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zoom RSS 箕輪初心:生方▲草津100人『17朝日姫・18豊臣秀次・幻の豊臣秀吉&井伊直政』

<<   作成日時 : 2018/03/10 05:55   >>

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豊臣秀吉の妹「朝日姫」は政略結婚の悲劇のヒロインで語り継がれ
ている。NHK大河ドラマでの「瀬名姫=築山殿」は天正7年(1579)
織田信長の娘:徳姫からの讒言により、織田信長が徳川家康に松
平信康の処刑を命じたと言われている。築山殿は8月29日、遠江
国敷知郡小藪村(浜松市中区富塚)で岡本時仲と野中重政によって
暗殺された。徳川家康には正室がいなくなった。
・天正14年(1586)豊臣秀吉の妹:朝日姫が徳川家康の正室になった。
天正15年(1587) 朝日姫が草津温泉を訪問した。朝日姫は病気だっ
 たので、療養の為に草津の湯に入った。
天正16年(1588)豊臣秀吉の甥: 豊臣秀次:関白になり9月には
 草津温泉旅行に訪れている。松平康国は豊臣秀次(豊臣秀吉の
甥)の饗応役となり草津温泉の温泉街に茶屋を設けて秀次を接待
した。 (★「寛政重修諸家譜」)

・天正18年(1590)小田原の陣の際、豊臣方の前田利家や上杉景勝の
侵攻により箕輪城・和田城は落城した。井伊直政は小田原城笹曲輪を
乗っ取った。豊臣秀吉より、井伊直政は箕輪城に入るように命じられ、
徳川家康の関東移封の際、井伊直政は、12万石で箕輪城に入城した。
慶長2年(1597)、徳川家康の命により和田城のあった場所を含めた、
遠構え(高崎城と城下町一体型)が慶長3年(1598)10月?高崎城が
完成した。
文禄4年(1595)豊臣秀吉も草津を訪れるため、道中の宿割など
 全て完了していたが、直前でドタキャンした。
★井伊直政らが草津温泉の手配をした。

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★巴御前と静御前を勘違いしています。











・戦国時代**************************
戦国時代以降、草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた。
記録が残っている。
06●文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
○○○文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流の歌僧)
○○○長禄2年(1488) 万里集九は草津には来ていないようである。
  詩文集『梅花無尽蔵』の中で
 「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。
 「日本三名泉」は、万里集九 → 林羅山によって言葉が生まれた。

07▲延徳2年 (1490) −長野業尚 (榛名鷹留城主)
   ★文亀3年(1503) 長野業尚が死亡なので草津の大永6年(1526)
  の年号は間違っている。     
08▲延徳2年(1490)−長尾為景 (越後国守護代)
   ★長尾為景が2歳?
09▲延徳2年(1490)−大光宗猷禅師(曇英恵応:越後林泉寺&榛名長年寺)
   ★大永6年(1526)まで生きていなかった。
10●明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
11●文亀4年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)
★宗祇は越後の帰りに伊香保に行っちゃったので来ていない。
○○○文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
○○○永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
◆◆◆戦国時代     湯本善太夫は草津温泉を支配していた。
12●永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)
 ★「関東古戦録」がベースなので、信憑性は疑わしい。
13●天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
14●天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
15●天正10年(1582)−多賀新左衛門常則(織田信長家臣)
○○○天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
16●天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
  豊臣秀吉の妹である朝日姫は、徳川家康の正室であり病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
17●天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
   豊臣秀吉の異父兄弟:豊臣秀次も来ている。
18●天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
19●文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
20●慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
  前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。
△△△徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
 運ばせて入浴していた。

***朝日姫*************************

・天文12年(1543) 朝日姫は父・竹阿弥、母・なか(大政所)の
 娘として誕生した。
 尾張国の農民に嫁いだ。

 木下藤吉郎は父:竹阿弥と馬が合わず、15歳で家を飛び出した
 木下藤吉郎は今川配下:飯尾家の家臣:松下加兵衛の下僕と
 して働いた。

 木下藤吉郎は織田信長に仕えた。
 羽柴秀吉の出世とともに、夫も武士に取り立てられ、佐治日向守を
 名乗った。






箕輪初心:生方▲≪岡崎城≫&【加沢記】の『松』VS
【第17話「松との再会】&史実:丸島説&平山説
http://53922401.at.webry.info/201605/article_4.html

