箕輪初心●群馬『寺尾中城2回目』=新田義重の城か?

平成25年(2013)2月10日、07:45に富岡武蔵氏・余湖さん
・野口さんと合流した。①東吾妻町の萩生城、②倉渕の権田城、
③大明神砦、④栗崎城=三の倉城、⑤榛名の榛名山城・・・・
富岡武藏氏と別れ、⑥高崎の寺尾上城=乗附城、⑦寺尾中城、
茶臼山城と御一緒させていただいた。今日は、⑦寺尾中城の
紹介をしようと思う。「観音山ファミリーパーク」からのハイ
キングコースになっているのだ。2回目の訪問である。

余湖さん・野口さん、お世話になりました。
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◆◆ 箕輪初心●群馬高崎:寺尾中城1回目 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_20.html

◆◆ 富岡武蔵「寺尾中城」詳細  ◆◆
http://tomioka.at.webry.info/201101/article_20.html

◆◆ 余湖「寺尾上城・寺尾中城・茶臼山城」詳細  ◆◆
余湖さんの写真の赤い服は私である。
http://homepage2.nifty.com/mizuki55/gunma/takasakisi02.htm


◆◆ 箕輪初心●茶臼山城=寺尾城本城・新田義重の城◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_19.html
平成25年(2013)2月10日の探検では、看板設置&
下草刈りがしてあって、大きな堀ははっきり見えた。
主郭の土塁や井戸跡・二の郭が目立っていた。南郭と
あったが、烽火台であろう。


【1】訪問記①・・平成20年(2008)4月15日?  
◆◆ 箕輪初心●群馬高崎:寺尾中城1回目 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_20.html

○高崎駅から城南大橋の越え、石原方面に向かう。
葬儀場ロード途中にファミリーパークの看板があり、
 右折し、2~3km。
○ファミリーパークの駐車場。
①中央コースを北に進むと、「寺尾中城」の表示がある。
 ファミリーパークから城へ→中央コース
②城探求者以外来ないようなハイキングコースになる。
 『いったいこの城は何?」と思いながら進む。
③本丸手前の寺尾中城の看板
④本丸へ
⑤本丸へ登頂。
⑥二の丸へ
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 (★山崎一氏縄張り図)


【2】訪問記②・・平成25年(2013)2月10日
①観音山ファミリーパーク駐車場
HOTレモンを買って、うがいした。
コーヒーが飲みたかったが、胃潰瘍で禁止令が出ている。

②看板・・・寺尾中城の中央コース=赤のコース
  約1,040m、所要時間37分・・・
 5つの郭巡りコース。
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③芝生広場
公園のふわふわドームには、家族連れでいっぱいだった。
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④登城口・・少し登る。
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⑤分岐・・・少し下る。
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 登城口から3~4分歩くと本城が見えてきた。


⑥土塁・・・・二重の1
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⑦土塁の間の説明板
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  説明板には
  「応永5年(1398) 後醍醐天皇孫:尹良親王(タダナガ)が
  新田一族であった世良田政義の援護を受けて、
  ・・・・平井城:上杉
 「山崎一」氏の著書を参考にしている。

⑥~⑧ 堀切&土塁&堀切&本郭土塁
    ・・つまり、二重堀になっている。
   堀切の右奥への道が「南コース」 となっている。
   堀切の延長線上に下へと落ちていく竪堀がある。
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⑨本城への登り道~本城・・・★余湖さん
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⑩本城・・・L字型である。本城は狭い。
  ベンチが設置されてはいるが、眺望があまりよくない。
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しかし、高崎市役所が見える。昔は木を切ってあったか
ら、よく見えたのであろう。
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  本城を一旦降りて、さらに東へと進む。
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⑪堀切・・・

⑫二の郭・・強引に急な坂を登った。
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  二の郭は二段になっているようだった。
  しかし、二の郭は削平地ではあるが・・・。
  ★本城よりは広い。標高も高そうである。
私は余湖さんに
 「こっちが主郭じゃあ、ないでしょうか?」
 「そうかもしれないね。」
  でも、決して広い郭ではない。
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 振り返ると、
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 二の郭から、さらに東へ下る。

  すぐに三の郭へと出る。

⑬三の郭
 城の中では最も広いが、少し斜めである。
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  階段はかなり急角度である。
  ★防御には最適であろう。
  階段下に浅くなっているが堀切が切られていた。
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○三の郭から四の郭までは、結構、下る。
 急な階段を下りて300m程下る。かなり降りる。
「今、半分ですよ。」


⑭土橋・・約20m程ある。
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 「転落注意」の看板・・・両側が下の方まで落ちている。
  結構、迫力がある。最大のポイントか?

