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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政147『箕輪城時代』:『井伊直政文書集』大石泰史編を加味した2018年最新

<<   作成日時 : 2018/01/06 08:10   >>

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『井伊直政文書集』大石泰史編(20170526)が平成30年(2018)1月
2日に手に入ったので、『井伊軍志』の中の古文書、『群馬県立古
文書館』の文書史料等を加えて、●印で新情報を伝えようと思う。
古文書の訳がもの凄く難しかったものもあった。
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・秋本太郎先生解説
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第49話:本能寺が変】&伊賀越え
http://53922401.at.webry.info/201712/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第50話『石を継ぐ者』直虎の死】
&直虎の墓
http://53922401.at.webry.info/201712/article_22.html

箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃
〜箕輪城入城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直政144【菩提寺:竜門寺縁起】松下3代の墓復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直政145【箕輪:滝沢寺】中野直之の中興開基か?
http://53922401.at.webry.info/201801/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直政146【万松寺→恵徳寺】中野直之の妻?母?
:恵徳院開基
http://53922401.at.webry.info/201801/article_6.html


・天正18年(1590) 
・2月 井伊直政の長男:直継(=後直勝)が駿河で誕生した。

●2月吉日 徳川家康軍令書(『彦根城博物館所蔵』)
一、御朱印御諚(じょう)之旨、少も於違背申輩者、其身の事者
  不及沙汰、妻子共罪都科にをこなふへき事
一、喧嘩・口論…(後略)
一、無下知而先手をさしをき、物ミをつかはす儀、可為曲事
一、先手をさしこえ、高名せしむといふ共、軍法を背の上者、
  妻子以下迄悉可成敗事
・・・など15項目
  井伊侍従殿

・3月29日 山中城を攻略
・3月30日 井伊直政が単独で足柄山城を攻略

●4月19日 豊臣秀吉朱印状
     (『彦根城博物館所蔵三浦十左衛門家文書』)
付井(津久井)ヨリ敵出候処、遺足軽首二討捕之、到来、尤之
  働候、弥方々無由(油)断義、肝要候、猶浅野弾正少弼(長政)
  可申候也 
    卯月十九日(秀吉朱印)
        井伊侍従とのヘ

●5月11日 豊臣秀吉朱印状(『喜連川文書』)
古河之姫君(足利義氏女)より使之女房衆下国候、伝馬六疋・輿
  一丁之人夫申付、…(後略)
  4人の中に井伊直政がいる。

●5月13日 山中長俊副状 (『喜連川文書』)
為 御意申入候、関東古河御使衆下国候、伝馬・人夫・宿賄以下の
  儀、被成御朱印候、 …(中略)…
  ・・・15人の中に井伊直政がいる。
  上野国海道筋
    人々御中

・6月22日 井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪
 へ攻め入った。井伊直政は笹郭攻めでの功績を評価された。
 小田原城落城のきっかけを作った。
 篠(笹)郭を攻略した立役者は、井伊直政の家臣
:長野業実(なりざね)であった。

(★上杉謙信・武田信玄が入れなかった小田原城内に初めて攻め込んだ。)


・6月?日 豊臣秀吉から井伊直政は箕輪城支配を任された。
  (★箕輪城シンポジウム:中井均先生)

・6月?日 ◆黒田如水の策略「お土産&褒め殺し作戦」
 小田原城に入って、北条氏政・氏直父子を説得し、
  無血開城させる功績を立てた。
 ※贈り物は「ホウボウの粕漬け」だった。
  北条氏政はお返しに
  「鉛&火薬・・・徹底抗戦」
  黒田官兵衛は一人で乗り込んだ。
  「20万人も来ているのに・・・」
  と、まず、褒めた。
  ・・・小田原城の開城へ・・・・ 
(★歴史ヒストリアsp7問目)

