箕輪初心●「滋野一族→海野一族の歴史」

海野氏は信濃国小県郡海野を本拠とした信濃の豪族である。
滋野一族の分家である。滋野の説が9つ以上あると思われる。
福田晃(立命館大学名誉教授)や石川光一先生は平成23年
(2011)11月20日の東御町での講演会で、紀国造の同族の
楢原造東人の後裔とする説をとっているようである。清和天
皇後裔説は信憑性に乏しいし、裏付ける確実な根拠もない。
とは、いうものの海野宿の白鳥神社の系図も気になる。

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  (★海野宿の白鳥神社)

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 (★海野宿博物館資料)

■【1】滋野一族の歴史・・・【石川好一先生】を中心に編集
旧東部町の伝承・・・「善淵王の子孫である。」

『尊卑分脈1』
清和天皇の第4皇子貞保親王(さだやす)が信濃国海野庄
 (現:長野県東御市本海野)に住し、その孫の善淵王が
  延喜5年(905年)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)
  されたことに始まるとされる説。
『本朝皇胤紹運録』(★天皇家家禄)・・1400年頃の作
清和天皇ーー陽成天皇
貞保親王ーーーーーーーーー源国忠
                   源国弥
       基渕
貞純親王ーーーーーーーーー経基王
信州滋野氏3家系図(★望月町誌)
  清和天皇ーー陽成天皇(長男)
貞保親王(2男)ーー国忠
             国珍
    目宮王ー善渕王ー滋王氏
(★依田や根井が分家で出てくる。)
貞固親王(3男)
貞元親王(4男)
貞純親王(5男)・・・(源氏の先祖)
貞辰親王(6男)
 貞数親王(7男)
    巽子内親王(女)

清和天皇の第2皇子貞固(さだかた)説

『大日本氏族志』
清和天皇の皇子:貞秀親王が信濃国白取荘に住み、
 その孫:善淵王の時に滋野姓を賜ったのが始まりという説。

・石川氏「しかし、貞保親王が信濃国に下向したことを裏付ける確か
 な記録はない。更に善淵王とその父:目宮王の存在も不明である。
滋野氏は「尊卑分脈」には記載されておらず、
「日本古代氏族人名辞典」(吉川弘文館)
 「滋野氏は、 紀(直)氏と同系氏族」
 紀伊国造と同系の楢原氏が最初と思われる。

『公卿補任』・・10C~・・・石川氏&康子講師&福田氏など
  楢原氏(紀氏)系滋野氏の末流ではないか?
  楢原造→伊蘇志(いそし)臣。
  
  ・延暦17年(798)滋野宿禰=滋野姓の初見となる
  ・弘仁14年(823) 家訳&貞主が滋野朝臣を賜って
           滋野氏となった(伝)。
  ・仁寿2年(852) 滋野朝臣と改姓。

楢原造東人・・船白(滋野朝臣)・・家譯(滋野朝臣)・・
・・・兄:貞主(滋野朝臣)&弟:貞雄(滋野朝臣)
 
  兄:滋野貞主は娘を仁明天皇の女御、文徳天皇の女御にした。
仁明天皇の子・・本康親王、文徳天皇の子・・惟彦親王
  ・・・朝廷内で一定の地位を確保。正四位下で相模守。
  弟:滋野貞雄は仁明天皇の子:文徳天皇の後宮に娘を入府。
  文徳天皇の子・・悦彦親王?(本有)
  従四位上。

 滋野貞主→滋野善陰→孫?:滋野恒蔭
  貞観10年(868)に滋野恒蔭が信濃介に就任。
  貞観12年(870)貞主2男・滋野善根も信濃守に就任
 
  石川氏「滋野一族と信濃の関係か?」
 ・天暦4年(950)滋野恒蔭の孫:滋野恒信が望月牧監となって
  信濃国小県郡海野荘に在住し、海野幸俊を名乗った(伝)

 石川氏「信濃滋野氏が祖と称する貞保親王と、楢原氏系滋野氏
 との関係は判明していない。また、来ていたかどうか不明であ
 る。」
 
 先述の「信州滋野氏3家系図」(★長野県・・望月町誌)
 信濃滋野氏の嫡流とする海野氏の家系図では、
  貞保親王(母は貞雄系統の女=恒蔭の娘)→目宮王
→善淵王の父である。
上述の滋野恒信(海野幸俊)と目宮王は従兄弟となる。

