箕輪初心●群馬【手子丸城=大戸城】=吾妻の巨大な要塞

手古丸城は大戸城の支城で烽火台・砦の役割を持っていた。
※山崎一氏は、大戸城と手古丸城が表裏一体と考えている。
※富岡武蔵氏(元陶芸同僚)は手古丸城が本城ないかと主張。
手古丸城はあまりにも凄いのである。今回は富岡武蔵さん・
余湖さん・野口さん・「埋もれた古城さん」・{チエゾーさん}と
御一緒させていただいた。滋野系海野系大戸氏は、斉藤憲弘
→長野業政→真田幸隆(武田信玄配下)→北条氏邦に仕え、
一族を約500年守り続けきたのだ。

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 (★手古丸城の本丸)

■吾妻町大戸城山・・大戸の信号関所跡を吾妻方面に500m
程先を左折し、道なりに300m行った右の山。
大戸の大雲寺の住職(住職は高校の先輩だった、)が、
大戸の関所から岩櫃方面に向かって、右に見える山だと教えて
くれた。何回も城を見ながら、通り過ぎていた。
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■訪問記・・平成23年(2011)12月23日
○いなだ食堂・・・
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○川の左を進む。・・・最後の家の庭から登る。
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○尾根づたい。あるいは、その先の2m道路を上がる。
○尾根歩きが10分程。
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(★山崎一氏の手古丸城の縄張り図)
●堀切
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●大堀切り手前
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●山の道なりにつづら折りに登る。
●腰郭・・武者走りになっている。
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●二の丸・・・土塁
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●本丸・・・碑
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●北西に下る。
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●腰郭・・・ヤママユガ
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●腰郭
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●腰郭・・・篠の林
●腰郭+土塁
●腰郭

★反対に富岡武蔵氏・余湖さん・埋もれた古城さんがいる。
●大きな堀・・・山崎一氏にない二重堀
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●本丸下の腰郭に戻る。

★★★大戸城に向かって歩む。
●大堀切
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●堀切
●土橋・・・分かりやすい形状である。
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●大戸城の本丸?
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●北の郭1
●北の郭2
●北の郭3
●堀切

★戻った。
●鉄塔付近の郭・・・展望がいい。岩櫃城が見える。
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●郭
●二重の堀
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大戸城部分は、あわてて造ったおまけの部分で
 あろうという見解になった。
★大戸城はだらだら坂で城としての機能が果たせない?



◆いなだ食堂・・・稗ごはん1000円
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★「埋もれた古城さん」「チエゾーさん」と別れた。

◆◆ 【大戸城の歴史】 ◆◆
・平安時代・・・清和源氏系新羅三郎義光の子孫
  :新羅左衛門助が在城(伝)。佐竹氏、武田氏が同族。
 ※藤原秀郷系田原氏一族で田原忠綱の子:忠広が
   新羅三郎という説もある。

・鎌倉時代・・鎌倉幕府に仕えた海野幸氏の子幸継の7男:
  浦野七郎が浦野氏の祖となった(伝)。

  七郎の末っ子に浦野三河守貞春が大戸氏を名乗った?。
  (長野原の王城=長野原の林の大乗院:浦野氏と同族。)
  三島根小屋の浦野氏、雁ヶ谷の横谷氏、羽根尾の海野氏、
  嬬恋の鎌原氏・西窪(さいくぼ)、草津の湯本氏が同族。
(★海野宿の白鳥神社系図より)

・戦国時代
・永正10年(1513)4月 長野伊予守兼業(憲業)は榛名満行権現
  =現榛名神社に「大戸の要害を私の思い通り落とすことができた
   なら、百疋の土地を末代まで寄進致すことでありましょう。」
   という願文を掲げた。
  →大戸氏  VS 長野氏

・大永2年(1523) 9月 大戸城主:浦野弾正が三の倉全透院の伽藍
  を建立。
   長野兼業は大戸城を承認?

