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zoom RSS 箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人-16『(近衛晴嗣→近衛前嗣→近衛前久→)近衛龍山

<<   作成日時 : 2018/03/09 06:19   >>

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草津温泉の湯畑の石柵に「近衛龍山」という名が刻まれていた。
近衛龍山って誰だ?・・・調べていくと、近衛前嗣(前久)だと
分かった。近衛龍山が訪れたのは天正15年(1517)5月〜8月で
あると分かった。光泉寺が宿所となった。平成30年(2018)2月
1日 群馬県教育委員会文化財保護課の答申により、天正15年
(1517)5月8日と記述されている。「なむやくししうにしむ(南
無薬師十二神)」を歌の頭に冠した十首の巻子本 一巻」が群馬県
指定文化財となった。
画像

画像


箕輪初心:生方▲『長尾景虎(上杉謙信)&近衛前嗣&彦部信勝』
http://53922401.at.webry.info/201612/article_3.html

箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html

箕輪初心:生方▲箕輪城208【久保田順一先生20160827「長野業正
:新系図発見」】
http://53922401.at.webry.info/201305/article_26.html
http://53922401.at.webry.info/201609/article_1.html
★近衛前嗣は長尾景虎→上杉政虎&関東管領になるのを見届けた。

箕輪初心:生方▲岩手B「紫波」の『彦部氏館&彦部氏の墓:正養寺』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_25.html



★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。











・戦国時代**************************
戦国時代以降、草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた。
記録が残っている。
06●文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
○○○文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流の歌僧)
○○○長禄2年(1488) 万里集九は草津には来ていないようである。
  詩文集『梅花無尽蔵』の中で
 「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。
 「日本三名泉」は、万里集九 → 林羅山によって言葉が生まれた。

07▲延徳2年 (1490) −長野業尚 (榛名鷹留城主)
   ★文亀3年(1503) 長野業尚が死亡なので草津の大永6年(1526)
  の年号は間違っている。     
08▲延徳2年(1490)−長尾為景 (越後国守護代)
   ★長尾為景が2歳?
09▲延徳2年(1490)−大光宗猷禅師(曇英恵応:越後林泉寺&榛名長年寺)
   ★大永6年(1526)まで生きていなかった。
10●明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
11●文亀4年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)
★宗祇は越後の帰りに伊香保に行っちゃったので来ていない。
○○○文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
○○○永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
◆◆◆戦国時代     湯本善太夫は草津温泉を支配していた。
12●永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)
 ★「関東古戦録」がベースなので、信憑性は疑わしい。
13●天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
14●天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
15●天正10年(1582)−多賀新左衛門常則(織田信長家臣)
○○○天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
16●天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
  豊臣秀吉の妹である朝日姫は、徳川家康の正室であり病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
17●天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
   豊臣秀吉の異父兄弟:豊臣秀次も来ている。
18●天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
19●文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
20●慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
  前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。
△△△徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
 運ばせて入浴していた。

********************************
●29代:彦部家第11代:彦部晴直(1507〜65)
 彦部晴直の母は近衛関白政家の娘である。足利義政の外孫である。
足利家第10代義稙・第11代義澄・第12代義晴・第13代義輝
 の4代の将軍に仕えた。
 ・彦部稙直から彦部晴直になった。
 
・天文5年(1536)彦部晴直は武田信虎の第12代:足利義晴の
取次をした。武田勝千代は15歳の時、「武田晴信」となった。
武田信虎は黒馬一頭・兼本銘の刀一腰を彦部晴直に送った。

・天文5年(1536)近衞稙家の長男として京都で生まれた。

・天文9年(1540) 元服した。叔母:慶寿院の夫:室町幕府第12代
 将軍・足利義晴から一字を賜り晴嗣(はるつぐ)を名乗った。

・天文10年(1541) 従三位に叙せられ公卿に列した。

・天文15年(1547)12月 菊童丸(足利義輝)はわ11歳にして、
  父から幕府将軍職を譲られた。

・天文16年(1547) 近衛晴嗣は内大臣となった。

・天文22年(1553) 近衛晴嗣は 右大臣となった。

・天文23年(1554) 近衛晴嗣は関白左大臣となった。

・天文24年(1555) 1月13日、従一位に昇叙した。
  近衛晴嗣名を前嗣(さきつぐ)と改める。

 近衛前嗣の姉が室町幕府13代将軍足利義輝の正室となっていた。
 幕府内でも大きな影響力があり、14代将軍足利義栄が就任する際
 も関与があったとされる。

・永禄2年(1559) 越後国の長尾景虎(後上杉謙信)が上洛した
 彦部晴直は上杉謙信を将軍::足利義輝に謁見する取次をした。
近衛前嗣と長尾景虎は血書の起請文を交わして盟約を結んだ。
 近衛前嗣は関白の職にありながら越後に下向した。