・7月1日 北条氏直は豊臣秀吉への降伏を決意した。
・7月5日 小田原城開城

●7月6日 井伊直政書状写  (『浅野家文書』)
「(略)…次者(は)小田原之儀、昨日氏直、同岩付之十郎
 (太田氏房)羽芝下総(滝川勝雅)陣所迄走入申儀、然二彼
 申分者、氏直腹を切、城中上下之者共、相助申度之由、
 小寺官兵衛(黒田官兵衛)殿・羽下を以被申上候処、…(後略)
 ・・・残りの現代語訳の内容は
 「北条氏直の御成敗を止めて、氏政・陸奥守(氏照)を御成敗
  する事にした由・・・(後略)
 井伊兵部少輔
 7月6日 直政(花押)

●7月7日 井伊直政書状写  (『浅野家文書』)
「(略)…昨日6日二榊原式部大輔入候…(中略)…
 ・・・残りの現代語訳の内容は
氏直 羽芝下総(滝川勝雅)陣所にて・・氏政には腹をつかまつり
  候へと・・・

・7月11日 北条氏直は父:氏政・叔父:氏照を介錯した。
  内通が失敗に終わった松田憲秀と松井田城開城後に箕輪城に
  道案内した大導寺政繁らには切腹が命じられた。


・7月13日 長野業実は
  @井伊直政から、名刀「備前三郎国光」を頂戴した。
 A豊臣秀吉から最上栗毛馬「木下半助」を頂戴した。
   ★「木下半助は奉者なので、「木下半助を通じて馬を頂戴した。」
    となる。私の読み違えであった。 
  
  (★『井伊年譜』ほか)
(★系図纂要「長野氏」では長野業輝:伝蔵属井伊直政→業実)

・7月?日  北条氏直は和田信業(上野和田城主)・木部高成
  (上野国木部城主)などを伴って高野山に行った。
和田信業の子どもは井伊家
・7月27日 倉賀野秀景(元倉賀野城主)は早川口で没した。
  死因は不明である。

●8月4日 井伊直政書状断簡  (『源喜古文書目録』)

●8月4日 井伊直政書状→岡田新八郎宛  (『源喜古文書目録』)
「(略)…如仰箕輪へ可罷移由御意候間、2〜3日巳前、
  参着仕候、…(後略)

●8月4日 井伊直政書状写→小幡右兵衛(信定)宛(『加賀小幡文書』)
「(略)…小田原で発つ時は御暇乞いをしなくてすみません。
  (小幡信定様が)奥州へお供の由、扨々(さてさて)ご苦労と
  察し申しあげます。拙者は箕輪へ罷り移るべき由、御上意(
  豊臣秀吉からの命令)でございますので、先々当地(箕輪)移り
  申す事に候、…(後略)
★8月4日以前に小田原を発ったのが書状から分かる。


・徳川家康からは大量の与力(寄騎)が井伊直政に附属された。
・井伊直政が旧北条氏の有力家臣を井伊家の家臣にした。
@宇津木治部右衛門泰繁:(上野国玉村出身)
  北条家臣→井伊家物頭:鉄砲奉行・・・⇒やがて井伊家家老
A岡本半助宣就(上野国小幡出身・長野氏同様在原姓)
 (小幡信貞の第一家老:熊井戸半右衛門の子ども:小幡城代)
上泉伊勢守の孫上泉泰綱に小笠原系上泉流兵法:軍敗を伝授
 →やがて井伊家軍監・家老 
B石原主膳(甲斐出身・親戚は三枝昌吉)
 (山県昌景鉄砲奉行→北条氏照鉄砲奉行→井伊直政旗奉行
  ⇒井伊家家老)


※徳川家康が関東に入封。
井伊直政が箕輪城に入封。
  徳川筆頭家老の最高石高の12万石で入城。
  
・本多忠勝・・・下総国大多喜城10万石・館山城里見対策。
・榊原康政・・・上野国館林城10万石・・・・
・井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・上杉・真田対策。
・酒井忠次・下総国臼井城3万7000石。酒井家次が入城。
(慶長9年:1604)酒井家次は高崎城に12年間。
 その後、越後高田10万石へ・・)


