箕輪初心●群馬渋川【白井城】=上杉謙信の同族の城

4月13日、北朝鮮のミサイルをよそに、月210円でブロ
グの10ギガに拡大したはずなのに写真が添付できない。

14日、10時45分・・・やっと復活したのだ。
白井城の訪問は3回ある。関越自動車で下っている人は、
渋川伊香保ICを越えると左に吾妻川の右に城が見える。

白井城も上杉氏、北条氏、武田氏などの戦国大名間の抗争
の波に揉まれた歴史を繰り返している。従って、白井城を居
城としていた白井長尾氏は、長尾景虎(同族上杉謙信)→
武田信玄配下:真田昌幸→上杉謙信→北条氏邦配下→滝川
一益配下→北条氏邦配下と主人をを変えざるをえなかった。
上杉・武田・北条の三つ巴の中で、★悲しい運命かも?

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 (★本丸から枡形を望む。)
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 (★現地案内板)

白井城:渋川市(旧子持村)・・・白井吹屋 

訪問記①・・・平成19年(2007)11月4日
 ★写真が見つからず
 「渋川の白井:道の駅からすぐ西・・・歩いて10分」
 ・渋川の市街から新しい国道17号を北上すると、利根川と吾妻川
  の合流点の橋がある。
 ・白井の宿場町の崖の上にある城である。
   吾妻川の北西の崖城である。
 ・三の丸→二の丸へ。畑が続く。その間にも堀が残っていた。
 ・北郭・金毘羅郭がある。
 ・本丸へは深い堀を土橋で渡る。
  「マムシ注意」の看板があった。
 ・本丸の北には枡形門がある。
   「太田道灌が指導した石垣。」(伝)が現存。
 ・本丸周辺の土塁や堀、虎口の石垣などがはっきり残存。
  ・・・すごいぞ。蛇はきらいと思いながら、
 ・本丸は西は断崖に面しているが、他は高さ2~3mの
  土塁に囲まれている。
 ・本丸の南東には笹郭・南郭・新郭があった。
 ・城の北と東には、それぞれ北遠構・東遠構の堀があって
  総郭(城下)を囲む構造になっていた。

訪問記②・・・平成22年(2011)1月30?日
 ★写真が見つからず。
 利根川と吾妻川の合流地点に突き出した舌状の台地に位置する。
 南に尖った三角形の構造で、西は吾妻川に面する断で、自然を
 利用して築かれた断崖城である。
 城域は東西800m、南北1200mある。
 中央部には本丸、二ノ丸・三ノ丸・北郭・総郭が北方にある。
 南には南郭・新郭がある。
 南東には城下町=白井宿がある。
  
■訪問記③・・・平成22年(2011)2月13日
①宿場町=白井宿
古い街並みが残され綺麗に整備されている。
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②総郭・・・武家屋敷群。北に寺、西に寺がある。
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 北遠構の城戸口跡
  北遠構・東遠構の堀があって総郭(城下)を囲んでいる。
③金比羅郭・・・遠望のみ。

④北郭・・・北郭の櫓台跡。現在は城山不動尊
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⑤北郭
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⑥空堀
  北郭&三の丸との間の屏風折れ状に横矢がかりの堀

⑦三の丸
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⑧空堀・・・三の丸&二の丸との間の堀
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⑨二の丸・・・農地。
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⑩空堀
  二の丸&本丸との間の東側の堀 ・・・三日月掘
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  二の丸&本丸との間の西側の堀
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⑪本丸
 ・枡形門
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  ・石垣・・・太田道灌が指導(伝)。
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 ・案内板
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 ・白井城址周辺の空撮写真
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  (★現地案内板より)  
 ・西側以外は高さ2~3mの土塁に囲まれている。
  高さ2~3mの武者走り状の土塁が三方向(北・東・南)にある
 ・本丸の北面土塁=枡形
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 ・本丸の北側の土塁
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 ・本丸の東側の土塁
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 ・内堀
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 ・本丸の南面土塁
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 ・本丸の西側直下を流れる吾妻川・・30mほどの断崖。

⑫笹郭・・・南側の一段低い郭
・先端部分の櫓台
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 ・虎口から回り込んで西側に伸びる掘。
 ・掘の西端は吾妻川の断崖になっている。
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⑬南郭
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  南郭からの本丸の眺め  

⑭新郭
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⑮仁居谷城=平時の館・・・旧子持村白井仁居谷
★白井城のすぐ南東下に見えたんだけど、行かなかった。
   カインズホームの南隣にある。


白井城の城下町=白井宿
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  道の駅「こもち」

  「白井温泉こもちの湯」(日帰り温泉施設)

 ※4月22日「白井宿まつり・・「武者行列」

小見様・・・白井宿観交(光)案内人の会
    会長宅 0279-23-5296



◆◆ 白井城の歴史 ◆◆
・康元元年(1256)    長尾景ひろがの築城説あり。
★白井城の築城時期は不明。
・南北朝時代・・・長尾景忠が白井の地に入封。
         白井・総社長尾家を開いた。
・永享年間(1429~1441)長尾景仲が築城(伝)。
  ※長尾景仲・・・関東管領:山内上杉憲実の重臣であった。
  ・享徳の乱などの戦乱・・・白井城が築城された?

