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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政173&彦根22『井伊直政の生涯』復刻版

<<   作成日時 : 2018/02/14 06:55   >>

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平成28年(2016)2月25日(金)〜27日(日)、滋賀県彦根市
に調査に出かけた。当時、彦根城博物館学芸員:野田浩子先生の
講演「井伊直政の歴史について」講演を拝聴した。そこで、『野田
先生の講演』・『井伊谷400年記念の「井伊直政」:武藤全裕著』
や『井伊軍志:井伊達夫著』・『彦根城ボランティアガイド宮嶋
さんにいただいた史料』などを参考に加筆した。2年前の原稿で
ある。
最新テータ『井伊直政の原稿の一部』は、本日(ヴァレン
タインデー)、某所に於いて、『井伊直政実母の再嫁・井伊直政
の徳川家康への出仕・井伊直政の初期段階での家臣』について
『藩翰譜』・『井伊家伝記』、『井伊年譜』・『花筵記』・『寛政重修
諸家譜:井伊家』・『直政公御一代記』、『徳川実紀』・『井伊氏系図』
・『貞享異譜』などを史料を比較した報告をしなければならない。
が、このレポート詳細はブログには掲載することはないであろう。

平成29年(2017)10月20日『井伊直政』野田浩子著が発刊された。
★10月10日?か発表当日?、アマゾンに注文した。
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★「譜代大名の創出と幕藩体制」小宮山敏和著と
 「井伊直政」野田浩子著が最近の愛読している
 本である。『侍中由緒帳』も時々利用している。



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14:00〜15:30 彦根城博物館の野田学芸員講義「彦根城」
野田浩子先生は「徳川家康天下掌握過程における井伊直政の役割」
(『彦根城博物館研究紀要』18号、2007年)の中で、出展史料:
「真田家武功口上之覚」:『真田家文書』中巻、1982年)から、
「井伊直政は東軍に味方した真田昌幸の長男:真田信之の懇請を
受け入れ真田昌幸と次男:信繁(幸村)の助命にも進退を懸けて
まで尽力した。真田信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考え
ての行動だった」とという考えを発表した方である。
「侍中由緒帳」や「井伊家の儀礼」の研究などもされている。
私一回目の彦根旅行の時、野田浩子先生「井伊直弼の家老:
長野主膳は伊勢の出身です。」と教えて下さった方である。




【●】井伊直政の生涯
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い  
   井伊直盛は今川義元側として戦死した。

・永禄4年(1561)2月19日
   今川氏の家臣:井伊直親の長男:17代井伊虎松(直政)
   が生まれた。
  遠江国井伊谷説(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)。祝田説。

・永禄5年(1562)
今川家家老:小野但馬守の「徳川方に内通した」と讒言井伊直親
 は申し開きに駿府に向かう途中、今川氏真の命で、掛川城主:朝
 比奈泰朝の軍に攻められ、19人が討死。
抹殺。
  
→井伊直政は2歳であったため、直親の従兄妹:祐圓尼が井伊直虎
と名乗り、直政の代理として井伊氏の当主になった。

 →直政の生母は今川氏の家臣:松下清景と再婚。
→井伊氏の家督相続権が井伊直虎に移った。
  
→井伊氏は井伊谷の所領を失い、井伊直政も今川氏に命を
  狙われた。
→井伊氏重臣:新野左馬助親矩に保護され、養母:井伊直虎に
  育てられた。

・永禄7年(1564))曳馬城攻め
   井伊氏重臣:新野左馬助親矩と中野越後守直由が討死。
   井伊虎松は龍潭寺2世:南渓瑞聞(祖父の弟)により、
   鳳来寺に移住。

・永禄8年(1564) 次郎法師=井伊虎松は南渓和尚に徳政免除の
  黒印状を与える。

・永禄11年(1568) 11月 
   井伊谷3人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)は
    徳川家康の遠州侵攻の道案内を承諾。
    