1)旧北条の一揆対策
・7月下旬  井伊直政は箕輪城に入城に前だって、北条の反乱を
 防ぐため、岡本半助宣就・石原主膳などを送り込んで、
 旧北条家臣を送り込んだ。

・天正18年(1590)年の秋=旧暦の8月3日〜7日の間に箕輪城に
 入封した。
(★井伊軍志:井伊達夫著)

●8月7日付 豊臣秀吉朱印状 (★彦根市史近世1−6)
(★彦根博物館所蔵文書)
「対木下半助書状、今日七日於奥州長沼到来、可被見候、箕輪罷移
 之由尤候、知行方相改、普請等可申付候、此方へ可見廻之由無用候
 ・・・(後略)」
 井伊直政が豊臣秀吉の命令で箕輪城主になった。
  (★『齋藤慎一先生講演会2006』)
 
木下半助は馬の名前ではなかった。木下半助吉隆は、右筆として
  豊臣秀吉に仕えた。
  天正11年(1583)頃から豊臣秀吉の発給する朱印状の副状の発給
  をしたり、奏者として活躍したと考えられている。
  豊臣秀吉が発した書状に、木下半介の連署が残っている。

●8月13日? 徳川家康感状写(『東大史料編纂所架蔵井伊年譜二』)
 今度小田原笹之丸一番乗、殊以於城内三百討取候事、
 度々之手柄大悦に思召候、弥以忠節之儀、日夜相心得可申候、
     井伊兵部少輔との



2)「家臣団の対立を防ぐ対策と親和策」
井伊谷からの「家老・侍大将」…
徳川家康からの「御付人=付家老・侍大将」…
旧武田家臣からの「家老・侍大将」…
 旧武田家臣→旧北条家臣からの「家老・侍大将」…
上野国からの「家老・侍大将」…
 ※井伊軍法の制定で家老・侍大将は34〜35名とした。
 (★『井伊軍志』・『彦根城2郭の有力家臣配置図』)

3)「付家老の徳川家臣への復帰希望対策」
 「人切り兵部」という瞬間湯沸かし器的な性格を嫌った家臣も
  いた。徳川家康に復帰しないように頼んだ。

4)箕輪城と城下町の整備・改築「防御と攻撃」
城内配置…榛名白川以外のの3方向に箕輪城を取り巻くように配置
@平山部
本丸…井伊直政 
※木俣曲輪…木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住した。
※稲荷曲輪…松下源太郎(井伊直政養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
 →墓は鬼門「龍門寺」にある。
 外は不明・・・・
A内宿
 大手門の丸戸張りという郭に鉄砲狭間付きの塀
・大手門(後の高崎城槻木門)設置。『上州高碕城大意』
・大手道・・・大手ことう門・・・三の丸

B法峰寺曲輪・水の手曲輪〜椿山コシ

B新曲輪

C城外…搦め手口方面
   東側を空堀→水堀。東を武家屋敷
  縦3本の城下町構造になっていて、横道がある。 

D城下町の整備
 南東・・・縦4通りに横道を加え、商人・工人の民家を配置
 上ノ宿通り…古い町並
   田んぼが続く・・・
  浦宿(裏宿)通り…裏宿〜田宿〜四ツ屋
 連雀町通り…連雀町〜田宿〜四ツ屋〜
 本町通り…白銀町〜本町〜紺屋町〜鍛冶町                 
 その他…茶園場                                                                        
★「箕輪城の改修工事や城下町の建築。
 連雀町・本町・紺屋町・田町・四ッ谷などは町作りの名残である。」

5)寺の分散配置と寺の庇護・・・戦略上の城の出丸。
 
@井伊家の菩提寺:龍門寺を城の鬼門に建立・・・白あん和尚
  松下清景・松下一定(中野からの養子)・高冬の墓がある。 
井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
浜松龍譚寺→箕輪龍門寺→高崎龍広寺→彦根龍譚寺
A滝沢寺を井伊直政の叔父某(中野直之?)が中興
   (後、酒井家次菩提寺?…瓦は酒井家家紋)
B中野直之妻か母伯母:(本当は叔母):恵徳院の為、日向峯松澤寺
万松寺→高崎の松骼R恵徳寺と井伊直政が創建させた。


