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zoom RSS 箕輪初心:生方▲草津温泉100人20『真田幸繁親戚:大谷吉継とハンセン氏病療養』

<<   作成日時 : 2018/03/12 10:25   >>

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織田信長・豊臣秀吉の家臣たちが続々と草津温泉に来訪した。戦国
武将らに入湯ブームを起こした。豊臣秀吉が好んだ西の名湯が有馬
温泉である。織田信長や豊臣秀吉が「推薦した東の名湯といえば、
草津温泉だった。大勢の宿泊客・立ち寄り客でにぎわう温泉街の中
心:湯畑の周りには「草津に歩みし百人」と題した歴史上の偉人や
武将たちの名前がずらりと並んでいる。文禄3年(1594)豊臣秀吉の
家臣:大谷吉継は大谷吉継は、ハンセン病患の病気回復のために草
津温泉に湯治にやって来た。直江兼続に宛てた書状に「草津の湯は
眼に効いた」と書いている。草津温泉が病気にいいのは豊臣秀吉から、
聞いていたはずである。でも、大谷吉継の娘?妹?が真田幸繁の妻に
なったことが草津温泉行きを決定的づけたであろう。
その後、
慶長5年(1600)大谷吉継は石田三成との契り固く、関が原で蓮台に
乗りながら指揮し、敗退し、42歳(36歳?)で自決した。
画像





★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。











・戦国時代**************************
戦国時代以降、草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた。
記録が残っている。
06●文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
○○○文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流の歌僧)
○○○長禄2年(1488) 万里集九は草津には来ていないようである。
  詩文集『梅花無尽蔵』の中で
 「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。
 「日本三名泉」は、万里集九 → 林羅山によって言葉が生まれた。

07▲延徳2年 (1490) −長野業尚 (榛名鷹留城主)
   ★文亀3年(1503) 長野業尚が死亡なので草津の大永6年(1526)
  の年号は間違っている。     
08▲延徳2年(1490)−長尾為景 (越後国守護代)
   ★長尾為景が2歳?
09▲延徳2年(1490)−大光宗猷禅師(曇英恵応:越後林泉寺&榛名長年寺)
   ★大永6年(1526)まで生きていなかった。
10●明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
11●文亀4年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)
★宗祇は越後の帰りに伊香保に行っちゃったので来ていない。
○○○文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
○○○永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
◆◆◆戦国時代     湯本善太夫は草津温泉を支配していた。
12●永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)
 ★「関東古戦録」がベースなので、信憑性は疑わしい。
13●天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
14●天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
15●天正10年(1582)−多賀新左衛門常則(織田信長家臣)
○○○天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
16●天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
  豊臣秀吉の妹である朝日姫は、徳川家康の正室であり病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
17●天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
   豊臣秀吉の異父兄弟:豊臣秀次も来ている。
18●天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
19●文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
20●慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
  前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。
△△△徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
 運ばせて入浴していた。

********************************



【1】大谷吉継の生涯(★ウィキペディアなどより編集)
1)生まれた年
@永禄2年(1559)1月に生まれた説
A永禄8年(1565)7月1日に生まれた説(有力説)

2)生まれた場所
@豊後国(大分県)説
  大友氏の家臣だった際に誕生したとの説
  大友氏の家臣団に大谷氏の名は見られない。

A近江国(滋賀県)説(有力説)
  大谷氏は、近江国の小谷(現滋賀県長浜市余呉町小谷)に
  住んでいた。大谷吉継も近江で生まれた推定されている。

3)父親
@豊臣秀吉の隠し子説
 豊臣秀吉に子供の可能性は低い。
A青蓮院門跡防官(坊間):大谷泰珍(大谷泰増)の子説
  (『華頂要略』の坊官大谷家系図に吉継という名が記載)
  (本願寺坊官:下間頼亮室が妹)
B六角氏の旧臣:大谷吉房(大谷盛治)とする説(有力説)
 父:大谷吉房は観音寺城主:六角義賢の家臣→浅井家家臣
 →織田信長家臣:木下藤吉郎に仕えたものと推定されている。
 
4)母親
 母:東殿(ひかし)
 母が大政所・高台院の縁故者であったことは、作者不詳の『校合
 雑記』に記載があったが、『校交雑記』が引く『兼見卿記』(
 吉田兼見著)の確認作業により、母は高台院(北政所)の取次役
 であった東殿であることが確定した。
 豊臣秀吉の正室・ねね(おね・北政所・高台院)の侍女であった
  とされる。
『関原軍記大成』では東殿が高台院の生母の朝日殿の親族であっ
 たとも語られている。
 幼名は慶松(桂松)→「紀之介」と呼ばれた。
 
