熊谷駅前)を貰った。
 熊谷次郎直?の祖先になった。

・??? 齋藤実遠は西城よりも長井庄の支配に適した
     聖天院のある台地に拠点を移した。
   
    長井庄の開拓拠点として斉藤一族が住んでいた
    のであろう。




【4】成田氏の歴史

・天喜元年(1053) 太田庄成田郷に移住し成田太郎を
  名乗った。成田氏の祖になった。


・保元元年(1156) 保元の乱
 ※白河夜討ち・・後白河天皇方:源義朝&平清盛
が崇徳上皇&藤原頼長がいた白河北殿を攻撃した。
源義朝の配下・・・・
熊谷次郎直実・中条新吾・新六
・成田太郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎・
箱田次郎(行田)・河上三郎・
斉藤別当・同三郎・・・

は源義朝の配下になって、戦った。


 源義朝方に成田太郎がみえる。
(★ 『保元物語』)

・平治元年(1159) 平治の乱
熊谷次郎直実は源義平の傘下になった。



源頼義が奥州ね行く時、成田助高は下馬した。
 源頼義も下馬した。・・・これが、成田家の
 礼儀作法になった。
 ★でも、16代:成田長泰は鎌倉八幡宮で
馬上挨拶をし、扇で烏帽子を叩かれた。

 「成田(氏)系図」によると、成田助隆→助広→助綱
 と続く。



●6代:成田助高の嫡男:成田助広が継いだ。
箱田広能 助綱3 助忠 家助


①成田助高の嫡男:成田助広・・・家督を継いだ。
  成田助広→長男:箱田広能
       次男:助綱・・・・本流・・・
       3男:助忠
       4男:家助


②成田助高の2男:成田行隆は別府郷を継いだ。
→別府行隆となった。


③成田助高の3男:成田高長が奈良郷を継いだ。
→奈良高長となった。
◆奈良高長・・長男:高家→奈良助綱
次男:有助→高綱・・幸綱
光綱
④成田助高の4男:成田助実が玉井郷を継いだ。
→玉井助実になった。







・保元元年(1156) 保元の乱
7月 皇位継承問題や摂関家の内紛
  朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、武力
  衝突した。
  成田助隆(助高)の孫:広能が保元の乱で戦死した。
  (★『忍城主成田氏』「成田系図」)

●8代目:成田七郎助綱
・文治5年(1189) 7月 源頼朝の奥州攻撃
  藤原氏追討軍に成田七郎助綱がみえる。
  成田氏は恩賞で鹿角郡(秋田県)に所領を得た。
   (★『吾妻鏡』)
 

成田助綱の弟:成田助忠は源義経に従って功績を得た。

・鎌倉時代
  成田氏は御家人になって地位を獲得した。
所領は埼西(きさい)郡・幡羅郡(はんら)と
なった。

・建保5年(1217) 北条泰時の家人:成田五郎が刃傷沙汰
  を起こした。

●9代:成田兵衛尉資泰
・承久元年(1221) 承久の乱
宇治川の合戦で成田五郎と成田藤次が功を上げた。
 成田兵衛尉資泰と五郎太郎が討死している。
成田助綱の嫡子は戦死してしまった。

●10代:成田忠綱
 成田資泰忠綱が幼少のため、成田助綱の弟:家助が
 助綱の養子となって成田忠綱の補佐を行った。

・建長2年(1250) 鎌倉幕府の内裏・寺社造営費の分担をした。
・建治元年(1275) 鎌倉幕府の内裏・寺社造営費の分担をした。
  御家人名簿に成田入道跡の名がある。


●11代:成田秀綱

・元弘3年・正慶2年(1333)5月22日 鎌倉幕府が滅亡。
  成田助隆の子孫・・・
  成田秀綱・成田家綱は所領を没収された。
成田氏の庶流に預けられた。
  鎌倉幕府御家人:成田一族は没落した。

 建武の新政・・・足利尊氏の弟:直義が後醍醐天皇の
 皇子:成良親王を報じて鎌倉に鎌倉将軍府を成立させた。

 

