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zoom RSS 箕輪初心:生方▲愛知県@『比丘尼城』:【足利直冬→・・熊谷重実→近藤満氏】

<<   作成日時 : 2017/12/03 06:26   >>

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平成29年(2017)11月2日、浜松市細江町気賀から三ヶ日町、宇利峠
越えて愛知県に入った。目的は「宇利城」・「野田城」・「長篠」・「・・・
である。しかし、スマホで宇利城を検索すると「比丘尼城」ばかりでて
きてしまう。しかたなく、行くことにした。「比丘尼」とあるから『おん
な城主 比丘尼』ってとこかな?
比丘尼城跡は、標高約220mで比高差
150m程の山頂に位置している。とあった
結局、登城というより、野
草散策になってしまったんだけどね。
後で、新城市のHpで調べたら、
「比丘尼城」は戦国期の遺構が見られることから使われたのは南北
朝時代と戦国時代の可能性が高いとのことだった。
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【1】平成29年(2017)11月1日***************

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政113『井伊谷遺産センター』
井伊谷の歴史
http://53922401.at.webry.info/201711/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政114『井伊谷妙雲寺』直虎と南渓
の位牌・南渓肖像画
http://53922401.at.webry.info/201711/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊谷『謂伊神社』&モロード様
=客人神のうんこ神様?
http://53922401.at.webry.info/201711/article_18.html

箕輪初心:生方▲『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政117『龍潭寺』:昊天が彦根清涼寺開山
http://53922401.at.webry.info/201711/article_20.html



【2】平成29年(2017)11月2日***********
○06:00 気賀の町中に・・・
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政119気賀A展望台からの気賀と『堀川城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政117気賀B「長楽寺」・『井伊直親の墓』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政120祝田【蜂前神社】と『徳政文書』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政121気賀D『刑部城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政122気賀E『本陣・復元関所』と【近藤家】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_26.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政123三ヶ日町『佐久城』
&【浜名氏と上野国長谷寺】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_29.html

箕輪初心:生方▲浜松市三ヶ日町『千頭峯城遠望』&【井伊谷・三ヶ日の歴史】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_1.html


===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==========
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P▲城891比丘尼城(近藤康用の支城)
スマホで宇利城を検索すると「比丘尼城」ばかりでて
きてしまう。しかたなく、行くことにした。
比丘尼城跡は、標高約220mで比高差150mほどの山頂に位置して
いる。とあった。
まずは、スマホの指示通りに行った。
城の北側の未舗装の道に入り込んでしまった。
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「蛇紋岩の山」と書いてあった。
群馬で言えば、蛇紋岩は至仏山と谷川岳である。
車が5台止めてあり。駐車がしにくかった。

宇利城に向かった。
ところが、「比丘尼城」と看板が目に入ってしまった。

登山用の駐車場があり、10台以上駐めてあった。
おばさんが3人組は「浜松から来た。」という。
登山の服装である。
「ここ、花が綺麗なんですよ。」
「私も高山植物の観察は好きです。私は今日は城回り
 ですが、百名山も80程登っています。」
と答えた。
「山頂まで30分位ですよ。」
と教えてくださった。

○大手口
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○登山口に宇利城のパンフレットがおいてあった。
比丘尼城から宇利城跡までは約2km程離れた場所にあることが
分かった。
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・センブリ
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・オヤマリンドウ
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・ツリガネニンジン
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・ムラサキセンブリ…蛇紋岩で変種になったのであろう。
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○四阿=小屋=展望台
★ここを下るっても駐車場に出られるだろう。
汗びっしょになっていた。
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ツリガネニンジン…枯れていた。
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????ギク
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枯れススキ
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○郭?
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・ツリガネニンジン
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○東虎口
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▲本郭=山頂・・・13分でついた。
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主郭の規模は50m×30m?
○主郭北の腰曲輪
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この先が搦め手口かなあ?
 一番先に行った場所…水の手か?
○西虎口
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 西の堀切らしきものも見える

○主郭南は腰曲輪
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  横堀?
「あれが、宇利城かもしれない。」


▼走るように下山した。

Hpには
エンシュウハグマ
ヤマラッキョウ
ヤマハッカ
サクラタデ
コウヤボウキ
オケラ
ピンクのオケラ
マツムシソウ
ミカワマツムシソウ
などがあることが分かった。


Q▲城892宇利城(近藤康用の最初の城)
R▲城893野田城(菅沼氏の城)
S▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城895柿本城(鈴木重時の城)
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の場所
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。
○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
○GS…1900円…2日で190km走ったのか?
○トヨタレンタカー 約15000円
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅
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【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城897二俣城
29▲城898鳥羽山城
30▲城899大平城(おいひら城)

箕輪初心:生方▲浜松市『大平(おいだいら)城遠望』&【井伊道政・宗良親王】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_2.html

31▲城900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。
 祐太郎君のおごり。ありがとう。
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家


● 『比丘尼城と宇利の歴史』
・元弘3年(1333)
足利尊氏の家臣:新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした。
 (田中大喜説)

 足利尊氏が六波羅攻めをした。
 熊谷直鎮(なおつね)が参陣した。
 源平合戦で活躍した熊谷次郎直実の子孫である。
 熊谷直鎮(なおつね)は戦功により三河国簗郡を賜った。

・延元元年・建武3年(1336)頃
 光明天皇を擁立した足利尊氏が建武政権の軍勢を破って
 京へ入り、後醍醐天皇は吉野へ逃れることとなった。
後醍醐天皇は大和国吉野(奈良県)の南朝方となった。
足利尊氏の離反?謀反?によって世の中は
 南北朝時代となった。