兄弟姉妹は栗山林斉と祐玄(祐玄坊とも)の2人の甥が記録に見える。


・天正始め(1572~) 頃 羽柴秀吉の小姓となった。
どのような経緯でいつからかは全く不明である。
 近江出身の石田三成が推挙したとの説もある。
石田三成と大谷吉継とは1歳違いであった。

※天正3年(1574)春、羽柴秀吉が長浜城を築いた。
 新しく羽柴秀吉が雇った700名の中の1人が大谷吉継だったのでは
 との説も有力だ。
 羽柴秀吉も長浜城主となり、一人前の城主として小姓を付ける際、
 近江にいた石田三成のように優れた若者だと見抜いて側近にした
 のであろう。

・天正5年(1577)

10月 羽柴秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令されて黒田官兵衛から
  提供された姫路城を本拠地とした。
  大谷平馬(吉継)は脇坂安治や一柳直末、福島正則、加藤清正、
  仙石秀久らと共に羽柴秀吉の御馬廻り衆の1人となった。
(大谷吉継の初見史料・NHK大河「軍師:官兵衛」)
 御馬廻衆と言うのは、大将の側近として事務・伝達などの職務に
  当たり、合戦時には精鋭として常に大将の馬の周囲(廻り)にいて
  守る役目である。時には伝令や、切迫時には決戦兵力として活
  動した。



・天正6年(1578) 5月4日 尼子勝久が上月城で毛利輝元の軍勢
  に包囲された。
  羽柴秀吉は尼子軍を救援するために出陣した。
  大谷吉継も従軍した。

  三木城攻め
  大谷吉継は馬廻として従軍した。

 10月15日 平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として
名を連ねている。


・天正9年(1581) 嫡男・大谷吉勝が誕生している。
  大谷吉継の妻(正室、側室)の名前などは一切不明である。


・天正10年(1582)
4月27日、
羽柴秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めた。
大谷吉継は秀吉の馬廻りとして従軍している。
  (★『武功夜話』)

6月2日 織田信長が本能寺の変で横死した。

6月13日 山崎の戦い
  羽柴秀吉は織田信長を殺した明智光秀を討った。

6月27日 清洲会議
 織田氏の主導権を獲得して台頭してゆく。


 羽柴秀吉 VS 柴田勝家
大谷吉継は秀吉の美濃国侵攻にも馬廻衆として従軍した。

 大谷吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略・内応させ、城ごと羽柴勢に
 加えさせた。

・天正11年(1583)
4月16日、美濃大返し
 大谷吉継(25歳?)が吉村又吉郎へ合力を求める文書を出した。
 大谷吉継は今尾城の開城に立ち会った。

▲賤ヶ岳の戦い
 大谷吉継は先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振
 の太刀と賞賛される手柄を立てた。
 羽柴秀吉は、主に調略などの官吏面で大谷吉継を使った。

12月23日 西堂・称名寺へ寺領安堵書状に「大谷紀之介」の名で
 発給している。
大谷吉継の文書の発給もこの頃から見える。

・天正13年(1585)
▲紀州侵攻
 大谷吉継・増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍し、最後まで
 抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った
 (★『根来寺焼討太田責細記』)
 豊臣秀吉が伊勢長島城に移った織田信雄を祝いに赴いた際にも同行
 している。
 

7月以前に、キリスト教に改宗していたとされた。
 宣教師ガスパル・コエリョが秀吉を訪問した時には、安威了佐
 (あい りょうさ)と共にコエリョへ果物と干柿を持参している。

7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任した。
 このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下刑部少輔に叙任される。
  →「大谷刑部」と呼ばれるようになる。

9月 豊臣秀吉の有馬温泉湯治に石田三成・大谷吉継と共に同行して
  いる。

・天正14年(1586)
4月6日、大坂城へ伺候した豊後国の大友義鎮が国元の家老へ送った
 書状に「豊臣秀吉の奥御殿の次ぎの間に東殿が控えていた。」




▲羽柴秀吉の九州侵攻
  兵站奉行・石田三成の下、功績を立てた。
  石田三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。
 