光孝天皇の子:源国紀の子孫説・・
  滋野公忠がいる。光孝源氏の支流(伝)。
 ※信濃滋野氏や楢原氏系滋野氏との関係は不明である。

石川氏「信濃滋野氏の系図は、海野氏・望月氏・禰津氏など
 の諸族に伝えられた口伝や江戸時代に作られた家系図で、
 信頼性に乏しい。戦国期を生き抜いた禰津氏や海野氏流を
 名乗る真田氏などの資料も信頼性が疑問視されている。」

●滋野一族系譜のHp
http://www.kakeiken.com/report004.html


■【2】海野氏の最初の文書・・・海野宿博物館
・天平十年(738)?
正倉院御物に「信濃国小県郡海野郷戸主瓜工部君調」と墨書さ
れた麻布がある。
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 海野氏の祖ではないかと博物館の展示にあった。
 この頃、滋野宗家→滋野3氏族「海野氏・祢津氏・望月氏」
 小県郡・北佐久郡西部にかけて栄えたのであろう。
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⑩群書類従
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■【3】歴史への登場
① 治承4年(1180)以仁王の挙兵
 源義朝の指揮下の源氏武士に宇野(海野)氏の名がある。
源義仲の挙兵(長野県東御市本海野白鳥河原)に際して東信濃で
 最も力となったのは佐久:根井行親や海野幸親・行広らであった。
 海野幸親(=行親:滋野行親)。
・・・『保元物語』
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 (★海野城遠望=白鳥河原)
●木曽義仲公と共に戦った配下の武将。
  今井・樋口・根井・楯・手塚・金刺・海野・望月・祢津・高梨
 ・長瀬・岡田・丸子・栗田・村山・仁科・宮崎・石黒・富樫・林・・・。
★今井は、現群馬県渋川市箱田に子孫がいる。(★斉藤美由紀氏)
★手塚は富山で斉藤を討った。

寿永2年(1183)木曽義仲の嫡男:清水冠者義高
11歳に仕えた海野・望月・諏方(=諏訪)・藤沢(諏訪一族)
などが鎌倉に行った。★源頼朝の人質となった。
海野幸親の子:海野幸氏は、木曽義仲の子義高が頼朝の人質と
  なった時随従した。
(「平家物語」巻7「清水冠者」)
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寿永2年閏(1183) 備中水島の戦
  海野幸広は矢田義清とともに先鋒の大将となり、平氏の
  大将:平教経と戦って戦死した。・・・ 『源平盛衰記』 
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   (★本海野の歴史より)

元暦元年(1184)4月21日 
 木曽義仲が敗れて没落。
 木曽義高が鎌倉を脱出しようとしたとき、海野幸氏は木曽義高
 の寝床に入り身代わりになろうとした。
 ・・『平家物語』

元暦元年(1184)
  海野幸氏は木曽義高の亡き後、源頼朝に仕え、御家人になった。
文治5年(1189)1月9日・・・
弓馬の名手として重用された。
 1番 下河邊庄司行平  曽我太郎祐信
2番 小山七郎朝光   和田三郎宗實
 3番 藤澤次郎清近   橘次公成
 4番 三浦十郎義通   海野小太郎幸氏
5番 榛谷四郎重朝   和田小太郎義盛
           『吾妻鏡』
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(★海野宿博物館資料)

建久3年(1192) 
  鎌倉幕府を樹立した源頼朝は海野幸氏の忠節と
  武勇を称え、海野幸氏を重用した(伝)。

建久4年(1193)
 源頼朝が富士の裾野で狩を催した時には、海野幸氏
 同じ信濃武士である藤沢二朗(諏訪一族)・望月三郎・祢津
 二郎らと共に弓の名手として参加した。  『吾妻鏡』
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  (★金時山からの富士山の眺め)

建保4年(1216) 三原牧(現群馬県嬬恋村大桑・猪狩)

 海野左衞門尉幸氏が上野国三原のことを話した。
「・・・浅間の離山、三原の狩倉どもを見ん。」      
     『曽我物語』

○浅間の離山=現長野県軽井沢町&御代田の堺
 ※滋野系祢津氏は鷹匠として同行した。
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○三原の狩倉=南大原=現群馬県嬬恋村大桑・猪狩
※源頼朝の浅間=三原の狩りに際して、
   海野幸氏の活躍が語られている。3日間の逗留。
  『曽我物語』
※祢津一族は鷹匠として参加(★二本松先生・福田晃先生)
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  (★湯ノ丸より浅間山を望む・・・左が南大原牧。