・永禄3年(1560)越後に下向
6月10日付 近衛前嗣は厩橋城の人質のことなどを長尾景虎に
 申し送る。「みのわ」(長野業政)から人質が置かれた。
 (★近衛前嗣書状・上杉家文書)

8月 長尾景虎(上杉謙信)の第1次関東出兵。

9月 近衛前嗣親子は長尾景虎(上杉謙信)の要請を受けて
   関東に下向した。越後の長尾景虎のもとに下向した。
彦部信勝は同道した。
   近衛前嗣は長尾景虎(上杉謙信)のいる越後府中(上越市)
   に行った。〜〜春日山城には直江兼続がいただけだった。

長尾政虎(上杉謙信)は出発して、厩橋(前橋市)の
滞在していていなかった。

   近衛前嗣親子が長尾政虎(上杉謙信)に追随し、
   厩橋(前橋市)に行った。
   近衛前嗣に彦部晴直の子:信勝が同道した。
   
   近衛前嗣も同陣し、彦部信勝も前嗣に従った。
   近衛前嗣親子・彦部信勝は長尾景虎&上杉憲政に会った
    
10月 
彦部信勝は桐生広沢郷竹ヶ岡の加賀屋敷を頼った。
  奉者を務めた。
*彦部信勝の妻は桐生彦部加賀守師光の娘である

  近衛前嗣親子・彦部信勝は桐生城に入った。
近衛前嗣親子の桐生城の滞在期間は不明である。
彦部信勝は金山城主:由良成繁から桐生千疋を貰って、
在住し、由良の家臣になった。
由良成繁は太田〜桐生〜大胡一帯を支配していた。
★上杉政虎に任されたといってよいであろう


・永禄4年(1561)
●2月〜閏3月 小田原城→鎌倉八幡宮
関東管領は上杉憲政から長尾景虎に譲られ、上杉政虎となった。
★3つも字が付いている。

近衛前嗣親子・彦部信勝が見届け役であった。
彦部信勝は近衛前嗣の護衛として長尾景虎(上杉謙信)が山内上杉
氏の後継者になるのを見届けた。

上杉景虎の関東平定を助けるために上野・下総に赴くなど、公家ら
しからぬ行動力をみせた。

●4月 上杉政虎は厩橋に帰城した。
箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html

上杉政虎が厩橋に帰国した際も、近衛前久は危険を覚悟の上で古河城に
残り情勢を逐一越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物でもあった

●4月中旬〜 上杉政虎と上杉憲政&長尾憲景&長野業政の病気
上杉政虎(謙信)の病気
・4月4日付 上杉政虎書状
「・・・わつらいよく・・・
    くらがの(※倉賀野尚行)かね五まいくれ候、・・・
 卯月(4月)四日   」
『上杉政虎書状:上越市史別編1・1419』

・4月16日付 上杉政虎書状写
「就湯治、・・・養生・・・
  四月十六日          政虎
  沼田入道殿(沼田顕泰)    」
『上杉政虎書状写(東京大学文学部所蔵)』
 
 近衛前嗣親子が関東下向し、桐生城入りした。
  彦部信勝は同道した。
  近衛親子の帰京後も桐生市広沢に留まった。
  ★戦乱に明け暮れた桐生氏、由良氏どちらとも距離をおいた
  ようである。

・6月10日付 『近衛前嗣書状』・・・近衛は厩橋に到着
「・・・ふくちう(腹痛)いかか候や、・・
    ・・・みのわハわつらい候よし申そうろうまま、・・・」
  六月十日         花押」
※上杉政虎(上杉謙信)は腹痛・・
 ※長野業政は病気を煩っている。 
(★「久保田順一先生の平成28年(2016)8月27日講演会)
★彦部信勝が奉者を務めたのであろう。

・6月19日 長野業政が死んだ。

・6月下旬上杉政虎(上杉謙信)は越後に戻った。

彦部信勝は桐生広沢郷竹ヶ岡の加賀屋敷を頼った。
  奉者を務めた。
*彦部信勝の妻は桐生彦部加賀守師光の娘である

 近衛前嗣親子・彦部信勝は桐生城に入った。
近衛前嗣親子の桐生城の滞在期間は不明である。
彦部信勝は金山城主:由良成繁から桐生千疋を貰って、
在住し、由良の家臣になった。
由良成繁は太田〜桐生〜大胡一帯を支配していた。
★上杉政虎に任されたといってよいであろう

