箕輪初心●群馬「旧倉渕村の城砦=5城」

箕輪初心●群馬「倉渕の城砦=5城」
高崎市:旧倉渕村には5つの城や砦がある。     

1)栗崎城=三ノ倉城
■訪問記 ①2008年6月8日
  倉渕東小学校の手前に全透院がある。
 「栗崎城址の立札」を見ながら、全透院に入った。
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 「全透院=栗崎城三の丸」である。
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 全透院は三ノ倉城下曲輪で、山頂は要害山城である。
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 登り口が不明なので、御住職に3つ質問した。
  「登り口はありませんか。」「いつの築城ですか?」「石垣はどこが古いか?」
  住職は「分かりません。」と答えた。
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 ※「入り口は寺の左に見ながら張り出した尾根を行く。
    本郭と2つの腰郭からなる。」とある。(倉渕村誌)
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 しかし、藪が凄いので、断念した。

■栗崎城の歴史
・応永年間(1400)~ 永正年間の始め頃までの約100年間にわたって
        木部氏が三ノ倉地方を支配。   
・延徳元年(1489)  木部新九郎が全透院を開基。(倉渕村誌)
・永正年間(1504)~大戸:浦野氏(滋野系の真田と同族)が侵攻。
    大戸の浦野氏の支配下。
・永正10年(1513) 箕輪の長野兼業?に攻撃→敗戦・和睦。
            長野氏から栗崎城を授与。
     ○浦野氏は大戸城・手古丸城が本城。権田城・栗崎城が支城。
            大戸・三ノ倉地方を支配。
・大永2年(1522) 大戸城主・浦野弾正忠重勝は栗崎城内に堂宇を建立。
           長年寺5世紹舜大和尚を招いて、全透院を中興開基。
・永禄年間(1558)~武田信玄が小山田、穴山、土屋、諸星、曽根を派遣し占領。
            →武田氏の勢力下。
・永禄7年(1564) 浦野氏は真田幸隆のアドバイスもあり、箕輪城攻撃の
    一貫として、榛名に付け火。長年寺の消失。

・天正10年(1582)
 3月 武田氏の滅亡→6月織田氏(滝川一益)の勢力下。
          大戸の浦野氏が在城(60~70年)
     織田信長の死後→武田氏より独立した真田昌幸が岩櫃城より統治。 
     北条氏康は厩橋城より攻撃。
      ①沼田方面隊・・・北条氏邦を沼田城に侵攻。
      ①岩櫃方面隊・・・内藤丹波守、富永主膳、小幡信貞を5000の
        将兵で榛名町室田(室田口)より
    大戸城主大戸真楽斎、大戸但馬守父子(一説には兄弟)は三ノ倉に出て交戦。
   →権田、荻生の諸城を放棄し大戸の手古丸城に籠城。
   →3日間の奮闘。大戸父子は自刃。
   北条勢は大戸の「千人隠陣城」より侵攻
   →岩櫃城主真田信幸(昌幸嫡男)の勝利 
   →栗崎城は北条氏の支配。北条の家臣小笠原播磨守長範が城主。
   北条氏は吾妻の大戸:仙人隠陣城から岩櫃城に侵攻。

・天正18年(1590) 
  豊臣秀吉の北条征伐→北条氏滅亡。
  徳川家康は家臣:松平五左衛門を5000石で入封。
   →松平五左衛門は関が原の戦いで伏見城に入城。
  徳川家康が上杉景勝討伐後、石田三成と戦い、松平五左衛門は伏見落城で討死。

幕末期  全透院が東善寺の小栗上野介の攻撃の本陣として、活用。
                                   (倉渕村誌他)


2)鑰掛城     倉渕村岩氷尾根山・・・南は相間川・東西300m。土塁跡

3)大明神の砦  倉渕村川浦の浅間神社の裏の岩山上・・・

4)天狗山の砦  倉渕村川浦内出・・・大明神砦の手前500m 

5)権田城(上の久保城)倉渕村権田矢谷戸 
       (東善寺の裏山・・・上の久保・鉄火・花輪 )

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    Excerpt: ★高崎市:旧倉渕村には5つの城や砦がある。しかし、まともは 城砦訪問は権田城だけであった。前回は平成20年(2000)6月8 日の訪問であったが、「全透院=栗崎城三の丸」だけでであった。 今回は.. Weblog: 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行 racked: 2013-02-16 07:33