●12代:(安保基員→)成田基員 
代わって成田氏を継承したのは武蔵七党の一つ丹党の
 安保氏であった。
説①・・・安保一族の安保次郎行員(★祖母が10代:
 成田忠綱の姉妹)の嫡男:安保基貞が領地を継いだ。
(★「埼玉の城祉めぐり:西野博道著)
説②安保氏は、安保実員の庶子:信員が成田家資
 (「成田系図」上の家助)の娘を娶って成田氏と
 姻戚関係になっている。
 安保信員の孫:行員が祖母を通じて成田氏の所領を
 継承していた。
 安保行員の子:基員は成田氏を名乗り、基員からその子
 :泰員への継承時には成田氏本領たる成田郷も所有して
 いる。
 
 ※雷電神社の建設した。
 ※竜淵寺を開基した。
成田氏の菩提寺:龍淵寺の開祖とされるのが成田五郎家時
 である。・・・中興の祖と伝わっている。
→成田氏の中興の祖となった。
このため、安保氏庶流の一族が姻戚関係によって没落し
 た御家人成田氏の領地や名跡を継承していったとみられ、
 成田系図上は鎌倉期から一貫して続いている戦国時代の
 忍城主成田氏は、実は安保氏系だと考えられている。
 泰員は白旗一揆に参加するなどしている。
(★ウキペディア)

・応永2年(1395) 成田氏が播磨国須富荘北方の祇園社
  に寄進した。

 ・・・成田氏の活動は見えなくなる。



※戦国時代・・山内上杉氏の家臣として活躍した。

●13代:成田資員(すけたか)
・文明年間(1469~1487) 忍城築城か?
  忍周辺の領主が岩松氏から成田氏に代わった
 「成田系図」生没年から推測して
 成田顕泰の築城とされた。
 (★通説)

・文明11年(1479) 忍城は存在したと指摘されている。
 築城はその前になるため築城主は抄録にみえる
 成顕泰の養父:成田正等とする説が提示された。

・延徳元年(1489)山内上杉氏配下の成田親泰が太田道灌の 
     縁戚で扇谷上杉氏配下忍大丞の館を急襲。

・延徳2年(1490) 成田親泰が築城を開始説
          翌年完成。

●14代成田顕泰
・永正6年(1509) 成田下総守顕泰(親泰)の忍城に
  連歌師の宗長は立ち寄った。
  

●15代:成田親泰
  児玉氏、忍氏などを滅ぼすなど勢力を広げた。
  忍城を中心に成田氏の最盛期となった。
しかし、上杉顕定の死後の上杉家家督争いで上杉顕実に
  味方して敗れ、勢力を衰退させた。
★この時期をとらえ、箕輪城主:長野業政が
娘の婿と送り込んだ可能性も大いにある。
成田顕泰か長泰が上野の箕輪城主:長野業政の
  娘をもらう?? ・・


●16代:成田長泰
長野業政の娘を娶った可能性が高い。
長野氏系図の中には、箕輪城主:長野業政の娘を成田氏に
嫁がせた系図もある。

現地忍城博物館学芸員調べでは、
 長野業政の娘が嫁いだ記録がなかった

 成田長泰は弱体化した山内上杉氏→後北条氏→上杉謙信
  に仕えた。


・天文21年(1552) 関東管領山内上杉憲政が北条氏康に
           平井城を追われ越後へ逃亡。
※通説は、新潟県の坂戸城・・あるいは春日山城。
※高崎市史では、水上か沼田
水上:建明寺
※秋池氏は、新潟県の市史では群馬県の中之条

・天文22年(1553)北条氏康が忍城を攻撃
   →落城せず。

・永禄4年(1561)
16代:成田長泰は鎌倉八幡宮で
馬上挨拶をし、長尾景虎かた扇で烏帽子を叩かれた。
長尾景虎が上杉家・関東管領家を継いだ。

  成田長泰は上杉謙信の不興を買ったために、再び後北条氏
  に寝返るなどめまぐるしい動きを見せた。

●17代:成田氏長・・・
 成田長泰の子:成田氏長
・永禄3年(1560)  長尾景虎(上杉謙信)が関東出兵の際
           には、成田長泰は抵抗。
   →上杉謙信の軍が城下に放火→成田長泰が降伏。
      成田氏は謙信の配下。
   →上杉謙信は成田長泰の美人妻を、そばに人質として
    置き、小田原攻めに向かった。
   (★NHK大河ドラマ「直江兼続」)