箕輪初心:生方▲真田丸92【第18話「上洛」】&
「丸島説&平山説&加沢記」
http://53922401.at.webry.info/201605/article_11.html





【2】 『真田四代と信繁』丸島和洋著
・天正13年(1585) 第一次上田合戦
閏8月2日 真田昌幸 VS 徳川家康
  徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われている。
  真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。(★ウィキペディア)
  真田軍は58人の犠牲ですんだ。(★真田丸ナレーター)

8月3日 徳川軍は丸子三左衛門(後、真田氏に臣従)の篭る
  丸子城を攻めるが、攻略できず、以後20日間程対陣を続けた。
  徳川家康は援軍:井伊直政、大須賀康高、松平康重の5000
  を出すと共に一時撤退を命じた。

・8月26日 上杉景勝の指示で、西条・清野・寺尾・市川らが
  上田城に応援に行った。

・8月28日 徳川は上田より撤退した。
  大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り
  返した。

・10月初旬 真田昌幸は徳川軍と対陣中に、豊臣秀吉に書状を送り、
 援助を依頼した。
 (★『真田氏と上田城』上田市史編纂委員会著)

・10月17日付 豊臣秀吉の書状
「委細の段聞こし召し届けられ候心安かるべく候。その方の
進退の事は何の道にも迷惑せざるように申し付けてあるので、
心易く思うがよい。」
と返事をしている。
「あとは、小笠原貞慶を相談せよ。」
と豊臣秀吉は真田昌幸を味方した。
 (★真田宝物館・信濃史料16−383)

11月 真田昌幸と府中小笠原貞慶が豊臣秀吉と内通していた。
 府中小笠原貞慶の豊臣秀吉への内通発覚によって、
 徳川家康に石川数正は責任を問われた。

11月13日 徳川家譜代の重臣:石川数正が突如として岡崎城から
  離れ、徳川家康の下から出奔し、豊臣秀吉の下へ逃亡した。
  その際、石川数正が人質の府中小笠原秀政を引き連れて豊臣秀吉の
  元へ出奔した。府中小笠原秀政の父:小笠原貞慶も豊臣秀吉の家臣
  となった。
理由は謎であり、はっきりした理由は分かっていない。
@石川数正が小笠原の件で責められたことが一因になったとする説。
A石川数正が徳川家康と不仲になった説。
B石川数正が豊臣秀吉から提案され誘惑に負けた説
小牧長久手の戦い後の交渉に携わっていた。

・11月?日 石川数正が羽柴秀吉に臣従した。
 豊臣秀吉は以前、徳川家康の使者:石川数正に対し、徳川家の重臣
 の人質を出すように要求したが、家康は人質を出さなかった。
 石川数正は困り果てて、徳川を出奔した。というのは実際の所
 なのだろうか?・・・翌年、羽柴秀吉は妹:旭姫を徳川家康に
 送り込んだ。

徳川家康にとって石川数正は徳川の軍事的機密・策略を知り尽くして
 いたので石川数正の出奔は徳川にとって大きな衝撃であった。
 最初から真田のことより秀吉の事を気にしていて、井伊直政などの
 兵を送ってはいなかった。真田どころではなくなってしまった。
 徳川家康は上田から完全に撤退した。
 小諸城には??を置いたけれど・・・

・11月17日 真田昌幸→直江兼続への手紙
「当堺は無事ですが、配下等からの報せでは、家康が甲州、佐久郡、
 諏訪郡等に滞在させています。・・平岩・柴田・大久保を遠州に
 召し寄せました。どんな相談をしたのか分かりません」
(★『真田氏と上田城』上田市史編纂委員会著)
★真田昌幸は 撤退理由は分からなかった。


・11月19日付書状 豊臣秀吉→真田昌幸への書状
「13日に石川数正が尾張に来たので、家康の表裏が判明、
 今年は残り少ないなので、来年の1月15日前には家康成敗の兵を
出す。」

11月?日 豊臣秀吉→真田昌幸への書状
「信州・甲州両国の儀は、小笠原・木曾と相談、・・・・」
(★長谷寺殿御事跡稿)

※こうして、真田昌幸は羽柴秀吉との接近を果たした。
(★『真田氏と上田城』上田市史編纂委員会著)


