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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政152『箕輪城下町から高崎城下町への移動』

<<   作成日時 : 2018/01/11 07:26   >>

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没になった論文の一部である。井伊直政は箕輪城内と城下にあった
武士・町人を移動させた。明治6年の『壬申地券地引地図』では箕輪
に「アキヤ」の地名が明記されている。高崎城下町には町人居住区
には町名と町人の多くを移住させた。高崎には武家屋敷と町人屋敷
の地域に住み分けられた。町人居住区を『高崎志』川野辺寛著をベー
スにまとめてみた。箕輪からの高崎に移った町名と町人について
は@連雀町、A田宿→田町、B紺屋町→本紺屋町・新紺屋町、後、
中紺屋町推定、C鍛冶町→鍛冶町、後白銀町→鞘町、B8戸の家
→寄合町(推定)、D時宗の人→磬打(かねうち)町、E椿山→椿
町(予定)、和田の住民の移動については金井宿・馬上宿→本町・
新町(→組屋敷)は『高崎志』に掲載されているが、
個人的には
通町・北通町(井伊直政時代の中仙道)には町人が移住したので
あろうと考えている。また弓町は真政道・大類道・中仙道の出入り
口を考慮すると、井伊直政は武士を住まさせた可能性が高い。檜物
町も推定の域をでないが、高崎城3の丸・大手口に近いため、檜物
師と武家を住まわせた可能性が高い。
A慶長3年井伊直政時代の高崎
画像

 (箕輪初心:生方のオリジナル
@1450年ころの和田(正確には赤坂:後高崎)
画像

  
B間部詮房時代の高崎
画像



高崎城の城下町の縄張りは長方形をしている。
南は烏川の崖である。北側の東西のライン950m〜東の南北のライン
1200mから南の東西のライン500m&竜広寺前の斜めライン
300mは外堀である。城の回りは長野堰の取り入れ口:新井堰
(三国街道の住吉町&大橋町の境界)からの用水路を構築して外堀
とした。★堀は水を入れることで敵の侵入を防げるからである。
そして、遠構え=土塁を外堀の内側に沿って一直線に巡らせた。
用水路を掘った土で土塁を築いたのである。

【1】連雀町
@箕輪連雀町
・箕輪城の大手門前にあった。
・連雀町の由来は、井伊直政の箕輪時代に行商人が各地から連尺(荷物の
 背負い具)で荷物を背負って城下町に集まり、露天で物を売っていた。
 この連尺商いの行われた町が連尺町と名づけられ、俗に連雀町と書かれ
 るようになったと伝えられている。(★『高崎志』)
・「昔、此町ノ長貝発新兵衛、堀口務右衛門ト云レハ箕輪ノ里正ナリ…」
  (★『高崎志』)

A高崎連雀町
・慶長3年(1598)直政の命により、高崎移城とともに高崎城大手門の前
 に移し、旧名をそのまま変えず連雀町と命名した。
「連雀町は初箕輪二アリ慶長三年戊戌に此二移ル…」(『高崎志』)。
 高崎城下の中央に位置する一等地で、城主から特に優遇された。
高崎城下の町割りを決める時、最初に連雀町の位置を決め、南北に各町の
 地割りをした。★箕輪城も同様である。
・「城主井伊直政の命により貝発新兵衛、堀口務右衛門は高崎移城後も領内
 村長の長の上にあり一町ノ地子免サル…(略)…同五年関ヶ原御陣ノ時
 ハ、城主ヨリ鑓及教具足等ヲ分属セラレ子此地ニ変アラハ…」
   (★『高崎志』)この町は宿駅として人馬継立てをする町ではないの
で、旅宿は設けなかったが、敷地の広い民家を建てたので、主に城下通過
の諸大名が休泊した。そのため、この町には初め本陣があったが、後に
倉賀野宿が発展してから、本陣は倉賀野宿が代行するようになった。
 (★『高崎志』)

【2】箕輪田宿→高崎田(た)町
@箕輪田宿
・箕輪城の大手前の連雀町の縦の通りを南東方向に下ると、田宿がある。
※田宿には田んぼがあった。
  長野業政時代の慈上寺があった。
   普化宗の修験の寺で湛光風車・湛光月車などが情報収集
  活動をしていた。
 田宿は後北条氏時代の呼び方であると考えられる。
  井伊直政がそのまま「田宿」という名を残したので、
  明治時代にも、地名として残った。
A高崎田町
・慶長3年(1598)・高崎移城のとき、箕輪城下にあった「田宿」を
 そのまま移し、旧名によって「田町」と名づけた。(★『高崎志』)
・慶長9年(1604)以後は、中山道高崎宿の伝馬役を務めた。
 寛永9年(1632)からは問屋場を仰せつかり、伝馬所・問屋場の町
 として栄えた。

