箕輪初心★新田義貞「生品神社挙兵~鎌倉進軍コース」

★今回は、新田義貞の生品神社の再生復刻版でいこうと思う。
・元弘3年(1333)鎌倉幕府は楠木正成の攻撃に多額の経費を使っ
た。全国の荘園に臨時のお金を出すように命じた。北条高時は
新田荘世良田にも銭6万貫文を収めるよう下知を下した。頭に
来た新田義貞は脇屋義助に命じて、使者の一人:黒沼を殺させ
た。北条高時の報復の情報を得た新田義貞は、生品神社で挙兵
した。
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 (★新田荘歴史資料館の3月~の第5回企画展パンフ)
 平成25年(2013)





◆◆ 箕輪初心★新田義貞2「新田~鎌倉進軍」  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_41.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞3「2度の鎌倉攻撃」  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_42.html


◆◆ 《ニックネーム》『ぼ輔』さんのブログ ◆◆
《内容》太平記「稲村ヶ崎」伝説について・・・・
ブログ「鎌倉街道を探そう!」を書いている ぼ輔です。
下記ブログにて、稲村ガ埼で起きた事を詳細に解説しています。
http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/m/201007
常識的に言われている事と事実には大きな違いがあります。
「ぼ輔」さんは凄すぎます。
是非、寄ってみて下さい。



【1】新田義貞の挙兵理由
1)鎌倉幕府から重用されなかった不満。

2)元弘3年(1333)3月・・・護良親王の倒幕の挙兵の令旨を
  もらったこと。
  新田義貞の執事:船田義昌の働きがあった。

3)足利尊氏が鎌倉から出発後、4月に倒幕を決意。
 →新田義貞と足利尊氏は秘密の協定が存在した。
  (★久保田順一説)
 鎌倉の足利尊氏の子:千寿王(=後の2代将軍:義詮)を
 紀五左衛門尉(★紀一族は船田義昌の同族)が脱出幇助。
 千寿王の側近の田島○○(★岩松経家の一族)が岩松家
 を通じて新田軍へ。・・・
 5月中旬、千寿王(=足利直義)の世良田挙兵説もある。


4)楠木正成の征伐の途中棄権後、鎌倉幕府の命令への反感。
 「臨時の兵糧税の六万貫(六千貫説あり)を5日以内に払え。」
  という命令。
 淵名郷(=群馬伊勢崎)の北条得宗家被官:池田出雲介親連
 (★上野守護:長崎高資一族?)と黒沼彦四郎が受け取りへ。

 →新田義貞は「勝手に、我が地の辺りを馬の蹄で懸けさせつる
  こと返す返すも無念なり。」(★太平記)
  →二人を捕らえ、黒沼を惨殺。二体地蔵の所に晒した。
(★久保田順一先生)・・・鎌倉幕府への反逆。

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得宗:北条高時は、新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する文書を発給
した。徴税の使者を殺害した新田義貞への報復措置であった。


新田義貞の元に「鎌倉幕府が新田討伐へ軍勢を差し向ける。」と
いう情報が入った。
新田義貞の妻は得宗家被官:安東聖秀の姪である。
(★新田義貞:山本隆志著)
新田義貞の妻は安東重保の娘である。
(★新田一族の盛衰:久保田順一著)

★妻から情報を取得したのであろう。



【2】新田義貞の安養寺館=明王院(太田市旧尾島町) 
新田義貞の鎌倉攻めの際の「新田触不動」伝説が残っている。
「不動堂には、二対の不動明王が納められており、そのひとつは
1寸8分(約5.5cm)の白金製で、伝説では元弘3年(1333)
新田義貞の鎌倉攻めの際、山伏に化身して越後方面の新田一族
に一夜にして触れ回ったと伝えられ、「新田触不動(ふれふどう)
」として知られている。(★太田市公式Hp)
また、脇屋義助の石碑も残っている。
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◆◆ 箕輪初心●群馬旧尾島町「安養寺館=明王院」◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_7.html


新田義貞は一族郎党を集めて評定を行った。
安養寺館であろうと勝手に思っている。
①新田での防戦案
②沼田での利根川前に防戦案
③越後妻有荘への避難し、上田山(六日町)で防戦案
④→弟:脇屋義助の「どこにいて同じ。鎌倉を攻撃しよう。」
 という強硬論となった。

(★新田一族の盛衰:久保田順一著+群馬県史p253)


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【3】新田義貞の挙兵=生品神社(太田市旧新田町)
元弘3年・正慶2年(1333)年)5月
『神明鏡』・・・5月5日
『太平記』・・・5月8日
★足利高氏の六波羅探題攻略の翌日
 ★鎌倉幕府による平塚郷の長楽寺への寄進が5月8日である。
『梅松論』・・・5月中旬