*NHK大河ドラマ『天地人』
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が佐々成政を滅ぼし、上杉景勝に会談を申し
 入れた。勝山城(糸魚川市)で上杉景勝+直江兼続VS羽柴秀吉
 +石田三成と会談を行った。羽柴と上杉が同盟を結ぶ合意がなさ
 れたとされた。

11月29日〜12月23日 天正の大地震
徳川家康は地震によって豊臣秀吉の攻撃から救われた。
★12月14日 徳川家康は本拠を浜松城から駿府城に移した。  

・天正14年(1586)
1月〜 真田昌幸は佐久(徳川領)に侵攻した。
 自領拡大を企てた。
8ヶ所に出撃し、家臣に宛状を発給した。
例、佐久に元長野業正重臣:矢島主殿助・神尾淡路守に宛がった。
例、矢沢頼綱・頼幸に海野領など1000貫を宛がった。


2月 豊臣秀吉は「尾張に攻め込む。」と宣言した。
   織田信雄は徳川家康に上洛するよう伝えた

   豊臣秀吉は妹を強制的に夫と離縁させた。
2月22日、織田信雄の家臣で羽柴下総守:土方雄久を使者として
   三河吉田に派遣した。
  酒井忠次を介して、徳川家康を懐柔するための縁組を持ちかけた。
  徳川家康は了承し、榊原康政が代理として上洛して結納を取り交
  わした。
※政策を変えた。懐柔策を取った。
旭姫(朝日姫)は佐治日向守に嫁いでいたが離縁させて、徳川家康を
  懐柔するための再嫁であった。

2月23日 豊臣秀吉は真田昌幸に信濃領土拡大を止めさせた。

4月 豊臣秀吉の妹:旭(朝日)姫は大坂城を出て聚楽第に入った。

5月 朝日姫は浅野長政・富田知信・津田四郎左衛門・滝川儀太夫等を
   従えて150名余の花嫁行列は京を出発した。
  途中、織田信雄の家臣・織田長益と羽柴下総守がさらに加わった。

5月11日、三河西野に達した。

5月14日 旭(朝日)姫は浜松に着き、徳川家康と祝言を上げた。
朝日姫は徳川家康の正室(継室)として徳川家に嫁いだ。
 家康45歳、朝日姫44歳だった。
 朝日姫は駿河府中(駿府)に居を構えたため駿河御前と以後呼ばれた。

 徳川家康は婚儀が済んでも上洛しなかった。

5月 徳川家康は真田攻撃の準備を開始した。
   
   北条氏直(妻は家康の娘)も沼田城を包囲した。  
   しかし、矢沢頼綱が防ぎきった。
   さらに、真田昌幸従兄弟:河原綱家&
   羽根尾城将:湯本三郎右衛門尉に岩櫃城の
   守りを固めさせた。      

6月 上杉景勝の上洛。
       
7月12日 徳川家康は真田攻めのため、駿府城に入った。

8月3日付 豊臣秀吉→上杉景勝への書状 
『真田昌幸は「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」
  であるので、家康に命じて成敗することにした。
上杉景勝には、一切支援しないように (=真田家を
 助けるな。そして、徳川家康と戦うな。』
と書いた。
※丸島説・・・信用できない者の意味である
徳川・上杉間で戦が起きないようにする配慮である。

9月25日 徳川家康の真田攻めは沙汰済みとなった。
中止となった。

 ※丸島説・・・上杉景勝が影で動いた。
9月26日 徳川家康の上洛が決まった。
(★『家忠日記』)
※丸島説・・・
「上洛が遅れても構わない」=「真田討伐後、上洛せよ」
の意味である。家康に上洛させるための材料の一つで
あったのではないだろうか?と書いている。
しかし、真田昌幸が滅亡の危機に瀕したことは間違いない。

