箕輪初心●群馬【川戸内出城】=長尾景虎の第一次関東出兵「明間」では?

永禄3年(1560)長尾景虎の第一次関東出兵・・①宮野城(猿ヶ京)
②沼田城→③岩下城(岩島)→④明間城→→⑤厩橋城(=前橋城)→
⑥那波城:那波氏(伊勢崎)→⑦国峯城(富岡):小幡氏(群馬県史
P576)★(千葉県里見一族の正木家文書)では、沼田城は明間城の
次であった。この「明間」は秋間氏のいた川戸内出城ではないかと
箕輪初心は仮説を立てた。そして、確信したのだ。

明間城=川戸内出城=内出城=飽間氏の城=斉藤憲弘分家の城=
秋間刑部左衛門泰則子孫の城であった。つまり、この年の『関東幕注
文』での「岩下衆」は「斉藤憲弘・山田某・」の2人で古文書の
ページが切れている。・・・(★唐沢定市先生)
根拠は若干弱いが、『秋間氏か斉藤憲弘一族』も関東出兵メンバ
ーではなかろうか。吾妻川の対岸の家臣を考えると、秋間氏が、
長尾景虎の攻撃で、同心(近藤先生の言い方)になったと言わざる
を得ない。私の『明間城=川戸内出城説』は、群馬県史や
各ブログにもないと思われる考えである。
その後、真田の侵攻で善導寺(現東吾妻町のナショナル工場
敷地)の僧の仲介で、鎌原を場内に入れる。
鎌原幸重は、斉藤憲広の甥:斉藤則実館に泊まり、「本領安堵。」
を伝え、裏切らせた。とある。もしかして、この時は、斉藤則実館
ではなかったろうか?・・・元の善導寺からの距離200mなのだ。
いずれにしても、秋間氏滅亡後、①斉藤氏の秋間氏の継続の方
策をしたか、②斉藤一族の嫁か養子かで、継がせたのであろう。
10月・・・和睦後、急に攻撃再開。
 真田信綱2000に沢渡から、真田昌幸・矢沢500で大戸口へ、
その他500で城を包囲。
 斉藤憲広は籠城。幸隆は内応の忍者に会い、海野兄弟に憲広
の館 に放火を指示。
  →総攻撃。斉藤憲広の甥:斉藤則実が開門。 
 結果・・・斎藤越前守憲弘は上杉謙信を頼って、
   越後に逃亡。(真田三代)
  
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 (★北西部の吾妻川に切れ込む空堀)
※武田信玄は西上州の高田城:高田氏(妙義町)
         ・松井田城:安中氏を攻撃中である。

群馬県古城塁祉の解釈
「はじめは秋間氏の館で、秋間刑部貞勝は貞和五年(1349)、
里見兵庫との戦いに主君吾妻太郎行盛と共に討死し、貞勝の子
:泰則は行盛の子壬生丸を守って再挙をはかり、観応元年五月、
 榛名の僧兵の援助で吾妻奪還を企てたが敗れた。それから
安中氏を頼って碓氷郡に潜み、延文二年四月、管領上杉氏の
支援によって宿敵里見氏を滅ぼし、吾妻を復した。壬生丸は
斉藤憲行と号したが、このとき内出城を築いて泰則に与えたと
いう。」 (★群馬県古城塁祉の研究下巻P233』より)
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 (★縄張り図・・群馬県古城塁祉の研究:山崎一氏著)

訪問日①・・平成23年(2011)7月3日
東吾妻町・・
①箱島の湧水(日本百名水)・・・②真田伊賀守の水牢
③城№616川戸内出城・・・・ ④城№617三嶋根小屋城 

○内出城は群馬県吾妻町内出にある。

①北西の堀 
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②本丸堀
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③本丸の西南の2つの独立した小郭 
○北西端に本丸がある。
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④周囲の壕もよく巡っている。
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⑤東の堀・・・幅20m

⑤西の堀・・・幅20m

⑦北の堀・・・幅7m。

⑧二の丸・・・本丸の南から東を囲んでいる。
 東西180m、南北130m。
 東堀南部に一カ所の折が見られる。

⑨北東の隅の郭・・一辺40mの正方形の郭
  秋間氏の館か?