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★生品神社に5~6回行っている。
 まとも写真が1枚だけ。あ~あ。
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 (★脇屋義助館を探してたら、夜になっちゃったのだ。)


・元弘3年・正慶2年(1333)
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 (★和食屋:新田之庄の中の絵・・・写真掲載許可済み)

5月8日 新田義貞・弟:脇屋義助と生品神社で挙兵。
一味神水の儀式=「旗ヲ上ゲ、綸旨ヲ披テ 三度是ヲ 拝シ」
  鰐口を鳴らして「神下ろし」をし、誓約の起請文に署名。
その起請文を焼いて、水に溶かして飲み交わす儀式。
 新田の土地で新田・大館・一井の共同墓地なので、
 結束を高めるには最高の場所である。
  (★群馬県史の第4章1節p255担当は峰岸純夫先生)
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★平成25年(2013)3月11日・・・いつの間に銅象が・・。

●生品明神=生品神社の場所の説 
 ※新田義貞が新田郡生品神社で旗揚げした軍旗に仁田山絹を
   使用(伝)。・・・群馬の絹。

後に、徳川家康が小山評定後、関ヶ原の戦いに行く前に
  仁田山絹で旗を作らせた。
  自分も新田系徳川氏だと縁起を担いだのであろう。


①新田生品明神(太田市市野井=一井)・・・有力説
②阿佐美生品神社(みどりの市笠懸)
③薮塚生品神社(太田市薮塚)
④富沢生品神社(太田市富沢)

生品神社にて、鎌倉幕府打倒の旗を挙げた。
「さらばやがて事の漏れ聞へぬ前に打立とて、同五月八日の卯刻に、
 生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ
 打出らる。相随う人々、氏族には大館次郎宗氏、子息孫次郎幸氏、
 二男弥次郎氏明、三男彦二郎氏兼、堀口三郎貞満、舎弟四郎行義、
 岩松三郎経家、里見五郎義胤、脇屋次郎義助、江田三郎光義、
 桃井次郎尚義(足利系)、是等を宗徒の兵として、百五十騎に
 は過ぎざりけり。」(★太平記)

★新田一族の大館、堀口、岩松、脇屋、江田などが参加した。
※新田一族・・・大館宗氏+子:幸氏・氏明 
        ・堀口氏兼+子:貞満・行義  
        ・岩松経家 
        ・里見義胤  
        ・江田光義  
        ・桃井尚義(足利一族だが新田と姻戚関係)達
騎馬150で代表者だけだが、歩兵は150×3~4で、
  一族郎党入れて、600~800人規模ではないがろうか?
  って、勝手に想像している。

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 (★群馬県史の系図)


【4】新田義貞の鎌倉進撃コース諸説
①従来の説:直接鎌倉に向かった説   
 「生品明神ヨリ笠懸野内出タル」(太平記)
 新田義貞は上野国新田庄の社前で後醍醐天皇から拝受の綸旨を
 三度拝して倒幕の旗を挙げた。時は卯の刻(午前6時頃)。
 兵力150余騎で出陣。
夕方、越後の同属2千余騎、甲斐・信濃の源氏5千余騎の来援
  で大部隊に拡大。
 
②従来の説+北上→南下説・・・「世良田ニ打出、陣ス。」 
  世良田から出発。(★「梅松論」)
 上野守護代:長崎高貞が阻止しようしたが、止められなかった。
  (★藤田明説)
 
最近の説:生品神社から八幡郷(高崎市八幡町)に行った説
 神明鏡・・・有力説。

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 群馬県史:峰岸純夫先生・久保田順一先生
 「新田義貞」:山本隆志先生P71・・・太田市史通史を採用している。
 
  

④生品神社から山名八幡郷(高崎市山名町=山名宗全先祖の地)
 に行った説 (★定方かつお説)

⑤ ③説+第2次挙兵説・・
  5月12日、千寿王+世良田満義の挙兵?
   (★峰岸純夫先生新説・・・久保田順一先生は否定)
                                       
⑥ 吉川英治説は・・・足利のばんな寺から    
      (★上州武士の中世史より)


5月8日   
●新田義貞は新田生品神社で挙兵150騎・・
  ★斉藤佑樹投手出身地・・・大島系一族
 「新田生品神社→新田郡庁前」   
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 (★新田荘歴史資料館・・・
   「太平記」で使用した新田義貞の鎧)