9月 豊臣秀吉の通達
    「真田昌幸が家康の与力大名へ」の通達

9月 聚楽第が完成した。
   豊臣秀吉らと共に大政所も居を移したが、病気がちで
   大阪城へ戻っている。

10月 徳川家康は妹:朝日姫を正室として岡崎城に下向させても
    一向に上洛の気配を見せない。
    徳川家康に業を煮やした豊臣秀吉が今度は母:大政所を
    旭(朝日)姫を見舞うという名目で、豊臣秀吉の生母:
    大政所を岡崎城に人質として送った。
    関白:豊臣秀吉のの母子が共に人質として送られてきた
    ことになった。
    徳川家康も流石に上洛に応じざるを得なくなった。
    豊臣秀吉に拝謁することは徳川家康が秀吉に臣従すること
    を意味した。
    徳川家康は重臣:本多重次に岡崎城での大政所と旭姫の
    滞在する館の櫓の周囲に柴を積み上げ、万一の場合には
    火を放つように手配・・・殺害を準備をした。
    

 ★大政所の相手は井伊直政が担当した。
大政所が岡崎の駿河御前を訪ねるという形でさらに人質と
   なり、家康は上洛して秀吉との和議が成立した。
事実上の人質として送った形であった。
  豊臣秀吉が母の大政所と妹の朝日姫を人質として預けるという
  条件を出してきたため、徳川家康は断りきれず、人質と交代で
  上洛することにした。
  
10月24日 徳川家康は浜松城を発って上洛の途に就いた。

10月27日 徳川家康は大坂城で豊臣秀吉と対面し、臣従する
   ことになったのだった。
   徳川家康の豊臣秀吉への謁見は平穏裡に終わった。

・天正15年(1567)
3月 真田昌幸が上洛した。
   酒井忠次が同席した。
※丸島説・・・これが思わぬ副産物を生んだ。
   真田は豊臣の大名になったのである。
  真田は上杉と対等な立場になった。
徳川家康の与力大名になった。
   戦時、徳川家康の指揮下のに置かれることになった。

3月18日 酒井忠次の案内で真田昌幸・小笠原貞慶は
  駿府城に入城して、豊臣秀吉に臣従した。
  正式に大名として認められた。

●天正15年(1587) 朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
  豊臣秀吉の妹である朝日姫は、徳川家康の正室であり病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
★史料的な根拠は全くないが、進めたのは真田信幸の可能性が高い・

・天正16年(1588) 母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛した
が、しばらくして快方に向かった.
9月9日、駿河に帰国した。
  
 徳川家康上洛時期は不明であるが、朝日姫は聚楽第に住んでいた

●天正16年(1588)9月 豊臣秀吉の甥: 豊臣秀次:関白になり
 草津温泉旅行に訪れた。

・天正18年(1590) 正月 朝日姫が病気になった。
1月14日に死去した。享年47。

●文禄4年(1595)には豊臣秀吉も草津を訪れる為、道中の宿割など
 全て完了していたが、直前でドタキャンになった。


****井伊直政と豊臣家編***************** 
・NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、
第30話から
「潰れた家の井伊万千代は徳川譜代の小姓などにも意地悪されて
いる場面が度々登場している。
第33話では「天正3年(1572)井伊直政は岡崎城の松平信康・
石川数正に面会し、恩賞を与えられないという徳川家康の意思を
伝えた。」ことになっている。事実かどうかは分からない。

・天正12年(1584)小牧長久手の戦いでは、井伊直政は徳川直参では
 ないのにもかかわらず、徳川家康は井伊直政を6万石までに取り
 立ててくれた。当然、周囲からの妬みや嫉みの対象となる。
「井伊の赤鬼」と呼ばれた。

・天正13年(1585)11月の石川数正の裏切りによって、徳川の
軍法は井伊直政の家臣:三科形秀・広瀬などは武田信玄の軍法を
編纂させた。
★井伊直政にとって、徳川家康は絶対な存在であった。裏切るなどと
いうことはできない。

・天正14年(1586)
5月14日 旭(朝日)姫は浜松に着き、徳川家康と祝言を上げた。
10月 大政所は朝日姫の病気見舞いという形で、岡崎城に人質と
   なった。
 大政所は敵地:岡崎で心細い思いをしていた。
  井伊直政は豊臣秀吉の母と妹の警護を任された。
  井伊直政は朝夕、必ず大政所を訪ねては懇切に世話をしたという。

10月27日 徳川家康は大坂城で豊臣秀吉と対面し、臣従する
   ことになった   
 徳川家康が豊臣秀吉への臣従を明らかにすると、大政所が豊臣秀吉
 の大政所は約1か月で大坂城に送り返されることになった。
 大政所は大坂城に戻ることになった。  
 大政所は豊臣秀吉のいる大坂城に帰るとき
 井伊直政に「是非道中も警護してほしい。」と望んだという。
 井伊直政は大政所が大坂に戻る際の護衛を務めることになった。

