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zoom RSS 箕輪初心:生方▲草津100人『19:依田(松平)康国』豊臣秀次の饗応役

<<   作成日時 : 2018/03/11 06:45   >>

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天正16年(1588)松平康国は豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)の饗応役となり
草津温泉の温泉街に茶屋を設けて豊臣秀次を接待した。
(★「寛政重修諸家譜」)私には、これ以外の情報は知らない。しかし、
依田康国が草津温泉に入ったのは、確かであろう。

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 ★早くどいてくれ、朝日姫と豊臣秀次の写真が
  撮れない。結局、2人分の写真は撮れなかった。


『草津に歩みし100人』のブログ一覧**************

◆1)草津温泉・・・・20回以上?
箕輪初心◆2014スキーbX【草津】& 『草津温泉:望雲』
http://53922401.at.webry.info/201402/article_13.html

箕輪初心▲群馬:日本百名山:草津白根山&草津温泉
http://53922401.at.webry.info/201107/article_4.html

箕輪初心▲群馬百名山A26〜50草津白根山・皇海山など
http://53922401.at.webry.info/201206/article_29.html

箕輪初心■群馬草津の松尾芭蕉句碑:ゴリラ50ccでGo
http://53922401.at.webry.info/201209/article_4.html

箕輪初心■プラドでGo【群馬の4湯巡り】 
http://53922401.at.webry.info/201206/article_26.html

箕輪初心:生方▲2018スキーbV『草津コース動画&昼食:月乃井
&温泉:山本館』
http://53922401.at.webry.info/201803/article_7.html




●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************
箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし百人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_27.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_28.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』F「長野業尚:榛名鷹留城主」
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箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人G長尾為景:上杉謙信の父
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箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人H大光宗猷禅師=曇英恵応:林泉寺創建
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箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』10『横瀬成繁』太田金山城主
http://53922401.at.webry.info/201710/article_8.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人:連歌師『J宗祇』&番外編『宗長』
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箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人『草津管理人:湯本善太夫』
と『真田ブログ一覧』
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箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人ー12『甘楽国峰城主:小幡信貞』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_11.html

箕輪初心:生方:▲草津に歩みし100人:『戦国時代の草津温泉ブーム創作編』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_12.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣L丹鋳キ秀】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_13.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣M堀秀政】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_14.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣N多賀常則】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_15.html

箕輪初心:生方▲草津100人『16(近衛晴嗣→前嗣→前久→)近衛龍山
http://53922401.at.webry.info/201803/article_9.html

箕輪初心:生方▲草津100人『17朝日姫・18豊臣秀次・
幻の豊臣秀吉&井伊直政』
http://53922401.at.webry.info/201803/article_10.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人19『依田(松平)康国』豊臣秀次の饗応役
http://53922401.at.webry.info/201803/article_11.html

★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。











◆依田信守⇒依田信蕃(玄蕃)⇒依田康国の生涯
・天文12年(1543) 武田晴信の佐久侵攻。
大井貞隆の家老だった芦田守信&芦田(依田)系の相木昌朝は
 武田晴信に内応し、岩村田城:大井貞隆を降伏させた。

武田晴信の配下に芦田信守・相木昌朝・望月源三郎がなった。
@芦田信守→依田玄蕃(信蕃)+跡部勝資の娘 →依田康国

A相木昌朝→相木市兵衛+山県昌景の娘→
 帰参直後から騎馬80騎持ちで田口城代に任じられた。
 後、相木昌朝の長女は真田幸隆の次男:真田昌輝に嫁いでいる。
 相木昌朝の次男:相木市兵衛は武田信玄より依田能登守の名を
 与えられた。

箕輪初心:生方▲真田●46【長窪城】と真田幸綱(幸隆)
http://53922401.at.webry.info/201602/article_22.html

箕輪初心:生方▲真田丸48【佐久:春日城】依田信蕃と真田昌幸
http://53922401.at.webry.info/201602/article_24.html

・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
 ※5代目:芦田(依田)信守は川中島で戦功があった。

 芦田信守は要害性から春日城を改修・築城した。
依田系の芦田信守が入り、子:依田信蕃と2代にわたって
 居城とした。改修は時期は不明である。
  
 芦田信守は武蔵国・駿河国などを転戦した。
芦田信守→依田信蕃→依田(松平)康国へ・・・・


元亀元年(1570) 依田信蕃の長男として本拠信濃国春日城
にて誕生する。
依田玄蕃(信蕃)は信濃国佐久地方を治める国人領主である。
居城である春日城(長野県佐久市)で生まれた。
 ★春日城の写真が消滅しているので、掲載できない。


・元亀3年(1572) 依田玄蕃は遠江国二俣城城代(浜松市)になった。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
 武田勝頼が敗北した。
 芦田信守は徳川家康に二俣城を包囲される中、二俣城中で
 死去した。