●12月15日 井伊直政・浅野長政連署書状写→蒲生氏郷宛
   (『東大史料編纂所』)
「 伊達政宗が二本松に来た。聊(いささか)陰謀を企てない旨に及び
 陣を防いだ。これによって、人質の為、叔父の(伊達)重実、老臣
 (伊達・国分)盛重の両人、于(ここ)氏郷方に相送る。この上は
 早速帰陣してしかるべきに候です。恐煌謹言 」
  蒲生飛騨守殿 

●12月18日 蒲生氏郷→井伊直政・浅野長政宛て
申し付け候
 一
 一 国替え

・天正19年(1591)
●5月3日? 井伊直政書状写 (『東大資料編纂所』)
  「今度御普請の為罷りあげそうらえども、清左衛門(木俣守勝)殿
  如御「この間・・・」

●9月14日 徳川家康書状
「井兵部」
  「度々、入念注進状、祝着候…(後略)」


▲井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に出陣。  
箕輪初心:生方▲岩手D「紫波」の『陣ヶ岡』:有名武将の陣場
http://53922401.at.webry.info/201710/article_27.html

●10月15日 豊臣秀吉朱印状
「今度九戸居城へ相詰、仕寄等無由断申付(油断しないことを申しつける)
・・・会津少将(蒲生氏郷)言上候・・・」

・宇津木泰繁は具足を拝領した。
 ※近藤秀用は箕輪城の南300mの富岡(車郷小学校南)に居を
  構えた。井伊直政を離れ、伊勢に逃亡した。

●9月21日 徳川家康黒印状

●11月18日 徳川家康黒印状

・12月28日 井伊直政は豊臣秀次が従一位の祝儀のため上洛した。
 
 後、井伊直政は秀次と聚楽第で囲碁を打った。(井伊年譜)


・文禄元年(1592)
2月 徳川家康は朝鮮出兵のため、名護屋に向かった。
(井伊直政家臣も8人行った。田中助左衛門・岡本二郎右衛門・
  など・・・三浦安久は高麗に行って捕虜を連れ帰った。)

 井伊直政が江戸留守居役に抜擢された。
井伊直政・本多正信・松平家忠は江戸城普請を開始した。
●9月11日 徳川家康書状
 「追而、其許普請之絵図、被念入被差候…(略)」(『直政様萬留』

●11月18日 徳川家康書状
「・・・・」


・文禄4年(1595)
●7月20日 織田信雄等27名連署血判起請文
 太閤様を裏切らないという内容の起請文
  井伊侍従・常真(織田信雄)以外の大名は全て「羽柴姓」
  である。25名が最上・前田・丹羽・池田などの「大名である。
 ★井伊直政は以前、「豊臣姓」をいただいているが、前田利常で
  さえ、「羽柴姓」である。
  

・文禄5年(1596)井伊直政が箕輪12万石の検地を実施。
●4月18日、井伊直政黒印状
   (『高崎:高井和重家文書』・)
「一、今度なはうち(縄打ち)の儀、拾二万貫文之都合あらたむへ
   きためう(打)たせ候、所務之儀并田畠入組之所、年来之こと
   くたるへき事
一、・・・・・
 一、・・・年貢之儀者(は)納所すへし、・・・
・・・
  中大類・下大類 
    きもいり 
    百姓中

※井伊直政から中大類・下大類の肝煎(名主)・百姓たち
  に宛てた文書が出された。
定書の内容は「今回の検地は12万貫の有無を調べるために行うもの
 で、諸役や田畑の入り組みなどについては、今までどおりである。」
 とある。
箕輪領内において最初の検地があったことがわかる。