   徳川家康を宇利(新城市中宇利)〜陣座峠(奥山の狩宿)に案内。
   井伊谷3人衆は井伊谷城を横領した小野但馬守を攻撃。
    →徳川の大軍は井伊谷を通過。

・永禄12年(1569) 徳川家康は「小野但馬守の讒言」を事実無根として、
     小野但馬守と息子2人を井伊谷蟹淵ではりつけ獄門に処した。

永禄12年(1569)井伊直政実母が松下清景に再嫁した。
  ★(『貞享異譜:松下十左』のみの年号記述)


・元亀3年(1572)武田信玄の侵攻 
  三方が原の合戦
   武田家臣:山県昌景が山吉田城を攻撃。
  井伊谷3人衆は開城。→3人衆は浜松城へ移動。

・天正元年(1573 ) 武田軍が井伊谷に侵攻
   ・・神社・仏閣・民家の焼き払った。

・天正2年(1574年)高天神城の戦い@
    5月 武田勝頼は、25000人の大軍を率いて、
    遠州東部における徳川方の高天神城に攻攻撃。
    城将の小笠原長忠は徳川家康に救援を求めた。
    徳川家康軍の総兵力は10000程度に過ぎず、武田軍を
     相手にはできない。
    徳川家康は織田信長に救援を要請する。
    織田信長は救援要請に応じて30000の軍勢を率いて
     京都を出立。
    高天神城は、武田軍による猛攻
   小笠原長忠が降伏。高天神城は武田軍の支配下。

天正3年(1575)
  ★井伊直政は三河鳳来寺にいて、実母が再嫁した松下清景
   に養子:松下虎松となり、養育された。
   史料によっては、養子策は井伊直政の安全を考え、
   松下姓を名乗らせた。井伊家復活・井伊家生き残り
   のため、次郎法師(井伊直虎?)・南渓和尚・実母
   が徳川家康への出仕のタイミングを計っていた。
   次郎法師・実母(:ひな)・祐椿尼(次郎法師母)は
   着物を仕立て、松下家に届け、出仕させた。と
   読み取れる。というのも、本日の発表の一部である。
   史料比較をする。


  ●井伊直政(15歳)は浜松で徳川家康に出仕。
    ★史料により、様子が異なる。
     
  ●井伊万千代の名で、旧知行地の井伊谷を賜った。  
    ★史料により、異なる

  ●石高も
    、300石説・2000石説・6万石説などがある


  ●家臣
    松下・小野含む16人+金阿弥説(2つの史料)
    井伊谷3人衆説(2つの史料)
    渡辺
    
   
 


・天正3年(1575) 長篠の戦い
  武田軍は織田・徳川連合軍の前に大敗。
  二俣城・犬居城などにおいて徳川方の反攻開始。

 





■徳川家康&井伊直政の怪しい関係
※伝説・・鷹狩りに出かけた徳川家康は少年のあまりの美しさに本気
で惚れ込んでしまった。この少年こそが、虎松だった。
 徳川家康は
「直政が自分と内通していた疑いで殺害された井伊直親の実子である。」
ことを知り、直政を自分の小姓として取り立てた。
 衆道相手として深く寵愛した。
★衆道は武士の嗜みで一般的であったらしい。
(★『小和田哲男先生の講演会』でも触れていた。)

■徳川家康&井伊直政の怪しくない関係
@井伊直政の祖父の姉妹は今川義元の側室
  →義元義弟の関口親水の妻
 生まれた子は徳川家康の正室:築山殿である。
 長男:徳川信康と井伊直政は血縁関係。
A井伊直政の正室は、徳川家康の養女:花である。
B井伊直政の長女:政子は徳川家康の4男:忠吉の正室である。


・天正9年(1581) 高天神城の戦いA 
  徳川家康は5000人の軍勢を率いて、高天神城を攻撃。兵糧攻め。
  武田勝頼は甲斐から援軍を送ることができず、城将は今川旧臣:
  岡部元信の城兵全員が討って出て、玉砕したと言われている。
●井伊直政は、高天神城の攻略の戦功
 徳川家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取った。(伝)


