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城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行
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2017年10月現在の掲載済&掲載予定内容
@城砦・・・・★箕輪城・群馬の城400
       ★百名城86・合計中世古城約882
        ★戦国武将&偉人
A陶芸・・・・自作の陶芸作品・焼き物旅行記
B登山・・・・百名山約80・最近の登山
C潜水・・・・約850本(含海外34回)
Dスキー・・約1600日+山スキー約30回
E旅行・・・・日本各地・海外80回(約70カ国10地域)
Fその他・・群馬の歴史・名所・旧跡・人物・
        奥の細道・東山道・中山道(予定)・グルメなど

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タイトル 日 時
箕輪初心:生方▲井伊直政158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』
箕輪初心:生方▲井伊直政158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』 群馬は戦国時代の印象が薄いと思われがちであるが、重要な戦略拠点 なので北条、上杉、武田の草刈り場になった。『関東の三国志』とし て見ると興味深い。長野業政や長野業政の同心:新陰流を開いた上 泉信綱、長野業政の長女の婿:小幡信貞、太田金山城の由良氏、玉村 宇津木氏久、真田昌幸などもいる。…天正10年(1582)前に長野業 政の孫:長野業実は既に井伊直政の家臣になっていた。天正18年 (1590)井伊直政が箕輪城に入城した。新たに長野業政の親戚:八木原 某、小幡信貞の子ども小幡大膳や小... ...続きを見る

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2018/01/18 08:02
箕輪初心:生方井伊直政157『彦根藩主:井伊直孝が6〜7年間?過ごした安中北野寺』
箕輪初心:生方井伊直政157『彦根藩主:井伊直孝が6〜7年間?過ごした安中北野寺』 井伊直孝は、天正18年(1590)2月11日、おそらく印具徳右衛門 の娘と井伊直政の子として駿河国中里(焼津市)で生まれた。しかし、 井伊直孝は中里の印具の家、あるいは親戚先で私生児のように育てら れることになった。井伊直政が正室:花に遠慮したからである。 文禄4年(1595) 6歳の時、箕輪に来たが、こっそりと萩原図書に 養育を託し、安中の北野寺で過ごした。慶長6年(1601)井伊直政は 初めて井伊直孝と対面したとされる。井伊直孝は12歳になってい た。あるいは慶長7年(1602... ...続きを見る

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2018/01/17 06:25
箕輪初心:生方▲井伊直政156『直政の外交と決戦:関ヶ原』
箕輪初心:生方▲井伊直政156『直政の外交と決戦:関ヶ原』 慶長3年(1598) 8月18日 豊臣秀吉が死去すると、五大老・五 奉行は朝鮮からの撤退を決めた。結果的に徳川家康は兵力・財力 などの温存に成功した。徳川家康と石田三成の対立が表面化した。 徳川家康は井伊直政・本多忠勝らに豊臣恩顧の大名を味方にする こと命じた。井伊直政は浅野長政・幸長父子、黒田如水・長政父子 らを味方にした。このことが、さらに多くの豊臣恩顧の大名を味方に することになった。関ヶ原の戦いの前に、美濃関係者で犬山城の 守備メンバーなどを外交工作で、味方にしたことも関ヶ... ...続きを見る

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2018/01/16 06:28
箕輪初心:生方▲井伊直政155『高崎城時代の外交』
箕輪初心:生方▲井伊直政155『高崎城時代の外交』 ・天正10年(1592)天正壬午の乱の時、奉者として、10月29日 の徳川家康と北条氏直の和議の時、井伊直政は外交デビューした。 ・慶長2年(1587)4月頃 ※徳川家康は、豊臣秀吉が先は長くない と見定め、軍事上、大軍の駐屯できる新城の建設を命じた。 慶長3年(1588)8月18日 豊臣秀吉が亡くなった。10月、高崎 城はほぼ完成した。しかし、徳川家康と石田三成の対立は激化して いった。徳川家康は豊臣秀吉の死の機会を逃すことなく井伊直政・ 本多忠勝などを豊臣方の武将を味方にす... ...続きを見る