依田康国は幼少時は、弟:康勝と共に甲斐武田氏の人質と
  なり、甲府にいた。

・天正10年(1582)3月11日 武田氏が滅亡.
真田昌幸は小県郡を領地とした。
依田信蕃は駿河の田中城(島田市)で徳川家康と対峙していた。
 
武田氏滅亡を知ると、依田信蕃は徳川家康のすすめで田中城を
 明け渡した。
 名門好きの徳川家康は才能ある依田信蕃に
 「徳川に召し抱えたい。」
 と誘った。
 しかし、依田信蕃は芦田の本拠地:春日城に帰った。
 小諸城で森長可と対面した。
 「織田信長公に御礼をしたい。」
 と言って、小諸を発ち、諏訪へ向かった。
 しかし、その途中、徳川家康より急使がきて、
 「信長は依田信蕃・真田昌幸など甲州や信州の大名に切腹を命じて
 いるから、自分(家康)のもとに来なさい。」
 という書状を見た。
 依田信蕃は、徳川家康に臣従した。
 
6月2日、本能寺の変 織田信長が本横死した。

 信濃・甲斐の織田勢力は一挙に弱まってしまった。

※結果・・・信濃・甲斐は徳川氏・北条氏、上杉氏の3つ巴の
 草刈場と化した。
「天正壬午の乱」




 徳川家康は甲州・信州に依田信蕃に命じて甲斐の武士遺臣たちを
 味方に引き入れさせた。
 

6月22日 小諸城の滝川一益にあった。
 依田信蕃は滝川一益から小諸城をもらい受けた。
 
※真田丸の平井優氏や黒田基樹氏の説が違うようだ。
「祖母:とり、真田信繁・矢沢綱幸が人質になった。」

 依田信蕃は徳川家康の後援を得て、佐久に攻め入り、北条氏政
 の軍勢と戦った。
 そして、伴野助十郎信是の守る伴野城を攻め落とした。

・7月19日
「今度至伴野、相働、蒙疵之由・・・・
   依田肥前守殿」
 (★『徳川家康文書の研究 上巻』:中村孝夫著)
 依田信守は伴野信是(佐久市:村の等ちゃんの先祖:依田玄蕃の
 同じ一族)を攻めて負傷した。
 徳川家康は感状を出した。

 
 相木昌朝の子:相木市兵衛&伴野助十郎信是の子:貞長は
依田信蕃に相木昌朝は田口城、相木城を包囲される。
 相木昌朝は北条氏政の援軍を頼りに田口城に籠っていた。
 依田信蕃に攻め込まれ、 相木昌朝は大導寺政繁を頼り
 上野国:松枝へ逃れた。 その後、相木城は廃城になった?
★その後、相木昌朝・依田信是・子:依田貞長・信幸は箕輪
 城か保渡田城(旧群馬町)にいたようである。

10月27日 徳川家康⇒依田玄蕃宛て文書
「急度申入候、仍上方忩隙付而、當表無事可然之由、信長従御
 子達、度々御意見之間、殊我等事、日比信長御厚恩不淺之間、
 先以任其儀令和與候、彌相示、自是依田肥前守(信守)を以、
 巨細可申入候、恐々謹言
 十月廿七日
  依田右衛門佐(信蕃⇒玄蕃)殿」
(★『徳川家康文書の研究 上巻』:中村孝夫著)


10月29日  北条氏政が徳川家康が講和した。
 正使:井伊直政・副使:木俣守勝であった。
 
 北条氏が相模へ引上げた。
 小県郡の北条方の真田昌幸を説いて徳川家康に臣従させた。

 依田信蕃と真田昌幸は協力して碓氷峠で北条氏の後方連絡線をたって
 徳川・北条の和睦のきっかけとなった。


徳川家康は依田信蕃の戦功を賞して佐久・諏訪の2郡を与えた。
正式に小諸城代とした。

岩尾大井行吉は春日弾正の元で海津城を守っていたが、北条氏政:
家臣の松井田城主:大導寺政繁に属した。
岩尾大井行吉は反旗を翻した。



・天正11年2月 依田信蕃は岩尾城攻めにかかった。
★岩尾城は武田信玄の命で真田幸隆(幸綱)が改修縄張り
 である。
丸馬出や三日月堀も残っている。写真があれば、後日、紹介
 できると思う。5年分の写真が消滅したので凄さは紹介でき
 ないかも?