⑩三の丸・・・二の丸の東

⑩外郭・・・

★吾妻川南岸の河岸上に築かれた梯郭式の平城である。


訪問日②・・平成23年(2011)12月23日
富岡武蔵氏、余湖さん・野口さんのお城巡り有名人に
随行した。

○内出城は内出集落のほとんどが城の遺構である。
○北~西・・高さ5~6mの吾妻川の河岸段丘。
  崖から西端は直接吾妻川の断崖までつづく。  
○城域・・430m、南北は130m。
  現在旧道と用水のある場所は外濠跡である。

○国道145号線の信号大戸口から南に地方道
28号線を進む。保育所手前の町道を右折。
 本当は逆から来た。

①北西の空堀・・・
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②祠
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③楼台・・・岩櫃城&柳沢城がよく見える。
  縄張り図の西先端にある櫓台と物見郭
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  物見郭の内側から。

④本丸堀・・
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⑤本丸・・・東西70m、南北60m。
  畑となっていて私有地である。
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○本丸から二の丸方面の景観。

⑥本丸&二の丸

⑦本丸&東郭=東二の丸の掘切
  縄張り図にあるように本丸と二の丸との間の空堀。
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本丸南西の段郭の遺構。・・・櫓台か?

⑧東郭

⑨空堀・・・現在でも道路になっている。
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⑩神社・・・
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⑪南西の外堀・・・川に沿ってある。
南から東北を巡ってコの字型に堀を巡らし北面には腰郭があった。
  西部は現存しない。
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⑫最南端
⑬東の土塁部分
⑭内出の集落・・田んぼの中に高い土手が見える。
  縄張り図の東の郭の城壁である。
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⑮本丸&東郭の空堀
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⑯東郭

⑰南西の郭の空堀。

⑱南西端の郭。 

⑲二の丸南辺の張り出し部。 
  外郭南辺の土塁と堀。
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⑳二の丸南東端のクランク状の堀。 
 外郭北東辺の土塁。
  道路となっているが空堀である。
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★歩くと、全体の縄張りはすぐ分かる。


城下町の呼び方 ◆
内出・・戦国時代の砦や城を意味する群馬の言葉?
 「川戸内出」・・・「太田の城」と呼ばれていた。
箕輪城の内出・・内出=

宿・・・北条氏の城下町の言い方
箕輪城には「内宿」や{裏宿}が未だに存在する。

根小屋・・主に武田氏の城下町の呼び方
群馬には4つある。
根小屋城・・・高崎市根小屋城
根小屋城・・・下仁田町根小屋
根小屋城・・・渋川市(旧東村)根小屋城
根小屋城・・・東吾妻町三池根小屋

・・・大手町・連雀町・紺屋町・鍛冶町・四ッ谷
などは、徳川氏の町の名前の付け方である。

川戸内出城の歴史
・鎌倉時代・・・吾妻氏家臣:秋間氏が築城。
        築城の経緯については不明。
  ※加沢記・・「吾妻氏が一時期住居し、その後秋間氏
   がいた。
・貞和5年(1349) 里見氏一族の里見義時と吾妻行盛が戦った際には、
内出城は里見氏の城であった(伝)。
  里見義基の次男:氏義が内出城に在住説あり。
★里見氏義が旧赤城村の宮田不動尊を建立。
 結果・・・吾妻行盛と秋間貞勝は戦死。
   
 秋間貞勝の子:泰則らは吾妻行盛の遺児:千王丸を伴い、
 安中の斎藤梢基を頼った。
 千王丸は斉藤梢基を烏帽子親として斎藤憲行と名乗った。

・延文2年(1356) 斉藤氏は関東管領:上杉氏や榛名神社僧兵の助力を
 得て里見氏を滅ぼした。
 旧領を回復した。『郡内旧記』によれば、
 「斉藤憲行は嫡子:泰則(家老秋間刑部左衛門泰則)
  に太田庄を与え、城を築かせた。」
  とある。太田庄とは内出周辺の内出城である。

・貞治元・正平17年(1362)
「吾妻太郎藤原維光とて太田庄に居住ありけるが、・・・
 ・・(中略)・居城の鬼門反辺と申処に新たに一宇の道場を建立」
 とあるが、内出城には秋間氏以前に吾妻氏が拠っていたことになる。
         ★『加沢記』