○那須・・・調べてないので、不明。
★宇都宮一族が鷹匠として参加(★二本松先生・福田晃先生)
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  (★なぜか那須与一)

承久3年(1221)承久の変=承久合戦
 鎌倉幕府の成立後、鎌倉の武家政権&」京都の公家政権との
  二元政治が続いていた。
  後鳥羽上皇が鎌倉幕府に討幕の兵を挙げた。
  海野幸氏は北条泰時に従い、東山道の大将:武田信光の軍に
  属して西上。
 →結果・・鎌倉幕府が優勢。朝廷の権力は制限された。
  鎌倉幕府執権が皇位継承などに影響力を持つようになった。
 
嘉承3年(1237) 鶴岡八幡宮における北条時頼の流鏑馬・・・
 海野左衞門尉幸氏が騎射の技を披露した。「弓馬の宗家」と讃えた(伝)。
 海野左衞門尉幸氏が時頼のそばで解説した。
      『吾妻鏡』
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天下8名手の1に数えられた(伝)。
海野幸氏・武田信光・小笠原長清・望月重隆と「弓馬四天王」
と称された。以後、将軍家の御弓始、放生会の流鏑馬、三浦
の小笠懸などの催しなどには海野幸氏は必ず参加した。


■【4】鎌倉時代後期=海野幸氏の子孫・・
 海野幸氏以後の子孫については不明な点が多い。
 諸系譜の伝えるところも説が多いのである。
 海野一族が宗家・分家の区別が判然としなくなったのかもしれない。
 海野氏は鎌倉時代中ごろより、各地に支流を広げていった。

 海野幸氏弟:海野幸長=大夫房覚明(出家名)がいる。
 家督は海野幸氏系が継承している。
 海野幸広→長男:海野幸房→海野幸友→下屋幸兼。
 下屋友房の養子:下屋幸兼が名跡を嗣いでいる。
 下屋幸兼→次男:鎌原重友→鎌原友成→鎌原幸成→鎌原幸信。
 下屋氏から西窪氏や大厩氏などが分家している。
 海野幸房には、長男:海野幸友+次男湯本幸雅(湯本氏の祖)。
1)信濃国小県郡の真田、筑摩郡の塔原・光・刈屋原など
2)上野国吾妻郡の下尾・羽尾・鎌原などの諸氏が海野一族と
  して知られる。

■【5】鎌倉幕府滅亡後=海野氏の拡充
 ※海野氏は東信濃の雄将として信濃守護小笠原氏に対抗した。
・応永7年(1400) 大塔合戦・・・東信濃の武士団の棟梁の1人
 として海野幸義の名があり、守護小笠原氏と戦っている。
海野宮内少輔幸義、舎弟中村弥平四郎、会田岩下、大草、
 飛賀野、田沢、塔原、深井、土肥、矢島以下」と記されている。
               『大塔物語』
 大文字一揆衆の大将:禰津越後守遠光は大手門攻撃側大将であ
 った(伝)。

■【6】長野県における滋野一族の本城
①滋野氏=滋野城・・不明
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②海野氏=海野城・・海野宿南300m。千曲川の洪水で壊滅で。
・・海野宿北国道18号の白鳥台地
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③祢津氏=祢津城・・東御市祢津=東部湯の丸ICから見える富士山
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   (★根津下の城本丸)
④望月氏=望月城・・長野県佐久市望月。
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  (★望月城本丸)
⑤依田氏=依田城・・長野県上田市(別所の山最南端=標高600m)
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  (★丸子城から依田の宗龍寺方面の眺め)
芦田城・・長野県望月町芦田=依田
⑥安部氏=岡部藩主・埼玉県岡部市


■【7】群馬県における海野一族の分家
西から
○下屋氏=四阿山修験・群馬県嬬恋村三原
①西窪氏=西窪城・・・群馬県嬬恋村西窪
②鹿沢氏=鹿沢城・・・群馬県嬬恋村・鎌原観音堂500m
③羽根尾=羽根尾城・・群馬県長野原町羽根尾
④浦野氏=王城山修験=林城・・群馬県長野原町林
⑤湯本=??城・・・・群馬県東吾妻町→草津
⑥柳沢=柳沢城・・・・群馬県長野原町
⑦横谷=雁ヶ沢城・・・群馬県??町
⑧海野氏=岩下天満宮・・群馬県東吾妻町
⑨須賀=須賀城・・・・群馬県東吾妻町
⑧羽田=大柏木城・・・・群馬県東吾妻町大柏木
⑨大戸・浦野氏=大戸城・・群馬県東吾妻町
※黒岩性・・・群馬県富岡市→嬬恋村へ(戦国時代に)