岩下城主:斉藤憲広は妹を大戸真楽斎に嫁がせて縁戚とした。
 大戸氏を家臣とした。


1530年に父が死んだ長野業政は大戸に娘を送り込んだ。
 *長野業政の娘の嫁ぎ先の大戸宮内少輔

 
・大永・長禄年間(1457~61) 内出城は長野氏に急襲されて落城。
  (★群馬県史・箕郷町誌他多数)

  長野業政の父:業尚が吾妻斉藤氏の家老:秋間氏を攻撃。
  城主:秋間泰則の孫:秋間泰近が討ち死。
  その後、内出城は斎藤憲弘によって奪還された。
  秋間泰近には嗣子がなかったため、秋間氏は断絶し滅亡。
しかし、斉藤氏の一族が入って秋間氏を名乗った可能性
もある。


 大戸氏の領地・・・・
   ①坂上地区(東吾妻町坂上)
   ②坂下地区(権田、三の倉、岩水、水沼)
   
・天文13年(1544) 川越の戦い
関東管領上杉憲政はに北条氏康に大敗。
  雉ヶ岡城(埼玉県児玉)→平井城(群馬県藤岡市)
  ※関東の諸将は北条氏康に従う者が増加。
  上杉憲政の家臣達は甲斐の武田氏を討って勢威を
  回復して、氏康が自然投降してくるのを待つという愚策を進言した。

  上杉憲政の重臣箕輪城主:長野業政が断固反対した。

・天文15年(1546)碓氷峠&小田井の戦い→上杉勢の敗戦。
  倉賀野・深谷・木部・白倉・安中、和田・後閑・三の倉・大胡・
  尻高・大戸の兵など2万人 。
  VS
  武田晴信+板垣信方+小山田信茂

北条氏康&長尾景虎&武田信玄の三つ巴の戦いになった。

・永禄3年(1560) 武田信玄の上野侵攻 
※武田信玄の家臣:真田幸隆の第一次岩櫃城攻め計画
・斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内少輔幸重
  (滋野一族支族)
 過去に村上義清の塩田城を最後に葛尾城などを捨て、
     越後の上杉謙信に助けを依頼。

※長尾景虎の第一次関東出兵
 ★箕輪初心私見「庇護していた上杉憲政の権力の回復。
    +上杉姓のブランドが欲しかった。」
 →長尾景虎の関東への越山。
(+白井城長尾+総社長尾+足利長尾+長野氏がすぐ参陣)   
①宮野城(猿ヶ京)→②沼田城→③岩下城(岩島)→
④明間城(岩下衆の安中飽間=現秋間と思っていたが)
→⑤厩橋城(=前橋城)→⑤那波城:那波氏(伊勢崎)
→⑥国峯城(富岡):???
(千葉県里見一族正木家文書=里見義弘家臣:正木時茂)
 
長尾景虎は「関東幕注文」を作成したが、
 箕輪衆、厩橋衆は22で、最大規模。
 箕輪衆(箕輪一族:親戚)・・・同じ旗印
   長野業政(箕郷) 長野新五郎  南与太郎(榛東村) 
   小熊源六郎(保渡田砦)長野左衛門  浜川左衛門尉(高崎) 
   羽田彦太郎 八木原与十郎(渋川市)
   須賀谷筑後守(旧群馬町)
家臣・同心衆
 長塩左衛門四郎(吉岡町) 
 ●大戸中務少輔(東吾妻町)・・長野業政と同じ家紋で出撃。
  大戸十騎とある(★甲陽軍鑑)
  大戸丹後守が上杉謙信に従い小田原を攻めむとある。
       (★関八州古戦録)
 
 下田大膳(高崎箕郷支所) 漆原(吉岡町)内山(富岡市)
 高田小次郎(妙義町)   和田八郎(高崎市和田城) 
 倉賀野左衛門五郎(高崎市倉賀野城)  
 依田新八郎(安中市板鼻城)  羽尾修理亮(吾妻)
 
 厩橋衆・・・長野藤九郎・大胡・引田(旧富士見村)
  
岩下衆・・・斉藤越前守・山田某(山田城)
  紙が切れていて、岩下衆の残りの武将が不明。
(★群馬県史・・・★上杉氏文書)
長野業政の同心として、海野一族の羽尾修理亮・大戸中務小輔
が業政の娘婿として出陣。
※同族:鎌原幸重は真田幸隆→甘利昌忠→武田信玄についた。
②岩下衆・・・斉藤憲弘・山田(北条氏康→長尾景虎へ)
    あとは破けているので不明。
★岩下衆・・・はじめは北条氏康の家臣の形であった。
長尾景虎の攻撃&脅迫のような形で、同盟を結んだのか、
武田信玄の上州攻略隊真田幸隆の鎌原氏の手助けに対抗
したのか、は不明であるが、長尾景虎について出陣した。
他に、富澤豊前守が確実にいたであろう。
川戸内出城の武将は不明である。おそらく、斉藤越前
守の家老:秋間氏を斉藤一族から送り込んだの者であろう。
群馬県史の明間城は安中の秋間と考えているが、斉藤越前
守の一族として、明間=秋間=川戸内出城主であろう。