・天正10年(1582) 
  3月 新府城→天目山で武田勝頼が自害・・・武田氏が滅亡。
  22歳で元服。直政と名乗る。  
●井伊谷4万石に加増。
 (★井伊直政が奉者を勤め、武田遺臣を徳川に引き入れた時は
  貫高制で書かれている。)
  (★『徳川文書の研究』:中村孝夫著)  
●旗本先手役に任ぜられて、本多忠勝や榊原康政の同僚となる。
→徳川四天王

6月2日 本能寺の変・・・家康の伊賀越えに従い、堺から帰還。
   本能寺の変後、甲州平定において、北条との交渉
  
※天正壬午の変
若神子城:北条氏直
 VS
新府城:徳川家康
  
●甲州:若神子城・獅子吼城の戦い
   北条氏の大導寺政繁と戦う。
   
●井伊直政は北条氏との交渉で徳川方の使者として政治的手腕を発揮。
 →井伊直政が正使・木俣守勝がの副使になった。
  木俣守勝は井伊直政をよく補佐し、北条家との交渉をうまく進めた。
  この後、井伊直政付きになり、筆頭家老となった。

  徳川家康が武田氏の旧領:信濃国・甲斐国を支配。
    →武田家の旧臣達を多数与力に抜擢。            
 
 ●井伊直政は武田氏の旧臣達約120人と
  家康の旗本の一部が配属された。
  新編高崎市史では山県昌景の家臣75名が家臣になった。
  
 兜や鎧など使用する全ての装備品を赤色で統一。
 →「井伊の赤備え」と呼ばれる部隊の大将となった。
 理由・・・山県昌景の意志を尊重し、朱色の軍装を復活。
   赤は目立ちやすく、自分の部下達がどこにいるか分かる。 

・天正12年(1584) 
1月●徳川家康の養女で松平康親の娘「花」(後唐梅院)と結婚。

 徳川家康は井伊谷3人衆(近藤秀用・鈴木重好・菅沼忠久)
  に対し、井伊直政に仕えるよう命じた。
 (★井伊谷3人衆の附属は天正3年説・天正4年説・天正12
  年説がある。菅沼忠久は天正10年に死んでいるので、正しく
  は菅沼忠道である。)

▲小牧・長久手の戦い・・・
井伊直政は短気で家臣に非常に厳しかったと言われている。
徳川・織田連合軍の約10倍近くの兵の羽柴軍の総大将である
 羽柴秀吉(=豊臣秀吉)や配下の武将達も「井伊の赤備え」には大変
 手こずったという。
井伊の赤備えは、「戦国屈指の精鋭部隊」「徳川家臣団最強の部隊」と
見なされ、本人は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名に恐れられるよう
 になった。
自ら先陣に立って戦うことを好んだため、筆頭家老:木俣守勝がその役目を
  果たした。 
●井伊直政は井伊谷6万石の大名になった。

・天正13年(1585) 第1次上田合戦…真田
●井伊直政が撤退の指揮をした。

・天正16年(1588) 井伊谷3人衆の近藤康用が井伊谷において没
 (72歳)

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原城攻め
  7月5日 開城 


箕輪城時代〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
※徳川家康が関東に入封。
★天正18年(1590)年の秋=旧暦の8月3日〜7日の間に
箕輪城に入封した。
(★井伊軍志:井伊達夫著)
井伊直政は小田原城落城のきっかけを作った
  笹郭攻めでの功績。

徳川家康からは大量の与力(寄騎)が井伊直政に附
属された。

・酒井忠次・下総国臼井(碓井)城3万7000石。酒井家次が入城。
・本多忠勝・・・下総国大多喜城10万石・館山城里見対策
・榊原康政・・・上野国館林城10万石・・・・
・井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・上杉・真田対策
 
8月中旬〜井伊直政は上野国箕輪(群馬県)の12万石下準備を
 始めた。

@旧後北条氏の一揆対策
「井伊直政の箕輪城入封に際して、旧後北条軍の一揆
・反抗が起こった。弾圧のため、
石原主膳(旧武田家家臣山県昌景鉄砲衆→後北条家鉄砲奉行
 →井伊直政の旗奉行:後家老)
&宇津木蔵人(旧北条家家臣:上野国玉村金山城代→家老)を派遣
 した。
 井伊直政はこの二人なら、一揆の首謀者や領民とも馴染み
があるので、鎮撫しやすいと考えたのである。
 果たして、領民のほとんどが宇津木蔵人の呼びかけに帰順
し、呼応した。一揆に参集しなかったので、力が保てず、
まもなく平定された。」(★井伊家家譜=中村氏)

