箕輪初心●群馬:嬬恋村の城【鎌原城】&【西窪城】

山崎一氏によると、嬬恋村の城は4城である。①鎌原城
②金比羅山の砦 ③鷹川城 ④西窪(さいくぼ)城である。
私は2城に登城している。鎌原城&西窪城である。築城は
鎌原一族・西窪一族で、滋野系海野系下平氏の末裔である。
城には鹿沢スキーの前後に城に寄った。もちろん、温泉に
よることも多い。また、嬬恋村はスケートでもオリンピッ
ク選手を多い輩出している村である。高原キャベツの村で
9~10月の出荷量は全国1を誇る。6月下旬の湯ノ丸高
原のツツジも片品の武尊牧場と並んで群馬の双璧である。
黒岩姓も多いが、戦国末期に群馬県富岡市の領主:前田氏
(前田利家の分家)の圧政に耐えかね、移住してきた人達
であるという。(★中居屋重兵衞の系譜より)

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【1】鎌原城・・・
■訪問記①・・・平成19年(2009)04月05日
○鎌原観音堂
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 ★天明3年(1782)の天明の浅間山爆発で鎌原観音堂に
  逃げ遅れた親子が発見された。赤い橋の先である。
  発掘調査時も見物に行った。もう10回位行ったかな。

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 ★我が陶芸師匠:青木昇氏は、県埋文の依頼で、
  かわらけ等の陶器類の鑑定をした。安自性寺焼
  もあることが判明した。
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○歴史博物館の前(上)の道を西に入ると
  10m程で、橋に出る。
○鋭角に右折し、急坂を30m程登り、後は北になだらかな
  畑道を500m程下る。
  右に百姓小屋を見ながら、通り過ぎる。
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  (★山崎一氏の縄張り図)
○三の丸・・・
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①霊城の碑・鎌原家子孫の墓・享保の地蔵などがある。
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②三の丸追手門の表示が隣り合わせである。
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  「南北400m×東西150mの規模で、
  本丸・二の丸・三の丸・東曲輪・笹曲輪の5つ・・・。」
  西にわずかに残る三の丸の空堀を見ながら・・・
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  100m程進むと、
③大きな空堀と鉄塔がある。そして、
④「鎌原城跡」の表示と立て看板がある。
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  そして、更に木立の間を進むと、群馬テレビの中継所があった。
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  ここは、見張り場の役をしている箇所だと思われる。
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  吾妻街道の町並み・鉄道・ダムが直下に見える。
○西窪からの鎌原城
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【2】金比羅山の砦・・・嬬恋村鎌原金比羅山

【3】鷹川城・・・嬬恋村下袋倉城の平

 ★半出来温泉&先の発電所の川の反対にある。
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【4】西窪(さいくぼ)城 嬬恋村西窪 城の腰
■訪問記・・・平成23年(2011)4月25日
○鹿沢でスキーを3時間した後に、立ち寄った。
○西窪のお堂の前の細い道を上がる。・・・大手道入り口
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○吾妻川の対岸は鎌原城である。
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○・・・大手道
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○本郭の堀・・・今は道
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○カルタ表示
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○本郭
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○崖
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◆◆ 鹿沢スキーパーク ◆◆
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  (★4月24日・・・春スキー)
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  (★2月28日・・・新雪35度の斜面。最高。)

◆◆ 鎌原城の歴史 ◆◆
・応永元年(1394) 築城?
・永禄元年(1558)  西吾妻には、真田氏同族=滋野一族
  (下尾・羽尾・鎌原・西窪・湯本・横谷・浦野・海野)がいた。
   斎藤越前守憲広は滋野一族を支配下にしようと圧力をかけた。
   岩櫃に近い者の多くは服従。羽根尾幸全・海野幸光は岩櫃城
   の家老に抜擢。浦野氏など。
 
・永禄3年(1560) 武田の真田幸隆 
  第1次岩櫃城(*この時、岩櫃城の名はない?)攻め計画
  上野の吾妻領土問題(八ッ場ダム西10km)・
   長野原の南地区の領土
羽根尾幸全(幸隆妻兄説) VS鎌原幸重 (幸隆弟の子)     
 ↓            ↓
斎藤憲広 VS 鎌原宮内少輔幸重+真田幸隆+甘利昌忠

鎌原城主:鎌原宮内少輔幸重は領土争いで斎藤氏と反目。
 斎藤憲広は、鎌原城を攻撃。
 鎌原幸重は一族をつれて信濃へ逃亡。
 鎌原城に斎藤氏の臣:羽尾幸全(道雲)が入城。
 
