箕輪初心●真田3代⑥『小田原攻撃~第2次上田戦争~大阪の陣』

天正17年(1589) 
8月 関白豊臣秀吉の裁定で、 
   ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
   ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊那
11月 北条氏邦の右腕で、沼田城主:猪俣邦憲は、名胡桃城主:
   鈴木主水の配下、中山城主:中山九兵衛を調略し、偽の
真田昌幸からの手紙で、鈴木主水を城外に誘った。
   南西の榛名峠城(=権現山城)から名胡桃城を奪取した。
鈴木主水は沼田の正覚寺で自刃した。(名胡桃事件)

小田原征伐勃発の口火を切った城である。
 {★名胡桃城の歴史・月夜野町(現沼田市)教育委員会より}
●名胡桃城(群馬県みなかみ町)
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天正18年(1590) 
北国軍:前田利家&上杉景勝の上野国攻め・・・
真田昌幸3000は、上杉景勝の配下

  真田信幸(信之)が27000石で沼田城に入城。
  五層の天守造営。
   信之は初代沼田城主。岩櫃城は沼田の支城。


天正18年(1590)
A、秀吉軍の北国軍(前田・上杉・真田昌幸ら)が北条の城を攻撃。
3月?日 前田利家が福井経夕→東山道木曽→佐久郡へ到着。
   (別の資料では、直江兼続が春日山で前田軍の食料を確保)
      上杉景勝軍の配下:真田昌幸が合流。北国軍。
3月15日 真田氏先兵が碓氷峠で大道寺政繁と交戦。
3月18日 北国軍が碓氷峠で北条先兵を破る。 
         (松井田の坂本愛宕山城)
●愛宕山城(群馬県安中市松井田・・所在地付近)
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3月28日 松井田城を包囲攻撃、落ちず。
         大導寺政繁は北国軍に備えて、
            碓氷川から石を運んで工事。
4月?日 西牧城(多米元忠)への攻撃
            →多米元忠が西牧砦で討死
       (★群馬県下仁田町町誌:物語山伝説)
4月?日 厩橋城(?)を攻略。・・・・浅野長政ら
4月7日  豊臣秀吉から真田昌幸が松井田に付城普請を
           命じられる。
4月7日  豊臣秀吉宛の真田昌幸のからの書状
       「前田・上杉と松井田城を攻囲しています。」
4月12日 真田昌幸が手勢を連れて碓氷峠で80人を討取る。
●坂本城(群馬県安中市松井田碓氷湖南)
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4月14日 真田昌幸宛のの豊臣秀吉からの書状
          (★真田宝物館)
     「13日に見た。小田原城を~~~。
         景勝・利家と相談して~~・」
4月20日 松井田城(大導寺政繁+子直繁1500騎)落城
●松井田城
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  (★安中にりさと学習館のジオラマ)
          →大導寺政繁は前田の道案内。
4月?日 和田城(和田○繁)も落城・・・・・前田・上杉
4月?日 倉賀野城(塀和○○)も落城。
4月24日 →大導寺政繁は前田の道案内となる。
      前田・上杉・真田が箕輪城へ・・。
               (★鉢形城開城:鉢形城博物館より)
    ・前田・上杉軍の前に4月24日、闘わずに降伏開城。
  真田昌幸が入場。
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   ①北条氏の塀和氏・保科氏が守備(高崎市史の資料)
   ②北条氏の芳賀信濃守・保科正直が降伏。(みさとの歴史)
   ③芳賀信濃守は逃亡し、保科正直が降伏。
             (近藤先生:箕輪町誌の松城通記)
   ④4月24日垪和信濃守は北国勢に降伏。
         (近藤先生:箕輪町誌「箕輪城と長野氏」)
   ⑤去弐四日書状今日弐九披見候箕輪城之儀羽賀信濃守追出
     保科居残城相渡候付て    羽柴孫四郎・・・
       近藤先生:箕輪町誌の4月29日の秀吉書状