A河田康親の探索
「徳川家康から河田康親を探せ」という命令が出た。
河田康親は上杉謙信のに属していて、河田伯耆守と称した。
途中で、後北条氏に従い、上野国利根郡で3000貫を知行
していた武功の者だ。(家康が)調査したところ、戦死者の
名前に「河田泰親」に名前がない。おそらく上州に潜伏し
ているであろう。・・・生きていれば、召し抱えよ。」
※徳川家康は、勇士豪傑のほか、関東の名門のなれの果て
を探させ、傘下に収めようとした。
 井伊直政の探索の結果、小田原の役の松井田城の戦い
(★当時の松井田城城主は大導寺政繁である)で瀕死の
床にあった。家康は「戸板で運べ」と命令した。
・・・河田泰親は江戸まで運ばれた。
河田は「武士冥利につきる。」と言って、大往生した。
徳川家康は子の河田政親を井伊直政に預けた。


B附属与力衆の問題解決
※井伊直政は、抗戦野戦、行政管理に長けていたが、
配下に対する細やかな配慮に欠けていた。
与力衆を自分の配下のように酷使した。反発すると
すぐに刀を抜いた。

 与力衆は、江戸に帰りたがった。
井伊直政は徳川家康に訴えた。
 「与力衆の中に、殿の元に帰りたがっている者が
  多くいます。帰ってしまうと、私は軍役をこなせま
  せん。どうか、お聞き届け下さいませぬように・・。」
(★年譜=中村達夫氏)
井伊直政は、一同を箕輪城に集め、
 「・・・我が器量に不服のあるのもは、江戸に帰って
  よろしい。・・。」と言った。
  
 与力衆は「・・・兵部様以外の許にて・・
   宜しくお願いたてまつります。・・・」

ところが、近藤秀用(ひでもち)だけは
 「帰りたい。」といった。井伊谷三人衆なので、
 井伊直政も焦った。「思い留まるべし。」
★近藤秀用の屋敷は、高崎市箕郷町富岡の車郷小学校
の南200mの場所にあったらしい。
(★高橋氏調べ=元長野直業の屋敷跡地)
しかし、すぐに、現青森の九戸への出陣となり、
  近藤問題はたちぎれた。
★私見「長野業政の子孫捜しも実行したであろう。」


9月 井伊直政次男:井伊直孝が駿河中里で生まれた。

●箕輪城の修築工事&城下町の整備
※木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住した。  
※松下源太郎(井伊直政養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
 →墓は鬼門「龍門寺」にある。
@東側を空堀→水堀。東を武家屋敷
A大手門の丸戸張りという郭に鉄砲狭間付きの塀
   ・大手門(後の高碕城槻木門)設置。『上州高碕城大意』
   ・大手道・・・大手ことう門・・・三の丸
B城下町の建築。
 連雀町・本町・紺屋町・田宿(北条の名残り)・四ッ谷などは
  町作りの名残である。」
  東・・・武家屋敷
  南・・・4つ通にの商人・工人の民家
  1)白銀町・紺屋町
  2)本町・鍛冶町
  3)連雀町・田宿・四ッ谷 
    秋本先生「宿は北条時代・町は徳川の呼び方」
  4)寺の分散配置・・・戦略上の城の出丸。

◆井伊直政の「新旧附属与力衆の階級的安定と親和」
※近藤秀用は箕輪城の南300mの富岡(車郷小学校南)に居
 を構えた。
 2年後、井伊直政を離れ、井伊谷金指で、1000石を賜った。
※木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住した。

★箕輪初心私見「箕輪城の改修工事や城下町の建築。
 連雀町・本町・紺屋町・田町・四ッ谷などは町作りの名残である。
※松下源太郎(井伊直政の養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
 →墓は井伊直政の鬼門「龍門寺」にある。

※龍門寺を建立・・・白庵和尚 
井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
  浜松龍譚寺→箕輪龍門寺→高崎龍広寺→彦根龍譚寺

●井伊直政8年・・箕輪城は直政の居城跡説が有力。       
  {箕輪城の歴史・・・箕郷町教育委員会の冊子より}
徳川筆頭家老の最高石高12万石で入城・・・北関東支配の拠点?  