1日目、依田信番は力攻めを強行した。
 岩尾大井氏の軍勢は寄せ集めの烏合の衆であったが、木の柵
を隙間なく並べ、依田軍に鉄砲・矢の集中攻撃を行った。
 
依田軍は多くの犠牲者を出た。
 
軍監の柴田康家は
「力攻めをやめて家康流の気長な戦術をしたらいかがか?」
と勧めた。 依田信蕃も攻めあぐんだ。

2日目 再び強気に力攻めをした。
 岩尾城の大手門を破り、三の郭の前手前の郭に突入した。

 乱戦となった。

 大井軍は三の郭櫓の上から狙い撃ちした。
 依田勢はまたまた撃ち倒された。
 
 依田信番は次々と兵を繰り出した。

3日目 頭にきた依田信蕃は陣頭に立って攻撃を仕かけた。
 大井方の淺沼平兵衛は鉄砲隊に依田信蕃を狙撃させた。
 弾丸は依田信蕃、弟:依田信幸に当たった。
 
 依田信蕃、依田信幸が戦死した。

 ★真田昌幸は依田信蕃の援護をするため、五郎兵衛新田
  の博物館の南方200m小山に陣取っていた。


 大将を失った依田勢は大混乱に陥った。
 依田信蕃の末弟:依田信春は兵を引き揚げた。

 大井行吉の父:大井行頼が戦死した。

 軍監:柴田康家は開城降伏の使者を送った。
 大井行吉は父が死んだこともあり、和睦した。
 大井行吉は柴田康家に城を明け渡した。

 大井行吉は上野国松枝(松井田)城主:大導寺政繁に会い、
 保渡田村(高崎市旧群馬町)に幽居した。
 
 ★保渡田村には起請文にある武田遺臣:内藤昌月や塚越氏
 (My母先祖)や友松子孫・土屋一族の子孫などがいた。
 2年後、天正12年(1584) 保渡田村で死んだ。享年43。


3月11日 武田勝頼の自刃した。

  依田玄蕃は徳川方に転じた。

6月2日 本能寺の変で織田信長が死去した。

6月22日 滝川一益は蟹江・長島に撤退の際、小諸城にに立ち
 寄った。依田信蕃から周辺の国人領主から集めた人質を受け取
 り、小諸城を依田信蕃に与えた。
 滝川一益は人質として依田康国も含まれていた。
 TV「真田丸」では、真田昌幸の母もいたことになっている。
 依田康国が滝川一益→木曽義昌→徳川家康に引き継がれた。


・天正11年(1583)
3月、徳川家康は依田信蕃の功績を認めた。
徳川家康は依田信蕃の子:竹福丸に康国に「康」の偏諱と松平姓
 を与えて元服させ、松平源十郎康国と名乗らせた。
大久保忠世を後見人として小諸城と6万石を賜った。

依田康国は父の菩提を弔うため、田口城麓の居館跡に蕃松院(曹洞宗)
を整備した。
蕃松院に信蕃の位牌と、夫妻のものと伝わる墓所が残っている。

同年、真田昌幸は徳川家康を利用して、上田城を築いた。
家臣を上田に呼び集めた。


・天正12年(1584) 「小牧・長久手の戦い」
徳川家康 VS 豊臣秀吉


箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_23.html


 徳川家康は北条氏直と講和を結んでいた。
 徳川家康は条件の定めによって真田昌幸に
 「沼田城を北条方へ引き渡せ。」
 と命じた。
 しかし、真田昌幸は上杉景勝方に寝返ってしまった。

 徳川家康は激怒した。

・天正13年(1585) 8月、第一次上田合戦
  真田昌幸の作戦に翻弄されて散々な敗北した。

 上田城攻めに依田(松平)康国が初陣として参加した。
 従兄弟:矢沢三十郎頼康&上杉の援兵:須田満親を支城:
 矢沢城に籠城させた。
 300余説?+500余説?=800余説?
※平山説では上杉の援兵は少なかった。
合計・・・総勢2000余を配置した。
 依田(松平)康国は矢沢城を攻撃した。 
箕輪初心:生方▲真田丸32【真田昌幸:空城の計&第一次上田合戦】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_4.html

箕輪初心:生方▲真田丸80【第1次上田合戦】加沢記・平山説
&第13話「決戦」
http://53922401.at.webry.info/201604/article_6.html

松平康国は徳川家康から感状を受けた。

・天正14年(1586)
  佐久地方の自領の安定統治に力を入れた。
   現存する書状などから確認できる。


天正16年(1588)松平康国は豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)の饗応役
 となり、草津温泉の温泉街に茶屋を設けて秀次を接待した。
(★「寛政重修諸家譜」)

・天正17年(1589) 木次原(南相木村)の戦い
 依田康国に追われていた相木昌朝、伴野貞長らの佐久地方の旧領主
 が相木城で挙兵した.
 依田康国が破った。
依田康国(松平康国)に再び敗れて関東へ去った。
 その後、相木昌朝の消息は分からない。
◆相木昌朝の子ども
 長男:相木長門守頼房(相木市兵衛常祐)・・・武田信廉の娘婿
 次男:相木昌信・・・・・・山県昌景の娘婿→真田昌幸家臣。
 3男:相木七良右衛門善量・・・福井県の相ノ木氏の祖となった。