 大坂で千人斬りという辻斬り騒動が起こると、
大谷吉継(27歳位)が病気治癒のため、血を求めて千人切りを行っている
という噂が立った。
しかし、豊臣秀吉から大谷吉継への信頼が揺るぐことは無かった。

・天正15年(1587) 大坂城で開かれた茶会
※エピソード
豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。
しかし、大谷吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気
 の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、石田三成だけ普段
 と変わりなくその茶を飲み干した。

▲九州征伐
  大谷吉継が発給した文書が現存している。
 
・天正16年(1588)
大谷吉継や井伊侍従(井伊直政)などは後陽成天皇の聚楽第行幸
  にも列席した。

 毛利輝元が上洛した。
 世話になったり挨拶周りをした豊臣家や諸大名の名とそれぞれへの
 献上品が細かく記されており、下巻に大谷の名も見える。
 この時点で奉行格に列していたことが分かる。
(★『輝元上洛日記』)



・天正17年(1589年)
9月25日 大谷吉継は越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主
 となる。
越前国の敦賀郡・南条郡・今立郡の20000石(50000石、57000石?)
 を与えられた。
 大谷吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城(現在の敦賀市結城町、三島町)
 を改修したと伝わるが、吉継の前に豊臣秀勝が城主になっており、
 天守は秀勝時代に完成していた説もある。
 笙ノ川・児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い、町割を川西
 ・川中・川東の三町に改めた。
更に蔵入地10万石を代官地として預けられた。
箕輪初心:生方▲真田丸103【第29回「異変」】&大谷吉継の敦賀
http://53922401.at.webry.info/201607/article_23.html

箕輪初心●福井「金ヶ崎城」@新田義貞&A木下藤吉郎
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html


11月 小田原征伐の準備として、豊臣秀吉の使者として徳川家康を
   訪れている。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻め
 大谷刑部は大将・石田三成の軍勢を補佐し、館林城攻め、忍城
 攻めに参加した。

7月5日 小田原城主:北条氏直の降伏した。
箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html

箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃
〜箕輪城入城』
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html

 奥州仕置が始まった。

 大谷刑部は上杉景勝・前田利家と出羽大宝寺・庄内三郡
 の太閤検地を行った。

 帰還後、越前の南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、
  2万6,944石を加増され、「敦賀5万石」を領する。
  57000石?


・文禄元年(1592) 〜豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)
  大谷吉継は船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配
  などを務めた。
 
6月 豊臣秀吉の命令で奉行衆の一人として1200を率いて
  長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成
  ・増田長盛らと共に渡海した。
  特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の
  指導にあたると共に現地報告を取り纏めた。
  明との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って石田・増田
  と共に一時帰国した。

 ※大谷吉継の母:東殿が、京都の吉田神社の神主である吉田兼見に、
 大谷吉継の戦勝祈祷を頼んでいる。

・文禄2年(1593)
 5月23日 名護屋城で豊臣秀吉と明使との面会を果たした。
  再度朝鮮へ渡海した。

 6月  晋州城攻防戦
  晋州城を攻略した。
  和平交渉により停滞した。
 
閏9月上旬 大谷吉継は帰国した。  
 大谷吉継は石田三成、小西行長、宇喜多秀家、増田長盛とともに
  大都督の官位を受けることになっていた。

  和平が決裂した。
  明国が豊臣秀吉冊封となった。



9月吉日付けでに大宰府天満宮に一対の鶴亀文懸鏡を奉納しており、
 この鏡は現存している。
 一つの銘には吉継の名が、もう一方の銘には「東・小石・徳・小屋」
 という4人の女性名が列挙されている。この東は吉継の母親の
  東殿であり、小石・徳・小屋については諸説あるが、吉継の家族
 であろうと考えられる。

●文禄3年(1594) 伏見城の普請に着いた。
この頃、大谷吉継の娘、又は妹?が、真田信繁(真田幸村)の正室
 になっている。草津温泉湯治も、草津温泉の地を所領としていた真
 田昌幸・信繁から勧められたものと個人的には考えている。

病状が悪化し治療に専念したようで、草津に湯治に出かけた。
  直江兼続に宛てて
 「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」
 との書状を送っている。
直江兼続に宛てた書状では、目の病のため、花押ではなく印判を
 用いたことを詫びている。