 井伊直政は小牧長久手以来、戦場では「赤鬼」と呼ばれるような
 我武者羅な人物であったが、普段は人当たりがよく優しい人柄で
 気遣いできる人物であったのかもしれない。
 大政所にも信頼されたのであろう。
 井伊直政は手厚い警護を行って無事に大政所を送り届けた。
 
 井伊直政は大坂まで大政所と朝日姫を護衛してきた。
井伊直政は大政所から報告を受け、豊臣秀吉に感謝された。
 豊臣秀吉は井伊直政に気にいった。
@エピソード1「井伊直政と石川数正」
豊臣秀吉は井伊直政の労を労おうと茶をたてた。
茶会にかつて徳川家康の重臣(岡崎信康付き)でありながら、
豊臣秀吉に寝返った石川数正が同席していた。
井伊直政は
「先祖より仕えた主君に背いて、殿下に従う臆病者と同席は御免被る。」
と言い放って、出て行った。
お茶会での石川数正との同席で、怒った。
豊臣秀吉からすれば、旧知の間なので話が弾むかと思って同席させた
のかもしれない。井伊直政の発言には驚かされたであろう。

井伊直政の名声をさらに高めることにつながった。
理由…
@井伊直政が徳川家康への恩義・忠誠心とも考えられる。
A井伊直政も石川数正と同じように、自分の家臣したいと考えていた
 のであろうが、井伊直政が怒鳴ったのは豊臣秀吉の思惑を読み取り、
 徳川家康や徳川家臣団から、石川数正と同じように寝返るのではな
 いかと、疑われないようにするためのデモンストレーション
 とも考えられる。

Aエピソード2
井伊直政は豊臣秀吉に家臣になれと言われたが、断った。

Bエピソード3
豊臣秀吉は井伊直政の武勇・政治的手腕を高く評価した。
豊臣秀吉が徳川家臣たちに官位が授与した。


11月23日 従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜した。  
  井伊直政は「侍従」の地位を与えられた。
 「侍従」は公家成に該当する。
 徳川家中で最も高い格式の重臣となった。
徳川家中で当時筆頭家老:酒井忠次を始め、古参の重臣達が諸大夫
 に留まった。

・天正16年(1588) 4月、聚楽第行幸
 「侍従」となった井伊直政のみが昇殿を許された。
  「井侍従藤原直政」という署名が見られる
 (★『聚楽行幸記』)
 ★格式上、徳川家臣団の筆頭になったことを意味する
  井伊直政は若干27才で、異例の出世であった。
★豊臣姓ではなく藤原姓を称した。
★理由…徳川家康は元2万石程度の井伊家を自分と同じ大名であると
 考えた。
井伊直政達は豪華なメニューを豊臣秀吉のために用意した。
 (★『・・・・』)

 井伊直政が徳川氏の一門として扱われていたことの証しでもあり、
 徳川家康は井伊直政の能力と家柄を鑑みて引き立てていった。


・天正18年(1580)
井伊直政は豊臣秀吉の命令で箕輪城に入ることになった。
井伊直政は徳川家康から箕輪城主12万石を与えられた。
徳川家康の筆頭になった。

木俣守勝は徳川家康に井伊直政の家臣を外してくれと願い出た。
九戸城の戦いの時は、加藤新九郎に切腹を命じた。

近藤秀用は箕輪城に来て、2年後、出奔して、井伊谷に戻っている。
徳川家康は近藤を許さながったが、家康の死後、秀忠が許した。

●井伊直政の性格・能力
@目立ちたがり屋の面
 鎧は赤・・・功績がすぐわかる。
A物事の判断を誤らない賢さ持っている面
 家康の考えに間違ったところがあると思った時には、人のいない
 ところで家康に意見するといった気遣いができる人物であったようだ。
 家康に信頼され、相談相手にもなっていたと言われている。
A直情型=瞬間湯沸かし器的な面
井伊直政は徳川家康に対して実直に誠実であろうとした。
井伊直政は家臣にも徳川家康への忠義を強要した。
些細なミスにも刀を抜き切りかかることが多かったという。
井伊直政は「人斬り兵部」と言われた。
徳川家康に認められるためであったかもしれない。