・文明7年(1476)   長尾景春(景仲の孫)の乱  
   長尾景信の死後、管領家の家宰職の相続・家督争いが勃発
   長尾景仲の孫:景春が総社長尾家の長尾忠景と対立して
   山内上杉家に反乱(長尾景春の乱)を起こした。
 ・鉢形城籠城・・・長尾景春 VS 太田道灌
 ・広馬場の戦い  
   長尾景春+古河公方・足利成氏 VS 上杉憲政+長野憲業

・大永7年(1527)長尾景春の孫:景誠が家臣に暗殺された。
  総社長尾家から長尾憲景が入り白井長尾家を継いだ。
   勢力が減退、長野氏などに圧迫されるようになった。
★というよりは、長尾景誠の妻は箕輪城:長野業政と
   親戚関係(妹の夫)であった。北条氏邦の傘下に入
   った総社長尾家を再び上杉憲政の傘下に戻す戻すねら
  いが長野業政にあったと思われる。

・天文15年(1546)河越夜戦   
   上杉憲政の勢力が衰退→北条氏が侵攻
   
・天文21年(1552) 山内上杉憲政は平井城を捨て越後に亡命
★実際は、沼田か水上の隠遁説が有力(★秋本先生など)

・天文21年(1552) 
   上杉憲政が越後に亡命(実際は水上・沼田付近)
     →厩橋城、沼田城には北条氏が進出。
     白井城と箕輪城は北条方に従わなかった。
・永禄3年(1560) 
   長尾景虎(上杉謙信)が関東出兵する際の足がかり。
         越後長尾氏(上杉氏)の支配下
     →関東出兵により、厩橋・沼田の北条氏は撤退。
     白井城は上杉謙信の関東出陣の際の基地の一つとなった。
       白井城は安定を保持。
・永禄8年(1565)  
  真田幸隆がの白井城へ攻撃→武田氏家臣真田氏支配下。
            (甲斐武田氏の支配下。)
        織田家臣滝川一益の支配下。
        織田氏滅亡後、長尾氏は北条氏康の支配下。
        武田氏滅亡後、長尾氏は滝川一益の支配下。
・永禄12年(1569)甲相駿三国同盟が崩壊。
        北条氏康は上杉謙信と同盟。
        武田信玄は上州へ侵攻。

・永禄13年(1570) 岩櫃城の真田幸隆が白井城の長尾憲景を攻め
           一時開城させた。

・元亀2年(1571) 北条氏康の死後、氏政により甲相同盟が復活。

・元亀3年(1572) 真田幸隆が侵攻。白井城は武田の属城。

・天正元年(1573) 武田信玄の死。
   白井長尾氏は上杉謙信→北条氏邦→
   滝川一益(織田信長属将)-北条氏邦と主を変えた。

・天正17年(1589)名胡桃事件
   北条氏邦は白井城から岩櫃城に侵攻。

・天正18年(1590)“小田原の役”
   前田利家・上杉景勝らの北国方面軍の攻撃。
   北関東防衛の要衝とされたが、
   松井田城(安中市松井田町)が開城。
西牧城(下仁田町)が落城。
箕輪城(高崎市)が開城
   
4月下旬、北方軍軍勢が白井城に攻撃。
   北郭を占領、
  5月15日、長尾政景(憲景の子)は開城。
   白井城(渋川市旧子持村)長尾政景が降伏して開城。

  徳川家康の関東移封・・・
  徳川譜代の本多康重を2万石で入封。
・慶長5年(1600)“関ヶ原の戦い” 本多康重の戦功
・慶長6年(1601) 本多康重は三河岡崎に加増転封
松平康長が2万石で入封
・慶長7年(1602) 松平康長が下総古河へ移。
  徳川四天王:井伊直政の次男:井伊直孝が1万石で入封。
・元和2年(1616) 徳川家康の命により直勝は廃され、
         井伊直孝が彦根城主として移封。
         白井城に西尾忠永が2万石で入封。
・元和5年(1619) 西尾忠永が常陸土浦へ移封。
         本多康重の次男:本多紀貞が1万石で入封。
・元和9年(1623) 本多紀貞は嗣子無く死没。
・寛永元年(1624)白井城は廃城・破却。
         ・・・→所領は旗本領として分割された。


明日は、吉岡町の桃井東城かな?

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