・永禄4年(1561)上杉謙信の小田原攻撃。
         上杉謙信軍の先鋒。
   帰途、鶴岡八幡宮での関東管領就任式で謙信と対立。
★成田一族は名門で馬上での対面は許可されていた。
上杉謙信が棒ではたいた。
    忍城に退陣→北条氏の配下。
★秋池氏「謙信が謝った。」?・・・・
※多くの関東武士が敵対し始めた。
長尾景虎は上杉輝虎の改名。
=関東管領の成立。

・天正2年(1574)上杉謙信が忍城攻撃→落城せず。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃。
◆◆成田氏長は北条氏に加勢。・・・約200名
*成田氏長・・・城主
*成田秦親・・・筆頭家老=成田氏長の実弟
*小宮山弾正介内膳・・客分家老
★秋池出羽守義勝・・・客分家老
※忍城の城主:成田氏長と弟:泰親&秋池出羽守は500
  余騎を引き連れ小田原城へ参陣説もある。


●●
1)小説「のぼうの城」
成田氏親500人 VS 石田三成20000人
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2)映画「のぼうの城」
  成田氏親500人 VS 石田三成23000人
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3)ウキペディアでは
成田氏親約3000人 VS 石田三成23000人

4)成田氏家の客分家老:秋池出羽守の子孫の調べ 
成田氏親 3200人 VS 石田三成28000人  
 忍城に武士・兵・農民ら3000人が籠城。
 ※秋池出羽守の子孫様・・2230人+町人・百姓
で、3200人・・名前を確認済とか?
①忍城留守居役・・成田秦季=氏長実弟
②行田口・・島田出羽守・坂本将監・本庄など300名
③長野口・・柴崎・三田・鎌田・成沢・秋山まど200名
④北谷口・・粟原・藤井・横田・沼野・江口など200名
⑤皿尾口・・篠山・安藤・宮原・長瀬・松橋など200名
⑥皿尾後詰・松岡・山田など30名
⑦持田口・・成田土佐守・田山・長藍・松木など200名
⑧大宮口・・齋藤・佐藤・門井・平賀・布施田など200銘
⑨忍口・・・坂巻・手島・青木・矢沢・櫻井・堀など500名
⑩佐間口・・正木丹波守・福島・内田・櫻井など400名
⑪遊撃隊・・粟原摂津守・笹沼・山田・加藤・吉野
     ・中村主水・鈴木・佐藤・村野、米原など
(★秋池氏「武蔵の風土記」忍城の巻・成田系譜より抜粋)
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※総大将:石田三成は、館林城攻略後、忍城攻撃。
 石田三成、大谷吉継、長束正家
  佐竹、結城、宇都宮、多賀谷、佐野、水谷の
  秀吉方に付いた関東武将が包囲。
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 忍城には城代:成田泰季、成田長親が300余騎、
2600人程の城兵+町人で守っていた。
 石田勢はは最初に力攻めを仕掛けた。
  忍城は沼地に築かれた城なので、なかなか攻略でき
  なかった。
 石田三成は堅城ぶりに沼地を利用して水攻めを発案。
    7里=28kmの「石田堤」を築堤。
 
石田三成は現行田市埼玉古墳公園にある丸墓山古墳
 に本陣を置いた。
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 忍城を囲む様に周囲7里に及ぶ堤防
 を築きあげた。
 ※行田のガイド:秋池氏の話によると・・・
 「稲荷山古墳の方墳部を崩して堤防にした。」
 利根川や元荒川の支流:忍川から水を引き込み堤防内
 を水で満たした。
 しかし、忍城内は降伏する気配を見せなかった。
 「浮城」と呼ばれる理由は、城が浮く(伝)
 なかなか城は落城せず。・・・

 大雨が降り、俄かに築いた堤防に忍城の籠城兵が堤に
 細工し決壊させた。
  →石田三成の将兵270名余が溺死。
 水攻めは失敗に終わった。
 ★「石田三成は戦さが下手だった。」という話もあるが、
※行田のガイド:秋池氏の話によると・・・
 「鉢形城の北条氏邦の反抗に応援に行く必要があった。」
 と、おっしゃっていた。
 
 豊臣秀吉から命を受けた浅野長政5000に、箕輪城受け取り
 →八王子城を回った真田昌幸3000が 加わり、再度の力攻
 撃を試みた。
 しかし、石田三成方は多数の死傷者を出し失敗した。