・永禄5年(1562) 関東下向した近衛前嗣は桐生城に入った。
 のち、古河城・宇都宮城を回ってから京へと帰って行った。
彦部信勝は関東に残る道を選んだ。
 以後、彦部氏は桐生広沢に土着した。

*彦部篤夫氏説「彦部信勝桐生滞在理由」
 @近衛前嗣・父:彦部晴直から関東の情勢を探るように命じら
  れたのであろう。
 A近衛前嗣は古河城・館林城城に行っている。・・・
古河公方足利高基の次男→関東管領になった上杉憲寛は
5年程で上杉憲政に家督を譲った。上杉憲寛の子:上杉
憲当は「榎木上杉氏」(★おそらく安中の榎下城)を名乗
っていた。その名跡を彦部信勝に譲るというものであった。
(★彦部家文書)
つまり、近衛前嗣は上杉憲寛→実子:上杉憲当の名跡を
継がせるために、古河城に行ったことになる。
 彦部信勝は「榎下猿次郎」(「上杉信勝」)を名乗ったことも
ある。彦部篤夫先生は考えているようである。

  近衛前嗣は厩橋城に寄った。
上杉政虎bR:北条高広がいたはずである。
(★『大江一族:毛利氏・・関久先生著』)
  近衛前嗣は越後で上杉政虎にあった。
?月 近衛前嗣は京に戻った。

この後、上杉政虎(謙信は)信濃へ出兵しした。
第四次川中島の戦い 
  武田信玄 VS 上杉政虎 
 
上杉政虎(謙信)の活躍はただちに古河城の前久にも伝えられた。
近衛前嗣は上杉政虎に宛てて戦勝を賀す書状を送っている。
 (★『歴代古案』)。
 この頃、名を前嗣から前久(さきひさ)に改めた。
 花押を公家様式から武家様式のものに変えた。
 しかし、武田・北条の二面作戦から謙信の関東平定が立ち行かなく
なると、次第に前久は不毛感を覚えた。

・8月、近衛前久は失意のうちに帰洛する。
  上杉政虎の説得を振り切ってのことで、上杉政虎は立腹した
  とされる
  (★「尊経閣文庫所蔵文書」『上越史』)。

・永禄8年(1565) 永禄の変
三好三人衆は将軍:足利義輝を殺害した
 三好三人衆は将軍殺害の罪に問われる事を危惧して近衛前久を頼
 った。近衛前久は足利義輝の従兄弟であった。
 しかし、近衛前久は三好三人衆が足利義輝の正室(前久の姉)を
  保護したことから足利義栄の将軍就任を決定した。

・永禄11年(1568) 織田信長が足利義昭を奉じ上洛を果たした。
織田信長が擁立する足利義昭が15代将軍に就任した。
足利義昭は近衛前久が兄の死に関与していると疑い、先の関白:
 二条晴良も近衛前久の罪を追及した。吟味の結果、足利義昭は
 近衛前久を京都(朝廷)から追放された。
 本願寺11世:顕如を頼って摂津国の石山本願寺に移った。

・元亀元年(1570)  「第1次信長包囲網」
 近衛前久も三好三人衆の依頼を受けて参加して信長包囲網の一翼を
 担った。顕如の子を猶子にしてあったこともあり、顕如に決起を促
 したと言われている。
 近衛前久の目的は将軍:足利義昭と関白:二条晴良の排除であった。

・天正元年(1573) 織田信長か足利義昭が京都から追放した。
 近衛前久は再び丹波の赤井直正のもとに移って「信長包囲網」から
 離脱した。

・天正3年(1575) 織田信長の奏上により、近衛前久の帰洛を許された。
近衛前久が、織田信長急接近し、親密な付き合いになったとされる。
 特に鷹狩りという共通の趣味を持っていた。
 
 9月、近衛前久は織田信長の意向で九州に下向した。
  大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図った。

・天正5年(1577) 京都に戻った。

・天正6年(1578) 近衛前久は織田信長と本願寺の調停に乗り出した。

・天正8年(1580) 顕如は石山本願寺を退去した。
近衛前久が10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を
  開城させた。


 近衛前久は織田家の外交官的な立場で、敵対する諸大名や社寺などの
 調停を度々行った。


・天正10年(1582)
▲織田信長の甲州攻め
近衛前久は甲州攻めにも従軍した。


▲本能寺の変
 近衛前久は「龍山」と号した。
 明智光秀に加担したのとの疑いが羽柴秀吉から掛けられ、徳川家に
 身を寄せるようになった。
 

・天正15年(1587)
3月 上野国草津に湯治下向
8月 帰洛
(★「近衛龍山薬師堂法学和歌」:草津光泉寺蔵)
草津温泉の守護神である薬師如来の霊験に感謝して10首の和歌を
薬師堂に奉納した。
和歌の御題として
「結ぶてふ此谷影のいで湯こそ むべも老せぬ薬なりけれ」
の懷紙が添えられていた。