【3】紺屋町
@箕輪紺屋町
・箕郷の箕輪4本の内の右の通りである。縦の通りを南東方向に下る。


A高崎紺屋町(こうや町)
・慶長3年(1598)・高崎移城とともに箕輪城下町の紺屋職人が
 多数移住して紺屋町ができた。落合某が頭領と伝わる。
 松下
・初めの紺屋職人(あい染め職人)が移り住んだ場所が元紺屋町で、
 これに対し新紺屋町ができた。さらに中山道が田町通りに移った時、
 元紺屋町の一部から分かれて、元紺屋町と新紺屋町の中間にできた
 のが中紺屋町である。

【4】鍛冶町
@箕輪鍛冶町
・箕輪城下町の南東部にあたる。
 現生原の箕郷中学校前には昭和52年からの発掘調査で、新井氏の
  畑・斉藤家宅が「たたら跡」と解明された。
(★出典:みさと散策:斉藤勲著)
 現在の土地所有者も家屋の建設中に砂鉄が出てくることを証言して
  いる。
・井伊直政の箕輪城時代、現在の長島履き物店から南が鍛冶町であっ
  た。刀鍛冶・大工道具など職人などが生産に従事していたと思わ
 れる。
・第2次世界大戦終了後にも光徳寺隣に鍛冶屋が存在した。

A高崎鍛冶町
・慶長年間、箕輪から移城とともに、井伊直政によって多くの刀工や
 鍛冶職人が移住して、高崎城下にが集められた。全国的に有名な
 刀鍛冶である守(もり)重(しげ)、守次、守行などの刀工を輩出した。
★群馬県内では沼田市の鍛冶町は倉渕の権田鍛冶が真田信之の依頼
 で移住した。(出典:倉渕村誌)
 前橋市、館林市、伊勢崎市にも鍛冶町はあった。

【4】箕輪白銀(しろがね)丁(町)→高崎鞘町
@箕輪白銀丁
・箕輪の椿山と本町の間にあった。
・白銀師・鞘師・研師・柄巻師(つかまきし)などの刀剣飾職人たちは箕輪城下
  の白銀町に居住していた

A高崎鞘町
・「鞘町」という名前で町が新設された。
 高崎の鞘町に箕輪の白銀町に住んでいた・白銀師・鞘師・研師
 ・柄巻師(つかまきし)などが全員移り住んだ。
 鞘町の白銀師の居住していた一角が後に白銀町として独立した
 ものと思われる。
「この町はもと鞘町の内であったが、町屋が増えたので、分かれ
 て一町となった。」と記されている。
  (★『高崎志』・『更生高崎旧事記』)
 白銀町は鞘町から分離独立したことになる。
鞘町の西横庁(現広小路付近)には刀の研師が住んでいたので、
 「研町」となった。
・明治5年頃、「研町」の名が廃止になった。

【5】寄合町
@箕輪「??町」
・旧武田の臣「八戸の衆」が、箕輪城下に住んでいた。(★『高崎志』)
A高崎寄合町
・多種の職の商人が店を出して居住しており、近辺の人々が「寄合町」
 と呼んだので、町の名になった。」(★『高崎志』
・「高崎移城とともに移住し、寄り合って住んでいたので『寄合町』
 と名付けられた。
『更正高崎史』

【6】 磬打(かねうち)町
「磬打」は、一遍上人の開いた時宗に属する半農半俗の人たちで、
 首に磬をさげ、たたきながら念仏を唱えて、村を回って施しを受
 けた。
@箕輪「??町」
 磬打:玉阿弥が箕輪城下に住んでいた。
  時宗の寺は浜川「来迎寺」(箕輪城下から約3km)・安中板鼻
  の「聞名寺」である。
A高崎 磬打(かねうち)町
 ・慶長4年、箕輪から磬打玉阿弥が移住し、十王堂を建てて念仏
 修行を始めた。その後次第に信者が増え、民家を回って念仏行脚
 をして歩いたという。行者たちが住んだ場所はを磬打町の名にな
 った。(『高崎志』)