 結局、小田原城が落城するまで忍城を攻め落とすことは
 できなかった。
 
→成田氏長が城兵の助命嘆願し、開城。
 石田三成へ城が引き渡された。
 ここに、成田氏100年支配が終結。

※秋池氏の話・・
その後、忍城主:成田氏長と城代:成田長親は会津の
猪苗代?の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せた。
それから、下野国烏山へと移り住んだ。
成田氏長と成田長親は不和になり、成田長親は出奔し、
出家して自永斎と称した。」
でくのぼう様?になった。ここまでは言っていなかった。 


  成田氏は後北条氏に味方し、一時所領を失った。

 しかし、成田氏長の娘:甲斐姫・・・
 のぼう様:従姉妹が豊臣秀吉の側室として寵愛を受けるなど
  の幸運にも恵まれた。・・・
→徳川家康の関東入封後、松平家忠が入城。
忍城には城番役が置かれた。
 
 城主不在の時代 

・文禄元年(1592)徳川家康の4男:松平忠吉が
         10万石で入城。
  

●18代:成田長忠
 成田氏長の跡は弟:成田長忠が家督を継承した。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
成田長忠は徳川家康に属した。
大名として返り咲き下野国烏山を領した。
 後継者争いが起きたため改易となった。
 子孫は御家人、次いで旗本となった。



・慶長5年(1600) 尾張清洲城に転封後
         →酒井讃岐守忠勝
         →松平伊豆守信綱
※秋池出羽守の子孫様の話
 「島原の乱に秋池や小宮山や鳥居らが出陣。」

・寛永16年(1639)→阿部豊後守忠秋が入城。
忍城の大改築と城下の拡張整備が行われた。
   三層楼、二層楼などが建てられた。
   家臣達の屋敷も新築された。

・元禄14年(1701) 阿部正武の時、幕府は忍城の
          三重櫓・二重櫓・帯郭の造営を許可。
・文政6年(1823)桑名の松平下総守忠堯が入城。
4代~~~
 (★行田市博物館パンフレット+秋池氏口伝)

・慶応3年(1867) 大政奉還
     戊辰戦争の勃発
薩長軍の攻撃・・・
※行田のガイド:秋池氏の話によると・・・
  「埼玉と常陸の国境の栗橋から、忍城に薩長軍は
   侵攻した。・・・家老の鳥居強右衞門の子孫は
   切腹して、約50万両の借金を新政府に肩代わ
    りの約束をとりつけた。」
   つまり、薩長軍の進軍の最中に薩長軍の城になった。
   4代の後に廃藩置県を迎え、廃城。
・明治4年(1871)廃藩置県により忍藩は忍県へと改正。
     忍城は廃城。 


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この記事へのコメント

  • Casshern

    平将門東胤頼子孫田路氏に幼少期養子祖父で、神戸市西区在住父故郷は世良親王養母昭慶門院領[三方庄]宍粟市一宮町生栖梶原大歳神社世話世良家ですが、残念ながら、本家伯母に私は精神病人扱いされ、生栖梶原周辺に連絡禁止され、祖母実家白川家連絡禁止や、MRA&Amnestyの強制入院前の世良親王先祖や白川伯の話等全て伯母に抹消されてしまいました。
    [三方庄]地頭安保信員~成田氏等の資料有り難く、世良本家伯母に病人扱いされぬように先祖立証をしたい為、専門家学者を探しています。御存知なら教えて頂くと有り難いです。

    氏名 世良 康雄
    誕生1970.12.28
    学歴関学大商学部
    父世良英雄(西区秋葉台民生委員、心臓ペースメーカー脅迫時以外先祖話等)
    母旧姓芳原トヨ子(徳之島親戚神戸市長田区東尻池育ち、MRA,Amnesty'05X'mas命日冷凍睡眠噂Life神戸店店内放送声)
    弟世良卓也(神戸学院大卒、トヨタレンタリース勤務)
    【ameba blog Casshern】http://my.ameba.jp/menu.do?guid=ON【Gree RAMBO】http://m.gree.jp/?mode=home&act=top&from=footer&gree_mobile=f2d6927ff0720dbbd78ac1556a00b302
    【mixi RAMBO】http://m.mixi.jp/home.pl?

    2016年04月12日 03:21

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