約3年程、表舞台から名が消えている。
 豊臣秀吉主催の花見なども欠席している。

・慶長2年(1597年)
 9月24日、豊臣秀吉は徳川家康・富田知信・織田有楽斎・織田
  長益らを伴い、伏見の大谷邸に訪問し大谷吉継を見舞った。
  大谷吉継の養子・大覚介が接待した。豪勢な饗宴で出迎えた。
  豊臣秀吉・豊臣秀頼、そして北政所や淀殿などに60000石の身
  とは思えぬ過分な献上品をしたとある。

・慶長3年(1598年)
6月16日の豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列し、
  秀吉から菓子を賜った。
  太閤検地により約3000石加増。
8月18日、豊臣秀吉が亡くなった。
 形見分けとして「鐘切りの刀」を大谷吉継の長男・大谷吉治(17歳)
 が受け取った。
大谷吉継は隠居も考えていたようだが、長男もまだ若かったせいか、
 大谷吉継は天下の情勢を見極めて五大老の徳川家康に接近した
  
 大谷吉継は病状は安定したようである。

・慶長4年(1599)
  神龍院梵舜と女能を見物した。病状の好転がうかがえる。

  徳川家康と前田利家の仲が険悪となった。
 徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将ら
 と共に徳川邸に参じ徳川家康を警護した。

 その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱の際は、
 大谷吉継も徳川邸に参じ、徳川家康を警護した。


・慶長5年(1600) 直江状
  徳川家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の
 兵を率い上杉討伐軍を起こした。
 
箕輪初心:生方▲2017映画「関ヶ原」のあらすじと『Myブログ関ヶ原関係』
http://53922401.at.webry.info/201708/article_39.html

毛利輝元を総大将に就任させ挙兵させることにした。

箕輪初心:生方▲『14代:毛利輝元』関ヶ原の戦いまで
http://53922401.at.webry.info/201512/article_20.html


しかし、徳川家康は小山でこの挟み撃ちの企てを察知し、
上杉討伐を中断した。
★小山評定である。


箕輪初心◆豊臣秀吉の死〜徳川家康の小山評定〜関ヶ原の戦いへ
http://53922401.at.webry.info/201312/article_14.html

箕輪初心●栃木【祇園城=小山城】&小山一族の栄枯盛衰の歴史  
http://53922401.at.webry.info/201312/article_10.html

箕輪初心:生方▲真田丸115【第36話「勝負」:沼田城の稲
→第2次上田合戦】&史実編
http://53922401.at.webry.info/201609/article_15.html

箕輪初心▲【老神ひな祭り】&真田信之(幸村の兄)の妻:小松姫
http://53922401.at.webry.info/201503/article_3.html

箕輪初心:生方▲真田丸23【沼田正覚寺】信之の妻:小松姫の墓
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201601/article_26.html

箕輪初心:生方▲真田丸116【第2次上田合戦&明け渡し
:諏訪・依田・大井・伴野】
http://53922401.at.webry.info/201609/article_33.html



・7月2日 
説@…大谷吉継は途中、徳川勢に合流すべく、美濃国の垂井に
  差し掛かった際、失脚していた石田三成が遣わした使者:樫原彦
 右衛門が訪問し佐和山城へ招待された。
説A…大谷吉継から石田三成に使者を出し、徳川家康との和睦のため
 石田三成自身か、子の石田重家が大谷勢に加わる形で、上杉征伐への
 同行をすすめたが、三成が納得せず、大谷吉継自ら佐和山城へ向かい、
 平塚為広らと石田三成を説得した。
しかし、親友の石田三成からは、徳川家康に対して「挙兵」すると言う
重大決意を明かされる。
大谷吉継は、徳川家康に勝つ見込みの薄いことや石田三成の人望
のなさを指摘し「無謀であり、三成に勝機なし」と説得した。
石田三成は主義を変えなかった。

7月7日 大谷吉継は垂井の陣に帰った。
垂井の宿で3〜4日考え抜いた。
大谷吉継は、石田三成の固い決意と熱意に答えることにした。

7月11日 大谷吉継は佐和山城に入り、平塚為広や大谷吉勝
 ・木下頼継ら息子達と共に石田三成に協力し西軍に加わった。
 石田三成は喜んで、家臣の島左近、蒲生備中らを紹介した。