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2018/01/15 09:24
箕輪初心:生方▲井伊直政154『高崎城と街道整備:中仙道・三国街道』
箕輪初心:生方▲井伊直政154『高崎城と街道整備:中仙道・三国街道』 天正18年(1590)8月、徳川家康は家臣に越後と信濃に備えて 上信の国境警備を命じた。井伊直政は早速横川の関:長原に関所を 設けた。(碓氷関所の前身である。)長原ヶ原は入山峠越えの延喜 の東山道と鎌倉期以降の新東山道(信濃国境熊野権現通り)との 分岐点にあって警備の要衝に位置していた。吾妻川の右岸に関所も 造った。慶長2年(1587)4月頃 徳川家康は、豊臣秀吉が先は長くな いと見定め、軍事上、大軍の駐屯できる新城の建設を命じた。井伊 直政は東山道(奧大道)沿いを検討した。個人的... ...続きを見る

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2018/01/14 07:39
箕輪初心:生方▲井伊直政153「箕輪から高崎に移った寺社』復刻版
箕輪初心:生方▲井伊直政153「箕輪から高崎に移った寺社』復刻版 「高崎志」よれば、「井伊直政は11の寺・末寺と5社箕輪から高崎に 移した。」と書いている。箕輪から高崎に移った11の寺は石上寺 ・正法寺・慈上寺・大雲寺・法華寺・恵徳寺・安国寺・大信寺・金 剛寺・龍広寺・延養寺である。5の神社は津波岐那神社・布留明神 ・八幡宮・上諏訪神社・下諏訪神社である。 ...続きを見る

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2018/01/13 09:51
箕輪初心:生方▲井伊直政153『箕輪白銀町・鍛冶町→高崎鍛冶町』
箕輪初心:生方▲井伊直政153『箕輪白銀町・鍛冶町→高崎鍛冶町』 ※戦国時代、板鼻(安中市)や小幡(甘楽町)には甲冑集団がいた。 「上州鉢」という小星をあしらった兜が制作された。  (★出典:群馬県立博物館) ・長享2年(1488)上杉定昌(顕定の兄)死去に伴い、上杉憲房は  白井城を継いだ。 ・永正年間、関東管領:上杉顕定が明珍一族を平井(藤岡)や板鼻  (安中)に呼んだ。 ・永正〜天文の頃、上杉顕定の甥:上杉憲房は明珍信家が筋兜などの  甲冑を白井城曲輪の北の青堀近くの松原屋敷と呼ばれる鍛冶場で作  成させていた。明珍家は甲冑・轡(くつ... ...続きを見る

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2018/01/12 08:01
箕輪初心:生方▲井伊直政152『箕輪城下町から高崎城下町への移動』
箕輪初心:生方▲井伊直政152『箕輪城下町から高崎城下町への移動』 没になった論文の一部である。井伊直政は箕輪城内と城下にあった 武士・町人を移動させた。明治6年の『壬申地券地引地図』では箕輪 に「アキヤ」の地名が明記されている。高崎城下町には町人居住区 には町名と町人の多くを移住させた。高崎には武家屋敷と町人屋敷 の地域に住み分けられた。町人居住区を『高崎志』川野辺寛著をベー スにまとめてみた。箕輪からの高崎に移った町名と町人について は@連雀町、A田宿→田町、B紺屋町→本紺屋町・新紺屋町、後、 中紺屋町推定、C鍛冶町→鍛冶町、後白銀町→鞘町、B... ...続きを見る

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2018/01/11 07:26
箕輪初心:生方▲井伊直政151『高崎城築城と長野堰・新井堰』
箕輪初心:生方▲井伊直政151『高崎城築城と長野堰・新井堰』 ★井伊直政が新城を和田の地に築いたのは、「長野堰から水があっ たからによる」と第一の理由に考えている。確かに高崎は交通の 要所、大軍の出撃場所に適した場所であったが、水がある場所だ。 ・慶長2年(1597) 4月頃、高崎城の築城計画を開始した。 ※徳川家康は、豊臣秀吉が老衰していることが、分かっていた。 豊臣秀吉が死んだら、混乱が起こると予想していた。自分が天下 を狙える位置にあると考え始めたと思われる。そのため、街道の 整備をしておく必要があった。つまり、京・大坂方面への軍事上、... ...続きを見る

