箕輪初心●群馬安中【菅沼城=下山城】&磯部温泉

磯部駅から見て北の碓氷川対岸の海雲寺が城址である。
山門脇に土塁と空堀が残っている。現在では墓地の拡張な
どで多くが失われている。山崎一氏の縄張り図&安中市教
委調べの海運寺の外側の二重の堀の内側だけとなっている。
でも、1万石の城には見えないのだ。100m×100mでだけ
城だけでは、寂しいのだ。

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◆◆ 箕輪初心●群馬安中の城一覧35城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_11.html


■訪問記・・・平成22年(2010) 11月14日
○海運寺に数度行ったことがあるが、城と気づかず・・
○群馬出身の大学後輩のN氏「俺んちの庭も城の一部。」
 と言っていた。
●縄張り図
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 (★山崎一氏)
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 (★安中市教委)


◆アクセス
R18磯部温泉口から磯部駅に向かう途中の道を
      右に曲がると海雲寺の山門。
 中仙道という食堂の信号を南下するのもよい。
 また、磯部駅から「雀のお宿」前を行き、橋を渡る。
 橋を渡って、すぐ左折する方法もある。

①海運寺の山門

②山門の横の土塁と空堀跡。
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③境内の土塁や空堀。
         
○境内の片隅に菅沼定清を顕彰する碑
★菅沼定清は短い統治な中で立派な功績を
 残したのだろう。
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④碓氷川側は河岸段丘の絶壁。
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⑤崖途中の井戸
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⑥菅沼定清の墓・・・?

※城址碑や案内板等は見られなかった。



◆◆ 菅沼一族 ◆◆

1)菅沼家の系譜
※菅沼氏は美濃土岐氏の庶流で、奥三河の豪族である。

・永享6年(1434) 土岐定直は長篠の作手菅沼に進出。
  菅沼俊弘を討ち、菅沼定直に改姓。
  愛知県長篠に2家に別れた。 

・永正5年(1508) 長篠菅沼満成の子:元成が長篠城を
築城。
※山家三方衆・・
①作手の奥平(上州吉井の奥平の子孫が移住)
②田峯の菅沼・・土岐=菅沼定直の長男:定成系
③長篠の菅沼・・菅沼定直の子:定信系
+富永氏から野田を委託。・・菅沼定信の分家。
※3家は結婚で、勢力保持。

・元亀4年(1573) 野田城の戦い
室町幕府15代将軍足利義昭の信長包囲網に呼応し
た武田信玄に攻囲され、野田菅沼定盈は開城。
→武田信玄死亡。
・天正3年(1575) 5月長篠の戦い
織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼との決戦
菅沼定盈も参戦。、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊の
  一員として戦功を挙げ、野田城を奪われた武田軍へ
  の雪辱を果たしている。
・天正18年(1590) 後北条氏滅亡後、
   徳川家康は菅沼治郎右衛門定清を配置。
   菅沼城を築城。

◆◆ 菅沼治郎右衛門定清とは? ◆◆ 
①野田の菅沼家&②田峯の菅沼家
 どっちの菅沼一族なのか記録がないので、不明。  
③野田菅沼定盈は菅沼一族の支流ながら、武田軍に
 捕らわれる事があっても一度も徳川家康に弓を引く
 ことがなかったので、功績を高く評価され、徳川
 政権下で子孫は同族の中で最も繁栄している。
武蔵阿保で1万石を与えられた菅沼定盈の一族の
 可能性がある?子供は竹千代、定仍、定成、
 定芳、定武、田中吉官、娘(本多康俊室)がいるが、
 しかし、「菅沼定清」の名はない。

④長篠菅沼俊弘の系統は菅沼治郎右衛門=次郎右衞門
 を名乗っているのである。
 しかし、「菅沼定清」の名はない。
⑤真田家家臣の菅沼氏も治郎右衛門を名乗っている。
 (★日本家系協会の資料より)
(★長篠の戦い・・・長篠城資料館冊子)

※城代だけが群馬に派遣された?・・・。
  
・慶長5年(1600)  関ヶ原の戦い  
  菅沼城は廃城


◆ 磯部温泉 ◆
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①温泉マーク発祥の地
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②雀のお宿の湯
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★いい風呂ですよ。
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③大手拓次の故郷
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◆◆ 箕輪初心★大手拓次 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201111/article_2.html

④多くの文人墨客
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★明日は・・・

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