箕輪初心●群馬の城「宮崎城→神成城」=小幡図書之介の城

小幡図書之介は箕輪城主:長野業政の次女の嫁ぎ先である。
平安時代末期、小幡一族は、一之宮:貫前神社の宮司として、
入封してきたようである。鎌倉時代には、一之宮の姓を名乗って
いたと思われる。鎌倉時代末期、楠木攻めとして、小幡三河守
(下仁田:鷹巣城)&一宮検校の名前が出てくる。一宮検校の
系統が小幡重貞(信実・信貞=武田信玄24将・国峰城)と
小幡図書之介であると思われる。二人とも、箕輪城主:長野業政の
長女・次女を娶っていた。しかし、小幡図書之介が国峰城を横取り
したことから、小幡重貞は武田信玄に接近する。・・・。

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訪問記①・・・平成19年(2008)4月16日
・青木昇先生の陶芸教室の同門:富岡武蔵さんに
           連れて行っていただいた。
・宮崎城=富岡西中は、基本的には平時の館である。
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 富岡西中から神成城=詰めの城に向かった。
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・ハイキングコースを進むと、仏像が出てくる。
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・大きな堀切りもあった。
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・岩に穴は開けられていた。
★山門か見張り小屋のようなものである。
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・稜線歩きは30分程続く。
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  ★看板があるが、本丸ではないかもしれない。
 ・物見台
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・本丸の土塁に戻り、尾根を歩く。15分程か。
・途中、自然の空堀&竪堀があった。
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  ヤマツツジ&トウゴクミツバツツジの尾根道を行く。
 ・本郭?=詰めの城に着いた。
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(★本丸からの眺め)
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 ・さらに郭や見張り台が続く。
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 ・最深部の物見台・・・宇芸神社の祠まで行った。
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  宇芸神社の奧社
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  御嶽山320,3mに続くが、行かなかった。  
 ★富岡武蔵さん、ありがとうございました。  

訪問記②・・・平成22年(2010)12月23日
「富岡武蔵さん」の紹介で、中世古城のHPを出している
「余湖さん」「埋もれた古城さん」「チエゾー行こまいさん」
 「北緯36度付近の中世古城さん」「野口さん」などの
 超一流中世古城の有名人の方々6名に同行させていただくことに
 なった。

 でも、おいらは5分遅刻しそうで電話した。
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  (★縄張り図は山崎一氏作成)
 ●宮崎城=富岡西中前に集合し、挨拶を交わした。
この世界では、おいらが一番の若輩者である。
  最低の私は600城。他の方は1500城~10000城の人なのだ。

①宮崎城=富岡西中で看板を確認した。
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②富岡武蔵氏が先導で、ハイキングコースを行く。
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③宮崎城の楼台&掘切
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⑤尾根道・・・仏像が安置されている。
○そまえ城(下仁田:上信越道に発掘調査で解った城)の遠望。
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⑥堀切
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(★先頭から富岡武蔵さん・「余湖さん」・
    左「チエゾー行こまいさん」・右「埋もれた古城さん?」
    前「野口さん」・最後は「北緯36度さん」である。)
○ハイキングコースを進むと、仏像が出てくる。
 ○大きな堀切りもあった。
 ○岩に穴は開けられていた。
  ★山門か見張り小屋のようなものであろう。
そして、この6人の反応が微妙で面白かった。
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・郭群・・・本郭付近
・見晴らし台・・南を望める。
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 ・本郭の土塁
 ・自然の堀切があった。
・稜線歩きは30分程続く。
 ・詰め城跡?=神成山に着いた。
★ここが本郭であろうと考えている。
    国峰城は中腹に「御殿平という屋敷跡があるが、これが平時の
    館である。本郭は山頂にあった。類推解釈をすると、
    山崎氏の本郭は御殿に相当し、神成山山頂が本郭である
    と勝手に考えている。

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 (★手前は富岡武蔵さん・オレンジの服は「余湖さん」) 
  縄張り図と方位磁針で、縄張り図を書き直す
   「余湖さん・埋もれた古城さん・北緯36度付近の中世古城さん」
  など本当に凄すぎる方達なのだ。
  検証のための城散策なのである。
 ★普通・標準のおいらからすると、この方達はスーパーお宅の
  化け物レベルである。
 
  ・さらに郭や見張り台が続く。

  ★南面からの攻略は不可能である。

 ●下山・・・戻った。
 ⑦館跡のヤブこぎ
⑧水の手曲輪・・・井戸跡
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⑨北郭
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・ヤブこぎ   
⑩北東の郭・・竹藪の中に、大きな堀切跡
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  ★はっきりした空堀で深さ3m。素晴らしい遺構だ。

※「こんな大きな城で、今日は最初から、大当たりだ。」と
 みなさん、感動した。
※富岡武蔵さんも、前回より細かい散策でびっくりしていた。

結局、全郭を散策したのだ。
といっても、前回のように、蚊沼の砦近くまでは行かなかったが・・・。



★今回の散策は、①宮崎城→神成城、②丹生城、③菅谷城(妙義)、
④??砦&寺 ⑤人見城(松井田)⑥宇田城・・・と、続いた。
 富岡武蔵氏をはじめ、今回の皆さんに感謝申し上げます。