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2018/01/10 10:06
箕輪初心:生方◆井伊直政150『高崎の名前の由来』と無理矢理井伊家関連
箕輪初心:生方◆井伊直政150『高崎の名前の由来』と無理矢理井伊家関連 『高崎の名前の由来』は井伊直政が「高崎」と命名したということ なっている。一般的には、@井伊直政が「恵徳寺の開山:大獄山瀧 澤寺4世大光普照禅師龍山詠譚和尚」と相談した説(恵徳寺石碑) とA「龍廣寺(箕輪龍門寺末寺)開山:白庵和尚」と相談した説が ある。『高崎志』川野辺寛著:寛政元年(1789)の記述は白庵和尚を 紹介している。『高崎城:ウィキペディア』では「龍山詠譚和尚」を あげ、『高崎市:ウィキペディア』では「龍廣寺:白庵和尚」載せ ている。高崎市の「歴史巡りマッ... ...続きを見る

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2018/01/09 09:28
箕輪初心:生方▲井伊直政149『箕輪城から高崎城移城』
箕輪初心:生方▲井伊直政149『箕輪城から高崎城移城』 ・慶長2年(1597) 4月頃、高崎城の築城計画を開始した。 ※徳川家康は、豊臣秀吉が老衰していることが分かっていた。豊臣 秀吉が死んだら、混乱が起こると予想していた。自分が天下を狙える 位置にあると考え始めたと思われる。そのため、街道の整備をしてお く必要があった。つまり、京・大坂方面への軍事上、街道の整備を井 伊直政に命じ、北関東の守備を固めようとしたと考えられる。そのた め、井伊直政に箕輪城よりも交通の良い場所に新城を築くように指示 した。そして、「大軍が宿泊できる場所」が条... ...続きを見る

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2018/01/08 07:00
箕輪初心:生方▲井伊直政148『箕輪城下町推定絵図』&直虎・直政ブログ一覧
箕輪初心:生方▲井伊直政148『箕輪城下町推定絵図』&直虎・直政ブログ一覧 井伊直政時代の城下町の絵図が現存していない。しかも、城下町の武 士居住区・武家屋敷ついては発掘調査がされていない。しかし、井伊直 政時代の箕輪の町名が現存しているので町人居住区は確実である。 箕輪城の武家居住区は彦根城の城内1郭・2郭と城下町武家居住区 と町人居住区絵図→安藤時代・間部時代・大河内時代の高崎城絵図 →井伊時代の高崎城下町推定絵図→井伊時代の箕輪城推定絵図と 帰納的に考えると、以下のように推測できる。この論文は「歴史地理 学」的な論文であったので、没になったが、詳細説... ...続きを見る

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2018/01/07 05:53
箕輪初心:生方▲井伊直政147『箕輪城時代』:『井伊直政文書集』大石泰史編を加味した2018年最新
箕輪初心:生方▲井伊直政147『箕輪城時代』:『井伊直政文書集』大石泰史編を加味した2018年最新 『井伊直政文書集』大石泰史編(20170526)が平成30年(2018)1月 2日に手に入ったので、『井伊軍志』の中の古文書、『群馬県立古 文書館』の文書史料等を加えて、●印で新情報を伝えようと思う。 古文書の訳がもの凄く難しかったものもあった。 ...続きを見る

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2018/01/06 08:10
箕輪初心:生方▲井伊直政146【万松寺→恵徳寺】中野直之の妻?母?:恵徳院開基
箕輪初心:生方▲井伊直政146【万松寺→恵徳寺】中野直之の妻?母?:恵徳院開基 天正18年(1590井伊直政が箕輪城主となった。井伊直政の伯母: 宗貞尼(そうていに=中野直之の妻:伯母でなく、叔母)のために、 箕輪の日向峯(ひゅうがのみね)に一宇を建て、『恵徳院』と号し た。その後、大獄山瀧澤寺4世大光普照禅師竜山永潭大和尚が万 松寺(元は北条氏邦の鬼門の寺であるはずの寺)を開山した。慶 長3年(1598)井伊直政が高崎城を築城し、「松隆山恵徳院」を 建立した。瀧澤寺4世大光普照禅師が開山した。井伊直政は「松 隆山恵徳院」を入城の折に寺に格上げし『松隆山東向院... ...続きを見る