東山道・・(★伊勢崎は通れない)
 理由・・・淵名郷(伊勢崎)は鎌倉幕府要人:得宗家一族
  長崎高資の領土で威喝に動けなかった。
  
→新田義貞は幕府勢力を一掃する必要があった。
   150騎では隙に狙われる心配があった。 
      (★群馬県史:久保田順一先生:榛名町)  
 
→前橋大渡橋付近
 →高崎市旧群馬町金古→箕輪→榛名白岩札所道→
  榛名のの里見義胤館



●八幡郷(高崎市の豊岡・八幡・安中板鼻
 ・旧榛名町里見郷などの総称)
 ※八幡郷・・・新田一族の里見義胤・豊岡がいた。
 ※山名郷・・・新田一族の山名・寺尾がいた。
 ※越後の里見一族・・・里見・田中・鳥山・大井田
    ・羽川などが合流。
         ・・・2000騎になり。
 ★信濃源氏・・・・井上・小笠原・??(★箕輪初心推測)
    
  ※市村王石丸代後藤弥四郎(★由良文書)・・・・市村一族
  ※小笠原貞宗(★続群書類従)・・・
     (★「新田義貞」:山本隆志著)に書いてあった。

 ★甲斐源氏・・・・武田・逸見・浅利?(★箕輪初心推測)
        ・・・・7000騎になった。・・・
    
従って、八幡庄に野営したのであろう。
   (★群馬県史:峰岸純夫先生)
(峰岸純夫先生=高崎六郷小出身・中央大学教授
 ・群馬県立博物館館長・都立大学名誉教授)
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 (★高崎の八幡神社・・・源氏の氏神様)  
 
 ⑤里見義胤の館・・・光明寺(高崎市榛名町)
   平安後期の治安元年(1021)頃里見義俊?義時が創建。
   豊岡?の館の近く

●越後の新田一族
 (★群馬県の新田一族研究者でコースが異なる。)
 →八幡庄(高崎市榛名町)の里見一族
 →群馬の四万の稲包山越えした越後の里見一族
     (★久保田順一先生)
 →八幡庄(高崎市榛名町)の里見一族→群馬の野反→現秋山郷
 →妻有荘・波多岐荘=越後の里見一族
     (★峰岸純夫先生)  


 ①大井田弾正少弼氏経
  里見義成の次男:大島義継=里見伊賀蔵人義継が越後国
   波多岐荘大井田郷(新潟県十日町市)に土着。
 その子:里見氏継が信濃:市川氏の娘をもらって、大井田氏を
 名乗った。       
 大井田城・・・十日町市中条字城山  
  ※戦国時代になってからの分家の城
  大井田館・・・信濃川の西地区
 (★里見繁美氏・・榛名の里見で直系の大東文化大学教授)
 (※へぎ蕎麦の小嶋屋)

②田中義清の子孫
里見義成の弟:田中義清・分家は中条氏・下条氏・小森沢氏。
廿日城・・・十日町市下条2丁目廿日城
坪野館・・・・十日町市中条中町
     (※里見氏→田中氏→千利休)

③鳥山左京亮
 里見義成の三男:里見時成は鳥山姓を名乗った。
 ・烏山時成は新田荘鳥山(群馬県太田市)
 ・波多岐荘の入馬・今泉・深見・倉俣
   (新潟県十日町市・津南町・中里町)など。   
 節黒城?・・十日町市新町字新田(旧川西町)
   (★箕輪初心の勝手な解釈)
 二田城・・・・十日町市坂田1291(旧川西町)
 鎌田城・・・・十日町市鎌田字西ヶ崎(旧川西町)
 高内城・・・・十日町市別山字高内(旧川西町)だと思う。  

④羽川刑部 
  琵琶懸城=羽川城・・・十日町市城之古字原
  国道117号を北上→国道253と交差する手前の
  「川冶下町」
  信号を左折。十日町消防署→JR飯山線
 →信濃川手前200m程の城之古集落内の観音堂を祀る森
   が城跡。
 信濃川河岸段丘10mの落差を利用して築城。
 段丘の真下部分は水田地帯であるが、
  当時、城の真下は信濃川が?