■【6】戦国時代の海野氏
・大永7年(1527)高野山蓮華定院を海野地方の宿坊とする旨の
  契状を出した豪族として海野棟綱の名がある。
  海野氏は小県郡の有力国人領主として勢力を持っていた。

・天文10年(1541)5月(天文7年説)
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 甲斐の武田信虎、奥信濃の村上義清、諏訪の諏訪頼重の
 3氏が連合して海野氏を攻撃。
  武田軍は佐久郡から・・・
  村上軍は戸石城から・・・
   諏訪軍は和田峠から・・・
 →小県郡に攻め込んできた。
 ・滋野一族の海野氏・禰津氏・望月氏らとともに抵抗した。
 →武田軍に海野平を占領された。
 ・禰津・望月氏らは降服。
 ・海野棟綱・真田幸隆は鳥居峠を越えて上野に逃亡。
  羽根尾城の羽根尾幸全・海野輝幸兄弟の世話になった。

海野・禰津・望月の滋野3家は敗北。
 海野棟綱の子(弟?)海野幸義は討死・・・海野氏の正嫡は断絶。
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  (★長野県上田市神川の海野幸義の墓) 

■【7】真田初代:真田幸隆の出現
 真田初代:真田幸隆の出自説・・・最低4つあるが・・・。
 【白鳥神社】の滋野→海野→真田】かな?
 海野棟綱の娘が実田某と結婚して産んだ子が
 真田幸隆という系図である。 


★結構、ここか先にもたくさんの伝説がある。
①海野棟綱&真田幸隆が羽根尾城に逃亡した説
②真田幸隆が海野棟綱を殺した説
③真田幸隆が3年間箕輪城:長野業政の食客となった説
=羽尾幸全(ゆきまさ)は長野業政の娘婿
④真田幸隆が山本勘助と会った説
⑤真田幸隆が怪我をした山本勘助を安中の長源寺で助けた説
⑥長源寺の和尚が真田幸隆「長谷寺」を創建した文書


■【8】上田市真田のお寺巡り・・斉藤美由紀さんの解説
 斉藤美由紀さん・・・箕輪城語り部の会
           みかかみ観光ガイド
           名胡桃城観光ガイド
 斉藤美由紀氏は「真田氏は自分が滋野一族になるため、
 海野氏の系図を削った。」と言っていた。★そうかもね?
「真田幸隆は上野国:羽尾幸全入道の娘を室としていた。」
 というのが通説であるが、長野県上田市真田の長谷寺の詣
 でながら、
「真田幸隆の妻は、幸隆の墓の右夫人が重臣:河田氏の妹
 である。」と言う。確かに、河田氏の屋敷跡&墓には、上
 田市教育委員会の建てた看板にはそうあった。

  
★私の頭が整理できないので、真田氏3代は後日、紹介したい。
斉藤美由紀さんは、【白鳥神社系図】滋野→海野→真田系図
 を信していた。しかし、簡単には、滋野系図の信憑性を信じ
 る訳にはいかないと思う。系図は捏造が多いからである。
楢原氏の後裔にあたる一族が信濃国小県佐久平を開発して、
 滋野氏族に成長したと考える方が真に近いのではないだろう
 かと考えている。平成23年度11月の考えである。
 福田晃先生や石川好一先生の説をとりたい。

★そのうち、真田一族の詳細について、分かっていることだけを
 いつか紹介したいと思う。

★参考資料・文献等
 ①海野宿資料館資料
 ②本海野の歴史:出浦氏編集委員長  
③平成23年の東御市の講演会資料
   石川好一(元東部公民館館長)
   福田晃(立命館大学名誉教授)
  二本松康宏(静岡文化芸術大学准教授)
  二本松康子(立命館大学非常勤講師)など
④東部町町誌
⑤望月町町誌
⑥学研まんが『平家物語』・・・
⑦学研まんが『平清盛』・・・・
などなど多数・・・・・・・・・参照した。

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