長禄年間(1457~61) 内出城は長野氏に急襲されて落城。
  城主:秋間泰則の孫:秋間泰近が討ち死。
  内出城はその後斎藤氏方によって奪還された。
  泰近には嗣子がなかったため、秋間氏は断絶し滅亡した。
しかし、斉藤氏の一族が入って秋間氏を名乗った可能性
もある。
  秋間氏滅亡の経緯も疑問も多い。
  秋間氏滅亡後の内出城については不明である。
  内出城は、資料や伝承上は15世紀の秋間氏滅亡時点で
  消えていった城であるが、現存する遺構や縄張り、規模などを
  考えると、斉藤氏が継続使用していたことは間違いないと
  思われる。おそらく、斉藤憲弘の曾祖父か祖父の一族であろう。
 ※群馬県史では明間は安中の秋間としているが、・・・
  すでに、松井田城主:安中忠政の家臣:秋間七党に
  斉藤氏の名がない。また、安中忠政は箕輪城:長野業政の
  妹婿説?娘婿説があり、同心である。長尾景虎は安中の
  明間=秋間に行く必要がないのである。
   こう考えると、正木家文書の『明間『』は
   吾妻の川戸内出城主:明間=秋間氏の可能性が
   あると私は思う
 
 
 ★稲荷城主:大野氏が滅ぼした説もある。
 文明年間(1469) 新田の由良国繁が隆起したの時、吾妻三家
は互いに不和となり、秋間氏は由良系?大野氏に討たれた。
 その後、太田庄は大野氏の領地となった。大野氏は塩谷氏(宇都宮
 一族系)を討って一郡を統一した。秋間氏はいったん大野氏の
 軍門に下ったが、大野氏が滅ぶと岩櫃城主となった斉藤憲次に
 帰属した。
 
・永禄3年(1560) 武田信玄の上野侵攻 
※武田信玄の家臣:真田幸隆の第一次岩櫃城攻め計画
・斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内少輔幸重
  (滋野一族支族)
 過去に村上義清の塩田城を最後に葛尾城などを捨て、
     越後の上杉謙信に助けを依頼。
 ※長尾景虎の第一次関東出兵
 ★箕輪初心私見「庇護していた上杉憲政の権力の回復。
    +上杉姓のブランドが欲しかった。」
 →長尾景虎の関東への越山。
  (+白井城長尾+総社長尾+足利長尾+長野氏がすぐ参陣)
長尾景虎は「関東幕注文」を作成したが、
 箕輪衆、厩橋衆は22で、最大規模。
 箕輪衆(箕輪一族:親戚)・・・同じ旗印
   長野業政(箕郷) 長野新五郎  南与太郎(榛東村) 
   小熊源六郎(保渡田砦)長野左衛門  浜川左衛門尉(高崎) 
   羽田彦太郎 八木原与十郎(渋川市)
   須賀谷筑後守(旧群馬町)
家臣・同心衆
 長塩左衛門四郎(吉岡町) 大戸中務少輔(東吾妻町)
 下田大膳(高崎箕郷支所) 漆原(吉岡町)内山(富岡市)
 高田小次郎(妙義町)   和田八郎(高崎市和田城) 
 倉賀野左衛門五郎(高崎市倉賀野城)  
 依田新八郎(安中市板鼻城)  羽尾修理亮(吾妻)
 
 厩橋衆・・・長野藤九郎・大胡・引田(旧富士見村)
  
岩下衆・・・斉藤越前守・山田某(山田城)
  紙が切れていて、岩下衆の残りの武将が不明。

(★群馬県史)

岩下衆は他に、富澤豊前守が確実にいたであろう。
が、川戸内出城の武将が不明であるおそらく、斉藤越前
守の一族の者であろう。

群馬県史の明間城は安中の秋間と考えているが、
斉藤越前守の一族として、明間城主がいたのであろう。
①宮野城(猿ヶ京)→②沼田城→③岩下城(岩島)→
④明間城(岩下衆の安中飽間=現秋間と思っていたが)
→⑤厩橋城(=前橋城)→⑤那波城:那波氏(伊勢崎)
→⑥国峯城(富岡):???
(千葉県里見一族正木家文書=里見義弘家臣:正木時茂)
 
※武田は西上州の・高田城:高田氏(妙義町)・松井田城
  :安中氏を攻撃。

■永禄4年(1561)  2月 上杉謙信は小田原城攻めに失敗。
  鎌倉八幡宮で、関東管領の地位を獲得。上杉姓に改称。 
  上杉謙信は帰路途中、松山城(東松山市)
        上田氏を攻略・・上杉憲勝が城主。

 6月21日*長野業政が死去
  ①説・・長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
  ②説・・長野氏業(群馬県史の近藤先生は業盛=氏業)が継ぐ。
※死亡を隠していたが、武田信玄にばれてしまった。
  風雲=不運、急を告げる。