★現在、伴野家宗家子孫(高崎在住:拙宅から50m)&相木家
 宗家:相木依田信勝氏は今でもおつきあいしているそうである。


・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
小諸城主:依田(松平)康国は徳川家臣であるが、前田利家の
 先導役となった。
佐久白岩城(★佐久パラダの南の城)に泊まった。

箕輪初心:生方▲真田●60【佐久平根白岩城:平尾氏館】&真田の本
http://53922401.at.webry.info/201603/article_5.html


3月12日?
  北相木の白岩砦で依田能登守(頼房)と伴野貞長は蜂起した。

3月14日、依田康国は小諸城を出発した。

3月15日 依田康国は勝間城(稲荷山城)に陣取った。

箕輪初心:生方▲真田●54【佐久稲荷山城:勝間城】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_30.html

 
  家臣:伴野小隼人・平尾平三・依田長右衛門等が相木
  頼房・伴野貞長の隊を槍をついた。
  相木勢は380余名の戦死者を出した。
 伴野貞長は戦死した。
   相木能登守は上州に逃れた。
(★平根村誌)
  伴野貞長の弟:信行は上野国から武蔵の三峰神社に逃げた。
伴野信行は伴野氏の本流となった。
  ★子孫は毎年、三峯神社にお礼に伺っている。


 大道寺政繁の松井田城→多米元忠の西牧城などの攻略に参加した。
 寺尾左馬助(石倉治部)の上野国石倉城を攻略中、戦死。
 寺尾左馬助から依田康国への降伏の申し入れにより、一旦は開城
 となったが、疑心暗鬼に陥った寺尾左馬助が依田康国を殺害、
 弟:依田康勝が左馬助を討ち取った、という話もある。
  (★関東古戦録:1年ズレている。)

 徳川家康に命じられて依田(松平)康国も前田利家に属して
上野国に出陣した。
また、真田昌幸&幸繁(初陣説あり)3000は上杉景勝配下と
して上野国に出陣した。

 大導寺政繁の守る松井田城攻めに加わった。
真田家は松井田城の戦後処理をした。

 さらに依田康国は石倉城(前橋市)攻撃に加わった。


4月26日(5月19日)
 寺尾左馬助(石倉治部)が守る上野国石倉城(前橋市)を攻略中、
 戦死した。
 石倉城主:寺尾左馬介は降服を申し入れてきたため、依田康国は
 わずかな手勢のみで城内に入った。
  しかし、寺尾左馬介が開城時の混乱の中で疑心暗鬼に陥った
 依田康国に斬り付けた。
依田康国は応戦したが力つきて討死した。享年21。
弟の依田康勝が左馬助を討ち取った。という話も伝わる。
 (★『関東古戦録』では、1年ズレている。)

箕輪初心●群馬【石倉城】=武田・上杉・北条の重要拠点
http://53922401.at.webry.info/201212/article_21.html
 
 
  依田康国の死後は、弟:依田康真が家督を相続した。

真田昌幸&幸繁は箕輪城の無血開城させた。
4月24日 豊臣秀吉の手紙
 戦後処理をした。






7月5日 小田原城開城
真田信幸は沼田城に入った。
真田昌幸は上田城・岩櫃城に入った。
 依田康真は武州榛沢、上州緑野両郡において3万石を与えられ
 芦田(藤岡)城主となった。
※藤岡第一小学校の敷地内
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●群馬藤岡編「芦田城」&依田一族の歴史
http://53922401.at.webry.info/201107/article_9.html


????年  松平(依田)康真は兄:康国を弔うため、
 祖父の芦田信守・父の依田信蕃が拠った春日城の麓に、依田一族の
 (信蕃の叔父)天外大雲禅師を開山として、生まれた平時の居館跡
 に、康国寺を創建した。依田康国夫妻の墓が残る。
★写真は消滅したので、ない。
 
・慶長5年(1600) 依田康貞は小栗三助と囲碁を打っていた。
どうしても依田康貞に勝てない小栗三助が腹立ち紛れに
「兄のお古を貰って満足している男の気が知れぬ。」と雑言を
はいた。依田康貞は死んだ兄:依田康国の妻を正妻に迎えて
いたのである。怒った依田康貞は抜刀して三助を刺し殺してし
まった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆◆箕輪初心★小栗上野介@「先祖」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_28.html


 松平康真は高野山で沙汰を待った。

・結果・・・松平康真は藤岡3万石を改易。
  結城秀康に食禄5000石でお預けとなった。



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