 鎌原幸重は真田幸隆→甘利昌忠を経由して武田信玄に
  内応=配下に。
 武田信玄は鎌原幸重に知行を授与。

  
 武田信玄は吾妻計略の好機と見て出兵命令。
 斎藤憲広は鎌原が信玄方についたのを知り、
   上杉謙信に助けを依頼。
  
 真田幸隆は鎌原氏を助け、岩櫃城斉藤憲広家老:
  海野幸光と抗争。


・永禄4年(1561) 
  武田信玄は真田幸隆を上州先方衆として岩櫃城を攻撃。
第1次岩櫃城攻撃・・・横谷氏の居城より出陣。
 斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利虎康+鎌原宮内小輔幸重
   結果・・・斎藤憲広が降伏→反撃。(「真田三代」)
第2次岩櫃城攻撃・・・横谷氏の居城より出陣。
  真田幸隆は険しい自然要害と上杉謙信配下の
   沼田城援軍の奮戦などで攻撃を中断。
 真田幸隆の和議作戦・・・斎藤憲広は和議を承諾。
   真田幸隆の調略作戦  
 調略①斎藤弟に矢沢薩摩守(幸隆弟)を使って、
  斎藤憲広の弟:斎藤則実に対して、 
 ・真田幸隆は「斎藤則実を岩櫃城の城主にする。」
  と口車に乗せた。
調略②海野一族で羽尾幸全の子:海野幸光・輝幸兄弟の
  内応を画策。

・永禄5年(1562)
 岩櫃城主:斉藤憲弘は白井城:長尾憲景を通じて上杉謙信
 に援助を求めた。上杉輝虎が沼田城主:沼田顕泰と白井城:
 長尾憲景に出撃命令を出した。

 武田信玄は祢津・芦田(依田)・甘利に鎌原城&長野原城の
強化を命じた。真田幸隆の弟:常田新太郎隆永を総大将とし、
 長野原城主:湯本善太夫や依田・室賀などが配下となった。
 
・永禄6年(1563)
9月下旬・斉藤憲弘軍が岩櫃城を出発した。
 斉藤憲弘の先発隊は斉藤弥三郎則実&羽尾入道&海野幸光
 +植栗・荒巻・浦野・蟻川・塩野谷・割田などであった。
 長野原城を攻略し、稲刈り仕事の多い中、常田新太郎隆永
 は、援軍の来ないまま長野原城で討ち死にした。農繁期=
 稲刈り時期で人が集まらなかったと言う。(伝・加沢記)

 真田家臣は鎌原城に逃げ帰った。
 鎌原幸重は武田信玄に知らせを走らせたが、川中島戦いで、
 援軍は来なかった。

 長野原城には、羽尾入道が入城した。
(★吾妻郡略記&加沢記)
 
 第3次岩櫃城・・・
10月14日、真田幸隆は手古丸城(大戸)を出撃。
 *真田の調略② 斎藤家家老羽尾幸全
 (真田幸隆の親戚・・・妻の兄?)を味方に
   引き入れ、内側から門を開けさせ、進入。(真田三代)
  真田幸隆は500の手勢で奇襲。
   内応者が城に火を放ち、総攻撃。落城。
   →斎藤憲広の子:城虎丸は残党に護られ、
   嶽山城に逃亡。
  その後は真田幸隆の城代として海野幸光・輝幸兄弟を
   岩櫃城に入城。
  →吾妻氏子孫の斎藤越前守憲弘は真田幸隆に降参。
  真田氏の上州進出の拠点。
 白井城攻め・箕輪城攻めに鎌原幸重は参加していくことに
 なった。


・永禄8年(1565) 真田幸隆が中之条の嵩山城を攻撃。
   →落城。家老池田氏は家臣になる。
  真田幸隆が渋川市子持の白井城を攻撃。

・天正8年(1580) 真田幸隆3男:真田昌幸が沼田城に無血入城。

・天正18年(1590) 鎌原城が廃城。


◆◆ 近くグルメ ◆◆
○蕎麦「中居屋重兵衛」・・・2回
   子孫の方の経営・・・・長野原町三原
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◆◆ 入ったことのある温泉  ◆◆
①鹿沢温泉「紅葉館」・・・泊

②新鹿沢温泉・・・・・・日帰りで
「真田館」・・・・1回
「鹿沢館」・・・・2回
「鹿鳴館」・・・・2回
「鹿の湯つちや」・・・・1回
※鉄分を含む湯で、茶色い湯である。スキーの後は最高。

③半出来温泉・・・・・・日帰りで

◆◆ 登山 ◆◆
①四阿山・・・・3回登頂
(★祠は真田幸隆が永禄5年(1562)に奉納した物)
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②湯ノ丸高原10?回→湯ノ丸山・烏帽子岳・・・3回
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 (★浅間山を望む)
③浅間山・・・・・1回
 などもいい。

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