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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』

<<   作成日時 : 2018/01/02 19:02   >>

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・天正18年(1590) 
・2月 井伊直政の長男:直継=直勝が駿河で誕生。
・6月22日 井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪
 へ攻め入った。井伊直政は笹郭攻めでの功績を評価された。
 小田原城落城のきっかけを作った。
 篠(笹)郭を攻略した立役者は、井伊直政の家臣
:長野業実(なりざね)であった。
(★上杉謙信・武田信玄が入れなかった小田原城内に初めて攻め込んだ。)
・6月?日 豊臣秀吉から井伊直政は箕輪城支配を任された。
  (★箕輪城シンポジウム:中井均先生)
・6月?日 ◆黒田如水の策略「お土産&褒め殺し作戦」
 小田原城に入って、北条氏政・氏直父子を説得し、
  無血開城させる功績を立てた。
 ※贈り物は「ホウボウの粕漬け」だった。
  北条氏政はお返しに
  「鉛&火薬・・・徹底抗戦」
  黒田官兵衛は一人で乗り込んだ。
  「20万人も来ているのに・・・」
  と、まず、褒めた。
  ・・・小田原城の開城へ・・・・ 
(★歴史ヒストリアsp7問目)

・7月1日 北条氏直は豊臣秀吉への降伏を決意した。
・7月5日 小田原城開城
・7月11日 北条氏直は父:氏政・叔父:氏照を介錯した。
  内通が失敗に終わった松田憲秀と松井田城開城後に箕輪城に
  道案内した大導寺政繁らには切腹が命じられた。


・7月13日 長野業実は
     @井伊直政から、名刀「備前三郎国光」、
     A豊臣秀吉から最上栗毛馬「木下半助」を頂戴した。
  (★『井伊年譜』ほか)
(★系図纂要「長野氏」では長野業輝:伝蔵属井伊直政→業実)

・7月?日  北条氏直は和田信業(上野和田城主)・木部高成
  (上野国木部城主)などを伴って高野山に行った。

・7月27日 倉賀野秀景(元倉賀野城主)は早川口で没した。
  死因は不明である。
●井伊直政が箕輪城に入封。
  徳川筆頭家老の最高石高の12万石で入城。
  
・本多忠勝・・・下総国大多喜城10万石・館山城里見対策。
・榊原康政・・・上野国館林城10万石・・・・
・井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・上杉・真田対策。
・酒井忠次・下総国臼井城3万7000石。家次が入城。
・酒井家次は高崎城に井伊直政の後に入り12年間。
 その後、越後高田10万石へ・・
●徳川家康からは大量の与力(寄騎)が井伊直政に附属された。
●井伊直政が旧北条氏の有力家臣を井伊家の家臣にした。
@宇津木治部右衛門泰繁:(上野国玉村出身)
  北条家臣→井伊家物頭:鉄砲奉行・・・⇒やがて井伊家家老
A岡本半助宣就(上野国小幡出身・長野氏同様在原姓)
 (小幡信貞の第一家老:熊井戸半右衛門の子ども:小幡城代)
上泉伊勢守の孫上泉泰綱に小笠原系上泉流兵法:軍敗を伝授
 →やがて井伊家軍監・家老 
B石原主膳(甲斐出身・親戚は三枝昌吉)
 (山県昌景鉄砲奉行→北条氏照鉄砲奉行→井伊直政旗奉行
  ⇒井伊家家老)
画像

※徳川家康が関東に入封。
1)旧北条の一揆対策
・7月下旬  井伊直政は箕輪城に入城に前だって、北条の反乱を
 防ぐため、岡本半助宣就・石原主膳などを送り込んで、
 旧北条家臣を送り込んだ。

・天正18年(1590)年の秋=旧暦の8月3日〜7日の間に箕輪城に
 入封した。
(★井伊軍志:井伊達夫著)
・8月7日付 豊臣秀吉朱印状 
「今日七日於奥州長沼到来、可被見候、箕輪罷移之由尤候、
 知行方相改、普請等可申付  候、此方へ可見廻之由無用候
 ・・・(後略)」
 井伊直政が豊臣秀吉の命令で箕輪城主になった。
  (★『齋藤慎一先生講演会2006』)
(★彦根市史近世1−6)

2)「家臣団の対立を防ぐ対策と親和策」
井伊谷からの「家老・侍大将」…
徳川家康からの「御付人=付家老・侍大将」…
旧武田家臣からの「家老・侍大将」…
 旧武田家臣→旧北条家臣からの「家老・侍大将」…
上野国からの「家老・侍大将」…
 ※井伊軍法の制定で家老・侍大将は34〜35名とした。
 (★『井伊軍志』・『彦根城2郭の有力家臣配置図』)

3)「付家老の徳川家臣への復帰希望対策」
 「人切り兵部」という瞬間湯沸かし器的な性格を嫌った家臣も
  いた。徳川家康に復帰しないように頼んだ。

4)箕輪城と城下町の整備・改築「防御と攻撃」
城内配置…榛名白川以外のの3方向に箕輪城を取り巻くように配置
@平山部
本丸…井伊直政 
※木俣曲輪…木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住した。
※稲荷曲輪…松下源太郎(井伊直政養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
 →墓は鬼門「龍門寺」にある。
 外は不明・・・・
A内宿
 大手門の丸戸張りという郭に鉄砲狭間付きの塀
・大手門(後の高崎城槻木門)設置。『上州高碕城大意』
・大手道・・・大手ことう門・・・三の丸

B法峰寺曲輪・水の手曲輪〜椿山コシ

B新曲輪

C城外…搦め手口方面
   東側を空堀→水堀。東を武家屋敷
  縦3本の城下町構造になっていて、横道がある。 

D城下町の整備
 南東・・・縦4通りに横道を加え、商人・工人の民家を配置
 上ノ宿通り…古い町並
   田んぼが続く・・・
  浦宿(裏宿)通り…裏宿〜田宿〜四ツ屋
 連雀町通り…連雀町〜田宿〜四ツ屋〜
 本町通り…白銀町〜本町〜紺屋町〜鍛冶町                 その他…茶園場                                                                        
★「箕輪城の改修工事や城下町の建築。
 連雀町・本町・紺屋町・田町・四ッ谷などは町作りの名残である。」

5)寺の分散配置と寺の庇護・・・戦略上の城の出丸。
 
@井伊家の菩提寺:龍門寺を城の鬼門に建立・・・白和尚
  松下清景・松下一定(中野からの養子)・高冬の墓がある。 
井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
浜松龍譚寺→箕輪龍門寺→高崎龍広寺→彦根龍譚寺
A中野家の菩提寺:滝沢寺を中野直之が中興(後、酒井家次菩提寺)
B中野家伯母:(本当は叔母):恵徳院の為、日向峯松澤寺→萬松寺

・天正19年(1591) 井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に出陣。
  加藤新九郎、井伊直政とトラブって自刃した。   

 ※近藤秀用は箕輪城の南300mの富岡(車郷小学校南)を領し、
  居を構えたらしい。しかし、井伊直政を離れ、伊勢に逃亡した。

・文禄元年(1592) 井伊直政が江戸留守居役に抜擢。
        江戸城普請。

・文禄5年(1596) 井伊直政が箕輪12万石の検地を実施。
※大類・箕輪下柴しか古文書が残っていないが、配下に
   全領域させたと思われる。。

・慶長3年(1598) 箕輪城廃城→破城。
 井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋める。
 ★箕輪初心私見「箕輪城が前田・真田等の元外様大名に
      使われないように。」 

■慶長3年(1598) 箕輪城廃城
井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋める。

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