   
★私見・・・「特に真田・上杉対策ではないだろうか?」 
「井伊氏の時代に城の拡張工事(堀の深さ10m
 ・3の丸と本丸への橋・二の丸と大堀切・2006年発掘の門
 ・郭馬出・木俣・水曲輪・法峰口・新曲輪・水堀などをしたの
 では。
 
 
●城と城下町の整備・改築
  @東側を空堀→水堀。東を武家屋敷
  A大手門の丸戸張りという郭に鉄砲狭間付きの塀
   ・大手門(後の高碕城槻木門)設置。
   (★『上州高崎城大意』山本勘助の子孫:高崎藩山本菅助幸道著)
   ・大手道・・・大手ことう門・・・三の丸
  B城下町の整備
   東・・・武家屋敷
   南・・・4つ通に商人・工人の民家
    1)白銀町・紺屋町
    2)・本町・鍛冶町
    3)連雀町・田町・四ッ谷 
    4)寺の分散配置・・・戦略上の城の出丸。
      龍門寺は城の鬼門に創建。
      井伊家の菩提寺。
★私見「井伊直政が徳川家康に随行して、大坂、伏見に滞在して
いる間は、木俣守勝のライバル:川出良則が箕輪城・箕輪城下町
の整備を取り仕切った。西郷正次も采配を振るった。」


・ 天正19年(1591) 井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に向かう。   

・文禄元年(1592) 井伊直政が江戸留守居役。
  江戸城普請。

・文禄5年(1596) 井伊直政が箕輪12万石の検地を実施。
*榛名町神戸(高浜北の新幹線出口の上)に検地。
*4月18日 「扶20万貫都合、あらたむべきこと。」
  (★高井家文書)

・慶長3年(1598) 箕輪城廃城
 井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋める。
 ★箕輪初心私見
「箕輪城が前田・真田等の元外様大名に使われないように。」 
 ★箕輪初心私見
「箕輪城の廃城理由」
@箕輪城下は守りが弱い。
 南と東だけの田が少ない。扇状地に近い地形なのだ。
・東〜・・畑地はほとんど。(水の少ない地形)
・北東・・現相馬が原と呼ばれる場所で、榛名の4〜6Cの火山灰
     の扇状地。
・南・・・水が少ないため、長野氏は榛名白川から水を引いた。
・西・・・標高150m〜350mの地形で、米が生産量が上がらない。
・北・・・松の沢地区から北や現芝桜公園から北は榛名山麓。
    善地地区は水の豊富な標高250〜400mの土地。
    田は少ない。馬の生産地
A城下町が狭い。大軍が駐屯できにくい。
 人口増加に耐えられない広さの可能性。(東〜南の方面のみ。)
B江戸との交通の要地として不適。江戸に近い方がいい。
 →発展性に乏しい地形。
(高崎は後の街道の要所:中山道・三国街道・例幣使街道・姫街道近く
 ・利根川水運等)
  
C信州と越後の江戸の守りの重要地点だから、応援できる場所。
  
D政治・経済・文化の中心地の必要性。
*法峰寺を移転(箕輪小北に)許可
 

・慶長元年(1598)〜高崎城の築城
 北条流畝堀・障子堀が残存。
 
(★高崎城本丸の畝堀発掘調査平成21年1月6日)


・慶長3年(1598)
●井伊直政は箕輪城から高崎城に移り、城下町を造った。
★実際は井伊直政は1年6ヶ月伏見に行っていていなかった。
  川手良則(井伊直政の姉の夫)・・・元武田家臣であったので
城造りのプロの可能性もある。

