箕輪初心●真田3代②幸隆の箕輪城居候1541~旧領奪回1551

■【3】真田幸隆(=幸綱)の居候時代&旧領奪回
天文10年(1541) 5月 海野平合戦
 甲斐の武田信虎・村上義清・諏訪頼重が同盟。
 武田信虎・諏訪頼重・村上義清らの攻撃。
 海野平の合戦→海野氏・望月氏・祢津氏の敗北。
  海野幸義の戦死。
→海野棟綱・真田幸隆28歳・信綱5歳は、上野国:
   羽根尾城の羽根尾幸全(ゆきまさ)の所へ逃亡。
●羽根尾城・・・・★詳細は後日紹介
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→望月&祢津は武田信虎の家臣になった。
 →真田幸隆は、上野の箕輪城に居候
(★箕輪城史・TV風林火山)
  ★羽根尾幸全は箕輪城主:長野業政の娘を妻にしていた
    ので、紹介されたらしい。
●箕輪城(群馬県高崎市)・・・
  ★長野氏時代の主郭は三角形形で、今の半分程度
        (★発掘調査をした秋本太郎先生)
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  (★箕輪城祭り)

天文11年(1542)
 →真田幸隆は上野の箕輪城に居候
※海野棟綱の所在不明・・・
   真田幸隆の海野棟綱の殺害説あり。
   真田幸隆は小幡重貞と仲良くなった。・・・(★小説多数)     

・天文10年(1541)~12年(1543) 真田幸隆が箕輪城に3年間。
                 (全小説・TV)
 ★私見「真田幸隆は羽尾城(吾妻町)から客人として来たのでは?
  運がよければ、箕輪城長野業政の同心になって、旗揚げし、
  滋野一族(海野・禰津・望月)の再興を考えたでは?
  それ故、箕輪城には、観察に行ったのではないか?
  箕輪城主長野業政の娘を羽根尾幸全がもらっているから、
  真田幸隆は箕輪城へ身を寄せ、上野情報を得たのでは・・・
 ※長野業政が、山内(平井城)上杉憲政の家老。
   私見「家老という言い方は変かも? TV「風林火山」  

天文12年(1543)
真田昌輝が生まれる。
②武田の信濃の佐久侵攻
武田信玄は長窪城の大井貞隆を攻めるために佐久の前山城宿泊。
●箕輪城(高崎市箕郷町)
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*天文13年(1544) 真田幸隆が逃亡。
 ①真田幸隆は小幡重貞と仲良し。小幡重貞は武田氏24将
     (★渡辺明著「箕輪城興亡史」)
 ②長野業政は、逃亡した真田幸隆を下仁田まで追っていき、
食料品と幸の品物を届けさせた。

               (★まんが箕郷の歴史
:近藤義雄先生・田口一郎埋蔵文化財主査・唐沢定市先生)
 ③真田幸隆は小幡信貞と長野業政批判で意気投合。
  山本勘助の誘いで金敷平→中善地→駒寄→榛名湖から
     逃亡。
  (★野口泰彦著「小説箕輪城」)
★小説は楽しいが、正しいか分からない。 
 
 →真田幸隆、武田信玄の招きを承諾。?
 ※東信濃に明るい真田幸隆を板垣信方が信玄に推薦。
  山本勘助が仲介・・(★真田家伝)

 ★私見「真田幸隆は上田付近や上野の箕輪城などに精通して
       いるため」
 「真田幸隆が安中市後閑の長源寺で山本勘助を助けた           
           (★TV「風林火山」)    
 ★私見「山本勘助は56才位らしい?
    実際には来ていないかも?信憑性に乏しいのでは?」 
 ●長源寺(安中市)・・・写真が見つからない。

③武田信玄の信濃の佐久侵攻
・武田信玄の攻撃→岩尾城落城。真田幸隆が城代。
          (★上田博物館:真田氏史料集より)
   (後に武田氏に服従した大井氏が城主に戻った。)
●岩尾城・・・・★詳細は後日
。」
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・佐久の長窪城(諏訪市と佐久市の中間)に侵攻。
   大井貞隆は武田晴信(信玄)の軍に攻められ、捕縛→自害。
●長窪城(長野県長和町)・・・★詳細は後日。
    結果・・長窪城は武田氏が北信濃に進出するための
        重要な拠点。
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天文14年(1545)    
・武田氏が上田平の塩田城(上田市丸子町)も攻略。
●塩田城(上田市別所)・・・詳細は後日
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・別所温泉は信玄の隠し湯
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・小諸城の築城・・・大井の分家の居城→山本勘助は縄張り
         (穴城「城下町より低い)
●小諸城(小諸市)
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・禰津城の娘18歳を信玄の妾2号にする。
  「*滋野氏から3家・・望月氏・禰津氏・海野氏が派生。」
 ★私見「信玄=英雄、色を好む。」のそのまま・・・スケベ信玄。」
 ●禰津城(東部湯ノ丸SA右上の城)・・・本丸
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天文15年(1546)
  武田信玄の命で、勘助が上州安中上後閑の長源寺へ
   ・・・・・山本勘助が負傷→真田幸隆が助ける。
  真田幸隆は武田に急接近・・・・・
        (★大河ドラマ6/17・・・)