上野の吾妻領土問題(八ッ場ダム西10km)・・・
    長野原の南地区の領土問題
武田氏の検分・・・
鎌原幸重領に古森&与喜が与えられた。
  羽根尾幸全は斉藤憲弘に訴えた。
(★羽根尾幸全は岩下城斉藤憲弘の家老)
羽根尾幸全は真田幸隆の妻の兄の説あり(★風林火山)
羽根尾幸全(斉藤家家老)VS鎌原幸重(幸隆弟の子)
  ↓               ↓
斎藤憲広 VS 鎌原宮内少輔幸重+真田幸隆+甘利昌忠
斎藤憲広は鎌原が信玄方についたのを知り、
上杉謙信に助けを依頼。

※上杉謙信が関東第一次出兵。
 岩下城(飽間氏出身斉藤憲弘)→明間城(=内出城の秋間氏)
→沼田城に侵攻。北条孫次郎らは撤退し、沼田顕泰は降伏。
岩下衆は北条氏側についていた。
●岩下城
●沼田城(沼田市)
→厩橋城→那波城・・・赤石(伊勢崎)で集結・・・
小田原攻め(翌年2月)・・失敗。長尾景虎→上杉輝虎
※関東幕注文(★上杉氏文書)
①長野業政の同心として、海野一族の羽尾修理亮・大戸中務小輔
が業政の娘婿として出陣
②岩下衆・・・斉藤憲弘・山田(北条→長尾へ)
    あとは破けているので不明。
★富澤豊前守がいたのではないだろうか?
※北条氏の反撃
※武田氏の上州侵攻・・・・
12月 松原神社(長野小海)で祈願・・・
西牧城・高田城・諏訪城?の攻略祈願
高田城→国峰城→・・一宮神社・・倉賀野城     

永禄4年(1561)
■第1次岩櫃城攻め
 斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重
・上野の鎌原城を奪い返す。
時の城主は斎藤憲弘家老:羽尾幸全(幸隆の妻父?)

⑮第4次川中島大決戦(最大の決戦)
川中島大決戦・・・・武田信玄VS上杉謙信が直接対決。
・真田幸隆父子は妻女山を攻める。
・武田信玄の弟武田信繁を討ち取った?
・・・胴合橋・・・山本勘助伝説?
 天厩寺(八幡原の東200m)・・後、真田信之が供養
 武田信繁の墓(上田の布引観音西2km)
・・・坂城ふるさと歴史館の複製・・・
   上杉謙信側から見た川中島の戦いがある。

永禄5年(1562)
・四阿山奥宮社殿扉に真田幸綱(=幸隆)・信綱の名がある。
   6月13日・・・奥社の修造(上田市博物館資料)
●四阿山頂
※この頃、真田幸綱から幸隆に改名したらしい。
*武田信玄が八幡平陣城築城(群馬県安中市原市)・・・
   松井田城と安中城との分断計画。
 ●八幡陣城(群馬県安中市)

永禄6年(1563)
・真田幸隆は、羽尾城(草津への分岐の西2km)
海野幸全・幸光と協定。

■第2次岩櫃城攻め (*岩櫃城・・群馬県東吾妻町)
  真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重(幸隆の甥)
  +矢沢薩摩守頼綱(幸隆弟)+湯本幸重+横
・・3000人以上の兵
①長野原城(群馬県長野原町)を攻略。
②丸岩城(群馬県長野原町)を攻略。
③真田幸隆は手古丸城(大戸城)浦野氏を攻略。
 →手古丸城(大戸城)に陣を置いたらしい?
8月④岩櫃城(群馬県吾妻町)を攻撃。
  斎藤憲広+沼田勢(沼田氏)500+白井勢(長尾氏)200
     
真田幸隆は岩櫃城方面には500? 
     雁ヶ沢の800 
大戸へ1000以上
真田幸隆は和睦の知略を計画
・真田幸隆は、「斎藤の弟を岩櫃城の城主にする。」と矢沢を
使って、口車に乗せた。
*真田幸隆は岩櫃城家老が羽根尾幸光(幸隆妻の兄?)
なので、内側から開城。
 結果・・・斎藤憲広が降伏→反撃。(「真田三代」)
知略①善導寺(現東吾妻町のナショナル工場敷地)の僧の仲介
   で、鎌原を場内に入れる。
   鎌原は、憲広の甥斎藤則実館に泊まり、「本領安堵。」
    を伝え、裏切らせた。
 知略②憲広重臣の海野幸全・幸光(幸隆の妻弟)に海野左馬
    充(さまのじょう)を送り、一族の縁で、味方に引き
    入れた。