近衛龍山公和歌10首一覧
五月雨−
  なもしらぬ草木あまたに茂あひて しらねに今朝は雪そ降りける
海辺夏月−
  むらさめのすきたつ山のみねこえて かすかに名のるほととぎすかな
山路新樹−
  やまおろし磯辺の松に吹たちて くれてほたるの色にみゆらん
契後隠恋−
  くもはなをかさなる山のをちこちも ゆきかふ袖もまれのたひ人
郭公幽−
  しけりあふ草のむらむらをく露や さそふ水あらばいなんとぞ思ふ
馴増恋−
  しらさりき露の情になれし葉の なるゝに袖のぬれんものとは
夏草夕露−
  うきはたたちきりおきにし閨の戸を むねはしり火に心やけをり
旅行友稀−
  にくからぬ人にそひねのきぬぎぬは あけやらぬ夜の人のつれなさ
別後恋−
  しなのなる木曽路の山のけわしきに へにけん秋を知る人ぞなき
寄湯祝−
  むすふてふこの谷かけの出湯こそ むへも老せぬくすり成けり

上句の頭の文字を1文字づつ並べると
「なむやくししうにしむ=南無薬師十二神」となるそうである。


※Hp「日本三名泉:草津温泉・近衛龍山」より引用
http://www.kusatuyu.com/kusatuijin/konoe.html


・晩年は慈照寺東求堂(銀閣寺:京都市左京区銀閣寺町)に隠遁した。

・慶長17年(1612)5月8日、薨去。享年77。
  京都東福寺に葬られた


・平成30年(2018)2月1日 群馬県教育委員会文化財保護課の答申
(1) 由来及び沿革
 本指定候補は、草津町の真言宗豊山派光泉寺に伝来したものであ
る。近衛前久(龍山)は、公家の名門近衛家に天文5年(1536)に
生まれ、関白、太政大臣を歴任した。上杉謙信と盟約を結んで永禄
4年(1561)関東に下り、天正3年(1575)以降は織田信長と親交
を深め、その意を受けて石山本願寺との講和に貢献した。天正10年
(1582)、信長の死後落飾し龍山と号した。その後も豊臣秀吉とは、
その関白就任にあたって自分の猶子とするなどの関係を取り結び、
公家でありながら武家社会に身を投じた人物であった。また、和歌、
連歌に優れ、書をよくし、有職故実、馬術、放鷹などにも精通し、
当代一流の文化人であった。
 天正15年(1587)、湯治のため草津温泉を訪れ、現在の光泉寺本
堂の位置にかつてあった薬師堂において、本尊の薬師瑠璃光如来法
楽(やくしるりこうにょらいほうらく)のため和歌を詠み、奉納し
たものが今回の指定候補である和歌一巻である。
 近衛龍山と交流のあった京都吉田神道家の吉田兼見(かねみ)
の日記『兼見卿記』(かねみきょうき)に、天正15年3月30日に
近衛龍山が草津湯治のため京を発ったことが記されており、史料的
な裏付けが確認できる。今回、専門家による筆跡・紙材の鑑定の結
果、真筆であることが判明している。

(2) 内容
 縦35.7センチメートル、横144.3センチメートル、楮紙(ちょし)
3枚を貼り継ぎ、一巻とする。巻首に「草津湯治之中、於薬師堂、
彼本尊之名号を句のかみにすへて、法楽のために十首の歌をよみけ
り」との詞書(ことばがき)があり、「なむやくししうにしむ
(南無薬師十二神)」を歌の頭に冠した十首の巻子本 一巻である。
天正15年5月8日の日付がある。十首のうち、特に最後の一首は、
「むすふてふこの谷かけの出湯こそむへも老せぬくすり成けれ」
と詠まれ、草津温泉が安土桃山時代においてすでに不老長寿の湯
として広く知られていたことを示すものである。

(3)種類と数量
 巻子本 一巻

(4)指定理由
 本指定候補は、関白、太政大臣を歴任し、当代一流の文化人でもあ
った近衛龍山が、湯治のため京都から遠く草津温泉を訪れたことを示
すものであり、能書家としての龍山の書風を能くうかがわせる優品で
ある。年紀の明記があることも貴重である。歌の内容も当地にとって
かけがえのないものであり、特に最後の一首は、群馬県が誇る草津温
泉を見事に寿(ことほ)ぐ和歌として注目すべきものである。草津温
泉の歴史や、安土桃山時代の中央と地方との文化交流を示す非常に価
値が高い資料であり、指定するに十分な文化史上及び歴史上の学術的
価値を有している資料である。