土橋を渡ると、すぐに四の郭へと出る。

⑮四郭
 「これが郭?」
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  四の郭と五の郭ともかなりの高低差がある。
  ここで、休憩して、余湖さんと野口さんを待とうかと
  思った。

  急な階段を越えると尾根道に出る。両側も崖である。
  しばらく進むと、登り道になる。
  五の郭がやっと見えた。
 

⑰五の郭・・小さな祠が祀られていた。
ベンチで野口さんが休んだ。
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⑱堀切・・・
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⑲「危険区域 立入禁止」だってと、余湖さんが言った。


○山道を引き返した。
 

茶臼山城には、暗くなる前に行けた。
 ★もの凄く、整備されていてビックリした。
 余湖さんも野口さんもとても喜んだ。
 二人は「下道で茨城の野口さん宅の土浦まで帰る。」
 という。ラーメンの美味しいところに行かないかと
 誘われたが、胃潰瘍のため、断った。
 余湖さんも野口さん、お世話になりました。

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 (★山崎一氏の縄張り図)
余湖さんの即興縄張り図は携帯の中だった。



◆◆ 寺尾中城の歴史 ◆◆
・治承4年(1180)) 源頼朝が挙兵。
   新田義重は寺尾城に兵を集結させた(★『吾妻鏡』)。
新田田義重は源頼朝の挙兵に応じなかった。
しかし、倅どもは、皆呼応したのであった。
   新田義重は源頼朝を信奉していなかったのだ。
 理由は、
 ①新田義重祖父=八幡太郎義家である。
  ★新田義重の父:次男:源義国である。
→つまり、自分が八幡太郎義家に頼朝より、血が近い。
「伊豆で流人生活の源頼朝は自分よりも自分は血続上で、
源氏の頭領になってもおかしくない。俺は母は確かに
豊島一族だ。・・しかし、俺が頭領に相応しいのだ。」
と、思ったのだ。

◆◆ 箕輪初心★新田一族の歴史『新田義重』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_29.html

②同族の木曽義仲は、高崎の吉井を領地にしていた。
 木曽義仲が進行してくるのではないかととういう懸念が
 あった。
 群馬県史・2012年の久保田順一先生の説では、
 「木曾義仲の父は吉井→武蔵菅谷:大蔵に進出した。」
 ★新田義重の関係は、仲良し関係ではなく、敵対関係が、
 30年程続いたという説が有力のようである。

 
 
◆◆ 箕輪初心●寺尾城の太田新田説&高崎寺尾説 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_29.html

◆◆ 箕輪初心●群馬高崎:寺尾中城1回目 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201012/article_20.html
 ②源義家の長男:義親は朝廷に謀反を起こし討伐された。
  
余湖さん
 「寺尾城=寺尾中城のことであったと一般には言われている。
 しかし、寺尾地区には寺尾上城、寺尾前城(山名城)といっ
た城郭もあり、本当にここが新田義重の寺尾城でよいのかど
うか、確証があるわけではない。」


◆◆ 箕輪初心★太田「寺尾城」&高崎「寺尾城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_29.html

・応永5年(1398) 後醍醐天皇孫:尹良親王が新田一族であっ
 た世良田政義の支援を受けて、南朝方の退勢を挽回すべく
 寺尾城に籠城した(伝)。
 寺尾城=寺尾中城?。

・応永19年(1412) 足利方の山内上杉憲定に攻撃・・。
寺尾城は落城・・・
  尹良親王は信州諏訪に落ち延びた(伝)。

 その後は不明。
 (★現地案内板)
  
自性寺焼:青木昇師匠は
「戦国末期のかわらけを多数発見した。」と
言っていた。

きっと、戦国時代にも使われたのであろう。


★明日は、太田の城にするかな。あまり行っていないが。

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