※武田は西上州の・高田城:高田氏(妙義町)・松井田城
  :安中氏を攻撃。

※結果・・上杉=長尾景虎&武田信玄の代理戦争の様相を
呈したのであった。

・永禄4年(1561)  2月 上杉謙信は小田原城攻めに失敗。
  鎌倉八幡宮で、関東管領の地位を獲得。上杉姓に改称。 
  上杉謙信は帰路途中、松山城(東松山市)
        上田氏を攻略・・上杉憲勝が城主。

 6月21日*長野業政が死去
  ①説・・長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
  ②説・・長野氏業(群馬県史の近藤先生は業盛=氏業)が継ぐ。
※死亡を隠していたが、武田信玄にばれてしまった。
  風雲=不運、急を告げる。

上野の吾妻領土問題(八ッ場ダム西10km)・・・
    長野原の南地区の領土問題
武田氏の検分・・・
鎌原幸重領に古森&与喜が与えられた。
  羽根尾幸全は斉藤憲弘に訴えた。
(★羽根尾幸全は岩下城斉藤憲弘の家老)
羽根尾幸全は真田幸隆の妻の兄の説あり(★風林火山)
羽根尾幸全(斉藤家家老)VS鎌原幸重(幸隆弟の子)
  ↓               ↓
斎藤憲広 VS 鎌原宮内少輔幸重+真田幸隆+甘利昌忠
斎藤憲広は鎌原が信玄方についたのを知り、
上杉謙信に助けを依頼。

●沼田城(沼田市) →厩橋城→那波城・・赤石(伊勢崎)
で集結・・・
小田原攻め(翌年2月)・・失敗。長尾景虎→上杉輝虎
※北条氏の反撃
※武田氏の上州侵攻・・・・
12月 松原神社(長野小海)で祈願・・・
西牧城・高田城・諏訪城?の攻略祈願
高田城→国峰城→・・一宮神社・・倉賀野城     

永禄4年(1561)
■第1次岩櫃城攻め
 斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重
・上野の鎌原城を奪い返す。
時の城主は斎藤憲弘家老:羽尾幸全(幸隆の妻父?)

⑮第4次川中島大決戦(最大の決戦)
川中島大決戦・・・・武田信玄VS上杉謙信が直接対決。
・真田幸隆父子は妻女山を攻める。
・武田信玄の弟武田信繁を討ち取った?
・・・胴合橋・・・山本勘助伝説?
 天厩寺(八幡原の東200m)・・後、真田信之が供養
 武田信繁の墓(上田の布引観音西2km)
・・・坂城ふるさと歴史館の複製・・・
   上杉謙信側から見た川中島の戦いがある。

永禄5年(1562)
・四阿山奥宮社殿扉に真田幸綱(=幸隆)・信綱の名がある。
   6月13日・・・奥社の修造(上田市博物館資料)
●四阿山頂
※この頃、真田幸綱から幸隆に改名したらしい。
*武田信玄が八幡平陣城築城(群馬県安中市原市)・・・
   松井田城と安中城との分断計画。
真田幸隆の誘いに大戸城(浦野氏)が乗る。
浦野氏が権田・室田(旧榛名町)に放火。
→浦野氏が長野三河守入道(たぶん業氏)ら80名を討ち取る。
    (★関東古戦録・まんがみさとの歴史・秋本先生)
*武田支配後、大戸一族の浦野氏が入城。
★真田幸隆の調略に乗った浦野氏・・


・永禄6年(1563)
・真田幸隆は、羽尾城(草津への分岐の西2km)
羽根尾幸全・海野幸光兄弟と協定。

■第2次岩櫃城攻め (*岩櫃城・・群馬県東吾妻町)
  真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重(幸隆の甥)
  +矢沢薩摩守頼綱(幸隆弟)+湯本幸重+横
・・3000人以上の兵
①長野原城(群馬県長野原町)を攻略。
②丸岩城(群馬県長野原町)を攻略。
真田幸隆は手古丸城(大戸城)浦野氏を攻略。
 →手古丸城(大戸城)に陣を置いた?

大戸氏は、密かに真田幸隆の忠誠を誓った。
  榛名町の放火を考えるとそれ以前か?