■宮崎城・神成城の歴史
・室町時代中期・・・小幡某が築城?
・1530年代~1540年代:
  ■長野業政絶頂期での小幡一族の様子       
 ※箕輪城主の長野信濃守業政は上州一揆の旗頭である。
   小幡氏は同心である。 (★群馬県史:近藤先生)
 ※長野業政は女子が12人の内の2人:長女・次女を小幡氏に配している。
  ①長女・・・国峰城の小幡重貞(=後に信貞)
  ②次女・・・宮崎城&神成城の小幡図書介景貞
           (小幡重貞の従兄弟説が有力説)
・永禄3年(1560)  
 5月 小幡憲重・重貞父子が草津温泉に湯治中に、箕輪城の
      長野業政・小幡図書介景純が国峰城を奪取。
    ★長野業政長女の夫:憲重・(重貞?)であるが、小幡氏が
      北条氏に走った報復と考えられる。
     →小幡憲重・重貞は甲府へ行き、武田信玄を頼り家臣に。
  小幡重定は甲斐の武田氏配下 VS 長野業政は長尾景虎の同心。
  ※武田信玄は小幡重貞に信濃国大日向で五千貫を与えた。 
 9月  武田信玄は小幡重貞を砥沢の羽沢城に(群馬県南牧村砥沢
          :旧羽沢小学校)に転勤。(★上毛古戦記28話)              
     市川馬之助兄弟など南牧地衆を配下とした。
    国峯城主:小幡図書介景純は砥沢を攻略するため、
      檜平付近で戦ったが敗退。

・永禄4年(1561) 『関東幕注文』の小幡氏
  「総社衆」に小幡三河守(信尚)・・・下仁田鷹巣城主
  「足利衆」に小幡次郎、小幡道佐・・富岡の甘楽白倉城主
   ●第4次川中島合戦・・最大の激戦。
  武田信玄は合戦後、上野侵攻のために国峯城奪還作戦を開始。
  内藤豊後守に馬に松明をつけさせ、闇の中からの大声で
  小幡図書介を追い出した。国峯城を奪い返して小幡信実(=重貞)
  を城主に復帰させた。小幡図書介は宝積寺に逃げたが追っ手の
  小幡彦三郎や丹生五郎に攻められ、自害した。 
           (★上毛古戦記28話・甲陽軍艦)
  ※小幡伝来記・・・「小幡図書は後は神成に住し、下総で討ち死にした。」
  ※甘楽郡史・・・・・「小幡図書景定の子孫は神成氏と言った。」
    (★「群馬県古城塁しの研究」山崎一氏著下巻)
  以後、国峯城は信玄の西上野経略作戦の中心地となった。
 
  西上野は上杉・後北条・武田三氏の争奪の場となった。

・永禄6年(1563)  武田信玄が多野・甘楽地方を制圧。
     小幡重貞は武田信玄の「信」をもらって小幡信実と改名。
・永禄7年(1564)  武田信玄が松井田・安中両城を攻略。
・永禄8年(1565) 武田信玄が倉賀野城を攻略。
        倉賀野氏→金井淡路守
        武田信玄は一気に箕輪城に迫ろうとしたが、由良氏ら
         の東上州勢が厩橋に集結。上杉謙信も信濃に出兵。
        武田軍を牽制。武田信玄は兵を信濃に進軍。
        箕輪城は危機回避。

・永禄9年(1566) 9月29日 箕輪城の落城。
   西上野は武田信玄の支配。
  ※小幡信実(=信貞)国峰城を再建。南上州のドンになった。
   →推定4万石・2000人の兵。60余りの砦支城。
  ※小幡信実&小幡氏赤武者五百の騎馬隊は武田軍団の中心と
    して各地に転戦していくことになる。

・天正3年(1575)長篠の戦い・・・小幡軍の兵士は戦死。又は殉死。全滅状態。
奥平信昌は徳川方として長篠城に篭城し、武田の猛攻に耐え、
    織田信長・徳川家康連合軍を大勝に導いた功労者であった。
    ★奥平先祖は小幡の分家である。

・天正10年(1582)・・・武田勝頼が天目山麓で虐殺
             滝川一益の支配。
             →信長の死去。・・・神流川の戦い。
             後北条の支配。
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻め
           前田・上杉の攻撃。小幡氏滅亡。
   家康の関東入封。
   奥平信昌は宮崎城3万石で入封。神成地区をも支配。
   ★長篠の戦いで、多くの縁者を失った地元民や帰農した小幡武士は
    かっての敵将を領主に迎えて複雑な心境であったろう。


・慶長6年(1603)  奥平の転封の後→織田信雄が入封。

★「小幡一族の歴史」を近日中に公開予定。

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