■第3次岩櫃城攻め
10月・・・和睦後、急に攻撃再開。
    信綱2000に沢渡から、
昌幸・矢沢500で大戸口へ、
その他500で城を包囲。
 斉藤憲広は籠城。幸隆は内応の忍者に会い、海野兄弟に憲広
の館 に放火を指示。
  →総攻撃。斉藤憲広の甥:斉藤則実が開門。 
 結果・・・斎藤越前守憲弘は上杉謙信を頼って、
   越後に逃亡。(真田三代)
 →武田氏の命で、真田幸隆の吾妻の統率者。
  三枝松土佐守、鎌原幸重、湯本善太夫が岩櫃城の城代。

海野輝幸、斉藤弥三郎一派は裏切ったが、
 秋間氏は最後まで斉藤憲弘に忠誠を尽くしているのだ。
 

◆◆吾妻氏の善導寺創建
 加沢記によると・・吾妻氏が善導寺を建立したこと明示。
  と内出城居城を暗示している。
「修験岩櫃物語」及「善導寺代々記」「歴代名誌」及び
 寺伝によると・・・秋間氏の開基である。
(★富澤豊前守様のHp参照あれ。
      岩櫃城興亡史・・・)

★今回はかなりくどかった。

この記事へのコメント

たけだ
2012年08月27日 11:54
はじめまして。たけだと申します。
いつも楽しく(とくに箕輪初心)拝見させて頂いております。

「明間」=川戸内出城説、
近年(2006年)の久保田順一氏の論稿「上州北一揆と利根・吾妻」(同著『室町・戦国期 上野の地域社会』、岩田書院 2006年、新稿)で、その可能性が高いとの指摘があります(当方はこの論稿の存在に先週気づきました)。いずれにしても、ご卓見と存じます。

私もブログやっております(はじめました)↓↓。よろしければ、ご訪問頂ければと存じます。
http://blogs.yahoo.co.jp/take_take_taku
たけださんへ
2012年08月27日 20:58
この説は私が一番先かと思っていましたが、久保田先生が先でしたか? どう考えても、安中では無理なのです。
ありがとうございました。※写真の中に、余湖さん・埋もれた古城さん・富岡武蔵さんがいます。覗いて下さい。
たけだ
2012年08月28日 11:58
操作ミスで変な絵文字入れてしまい、すみません。
たしかに、安中では不自然かな…という感じはしますよね。
写真探してみました。有名な方々ですね。といっても私は、城は(も)素人で、面識ございませんので、誰が誰かは分かりませんでしたけれど(笑)。面識あるのは、同業者の竹さん(私は友達と思っていますが…)くらいでしょうか。
たけださんへ
2012年08月29日 20:11
丁寧なご返事、ありがとうございました。明間=川出城説、気づいたときは感動しました。歴史ってロマンがあると勝手にいい気分になりました。賛同者があるだけでとても嬉しいです。ところで、私も城の縄張りの検証などについては全くのど素人です。確かに箕輪城の情報はブログでは№1だろうと思いますが・・。以前、竹様から、箕輪城の文献関係に書いたところ、ご連絡をいただきました。私自身、あっちこっちのジャンルで統一性がありませんが、また、遊びに来て下さい。今日は、ありがとうございました。
秋摩進
2016年04月06日 13:49
初めまして、秋摩進と申します、我が本家の言い伝えには出所は群馬と言う話を小さい頃から聞いていました、又、東村山市の寺に「元弘の板碑」にも「飽間ノ斉藤藤原ノ盛貞」と言う板碑が有ります此れは新田義貞が鎌倉幕府討伐の際に従い戦士した者の供養塔と信じております、又、現存とした証は有りませんが、己の心の支えと、今でも思い先祖に恥じない様に余命尽きるまで生きて観ようと思います。当家の菩提寺には「秋間」「秋摩」の両方が有りますが先祖を辿れば同じです、又、東京の多摩地区には「秋間」姓が非常に多く存在します!何かのご参考になればと思い、以上です。

あきま様へ
2016年04月08日 12:49
ありがとうございます。2名の飽間氏が亡くなったことが群馬県史にも出ています。平安末期・鎌倉時代からの群馬県安中市秋間の領主でした。

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