【*4月18日扶20万貫都合、あらたむべきこと。」(高井家文書)】
済みません。以前書いたのは、私の読み間違いでした。ごめんなさい。
★高崎市は「井伊直政の群馬県内唯一の検地記録と言っている。
 しかし、@榛名町神戸(高浜北の新幹線出口の上)に検地・年貢。
   (高崎市桜沢家文書)
 A箕郷町下芝の年貢
   (★箕輪『青柳勤也家文書』・群馬県立文書館保管)
 B浜尻の検地と外に3つ有る。


●8月24日 井伊直政御定書 (桜沢家文書)
榛名町神戸(高浜北の新幹線出口の上)に検地。
一、□□之田畠起シ上田壱反ニ付而(※ついて)籾弐俵、中田壱
   反ニ付而□□壱斗(※おそらく壱俵)、下田壱反ニ付而壱俵、
   上畠壱反ニ永銭七拾文、中畠壱反ニ永銭四拾文、下畠壱反ニ
  永銭弐拾文可納所事
一、未之起シ上・中田壱反ニ付而壱俵、・・・・
一、毎年作来田畠無意趣指上萬事一切停止(※チョウジ)之事
一、箕輪領分をさし置、他領分作事一切停止之、・・・
一、私領之仕置於何事も箕輪台所人之ごとくたるべし、・・・
一、□丸之事、大途御普請供役之時者(※は)厳密ニ可申立之、・・・
一、年貢之事、年切に可皆納、・・・・
一、代官衆人足召仕候事、年中家壱間(※軒)二付而壱人津ツゝたる
   へき事
一、地頭へ百姓召仕候事、、年中二家壱間(※軒)二付而六人津ツゝたる
   へき事
巳上
         乙未八月廿四日 直政黒印
郷戸村   肝煎
         百姓中


・慶長元年(1596)
●3月廿日 下柴村(箕郷町下芝)□之年貢俵之事
      (★『青柳勤也家文書』・群馬県立文書館保管)
合五百拾八名(518名)・・・★読み違えはなければ?
  ・・・物成含五百俵□籾□役・・・
  右之事ニ相定申付上、・・・
  ・・・・
  ・・・・
  
    三月廿日     松井武大夫(印)
             ????(裏にも名前)
             □□長信(印)
             ????(裏にも名前)
             奥山□□(印)
   下柴 
     肝煎百姓中
 
  ★余りにも難しくって読めませんでした。



●4月18日、井伊直政黒印状(『東大史料編纂所所蔵』
一、今度なはうち(縄打ち)の儀、拾二万貫文之都合あらたむへ
   きためう(打)たせ候、所務之儀并田畠入組之所、年来之こと
   くたるへき事
一、当作之儀者(※は)、田畠上中下、年来之ことく作いたすへき事
一、諸給人知行カタ、年来之場所、不可相替事
右条々、相有ましく候、・・・(略)
  はましり(浜尻)…高崎市浜尻町
きもいり
    百姓中 」


・慶長2年(1597) 豊臣秀吉のボケが酷くなった。
  
・慶長2年(1597) 4月頃、高崎城の築城計画を開始した。

※徳川家康は、豊臣秀吉が老衰していることが、分かっていた。
1)築城理由
徳川家康は井伊直政に北関東の守備を固めを命じた。天下とり構想が
 始まったと考えるべきであろう。
 徳川家康は名護屋に行ったが朝鮮にいっていないので、余力があった。
 井伊直政の家臣団の一部は行っている。
豊臣秀吉が死んだら、混乱が起こると予想していたのであろう。
自分が天下を狙える位置にあると考え始めたと思われる。そのため、
街道の整備をしておく必要があった。つまり、京・大坂方面への軍
事上、街道の整備を井伊直政に命じ、北関東の守備を固めようとし
たと考えられる。
そのため、井伊直政に箕輪城よりも交通の良い場所に新城を築くよう
に指示した。
「大軍が宿泊できるような場所を・・・」
 と言ったに違いない。
@箕輪は南と東だけの田が少ない。扇状地に近い地形なのだ。
・東〜・・・畑地はほとんど。(水の少ない地形)
・北東・・・現相馬が原で、榛名の4〜6Cの火山灰の扇状地。
・南・・・・水が少ないため、長野氏は榛名白川から水を引いた。
・西・・・・標高150m〜350mの地形で、米が生産量が上がらない。
・北・・・・松の沢地区から北や現芝桜公園から北は榛名山麓。
     善地地区は水の豊富な標高250〜400mの土地。田は少ない。