●高崎城・高崎城下町に移した物

○高崎の由来5説
@天正2年(1574)鉄製わらじ「高崎」
A天正3年(1575) 反町氏は首級を高崎に持って帰るという記述がある
B慶長3年(1598)龍広寺説・・・新編高崎市史
「松ヶ崎」は松が枯れるので縁起が悪いと龍門寺の白庵和尚
  に言われ、高崎に改称。
C慶長3年(1598)恵徳寺説・・・高崎素奈子

●城下町の整備
@箕輪城大手門・・・→高崎城の槻木(つきのき)門
A11の寺+3寺・・石上寺(現在はない)・正法寺(現在妙福寺)
 ・慈上寺(長野業政時代の修験道の寺=スパイ)
 ・大雲寺・法華寺・恵徳寺・安国寺・大信寺(徳川忠長の墓)
 ・金剛寺・龍広寺・延養寺・(法輪寺?)
B5の神社・・津波岐那神社(←椿山)・布留明神(←石上寺)
     ・八幡宮(←真応寺)・上諏訪神社・下諏訪神社
C家臣団(武士団の家族/工業系の職人/商家/民家)
D町名・・・・・・連雀町・田町・紺屋町・鍛治町
*箕郷東明屋・西明屋の町名は「空き屋」が転化した呼び名?


・慶長4年(1598)  
・慶長5年(1600) 
9月15日 関が原の戦い
  ●井伊直政の兵力3600で家康本軍に随行。
  ●家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)   
 

 山内一豊など諸大名を東軍工作を実行。
本戦で家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐。
         西軍に一番槍の戦功。

井伊直政は休憩中に隣にいた松倉重政に
「我が隊の前を通っていく黒武者の一団は誰か?」
と問うた。
「さて、分かり申さず。」
と答えた。隣にいた早川に
「いかがか?」
と聞いた。
「敵にござる。」
と答えた。
この返答で井伊直政は島津を追いかけた。
・・・しかし、井伊直政は負傷した。
後で早川は松倉に叱られた。

10月まで 
 関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めに奔走。

===井伊直政の箕輪城〜高崎城時代はここまで======
・慶長5年(1600) 10月10日 井伊直政が近江国佐和山に転封が
  決まった。
10月 井伊直政は功績により、石田三成の所領15万石と
 上野国(安中)3万石となった。
★しかし、実際には戦後処理に奔走していた。
関ヶ原の合戦の戦後処理にも尽力した。

・慶長6年(1601)
1月 大坂にいた。
1月 井伊直政は佐和山城に入った。
 (★木俣土佐武功紀年自記:井伊達夫氏所蔵)
2月 井伊直政は佐和山城に入った。(★井伊年譜)

?月 彦根龍潭寺の創設が始まった。
龍潭寺五世昊天禅師を招いて遠江国から分寺し、建立した。
  昊天禅師が方丈南庭と書院東庭はの作庭した。
  枯山水と池泉式庭園となっている。


3月18日 相良長毎(ながつね)に
     「佐和山で養生する。」(★相良家文書)

◆井伊軍志・佐和山城古城之圖〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
井伊直政・・・愛宕山米蔵付属曲輪
木俣守勝・・・二の丸
中野直之・・・三の丸
広瀬将房・・・二の丸・三の丸(後、美濃丸と呼ばれた。)
  広瀬将房は中野直之の3男で武田旧臣:広瀬美濃守景房の養子である。
犬塚正長・・・愛宕下屋敷
本丸&5重天守は消失していたので、入れなかった。
(★「当城下近辺絵図附札写」)

●井伊直政は近江佐和山18万石の大名となった。
    近藤季用は井伊谷3050石を賜った。
   松下常慶(安綱)は引佐郡の代官になった。 

   代官頭伊奈備前守忠次に井伊谷筋の寺社領を安堵した。

7月 鉄砲傷が癒えていなかったが、伏見入りした。

7月8日 大久保新右衛門に「関東に残る家中・小者らを
     佐和山に来るように」指示した。

8月上旬 佐和山に病気のため戻った。

11月15日 井伊直政の本格的な佐和山の統治政策が開始された。
「井伊直政佐和山仕置状・・・」
しかし、実際は鈴木・西郷・中野・大久保のの連署で
あった。

12月 有馬温泉に湯治に行った。

・慶長7年(1602)
1月13日 伏見に徳川家康に会いに行った。

1月15日 署名ができない程になっていた(★相良家文書)