   4月24日の真田の報告に答え、箕輪城で在城処理。
    真田昌幸は箕輪城の受け取りを任された。
※北条側は塀和伯耆守康忠・保科正直であった。
(箕郷町誌他)
詳細は・・・箕輪初心●箕輪城シリーズ:塀和伯耆守康忠 
 http://53922401.at.webry.info/201010/article_39.html  



4月29日真田昌幸は豊臣秀吉から箕輪城の武具受領や
     百姓環住などの仕置きを
     指示。人身売買(旧家臣を買うこと)の禁止。     

別の資料では・・・7月に箕輪城開城
4月 真田信幸は徳川家康の養女小松姫を妻にする。沼田城主となる。
   豊臣秀吉と徳川軍、北条氏を攻撃(小田原石垣一夜城の陣)。
7月 真田昌幸・信幸らは前田利家、上杉景勝らと
    松井田城・箕輪城を攻撃。


7月6日 小田原城落城。北条氏は降伏開城。
       →小田原北条氏は事実上滅亡。
8月 豊臣秀吉の策
    ①家康は三河・遠江・駿河・甲州・信濃から関東8州に
    真田信幸(信之)が豊臣秀吉から沼田城に27000石で入城許可。
    真田信之は初代沼田城主。五層の天守造営。岩櫃城は沼田の支城。
   ②真田昌幸は上田城安堵。

★徳川家康の家臣団の配置図
http://53922401.at.webry.info/201111/article_22.html



?月 豊臣秀吉の奥州出陣に真田昌幸・信之が出陣

天正19年(1591)
  →真田家の2藩の成立→関ヶ原の戦いの火だね

文禄元年(1592)  
3月 文禄の役。
真田昌幸・信之父子も秀吉に従い肥前名護屋に陣。
  真田衆は名護屋在番衆700名を割り当てられた。
   渡海はしなかった。
●名護屋城
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文禄2年(1593)     
  豊臣秀吉は、真田昌幸を重用。

文禄3年(1594)
1月18日 真田昌幸・信之・幸村への豊臣普請奉行からの書状
      「伏見城の負担分は1680人~~。」 
      木材の運搬の仕事にあたった。(★真田宝物館)
11月  真田信幸が従五位下伊豆守、
       真田信繁(幸村)が従五位下左衛門佐に。
      
      真田信繁(幸村)は秀吉の5奉行の大谷吉継の娘を妻に。
  真田信之は初代沼田城主。岩櫃城は沼田の支城。
  

文禄4年(1595)  
      真田昌幸は豊臣秀吉に重用。

慶長元年(1596)  ?

慶長2年(1597)  
 2月  慶長の役。朝鮮再出兵。

慶長3年(1598) 
8月18日 ※豊臣秀吉が死去。  

慶長4年(1599) 
3月3日  前田利家が死去。

慶長5年(1600) 
関ヶ原の役。
       信幸は徳川東軍VS昌幸と信繁(幸村)は西軍
       真田信幸は沼田領を安堵。信州松代城を安堵。

6月   徳川家康が上杉景勝討伐に出発。
真田昌幸・信幸・信繁(幸村)も出陣。
7月 石田三成、大坂で挙兵。
    小山評定・・・ 
7月21日 下野の佐野「犬伏の陣」で東軍・西軍に。 
 ・過去60年知略で生きた3代で7主君に仕える真田家の総集編
  上田城真田昌幸(父)・幸村(次男)・・石田(豊臣)方西軍
  沼田城真田信幸(昌幸長男)は徳川方に残留・・・・・東軍
  「一見、兄弟で戦うように見えるが、生き残り作戦を賭けた
真田氏の知恵。」
●佐野犬伏の米山古墳神社
(アウトレットの信号を北上し、大きな旧道東山道?
 を右折。あけみずしの反対地点。唐沢山城の手前4km)
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 ・真田信之妻小松殿(家康養女で本多忠勝娘)
と矢沢薩摩守(昌幸の伯父)で、
   真田昌幸・幸村を沼田城に入れず。
   →真田昌幸は「流石、本多の娘、これで真田安泰だ。」
と言ったとか?