明日は
 


【4】 『真田三代』:平山優著
・天正13年(1585)
11月29日〜12月23日 天正の大地震
徳川家康は地震によって豊臣秀吉の攻撃から救われた。
★12月14日 徳川家康は本拠を浜松城から駿府城に移した。

F豊臣秀吉の徳川への懐柔策
・天正14年(1586)
2月 秀吉は尾張に出兵すると通達した。
   織田信雄はは家康の説得に出かけた。
   岡崎城で会見し和睦を承諾させた。
2月23日 豊臣秀吉は真田昌幸に矢留をした。
信濃の徳川領の侵攻を止めさせた。
4月 秀吉妹:旭姫を家康に嫁がせた。
臨戦態勢を解除した。  

6月14日 上杉景勝の上洛謁見。
秀吉は景勝に「所領安堵・官位を与えた」
真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌を家康の
与力大名にすることを景勝に話した。
小笠原貞慶・木曾義昌は上洛し、認めた。
しかし、昌幸は上洛していなかった。

・・・・秀吉は真田に人質を出すように催促した。
また、真田昌幸は人質を出さなかった。
★ドラマと若干違うような・・・


8月3日付 豊臣秀吉→上杉景勝への書状 
『真田昌幸は「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」
  であるので、家康に命じて成敗することにした。
豊臣秀吉が真田家の庇護者:上杉景勝に、真田が徳川に攻めら
  れても助ける事は無用であるという通達を出したのだ。

「表裏比興の者」・・・態度や行動をころころと変える?替える?
 者とイメージが湧く。コウモリ的な・・・

●大辞林「卑怯(比興)」
@他の物にたとえて、おもしろく言うこと。
  →おもしろく興あること。
A不都合なこと。不合理なこと。
Bいやしいこと。つまらないこと。
C臆病なこと。卑怯なこと。
 
●当時の「卑怯(比興)」
@「知略家」
A「策士」
B「老獪(ろうかい)」
といった意味で使われていた。
つまり、戦略知略が最大限に評価されていた当時の武将への
最大級の褒め言葉である。
かつて、豊臣秀吉は徳川家康にも「表裏比興の者」と呼んだ。

●真田昌幸のような小豪族は周囲を徳川・北条・上杉の3大勢力に囲
まれている=挟まれているので、状況の急激な変化に上手く対応し
なければならなかった。むしろ、「生き抜く術を知っている世渡
り上手な者。」と賞賛されるべき意味合いを含んでいる。
 (★平山優・黒田基樹対談等・・・・どの本を読んでも、このよう
なことが書かれている。
8月6日付 豊臣秀吉→徳川家康への書状
@真田昌幸を成敗してよい。
A上杉景勝の援軍のいる2〜3城には攻めるな。
B小笠原領・木曾領にも手を出すな。
C景勝とも抗戦するな。
D上杉領・徳川領の境目は上使を派遣して決める。
E真田討伐のため、上洛が多少遅れても構わない。


さらに、小笠原貞慶・木曾義昌にも書状を出した。
徳川家康の上洛の折に、徳川家康に会わせる。と伝えた。
この頃、豊臣家臣:道栄が小笠原を訪ねた。

※平山説・・・
@真田は滅亡か赦免かの窮地に立たされた。
A豊臣秀吉は本気で家康に真田討伐を考えてはいない。
 真田問題を利用して、家康の歓心を買い、安心して
 上洛できるようにと考えていた。

8月7日付 豊臣秀吉→徳川家康への書状
真田問題を仲裁するので、家康の出馬を延期するように
求めた。
★早く上洛せよ・・と思っていた。

9月25日付 豊臣秀吉→上杉景勝への書状
 「真田は表裏者なので、成敗するつもりであったが、
  今回は取りやめた。」
  と伝えた。 

9月 真田昌幸は上洛を促す・・・徳川家康の与力大名へ 
★徳川家康の与力大名
真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌であった。


9月?日 豊臣秀吉は家臣を岡崎に派遣した。
 「上洛要請&大政所の下向」
を伝えた。
 表向きは旭姫との謁見であるが、格上の大政所の人質
 懐柔策であった。・・・・