 大崎城・・・十日町市大崎字抜山
   (★久保田順一氏講演会・峰岸純夫氏講演会
・新潟県十日町博物館・新潟の城一覧による箕輪初心の解釈)
   

5月9日 新田義貞:20万人の大将
●新田義貞は里見義胤館(旧榛名町光明寺)で宿泊
●新田義貞は八幡神社で、戦勝祈願。
●→烏川を渡って
⑥高崎市寺尾茶臼山城+寺尾館



 →鎌倉上道 
⑦山名城&光台寺(高崎山名)
※山名八幡宮は山名氏が鎌倉八幡宮より勧奨。
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●新田義貞が鏑川・神流川を渡って武蔵国
  嵐山→菅谷→
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 足利尊氏の子:千寿王(=足利義詮)200余騎に守られて
  新田義貞軍に合流。
 ※千寿王は四歳で「若御料」と呼ばれていた。
 →新田義貞軍に関東の武士がぞくぞくと新田義貞軍に集結。
 日暮れ時には、20万7千余騎の大軍に拡大???。
 ※入間川の将軍沢が野営地?
  (★群馬県史:峰岸純夫先生)

5月10日 新田軍の南下 
▲幕府軍:桜田貞国を総大将として、副大将を長崎高重など
  ・・・正面から6万騎で北上。
  金沢貞将は上総・下総の軍勢を率い、背後から攻撃態勢。

5月11日 小手指ヶ原の合戦(埼玉県所沢市)
 辰の刻(午前8時頃) 新田義貞軍は入間川を越えて小手指原で
    北上してきた幕府軍と遭遇。
 結果・・・新田義貞方は300余騎
       幕府方は500余騎の犠牲者。
  →日暮れ。勝負は未決のまま、退却。
 ●新田義貞方は三里後退して入間川(狭山市)に陣
 ▲桜田貞国方は三里後退して久米川(東村山市)に陣

5月12日 久米川の合戦(埼玉県東村山市)
 夜の明けとともに合戦。
 結果・・・義貞軍は勝利。幕府軍は、陣容を建て直すために、
      分倍河原まで後退。
      義貞軍は合戦で人馬とも疲れていたので、追跡を
      やめて、久米川に陣。

 峰岸説では、千寿王(足利直政)は世良田で挙兵・

5月13日  ?

5月14日   
■幕府は北条高時の弟:北条泰家を大将に10万の大軍多摩川の防備
  線を死守するために鎌倉を出発。

5月15日 分倍河原の合戦①
●新田義貞軍は 分倍に陣する幕府軍を壊滅させようと攻撃。
▲鎌倉幕府軍は、大軍で抗戦。
●新田義貞軍は入間川南の堀兼(狭山市堀兼)まで後退。 
  新田義貞は武蔵国分寺を焼いた。
  飽間(あきま)一族(群馬県安中市秋間)の飽間盛貞
 ・飽間家行が戦死。
●晩、新田義貞軍に相模の三浦義勝+松田・河村・土肥・土屋
 ・本間・渋谷などの相模の国人衆が参陣。
 ※三浦大多和義勝に身内は、足利氏執事:高師直の養子になって
  いる。(★群馬県史)
→相模の国人衆の義貞軍への参加→幕府滅亡の決定的要因になった。

5月16日 分倍河原の合戦②
 未明~~~
●新田義貞軍(相模勢と江戸・豊島・葛西・河越らの坂東八平氏
   や武蔵七党を主体)で攻撃。
▲幕府軍は油断。結果・・・新田義貞軍が大勝利。
▲幕府軍大将:北条泰家は関戸付近(多摩市)で、家臣の安保道堪
  ・横溝八郎の奮戦によって、鎌倉へ脱出。
●新田義貞軍は、鎌倉道を南下して鎌倉に向かった。
  勢力は60万7千騎であった。(★太平記)


※常陸の塙一族(鹿島神宮神官)が新田義貞に参陣した。
 (★「新田義貞」:山本隆志著)に書いてあった。


5月17日 いよいよ鎌倉。
 鎌倉は三方を山に一方は海に囲まれた要害の地だ。
    
 ・千葉貞胤が参戦「鎌倉下道」の鶴見(川崎)で戦闘。
    千葉貞胤 VS 金沢貞将     
  結果・・・新田敗戦。

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 (★群馬県史より)

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 (★新田荘歴史資料館の新田義貞像)
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 (★鎌倉の稲村ヶ崎)

5月22日 鎌倉幕府を滅ぼすことに成功した。

◆◆ 箕輪初心★新田義貞3「2度の鎌倉攻撃」  ◆◆
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ブログ「鎌倉街道を探そう!」を書いている ぼ輔です。
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★明日は、伊勢崎も西今井城かな?



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この記事へのコメント

大嶋クン
2017年01月15日 00:56
齋藤祐樹が大嶋一族というのは誤りです。
齋藤家は祐樹の3代前が配属将校(太田中学?)として生品村に居を構え、そのまま居ついたもの。新田村田町の古老に聞けば、余所者だよと教えてくれます。
大嶋クン
2017年01月15日 09:51
長屋門のある大島家当主はスキー登山仲間で、「大学に行く前に、大島家と親戚の齋藤氏を預かっていた。」おっしゃっていたので、そう書きました。先祖が配属将校だったという情報ありがとうございました。

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