[指定基準]
 群馬県指定重要文化財の指定基準第3号の(1)及び第6号の(1)
に該当する。
 
第1 群馬県指定重要文化財の指定基準
3 書跡、典籍の部
(1)書跡類は、宸翰、和漢名家筆跡、古筆、墨跡、法帖等で、群馬
 県の書道史上の代表と認められるもの又は群馬県の文化史上貴重なもの
6 歴史資料の部
(1)政治、経済、社会、文化等群馬県の歴史上の各分野における重要
 な事象に関する遺品のうち学術的価値の特に高いもの

写真 (提供:群馬県教育委員会)
近衛龍山詠薬師十二神法楽十首和歌書跡全体の写真
書跡全体

近衛龍山詠薬師十二神法楽十首和歌巻首部分の写真
巻首部分

近衛龍山詠薬師十二神法楽十首和歌中央部分の写真
中央部分

近衛龍山詠薬師十二神法楽十首和歌巻末部分の写真
巻末部分


・平成30年(2018)2月2日
◆東京新聞・産経新聞・毎日新聞等2018年2月2日
「渋川・旧入沢家住宅 草津・近衛龍山「十首和歌」
 
県重要文化財に答申*********************
旧入沢家住宅の外観=渋川市
 県文化財保護審議会は一日、渋川市渋川の「旧入沢家住宅」と
草津町草津の光泉寺が所有する「近衛龍山詠薬師十二神法楽十首
和歌(えいやくしじゅうにしんほうらくじっしゅわか)」の二件を
県重要文化財に指定するよう県教育委員会に答申した。(石井宏昌)

 近衛龍山の十首和歌は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公
家で、関白や太政大臣を歴任し、当時一流の文化人でもあった近衛
前久(龍山)が一五八七年、現在の草津町の草津温泉を湯治で訪れ
た際に詠んだ直筆の和歌一巻。
 縦約三十六センチ、横約百四十四センチで、巻首に「草津湯治之中」
とあり、最後の一首は「むすふてふこの谷かけの出湯こそむへも老せ
ぬくすり成けれ」と詠まれている。草津温泉が不老長寿の湯として知
られていたことを示しているという。
別の古文書で龍山が草津を訪れた裏付けも確認できた。
 「一流の文化人が京都から草津を訪れ、草津温泉の歴史や中央と地
方の文化交流を示す貴重な資料。書としても優品」としている。答申二
件が指定されると、県重要文化財は二百十五件になる。


『草津温泉』と『草津に歩みし100人』のブログ一覧********

◆1)草津温泉・・・・20回以上?
箕輪初心◆2014スキーbX【草津】& 『草津温泉:望雲』
http://53922401.at.webry.info/201402/article_13.html

箕輪初心▲群馬:日本百名山:草津白根山&草津温泉
http://53922401.at.webry.info/201107/article_4.html

箕輪初心▲群馬百名山A26〜50草津白根山・皇海山など
http://53922401.at.webry.info/201206/article_29.html

箕輪初心■群馬草津の松尾芭蕉句碑:ゴリラ50ccでGo
http://53922401.at.webry.info/201209/article_4.html

箕輪初心■プラドでGo【群馬の4湯巡り】 
http://53922401.at.webry.info/201206/article_26.html

箕輪初心:生方▲2018スキーbV『草津コース動画&昼食:月乃井
&温泉:山本館』
http://53922401.at.webry.info/201803/article_7.html




●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************
箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし百人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_27.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_28.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』F「長野業尚:榛名鷹留城主」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_30.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人G長尾為景:上杉謙信の父
http://53922401.at.webry.info/201710/article_1.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人H大光宗猷禅師=曇英恵応:林泉寺創建
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箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』番外編:万里集九『梅花無尽蔵』
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箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』10『横瀬成繁』太田金山城主
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箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人:連歌師『J宗祇』&番外編『宗長』
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箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人『草津管理人:湯本善太夫』
と『真田ブログ一覧』
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箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人ー12『甘楽国峰城主:小幡信貞』
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箕輪初心:生方:▲草津に歩みし100人:『戦国時代の草津温泉ブーム創作編』
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箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣L丹鋳キ秀】
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箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣M堀秀政】
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箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣N多賀常則】
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★明日も「草津に来たりし100人」かな?

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