9月26日 徳川家康の正式な上洛が決まった。

・天正15年(1567)
1月4日 豊臣秀吉→上杉景勝への書状
「真田昌幸の赦免を正式に通達した。真田昌幸に上洛するよう
  指示させた。」

3月?日 真田昌幸・小笠原貞慶が上洛。
酒井忠次が同席した。
徳川家康の与力大名に真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌
  に正式に命じられた。


3月18日 酒井忠次の案内で真田昌幸・小笠原貞慶は
  駿府城に入城して、豊臣秀吉に臣従した。
  正式に大名として認められた。

★個人的にはこの時、真田信幸&稲=小松姫との結婚が決ま
ったと考えている。・・・


【3】真田昌幸の豊臣秀吉への臣従過程
・天正13年(1585) 第一次上田合戦
閏8月2日 真田昌幸 VS 徳川家康
  徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われている。
  真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。(★ウィキペディア)
  真田軍は58人の犠牲ですんだ。(★真田丸ナレーター)

8月3日 徳川軍は丸子三左衛門(後、真田氏に臣従)の篭る
  丸子城を攻めるが、攻略できず、以後20日間程対陣を続けた。
  徳川家康は援軍:井伊直政、大須賀康高、松平康重の5000
  を出すと共に一時撤退を命じた。

8月26日 上杉景勝の指示で、西条・清野・寺尾・市川らが
上田城に応援に行った。

8月28日 徳川は上田より撤退した。
  大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り
  返した。


・10月初旬 真田昌幸は徳川軍と対陣中に、豊臣秀吉に書状を送り、
 援助を依頼した。
 (★『真田氏と上田城』上田市史編纂委員会著)

・10月17日付 豊臣秀吉の書状
「委細の段聞こし召し届けられ候心安かるべく候。その方の
進退の事は何の道にも迷惑せざるように申し付けてあるので、
心易く思うがよい。」
と返事をしている。
「あとは、小笠原貞慶を相談せよ。」
と豊臣秀吉は真田昌幸を味方した。
 (★真田宝物館・信濃史料16−383)

11月 真田昌幸と府中小笠原貞慶が豊臣秀吉と内通していた。
 府中小笠原貞慶の豊臣秀吉への内通発覚によって、
 徳川家康は石川数正に責任を問われた。

11月13日 徳川家譜代の重臣:石川数正が突如として岡崎城から
  離れ、徳川家康の下から出奔し、豊臣秀吉の下へ逃亡した。
  その際、石川数正が人質の府中小笠原秀政を引き連れて豊臣秀吉の
  元へ出奔した。府中小笠原秀政の父:小笠原貞慶も豊臣秀吉の家臣
  となった。
理由は謎であり、はっきりした理由は分かっていない。
@石川数正が小笠原の件で責められたことが一因になったとする説。
A石川数正が徳川家康と不仲になった説。
B石川数正が豊臣秀吉から提案され誘惑に負けた説
小牧長久手の戦い後の交渉に携わっていた。

・11月?日 石川数正が羽柴秀吉に臣従した。
 豊臣秀吉は以前、徳川家康の使者:石川数正に対し、徳川家の重臣
 の人質を出すように要求したが、家康は人質を出さなかった。
 石川数正は困り果てて、徳川を出奔した。というのは実際の所
 なのだろうか?・・・翌年、羽柴秀吉は妹:旭姫を徳川家康に
 送り込んだ。

徳川家康にとって石川数正は徳川の軍事的機密・策略を知り尽くして
 いたので石川数正の出奔は徳川にとって大きな衝撃であった。
 最初から真田のことより秀吉の事を気にしていて、井伊直政などの
 兵を送ってはいなかった。真田どころではなくなってしまった。
 徳川家康は上田から完全に撤退した。
 小諸城には??を置いたけれど・・・

・11月17日 真田昌幸→直江兼続への手紙
「当堺は無事ですが、配下等からの報せでは、家康が甲州、佐久郡、
 諏訪郡等に滞在させています。・・平岩・柴田・大久保を遠州に
 召し寄せました。どんな相談をしたのか分かりません」
(★『真田氏と上田城』上田市史編纂委員会著)
★真田昌幸は 撤退理由は分からなかった。