A箕輪の城下町は大軍が泊まりにくい。(東〜南の方面のみ。)
B江戸との交通の要地として不適。少しでも江戸に近い方がいい。
 (高崎は後の街道の要所:中山道・三国街道・例幣使街道
    ・姫街道近く・利根川水運等)
C信州と越後の江戸の守りの重要地点だから、どちらにも応援
    できる場所。又、京大坂への出陣拠点となる場所
D政治・経済・文化の中心地の必要性。

 *法峰寺を移転(箕輪小北に)許可

2)築城場所の選定
・井伊直政は、所領の中で、松枝・安中・和田・倉賀野を検討した結果、 
 和田の地を選んだ。
 (★『高崎志』川野辺寛著)

3)和田が選定場所に決まった理由
 @箕輪より交通の便の良い場所。
 A大軍が宿泊できる場所
 B城を守りに適した場所
 C平地であって水が使えそうなる場所
 「和田」は長野堰の「水」を有効活用できる場所であった。
 
 12万石を支えるのは、和田城の規模で小さかった。従って、東に
  城を拡大して、『遠構え』を造ることにした。
  高崎城と城下町一体型の構造であった。

4)縄張りの推進者   
★井伊直政が長く伏見・大阪・京に行っていていないので川出良則が高崎
 城留守居役であった。
高崎城築城の関係者は彦根城の築城関係者に準ずると考える。
 縄張りの中心人物は甲州流軍学者:早川弥総左衛門であったと
 思われる。外に築城名人孕石備前と第一家老:木俣守勝などがいた
 と思われる。

5)長野堰からの分流『新井堰』の開削
 ★高崎城&城下町の縄張り全体計画は高崎城・城下町・長野堰からの
 用水路・中山道の工事が同時に進行して行ったも思われる。
 

・慶長3年(1598)
3月15日 醍醐の花見
  豊臣秀吉がボケが酷くなりつつ。??死が近づいてきた。
  高崎城の
8月18日(9月18日)豊臣秀吉死亡。

『ウィキペディア』には
「慶長3年(1598) 直政は箕輪城から築城中の高崎城に移った。直政は
 入城に際し、当地を「高崎」(箕輪城下に直政が創建した恵徳寺の開
 山龍山詠譚和尚の「松は枯れることがあるが、高さには限りがない」
 との進言により)と名付けたとされている。箕輪より町家や社寺を移
 して城下町を築いた。」
 としている。

10月 高崎城が完成した。
完成までに約1年半という期間であろうから、突貫工事であった。
★高崎城完成説は3月説と10月説(井伊年譜)がある。・・・・
 井伊直政は実際には公務多忙のため、1年6カ月は高崎城には殆ど
 いなかったようである。高崎城に入ったことは有るかもしれないが、
 ゆっくりしていられなかったのかもしれない。伏見での徳川家康の
 警護のため、2000人を率いて待機していた。
 石田三成との対立が表面化したからである。

・慶長3年(1598) 箕輪城破城。
 井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋めた。
 ★箕輪初心私見「箕輪城が前田・真田等の元外様大名に
      使われないように。」だろうか? 

■慶長3年(1598) 箕輪城廃城
井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋める。

●井伊直政は8年間、箕輪城を居城とした。
  

★明日は、

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箕輪初心:生方▲井伊直政147『箕輪城時代』:『井伊直政文書集』大石泰史編を加味した2018年最新 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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