箕輪初心●旧尾島7『堀口館』=新田系堀口一族

新田義重→義兼→義房→新田(世良田)政義→政氏と続く。
新田政氏の子どもは4人いた。長男:綿内為氏・次男:堀口
次郎貞氏・3男:貞寂・4男:大館宗氏である。堀口次郎貞氏
が鎌倉時代に堀口郷に館を構えて堀口氏の祖となった。
(★尊卑分脈)
※別系図では新田政義の3男:家貞を堀口氏の祖とする。
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◆◆ 箕輪初心●群馬旧尾島『9城一覧』 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201302/article_28.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「新田館」=新田義重館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_1.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「徳川館」=徳川義季館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_4.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「長楽寺&世良田館」=世良田頼氏館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_5.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「満徳寺」=徳川義季の娘 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_6.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「安養寺館=明王院」=新田義貞の館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_7.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「大舘館」=大舘宗氏の館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_9.html



【7】堀口館・・・尾島町堀口下堀口 
■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日) 
○正覚寺という寺をめあてに行ったが、探すのが大変だった。
 近所の人2人に聞いて、やっと行けた。古い群馬県地図なので、
 正覚寺の記載はあるが、実際には正覚寺がなかったのだ。
 
①賀茂神社のすぐ西側に位置していた。
 道路沿いに「堀口館」の案内板が出ている。
 民家の裏手にあるため場所は分かりにくい。
 駐車スペースがあった。 
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②旧尾島町の南部・・早川の土手のすぐ脇が堀口館の跡である。
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③標柱と案内板・石碑があるだけだった。
遺構は失われてしまっている。
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 早川の土手によって、館跡は半分埋められてしまった。
 昭和43年まで正覚寺があったという。堀口館跡に建てられた
 寺院である。しかし、水害対策で堤防を築くことになったため、
 移転して北西の浄蔵寺と合併したそうである。
 だから、迷っちゃったのだ。~~~
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 案内板
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◆◆ 堀口一族 ◆◆
新田義重→義兼→義房→新田(世良田)政義→政氏と続く。
新田政氏の子は長男:綿内為氏・次男:堀口次郎貞氏・3男:
貞寂・4男:大館宗氏である。大館宗氏の兄となる堀口次郎貞氏が
鎌倉時代に堀口郷に館を構えて堀口氏の祖となった。
※別系図では、新田政義の3男:家貞を堀口氏の祖とする。
※別系図では、政氏の7男:安養寺貞氏もいる。
どの系図が正しいかはわからないが、堀口氏は大館氏と同じ
系統の新田一門であることは間違いない。
★堀口貞氏の孫が堀口美濃守貞満である。




◆◆ 堀口貞満の生涯 ◆◆
・永仁5年(1297) 堀口貞義(従四位下美濃守)の子として生まれる。

・元弘3年(1333) 新田義貞が鎌倉幕府打倒のため挙兵。
 ★堀口館→安養寺館→生品神社コースであろう。
  堀口一族は生品神社へと馳せ参じた。
 ★生品神社→高崎の八幡神社→鎌倉上津道・・・
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 (★群馬県史・・・久保田順一文責) 
 第一次鎌倉攻撃
  堀口貞満は巨福呂坂(こぶくろざか)から鎌倉を攻撃した。
  新田義貞・脇屋義助は中央から・・・
  大舘宗氏・江田行義は極楽寺口から・・・
             又従兄弟:大舘宗氏が戦死。


◆◆ 箕輪初心●新田義貞2「2度の鎌倉攻撃」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_42.html

◆◆ ニックネーム『ぼ輔』のブログ ◆◆ 
太平記「稲村ヶ崎」伝説の真偽について、
ブログ「鎌倉街道を探そう!」で詳細を解説しています。
http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/m/201007
★こんな凄い方から、コメントが来た。私は素人です。
「ぼ輔」様、ありがとうございます。凄すぎて・・・

 以後、新田義貞の重臣として活躍していく。

・建武元年(1334) 正六位上大炊助に叙任される。

・建武2年(1335) 従五位上美濃守となった。

 中先代の乱→矢作川での戦い
足利尊氏がに建武政権に叛旗を翻した。
 新田軍は足利軍と戦った。
     (★『梅松論』)

・建武3年(1336)
新田義貞は後醍醐天皇のお世話係:こうとうのないし=
侍女に好意を持っちゃって、追撃が遅れた。

そのうえ、播磨の赤松氏に足止めされた。
脇屋義助・江田行義・堀口貞満・大舘氏明が頑張ったが・・

  西国で勢力を盛り返した足利尊氏が京都を占拠した。
  堀口貞満は新田義貞の軍に従い、後醍醐天皇らとともに比叡山
  に逃れた。
  新田義貞・堀口貞満達は比叡山へ入った後醍醐天皇を守り
  近江坂本で足利尊氏と戦った。
  後醍醐天皇は足利高氏(尊氏)からの密使の和議の誘いに乗り、
  こっそり比叡山を下り、京都へ戻ろうとした。
  
  それを知った堀口貞満が、出発直前の後醍醐天皇に
「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、
  義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」

  と奏上した。
  堀口貞満の言葉に後醍醐天皇は恒良親王に皇位を譲り、
  新田義貞に託し、新田義貞らが官軍となるように保証してから
  比叡山を下りた。
    (★『太平記』・・・久保田順一)
  ★「太平記」の名場面の一つとして堀口氏の名を後世まで
   残しているのだ。


 堀口一族は新田義貞に従って、南朝方の勇士として転戦した。
堀口貞満は子:貞祐らとともに越前及び美濃各地で戦った。
 
・延元3年・建武5年(1338)
   堀口貞満は美濃から越前に進軍中に没した。
堀口貞祐が堀口氏を継ぎ、北朝方との戦いを継続した。

◆◆ 箕輪初心★新田義貞1「誕生~新田宗家」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_40.html
  
◆◆ 箕輪初心★新田義貞2「鎌倉出陣」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_41.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞3「鎌倉攻撃」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_42.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞4「鎌倉散策」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201202/article_2.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞5「金ヶ崎城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html
  
 
◆◆ 箕輪初心★新田義貞6「杣山城&義貞の最後」 ◆◆
  新田義貞の福井での討ち死に。
http://53922401.at.webry.info/201104/article_30.html
   

新田義貞が福井で死亡。

越後十日町の新田系大井田一族が援護したが、既に遅かった。

・正平13年(1358)年) 多摩川矢口渡
新田義興(義貞の子)が鎌倉府の手により謀殺された。
堀口貞満の子:義満が新田義興に殉じ自害した。


・室町時代  美濃国(岐阜県)本巣郡に、堀口一族の
   子孫が土着した。


・戦国時代 齋藤氏や明智氏に仕えた坂本氏は堀口貞満の末子
  :貞安の子孫とされる。
  (★ウキペディア)



★参考文献
『群馬県史』・文責は久保田順一・峰岸純夫
『新田義貞』:峰岸純夫著 人物叢書
『新田義貞』:新田次郎著 新潮社
『新田一族の盛衰』:久保田順一著 あかぎ出版
『新田義貞』:山本隆志著 ミネルバ書房
Hp「ウキペディア」 など

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