・11月19日付書状 豊臣秀吉→真田昌幸への書状
「13日に石川数正が尾張に来たので、家康の表裏が判明、
 今年は残り少ないなので、来年の1月15日前には家康成敗の兵を
出す。」

11月?日 豊臣秀吉→真田昌幸への書状
「信州・甲州両国の儀は、小笠原・木曾と相談、・・・・」
(★長谷寺殿御事跡稿)

※こうして、真田昌幸は羽柴秀吉との接近を果たした。
(★『真田氏と上田城』上田市史編纂委員会著)


*NHK大河ドラマ『天地人』
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が佐々成政を滅ぼし、上杉景勝に会談を申し
 入れた。勝山城(糸魚川市)で上杉景勝+直江兼続VS羽柴秀吉
 +石田三成と会談を行った。羽柴と上杉が同盟を結ぶ合意がなさ
 れたとされた。
 
★勝山城も後日掲載かな?

・天正14年(1586)

1月〜3月 真田昌幸は佐久に侵攻した。自領拡大を企てた。
8ヶ所に出撃し、宛状を発給した。
例、佐久に元長野業正重臣:矢島主殿助・神尾淡路守に宛がった。
例、矢沢頼綱・頼幸に海野領など1000貫を宛がった。

2月 豊臣秀吉は「尾張に攻め込む。」と宣言した。
   織田信雄は家康に上洛するよう伝えた


4月   羽柴秀吉は妹:旭姫を徳川家康に送り込んだ。
※政策を変えた。懐柔策を取った。

5月25日 北条氏直に沼田城を攻撃した。
 矢沢綱頼が撃退した。

6月 上杉景勝は豊臣秀吉に謁見した。
    真田信繁も一緒だった。
@『天地人』
 羽柴秀吉は直江兼続&真田信繁を家臣にしたいと申し入
 れた。自分の元に優秀な武将を起きたかった。
 ヘッドハンティングのような考え方・・・
 上杉景勝は秀吉に返してくれるように頼んだ。
 直江は自分で断った。
 幸繁は相手は天下人:秀吉であったので諦めた。

A『真田丸』上杉景勝が上洛して留守のうちに、真田昌幸が
  幸隆を呼び戻し、豊臣秀吉に出仕させた説。
 上杉の上洛に付いていく事になったので、真田昌幸の次
  男:信繁が上杉景勝の人質から豊臣秀吉の人質として
  大坂に出仕し、真田昌幸は豊臣家に臣従するのも
  想定内だった。
 

B豊臣秀吉に偶然あって気に入られたことから出仕する
 ことになった説。
 
C平山説
  上杉景勝は真田昌幸を豊臣の家臣の大名にさせる意志
 はなかった。真田昌幸は自力で大名の座を勝ち取った。
  豊臣秀吉が真田信繁を豊臣家人質とすること、
 真田昌幸・木曾義昌・小笠原貞慶を豊臣秀吉の
 与力大名になるように命じていること・・・。
 つまり、豊臣秀吉の徳川家康への懐柔策の
 一環であったとする説


7月 徳川家康が真田昌幸征伐のために甲府に出陣した。


8月7日 徳川家康は豊臣秀吉の調停を受けて真田攻めを中止した。
11月4日 豊臣秀吉の命令で真田昌幸は徳川家康の与力大名と
なった。

★おそらく、この時、真田信幸&小松姫の結婚が決まったのでは?
本多忠勝は真田一族の知略に惚れ、軍略に恐れた。
本多忠勝は真田家を徳川に取り込むため、徳川家康に自分の娘を
嫁がせることを提案した。
徳川家康もまた、上田合戦後に面会した真田信之(当時は信幸)の
器量・力量に感服していたので、自分の配下の武将として取り込ん
でおきたいという思いがあった。
徳川家康は本多忠勝の意見を快諾した。徳川家康は小松姫を自分の
養子(秀忠の養子説あり)として、真田信幸へ嫁がせることにした。
本多忠勝の娘:小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔することに成功
した。

・天正15年(1587)
3月18日 真田昌幸と府中小笠原貞慶は駿府城で徳川家康と
 会見した。
★真田昌幸は大坂で羽柴秀吉と謁見し豊臣家臣となった。
 真田昌幸が自力で大名の交渉窓口を切り開いたのだ。





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