8月④岩櫃城(群馬県吾妻町)を攻撃。
  斎藤憲広+沼田勢(沼田氏)500+白井勢(長尾氏)200
     
真田幸隆は岩櫃城方面には500? 
     雁ヶ沢の800 
大戸へ1000以上
真田幸隆は和睦の知略を計画
・真田幸隆は、「斎藤の弟を岩櫃城の城主にする。」と矢沢を
使って、口車に乗せた。
*真田幸隆は岩櫃城家老が羽根尾幸光(幸隆妻の兄?)
なので、内側から開城。
 結果・・・斎藤憲広が降伏→反撃。(「真田三代」)
知略①善導寺(現東吾妻町のナショナル工場敷地)の僧の仲介
   で、鎌原を場内に入れる。
   鎌原は、憲広の甥斎藤則実館に泊まり、「本領安堵。」
    を伝え、裏切らせた。
 知略②憲広重臣の海野幸全・幸光(幸隆の妻弟)に海野左馬
    充(さまのじょう)を送り、一族の縁で、味方に引き
    入れた。

■第3次岩櫃城攻め
10月・・・和睦後、急に攻撃再開。
  ・真田信綱2000に沢渡から、
・真田昌幸・矢沢頼綱500で大戸口へ、
  ●大戸一族は真田幸隆(大戸浦野氏と同族)に属していた。
  大戸氏は10騎(=40人か?)(★甲陽軍艦)

  ・真田幸隆本隊その他500で城を包囲。
 斉藤憲広は籠城。幸隆は内応の忍者に会い、海野兄弟に憲広
の館 に放火を指示。
  →総攻撃。斉藤憲広の甥:斉藤則実が開門。 
 結果・・・斎藤越前守憲弘は上杉謙信を頼って、
   越後に逃亡。(真田三代)
 →武田氏の命で、真田幸隆の吾妻の統率者。
  三枝松土佐守、鎌原幸重、湯本善太夫が岩櫃城の城代。 
 
  嵩山の攻防戦・・・斉藤氏は滅亡。
  その後、浦野氏は大戸城主として君臨した。

・永禄6年(1563) 武田信玄の上野への直接攻撃
   
・永禄7年(1564)信玄は飛弾ねらい
 ・第5次川中島の決戦(武田VS上杉) 
 「武田信玄は、第5次川中島や岐阜攻めで、
  箕輪城攻めはちょっとお休み。・・」 

・永禄8年(1565) 信玄の箕輪城攻撃
私見・・・
 ①武田本隊・倉賀野城金井氏・和田城和田氏・国峯城小幡氏
    →南ルートからの侵攻。  
岩櫃城の真田幸隆+大戸城の浦野氏→北ルートからの侵攻
  ・「箕輪城に詳しい元長野業政の娘婿の出陣計画。

  ・箕輪城1500 VS  武田35000人の兵。(★小説)
   私見「攻撃数は資料がないからわからないが、
    甲州+信濃勢のメンバー全員。」
 @武田軍が金敷平(大手虎蹈門西の岸)に在陣し
    箕輪城を攻撃。(秋本先生)

・永禄9年(1566)9月29日 箕輪城落城
   信玄は15000の兵で箕輪城を囲んだ。
   城兵は城主長野業盛以下1500人。
   
・元亀2 年(1573)武田信玄が伊那郡駒場で病死。 

・永禄10年(1567)3月6日 武田信玄は箕輪城宛に一徳斎
  (真田幸隆)・甘利左衛門尉昌忠・金丸筑前守虎義に
  「春日弾正と相談しながら、箕輪城の領土の運営に当たれ。」と指示。

・永禄12年(1569)三増峠の戦い
 5月16日、信玄→浦野宮内左衛門尉の書簡
    浅利に従い、軍功を立てるように信玄が指示
。(★甲陽軍艦)
 10月 三増峠の戦い・・・浅利信種の家臣として、
     大戸:浦野氏が随行。
     
    浅利信種が戦死。内藤も一緒に闘っていた。

・永禄13年(1570)  
9月10日 箕輪城の家老内藤豊後守昌秀(昌豊)が現地統治。
  (初めての文書確認=秋本先生)
 @内藤豊後守昌豊が上州7つの郡代・・・
  
*元亀3年(1572)1月 武田信玄が関東出陣 
 ・謙信、関東に出撃。箕輪城の出城である石倉城(前橋)を攻略。
 ・信玄も箕輪城から出撃。春日虎綱(高坂弾正)の指示で
   真田幸綱が出陣。大戸:浦野氏の随行。
   謙信と対峙。・・・・
  