7月12日 大谷吉継、石田三成、増田長盛、安国寺恵瓊と作戦
  会議を行った。

大谷吉継は大坂にいた真田昌幸の正室を預かった。


大谷吉継の母・東殿局は、高台院(北政所)の代理として、宇喜多秀家
が行った西軍出陣式に出席した。

西軍首脳の1人となった大谷吉継は、軍勢を戻し、

7月14日 大谷吉継は敦賀城に帰還した。

・前田利家嫡男:前田利長は五大老の一人であったが、生母の芳春院
 (まつ)を人質として江戸に差し出していたため、東軍に与した。
 そこで、大谷吉継は前田利長の動きを封じるため、越前や加賀南部
 における諸大名に対して勧誘工作を行なった。
  その結果、越前の諸大名の多くが西軍に加わった。
青木一矩(北之庄城21万石)
青山宗勝(越前丸岡4万6000石)
織田秀雄(大野5万石。織田信長の次男・織田信雄の子)
木下頼継(2万5000石)
丹羽長重(加賀小松12万5000石。丹羽長秀の子)
丹羽長正(越前東郷5万石。丹羽長重の弟)
戸田重政(越前安居1万石)
奥山正之(1万1000石)
赤座直保(1万石)
上田重安(1万石)
溝江長晴(1万石)
山口宗永(加賀大聖寺5万石)
山口修弘(1万3000石。宗永の長男)。
 (★ウィキペディア)

7月26日
これに対して、前田利長は加賀南部や越前を制圧すべく、2万5000人
を率いて丹羽長重が守る小松城を包囲攻撃した。
 小松城の守備兵は丹羽長重以下約3000名ほどに過ぎなかったが、
堅城であった。前田軍は城を落とすことができなかった。前田利長は
西軍の山口宗永が守る大聖寺城に向かった。

8月2日 前田利家は包囲攻撃を開始したのである。
 山口軍の兵力はおよそ2000人ほどに過ぎず、前田軍の前に遂に敗れて、
 山口宗永・修弘親子は自害した。

8月3日 大谷吉継は伏見城攻防戦などを戦い後、越前敦賀に戻った。
 大谷吉継の率いる兵力はおよそ6000人ほどに過ぎなかった。

大谷吉継は前田軍に対して、
「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている」
・「西軍が伏見城を落とした」
・「西軍が上方を全て制圧した」
・「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている」
・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」
など、虚虚実実の流言を流したのである。
 前田利長は偽情報に動揺した。

・8月5日付の三成の書状「備えの人数書」
  大谷吉継は北国口の兵3万100の大将の1人とされた。
  北国口の抑えとして30人の大将に大谷吉継の名がある。

・大谷吉継の母:東殿は高台院の代理として宇喜多秀家が行った
 出陣式に出席した。


8月8日、前田利長は軍勢を金沢に戻すことにした。

▲浅井畷の戦い
丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、軍勢を率いて小松城から
出撃した。
丹羽長重は浅井畷で兵を率いて前田軍を待ち伏せた。

8月9日、丹羽軍が前田軍を攻撃した。
 畷のために道幅が狭く、大軍の威力を発揮することができない。
 前田軍は被害を受けたが、丹羽軍を撃退し、何とか金沢に撤退した。

●浅井畷古戦場(石川県史跡)…1回見学

結果、25000の前田利長軍は関ヶ原の決戦に間に合わなかった。
  大谷吉継の戦術が優れていた。

8月23日、徳川家康勢が岐阜城を攻略した。

9月2日(3日?) 脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、戸田勝成、赤座直保
  らの諸将を率いて美濃国に進出した。

大谷吉継は精鋭600を率いて、大谷吉勝(2500)・木下頼継(1000人)
ら大谷一族、戸田勝成(540人)、平塚為広(360人)と、合わせて5700
で布陣した。
陣中には織田信長の子・織田信吉(500人)、織田長次、蜂須賀家政の
家老・高木法斎らも加わった。

9月14日 関ケ原合戦の前日
 大谷吉継は小早川秀秋の陣に赴き、裏切らないように促した。
 大谷吉継は疑念を感じ、小早川隊の松尾山の北方・藤川台に布陣
 した。

大小早川秀秋は、黒田官兵衛の調略を受けていた。
黒田長政の家臣・大久保猪之助は小早川秀秋の陣に監視役でいた。

石田三成は深夜に松尾山を訪れて
「豊臣秀頼が15歳になるまで秀秋の関白の地位を保証する」
といった内容の起請文を発行し、裏切り防止に配慮した。

9月15日 関が原の地で決戦を迎える。





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