④武田氏の信濃佐久侵攻
●佐久の田口城(臼田の東)に侵攻。
●平賀城(酒屋芙蓉の南東300m)に侵攻。
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●内山城に侵攻。
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・武田勝頼の誕生 

・10月4日 志賀城主笠原氏の要請で、上杉憲実(平井城)は援護。
・笛吹峠(碓氷峠)の戦い
(この戦いは年代不明で幻の戦いと英知出版)   
   武田軍馬場・山本軍4500人 VS 山内上杉憲実20000人
→結果:武田軍勝利
●平尾城・・・・・佐久スキーパラダ
●志賀城・笠原城
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●小田井城

天文16年(1547)
真田昌幸が生まれる。
 上原城にて、信玄は板垣に「諏訪地方は、戦勝者に土地を与える。」
      (★大河ドラマ7/8・・・)
●上原城
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 *真田幸隆は、情勢に真剣・・「旧所領を安堵したい。」
 *甘利は村上義清に会見・・・
    →村上義清は信玄を裏切る。
  2月に出陣。   


天文17年(1548)
⑤武田氏の上田原の戦い
真田幸隆は、武田信玄の家臣として上田原で村上義清と
       交戦?(絵図に真田あり)
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 村上旗本800騎馬200中間200??徒士100
   足軽150???鉄砲50三組~~
 打ちとり数2919 武田方討ち死に700  
        (★上田市博物館資料:猪坂直一氏蔵)

天文18年(1549)
・信濃の諏訪:茶臼山城より高島城へ移築(諏訪の警備重視)
●高島城・・・・祭り。もちろん天守閣はなかった。
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・伊那箕輪城を築城。
●伊奈箕輪城
・松本村井城を築城。(長時の林城から8km)
・佐久の望月城(佐久西部)の滋野氏一族望月氏に侵攻。
  (望月城は、滋野氏との資料もある。
     望月氏は滋野氏の子孫・津金寺が菩提寺)
●望月城
・佐久の伴野城(伴野氏分家:佐久市内)を攻略。・・・
●伴野城(=野沢城) 武田氏
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天文19年(1550)
7月2日の真田幸隆宛の武田信玄からの宛行状
「もし、砥石城を落とせたら、諏訪方(現上田城下地区)と
上条(???)の1000貫文の土地を幸隆に宛がうと約束
した書状(★真田宝物館)
●長窪城
5月砥石城攻撃を画策・・・失敗。
●砥石城・・・砥石城祭
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⑥信濃の松本侵攻
7月 信玄は小笠原領埴原城に侵攻。
●埴原城
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   林城を放棄→平瀬城・村上義清の塩田城逃亡。
●林城
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   ・真田幸隆が武田への引き入れ工作開始

⑦信濃の上田侵攻・・・・失敗「砥石崩れ」
8月  武田信玄は長窪城に着陣
    →和田城、高鳥屋城、塩田城等を攻略。
●和田城
●塩田城    

9月、武田信玄が長窪城に着陣→重臣を2回、戸石城の偵察。
 →砥石合戦。村上義清の支城砥石城(上田市)の攻撃。
 真田幸隆も参戦。
 武田信玄、砥石城を1ヶ月以上攻略できず。
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 真田幸隆の工作で、清野氏・須田氏が武田へ寝返り。
 村上義清が高梨氏と交戦。葛尾城留守→信玄は砥石城を包囲。
 武田信玄の砥石城攻めの報→村上義清は高梨氏と和睦を結んで反転。
 村上義清は降将の一人として武田勢の中に潜入。武田勢は大混乱。
10月 武田信玄が撤退。陣を解いた。
   背後から村上義清軍・・・武田軍は大敗。
    殿(一番最後の軍)を務めた横田高松・渡辺雲州
    小山田など1,000人以上(5000人?村上報告)の将兵が
    討ち死に。
    村上方の死者は193名?
   
 ・信玄は家臣の真田幸隆に命じて、村上勢の武将切り崩し
           調略を強化。

天文20年(1551)
5月真田幸隆、砥石城を間者を使って攻撃。
 知略①砥石城の足軽大将矢沢薩摩守頼綱(幸隆弟)が兄幸隆に内通。
    村上義清の影響力は一気に低下。
   ②葛尾城北の清野氏が武田方に・・・
武田勢力の圧迫に砥石城が落城。

●砥石城(上田市)
連郭式・・・(米山城) (砥石城) (桝形城)    
  米山城・・馬に米をかけ、水があるのを装った。(伝説?)
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→現真田町を本領安堵。    
・武田勢が葛尾城(村上義清)進入。
   近隣領主は武田に降伏→葛尾城落城。
●葛尾城(千曲市)・・・堀切りが今でも分かる。
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真田幸隆は、武田氏の重臣に。
  ・砥石城をゲット。所領安堵。
  ・真田本城の改築(山からの水道施設)
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  ・真田館などの城を築城開始。
 →真田家は滋野一族の筆頭になった。

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