 10月3日 将軍:足利義昭の信長討伐令で、信長との同盟を破棄。
      武田信玄が京都上洛のために3万人で甲府を出発。
 
■天正3年(1575)長篠の戦い・・大戸:浦野氏も出陣。

・天正7年(1579)北条氏政が広木城を築城
   埼玉県児玉(武蔵と上野の境)に小幡豊後守・長根・白倉
大戸八郎三郎が出陣。

・天正8年(1580)3月11日 大戸真楽斎が謀反を企てたとして
  真田昌幸は岩櫃城代海野長門守に追討を命じ、手子丸城に攻め寄せた。
  大戸真楽斎は真田昌幸に和睦した。

・天正9年(1581)3月、高天神城の戦い(静岡県掛川市)
  武田勝頼の城代岡部元信などが討死して高天神城は陥落。
大戸真楽斎も戦死した説がある。

■天正10年(1582) 武田氏の滅亡。
3月2日 岩櫃城の真田昌幸の「上州岩櫃城に。」の言を退けて
3月11日 天目山の戦いで武田勝頼が妻子と死去。
3月下旬 滝川一益が箕輪城に入城。(織田氏)
5月   滝川一益が厩橋城移動。(みのわの歴史)
6月2日 本能寺の変で織田信長が死亡。
6月18日 神流川の戦い①   北条氏邦  VS  滝川一益
         →1回目は滝川軍優勢で、北条氏邦が大敗。
6月19日 神流川の戦い②   2回目は北条氏邦が大勝利。
 
■天正10年(1582)徳川家康が真田昌幸に当てた書簡
   「上州中の一跡(長野氏の残した元の領土)・・・・
   「箕輪の領地は、北条を倒したら、所領安堵する。」(秋本先生)

北条氏邦の吾妻侵攻開始。
  権田城:大戸真楽斎が権田城(高崎市倉渕)から撤退
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 萩生城・・・手古丸城支城
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 大戸西城・・手古丸城支城
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 手子丸城を北条氏に攻撃された。
 手古丸城は真田昌幸の加勢の無いまま戦い手子丸城は落城。
 大戸真楽斎は切腹をして果てた(伝)。
・・・大戸真楽斎はいつ死んだのであろうか?

 
 その後は真田昌幸 VS 北条氏邦の戦いに発展。
猪俣邦憲+上田??
 北条氏の仙人隠れ陣城から岩櫃城攻撃になった。
 手子丸城は、一進一退が続いた。
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最終的に、小田原北条氏の持ち城。北条氏邦配下。
  大戸真楽斎の長子:大戸重次が手古丸城主となった。

・天正13年(1585)徳川家康は真田昌幸に上州沼田領の
   北条氏への明け渡しを命令。             
   昌幸は明け渡しを拒否し、徳川家康と対立。

・天正13(1585)年7月 真田昌幸は徳川配下から上杉景勝に接近。
           北条氏との間で沼田城をめぐって対立

・天正15年(1587) 箕輪在番猪俣邦憲(沼田城と兼任)は林に命令
          「真田との戦闘態勢を強化せよ。」

・天正17年(1589) 関白豊臣秀吉の裁定
  ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
  ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。 
   
 11月沼田城主猪俣邦憲は南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取。
  (名胡桃事件)。→秀吉の小田原征伐の口実

・天正18年(1590)
 A、秀吉軍の上野方面・・・前田・上杉・真田昌幸らが北条の城(領土)を攻撃
  ・小諸城・松井田城(大導寺政繁)落城・・・・・・前田・上杉・真田
  ・和田城(和田信繁)も落城・・・・・・・・・・・前田・上杉
  ・箕輪城(北条氏邦)も落城・・・
     北条氏の垪和氏・保科氏が守備(高崎市の資料)
    4月29日、闘わずに降伏開城。真田昌幸3000が入場。
大戸:浦野氏も出陣
  ・金山城も落城廃城・・・・・・・・・・・・石田三成
  ・武州忍城の水攻め失敗・・・・・・・・・・石田三成
  ・鉢形城(北条氏邦)も落城・・・・・・・・前田・上杉・真田

大戸重次が豊臣軍に下り、大戸氏を没落した(伝)。

・天正18年(1590)8月1日、徳川家康の江戸入府
 豊臣秀吉の命令で、岡氏が1万石を入封。
 岡越前守を拝命。
・元和元年(1615)岡氏は、大坂の陣
   豊臣秀頼に密通したとして改易。切腹となった。
  →廃城

◆余湖さんのhp「手古丸城」
http://homepage2.nifty.com/mizuki55/gunma/agatumamati02.htm

◆埋もれた古城さんHp「手古丸城」


◆チエゾーさんHp「手古丸城」


◆富岡武蔵さんブログ「手古丸城」

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