7月27日 真田信之宛に徳川家康からの安堵状
       「小県郡(上田城・真田館)を安堵。」(真田宝物館)

■第2次上田合戦
8月23日 真田信之宛の徳川秀忠からの書状
     「24日に(宇都宮)を立って、小県を攻めるから、
お前も出馬せよ。」
     ・徳川秀忠、上田城を攻撃・
     ・真田信之も上田に出兵。
9月2日 真田信之は虚空蔵山城(伊勢崎城)
       ・砥石城を落とし、待機。
      真田昌幸の恭順作戦・・・・東軍加入と見せて
      時間かせぎ・・・・(伝)
9月5日 上田神川の戦い
       徳川秀忠38000 VS 真田昌幸2000? 
    ・真田昌幸は、徳川を上田城近くにおびき出しては鉄砲攻撃。
    ・真田昌幸・信繁(幸村)は、秀忠軍の侵攻を阻む。
       神川の増水で、大群が混乱。
●上田城
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9月7日 徳川秀忠は撤退→関ヶ原へ
     
※関ヶ原の役
   真田信之が真田昌幸・信繁(幸村)の切腹を許してもらった。
   徳川家康から沼田城・小県郡の所領安堵。
・徳川方についた信之(昌幸長男)が1622年まで上田を統治。
    (★上田市立博物館発行「松平氏史料展」より)
●関ヶ原の合戦跡
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  (徳川家康の陣跡)


11月真田昌幸・信繁(幸村)、高野山(九度山)に閉居。16人。
●高野山入口の九度山・・・慈尊院(空海母の寺)の近く
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   真田信幸→信之と改名。上田城へ移封。沼田領を安堵。
   真田信之は、戦功により
上田領、沼田領合わせて95000石の領主。    
  
真田昌幸・信繁(幸村)、高野山(九度山)に閉居。
  真田信之妻小松殿が真田昌幸に鮭を送る。
  
慶長8年(1603)
   6月徳川家康が征夷大将軍となる。
       江戸幕府成立。
  
慶長10年(1605)
   真田幸村は「焼酎をくれ。」と信之家臣に手紙。

慶長14年(1609)1月 豊臣秀頼、方広寺大仏殿再建。
慶長16年(1611)6月 真田昌幸は九度山にて死去(65才)
    真田信之は上田の長谷寺に地味に埋葬。
●長谷寺・・・真田昌幸の墓(右)・真田幸隆(中)&妻(右)
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慶長17年(1612)
  真田昌幸の一周忌後、侍臣池田氏・原氏らが
             上田帰郷。
        真田信繁(幸村)入道。「好白」
慶長18年(1613) 真田信之は岩櫃城の廃城・・
・家康の一国一城令により破脚。(真田家の安泰のため)
   山之手殿(母)の死去。

慶長19年(1614)  
10月 徳川家康、大坂討伐命令。
    真田信幸(改名信之)が、病気を理由に長子信吉・次子信政が参陣。
    豊臣秀頼の使者から黄金200枚・銀30貫を頂戴した。
    徳川家康は真田幸村の監視強化。
    真田幸村・大介父子は九度山から大坂入城。
    軍議・・・幸村は大野治長の籠城説に従った。
    真田幸村は真田丸を築城 
12月 大阪冬の陣
    東軍の真田信伊(幸村叔父)10万石で寝返るよう誘った。
    東軍は真田丸攻撃・・・敗退。和議成立。
    真田丸の解体作業。
●大坂城真田丸
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   (★広島県浅野家文書:諸国古城之図)

元和元年(1615)
4月  大阪夏の陣・・・徳川家康、大坂再征を命令。
真田幸村は伊達隊と交戦。後退。
4月7日 真田幸村は真田大助を大坂城内へ送り、
      茶臼山で徳川家康の本陣へ突撃・・・・討死(49才)。
      
4月8日 秀頼・淀君ら自害。
       真田大助らが殉死。
      真田信之・長子信吉・次子信政が参陣。
元和2年(1616)~
      
元和8年(1622)
  真田信之が上田城から10万石で入封。
・・・・以後明治まで続いた。
●松代城(本丸入り口)
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