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2018/01/05 06:22
箕輪初心:生方▲井伊直政145【箕輪:滝沢寺】中野直之の中興開基か?
箕輪初心:生方▲井伊直政145【箕輪:滝沢寺】中野直之の中興開基か? 滝沢寺の由緒には「永正元年(1504) 井伊直政の叔父某が中興開基 となった。緑埜郡(みどのぐん:旧鬼石町)浄法寺の永源寺5世: 厚山大和尚を招請して住職とした。」とあるが、年代的に合わない。 ※滝沢寺の境内の墓地に青柳治部正忠家の墓がある。従って、井伊 直政家臣:長野業実の祖父:元箕輪城主長野業政、または、長野業 政の娘婿:青柳昌信の子の青柳金王(忠家)が再興したと考えられ る。天正18年(1590)井伊直政が箕輪城に入城した。そして、中野 越後守直之が滝沢寺を庇護したと思われる... ...続きを見る

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2018/01/04 07:21
箕輪初心:生方▲井伊直政144【菩提寺:竜門寺縁起】松下3代の墓復刻版
箕輪初心:生方▲井伊直政144【菩提寺:竜門寺縁起】松下3代の墓復刻版 竜門寺は天正18年(1590)井伊直政は箕輪城入城と共に白庵を下 野国:大中寺から呼んで創建した井伊家の菩提寺である。龍門寺 文書「慶長七年二月 竜門寺二代良雄」には井伊直政が龍門寺を 創建した時の文書が残っている。また、龍門寺にには3代将軍: 徳川家光以降の将軍からの朱印状がたくさん保存されている。さ らに没後150回忌に井伊家から贈られた「井伊直政公の木像」 「井伊直政公の絵」が保存されている。 平成29年(2017)10月8日、「おんな城主直虎第40話」で、直 虎ゆかりの... ...続きを見る

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2018/01/03 07:46
箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』
箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』 ・天正18年(1590)  ・2月 井伊直政の長男:直継=直勝が駿河で誕生。 ・6月22日 井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪  へ攻め入った。井伊直政は笹郭攻めでの功績を評価された。  小田原城落城のきっかけを作った。  篠(笹)郭を攻略した立役者は、井伊直政の家臣 :長野業実(なりざね)であった。 (★上杉謙信・武田信玄が入れなかった小田原城内に初めて攻め込んだ。) ・6月?日 豊臣秀吉から井伊直政は箕輪城支配を任された。   (★箕輪城シンポジウム:中井... ...続きを見る

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2018/01/02 19:02
箕輪初心:生方▲2018スキーg@シーズン初『苗場』&酒・リンゴ購入
箕輪初心:生方▲2018スキーg@シーズン初『苗場』&酒・リンゴ購入 平成29年(2017)12月30日、スキー仲間が苗場スキー場に行く というので、朝、行くことにした。中ちゃんを誘った。太田・桐生組 は4人だった。午前中の女子リーゼンの新雪40cmは面白かった。 午後2本はめちゃごみで、第2ゴンドラ待ちは30分程〜〜〜。 途中、第一ゴンドラが動いたので、待ちがだいぶ解消された。圧 雪状態なので、猛スピードで飛ばした。当然、筋肉痛、腰痛になっ た。帰りに、酒とリンゴを購入した。 ...続きを見る

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2018/01/01 12:53
箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃〜箕輪城入城』
箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃〜箕輪城入城』 平成30年(2018)1月1日元旦、初日の出を箕輪城に見に行った。 ここ4年連続である。井伊直政・木俣守勝も見たであろう日の出 を箕輪城から眺めたのである。天正18年(1590)3月29日山中 城攻撃〜3月30日井伊直政は単独で足柄山城を攻略した。6月 22日井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪に攻め入った。 井伊直政は豊臣秀吉より箕輪城に入るように言われた。7月5日、 小田原城開城となった。8月初旬、井伊直政が徳川家康より12 万石で箕輪城に入城した。 ・二の丸 ...続きを見る

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2018/01/01 08:09
箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』
箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』 天正11年(1583) 真田昌幸は上杉景勝対策で徳川家康の上田城 を造らせた。しかし、天正13年(1585) 徳川家康から真田昌幸が 離反して第一次上田城の戦いとなった。井伊直政は撤退指揮の ために信濃の派遣された。豊臣秀吉と徳川家康のパイプ役であ ったため、石川数正は人質を差し出していた。石川数正の徳川 家康からの離反が撤退理由の一つであった。天正14年(1586) 豊臣秀吉は懐柔策として朝日姫を徳川家康に嫁がせた。しかし、 徳川家康は上洛はしなかった。豊臣秀吉は人質として母:大... ...続きを見る

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2017/12/31 08:44

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