●井伊直政が造ろうとした町*****************
【7】椿山→椿町
 箕輪から高崎に移るはずだった新しい町名と町人
@箕輪椿山
 古墳時代の前方後円墳であった。
箕輪城主:長野氏時代に椿山砦があったようである。
 箕輪城主:井伊直政の時代には、津波岐那神社と法華堂が
 あったと思われる。
  明治6年の「壬申地券地引地図」(群馬県立古文書館所蔵)には
 箕輪城下町に「椿山」「椿下」・「ツバキヤマニコシ」の地名が
 でてくる。隣は「アキヤ」「白銀丁」である。
 現在でも「椿山」と地元民は呼んでいる。
   
A高崎椿町
・慶長3年(1598)「箕輪から高崎への移城にあたり、本町の東に
  町割りを決め、箕輪の椿名社:椿名権現を勧請(かんじょう)する計画で、町
  名を椿町と命名した。(★『高崎寿奈子』)
・慶長6年(1601)、井伊直政が佐和山へ移封となり、町名だけが残った。
「井伊氏ノ時、椿名ノ社ヲ此地ニ勧請アルヘシトノ……椿町ト名ケラレ
シカ程ナク彦根ニ……」(★『高崎志』)
★基本的には武家を住まわせる予定だったのであろう。真政道(前橋)
 の警護のためであろうと考えられる。
 井伊直政の重臣:西郷正次(井伊直政の従兄弟・徳川家康の妻:西郷
 局の親戚)が開基となった西郷山法華寺の裏が真政道への門があった。



●井伊直政が新設したと思われる武家の町(推定)********
【9】檜物町
井伊直政が檜物師居住させたのか?不詳である。
 ★高崎城三の丸と接しているので、城を警護するために武家も住ん
 だと考えるのが妥当性があるであろう。


【10】弓町
高崎大信寺から大雲寺の間にあり、大類道・玉村・倉賀野道からの敵
の侵入を防ぐためには武士を配置するのに必要な町であったのであろう。


●井伊直政が和田の宿住民を移住させて造らせた町*********
【11】本町(もとまち)
@箕輪本町
箕輪本町はある。現在でもナマコ壁の塀が残っているお宅が
 ある。
戦後も「おしめ洗い時刻は午前11時」と決められていたという。
 井伊直政時代の名残であろう。

A高崎本町…箕輪から高崎には移らなかったようである。
慶長2年(1597)4月頃〜3年(1598)10月 高崎城築城
 移転に際して、和田城下にもともとあった金井宿と馬上宿を
 町人を本町に移住させた。
 鎌倉時代からの鎌倉上道(うわつみち)に金井宿と馬上宿が
 あった。
 ・永禄6年(1563)武田信玄は和田城を改修工事をした。
  宿に武田信玄の家臣:伊奈飯島城主:飯島半右衛門が味噌屋と
  して住んだ。武田信玄の戦用の味噌製造に携わった。現在の
 「糀屋」の先祖であろうと思われる。
 ・井伊直政の時代、飯島半右衛門は侍大将クラスとして、井伊
  直政に仕えた。
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 「城下の根本ノ町として、本町と名づけた。」(★『高崎志』)

【12】「荒町(新町の意味)」
 新町→後、組屋敷があった。
 井伊直政は町人を移住させた。
 慶長9年(1604)酒井家次の時代には中山道は南に南北に変更し
た為、「組屋敷」という地名になった可能性が高い。


【13】通町…(井伊直政時代の中仙道)
北通町に接触している。
 

【14】北通町…(井伊直政時代の中仙道)
北は弓町になる。
 大信寺に接続できる。

●間部詮房が造らせた町******************
【15】四ツ屋
@箕輪四ツ屋
 箕輪城下の上芝に「四ツ谷」がある。箕輪の「金龍寺」の前
 のバス停あ「四ツ屋」である。「四ツ谷 」ともいう。
A高崎四ツ屋…「井伊直政時代ではない。間部詮房時代に高崎城下に
 新設された町である。
「間部氏城主タリシ時正徳元年辛卯新タ二開」(★『高崎志』)
「四屋の由来は、この町に四阿屋(あすまや)宮があり、読み替え
 て阿を略した四屋にしたのであろう。」と伝えられている。
・正徳元年(1711)、高崎城下に「四屋町」ができた。

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