1月末  娘婿:徳川忠吉も病状を知った。
 忠吉は稲富一夢に「直継が幼少なので、わしの元に来るように」
 井伊直継に伝えさせた。
 松平忠吉の生母:西郷局は「直継ぐに縁者:西郷正員に相談せよ。」
 と伝えた。

・ 慶長7年(1602) ●2月1日
  井伊直政が過労と島津義弘軍の追撃で受けた鉄砲傷の破傷風が
     元で死去。(43歳)
 
木俣守勝が徳川家康と相談した。

   →井伊直政の次男:幼少の井伊直継(直勝)が
   家督を継いだ。

2月1日 井伊直政は関ヶ原で受けた鉄砲傷が原因で死去した。
   歿42歳。
  墓所は彦根の清涼寺にある。

石田三成は領地にて善政を敷き、領民からも大変慕われていた。
宮嶋さん
「地元では今でも、お殿様と石田三成を呼び、井伊さんと呼ぶ人が
多い。」
とおっしゃっていた。

井伊直政は石田三成の威光を払拭するべく、新たに彦根城築城を計画
した。しかし、直政は築城に着手できないまま、死去した。
計画は嫡子:井伊直継が引き継ぐこととなった。

 徳川家康は木俣守勝に「・・・がんばれ?」
と伝えた。

・慶長8年(1603)  徳川家康、征夷大将軍となる
 飯田助右衛門が井伊谷筋の代官として井伊谷陣屋に勤めた。

・慶長8年(1603) 彦根山(金亀山)に彦根城の築城を開始した。
● 彦根城築城の関係者以下であった。
@縄張り
  : 早川幸豊(土屋昌恒→井伊直政)
  :石原主膳(山県昌景→北条氏政→井伊直政)
  :横地吉晴(今川氏真→徳川家康→井伊直政)
  :孕石泰時・(今川氏真→山県昌景→井伊直政) 
A普請奉行
  : 富上喜太夫
  :伴加右衛門
  :加藤金左衛門
B作事奉行
  : 宇津木新九郎
   (★由良国繁→武田信玄→北条氏政→井伊直政
 :横内弥左衛門
C大工棟梁: 浜野喜兵衛(★高崎大工→士分→安中藩へ)
(『井伊軍志』に加筆)
D公儀御奉行3名、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名?)
が手伝いを命じられる天下普請であった。
江戸幕府が京・大坂に備える必要あった。

・慶長9年(1604) 井伊直継が完成した近江:彦根城に入った。


箕輪初心:生方▲箕輪城258&井伊直虎104小和田哲男先生
『箕輪城と講演会』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政105直政略史と井伊家の墓
http://53922401.at.webry.info/201710/article_22.html



箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政125愛知県A『宇利城』と【近藤康用・秀用】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政 126『柿本城』&【鈴木重時→鈴木重好】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政127愛知県B『野田城』:菅沼定盈
http://53922401.at.webry.info/201712/article_6.html


箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政130愛知県C『設楽ガ原』と「山県昌景の墓」
http://53922401.at.webry.info/201712/article_9.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政131愛知県F『鳳来寺』の井伊虎松
http://53922401.at.webry.info/201712/article_10.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政132『奥山方広寺』:井伊一族:奥山家菩提寺
http://53922401.at.webry.info/201712/article_11.html


箕輪初心:生方井伊直虎・直政135『46話:悪女について』&二俣城
http://53922401.at.webry.info/201712/article_18.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政136『47話:決戦は高天神』&高天神城
http://53922401.at.webry.info/201712/article_19.html

箕輪初心・生方井伊直虎・直政137【48話「信長、浜松に来たいってよ】
&浜松城初期
http://53922401.at.webry.info/201712/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第49話:本能寺が変】&伊賀越え
http://53922401.at.webry.info/201712/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第50話『石を継ぐ者』直虎の死】
&直虎の墓
http://53922401.at.webry.info/201712/article_22.html

箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃
〜箕輪城入城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直政144【菩提寺:竜門寺縁起】松下3代の墓復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直政145【箕輪:滝沢寺】中野直之の中興開基か?
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箕輪初心:生方▲井伊直政146【万松寺→恵徳寺】中野直之の妻?母?
:恵徳院開基
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箕輪初心:生方▲井伊直政147『箕輪城時代』:『井伊直政文書集』
大石泰史編を加味した2018年最新版
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箕輪初心:生方▲井伊直政148『箕輪城下町推定絵図』
&直虎・直政ブログ一覧
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箕輪初心:生方▲井伊直政149『箕輪城から高崎城移城』
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箕輪初心:生方◆井伊直政150『高崎の名前の由来』
と無理矢理井伊家関連
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箕輪初心:生方▲井伊直政151『高崎城築城と長野堰・新井堰』
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箕輪初心:生方▲井伊直政152『箕輪城下町から高崎城下町への移動』
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箕輪初心:生方▲井伊直政153『箕輪白銀町・鍛冶町→高崎鍛冶町』
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箕輪初心:生方▲井伊直政153「箕輪から高崎に移った寺社』復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_14.html

箕輪初心:生方▲井伊直政154『高崎城と街道整備:中仙道・三国街道』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直政155『高崎城時代の外交』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊直政156『直政の外交と決戦:関ヶ原』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_17.html

箕輪初心:生方井伊直政157『彦根藩主:井伊直孝が6〜7年間?
過ごした安中北野寺』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_18.html

箕輪初心:生方▲井伊直政158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直政159『雪の佐和山城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直政160『彦根城に入れなかった井伊直政』前編
http://53922401.at.webry.info/201801/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直政161『彦根城に入れなかった井伊直政』後編
http://53922401.at.webry.info/201801/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直政162『@彦根市役所「ひこね城まつり」の話』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_23.html

箕輪初心:生方▲彦根A『大雲寺』上野国出身の第3家老:長野一族開山
http://53922401.at.webry.info/201801/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直政163『清涼寺:上野国の愚明正察開山』直政公
の御位牌・墓で礼拝
http://53922401.at.webry.info/201801/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直政165&彦根C『直政が住んだ愛宕→佐和山城
大手口→鳥居本宿』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_26.html

箕輪初心:生方▲彦根D『井伊直弼腹心:長野主膳義言の話→夕食』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_27.html

箕輪初心:生方▲彦根E『彦根龍潭寺と井伊神社』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_28.html

箕輪初心:生方▲井伊直政166&彦根F『箕輪城・高崎城・彦根城
の類似性』復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_30.html

箕輪初心:生方▲彦根G『楽々園→玄宮園→井伊直弼の像』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_31.html

箕輪初心:生方▲彦根I『彦根城博物館の展示品』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政167&彦根J『長純寺』姉:高瀬姫の墓
http://53922401.at.webry.info/201802/article_3.html

箕輪初心:生方▲彦根K「旧鈴木家屋敷→俳遊館」と『蓮華寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直政168&彦根L箕輪→高崎→彦根『大信寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_6.html

箕輪初心:生方▲彦根M箕輪→高崎→彦根に移った『紺屋町・鍛冶屋町
・蓮着町?』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_8.html

箕輪初心:生方▲彦根N『善利(せり)の足軽長屋』と箕輪
・高崎類推足軽長屋
http://53922401.at.webry.info/201802/article_9.html

箕輪初心:生方▲彦根O『箕輪安国寺→高崎安国寺→彦根宗安寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_10.html

箕輪初心:生方▲彦根P『近江牛』→『キリスト教会』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_11.html

箕輪初心:生方▲井伊直政170「直政の家臣団形成と彦根藩の家臣団」
http://53922401.at.webry.info/201802/article_12.html

箕輪初心:生方▲彦根Q『彦根城二の丸=2郭の井伊家家老』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_14.html

箕輪初心:生方▲彦根S3郭『埋木舎』&「池田太右衛門家」
・「鈴木権十郎家」
http://53922401.at.webry.info/201802/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直政171&彦根21『木俣守勝と木俣守安』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_17.html

箕輪初心:生方▲井伊直政172彦根22『長野業実』と縁者開山の寺
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