 足利尊氏(北朝) VS 後醍醐天皇(南朝)
 
南北朝の対立が本格化した。

●井伊氏が詰め城:三岳城を築いた。


*北朝方
※宇利庄の領主は北朝方の足利尊氏の子:足利直冬であった。
 足利直冬の領地:宇利庄に比丘尼城はあった。

今川範国・了俊は駿河、遠江両国の守護であった。
高師秦は三河国の守護であった。
足利尊氏の親戚で北朝方に属していた。

*南朝方
  井伊道政?あるいは井伊行直は南朝方であった。
  遠江の井伊谷を中心に南朝方の勢力拠点となっていた。

・延元2年(1337)〜延元4年(1339)
  三河・遠江の国境付近や浜名湖周辺では、北朝方と南朝方の勢力
 が入り乱れて激しい攻防が繰り広げられた。

・建武3年(1336) 延元元年
 6代目:香坂心覚が南朝方として牧城(後牧之島城)
   で挙兵した兵を挙げた。
   牧城は攻撃を受けても落城しなかったと伝えられる。
   (★『市河文書』・『高梨文書』・・・信濃史料)

・建武4年・延元2年(1337)
 後醍醐天皇は、宗長親王は妙法院門跡を還俗して宗良
 を名乗らせた。
 宗良親王は、(後醍醐天皇の第8皇子(第5皇子?)
 延暦寺天台座主であったが後醍醐天皇の命により伊勢で還俗して、
 宗良親王を名乗った説もある。(宗良親王27歳)
 @尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸(金ケ崎城)
 等へ向かわせた。
 A懐良親王を征西将軍に任じて九州へ向かわせた。
 B宗良親王を東国へ向かわせた。
  井伊氏は南朝方:宗長親王に属した。
 C義良親王を奥州へ向かわせた。
 各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。

 ▲三方ヶ原の戦い
  南朝方:井伊一族 VS 北朝方:今川範国
井伊氏が敗北し、三岳城に籠城した。
 秋、 宗長親王が一ノ瀬より井伊奥山に入った。
(★『遠江井伊氏物語』:武藤全裕著)
 9月 井伊道政も娘が尹良親王を生んだ。
  (★『遠江井伊氏物語』:武藤全裕著)
   ★年代が合わない?こんな早く子どもは生まれない。)

・暦応元年・延元3年(1338)
★北畠親房は現福島県の霊山寺城から現群馬の新田から本庄に渡り、
 四方田(新幹線本庄駅から100m)を破った。
1月、宗長親王は井伊谷を出て、橋本(新居町)で北畠親房と合流
 した。北畠親房はリーダーとして、宗良親王・義良親王を奉じた。
 後醍醐天皇の皇子達が伊勢に集結した。
 また有力な豪族を集め、日本各地に南朝の勢力拡大を目指して、
 計画した。
 北条時行も、中先代の乱で敗れた後、伊勢に赴き南朝側で戦に
 加わった。
▲美濃青野原の戦い
▲奈良の戦い
▲天王寺の戦い
宗長親王は吉野に入った。

・延元3年建武5年(1338) 9月 伊勢を出発した。
●井伊谷に入った宗長親王********************
1)宗良親王の井伊谷移動過程2説
 @北畠親房の陸奥国への移動説
 北畠親房は宗良親王・義良親王を伊勢国大湊(三重県伊勢市)
 より陸奥国府=陸奥国霊山=北畠親房の城(現福島県伊達市)
 へ行こうとした。伊勢湾を渡ろうとするが、座礁により遠江国
 白葉(静岡県西部)に漂着し、宗良親王は井伊谷の豪族井伊道政の
 もとに身を寄せた。北条時行も井伊谷城に入った。
(★『遠江井伊氏物語』】武藤全裕著)
A北畠親房は後醍醐天皇の考えに従って宗良親王・北条時行だけ
  を井伊谷から遠江・駿河・信濃・越前・越中・越後を南朝側に
しようと井伊谷城に入った。

2)宗長親王が井伊谷に入った理由
  @井伊谷と周辺には南朝方:大覚寺統の荘園・御厨が集中して
   いた。井伊氏を南朝方に走らせた要因が既にあった。
(★『遠江の雄:井伊氏』小和田哲男著)
  A後醍醐天皇は遠江の荘園の存在に着目し、南朝方の拠点を作ろう
  として宗良親王を送り込んだ。

3)井伊氏井伊介は誰か?宗良親王の庇護した井伊氏2説 
@井伊道政説・・・通説
   宗良親王の子:尹良親王の説
  ・尹良親王が井伊城に生まれている(伝)。
  ・尹良親王の母は井伊道政も娘と言われている(伝)。
  ・尹良親王は信濃の浪合で討死した(伝)。
A井伊行直説・・・最近の有力説
  井伊道政は後世の南朝史観による創作人物であると考えられるよう
  になった。
  井伊道政の娘が宗長親王に仕えて尹良親王が生まれた。
  尹良親王は長南朝再起のために戦ったが、信濃の
  「浪合の戦い」で討死したという。
  遠江・信濃・三河で「尹良:ユキヨシ様信仰」があるが、尹良親王
 の存在が伝説であり、井伊道政のことも後世の創作と考えられるように
 なった。(最近の有力説:井伊行直説)。

4)宗長親王はどこに 宗良親王のいた城2説
@井伊氏詰め城:三岳城
井伊氏は居城:三岳城を修築し、支城群を整備して、
 北朝方の今川氏の攻撃に備えた。
A井伊氏詰め城:井伊谷城 (看板)
井伊道政は遠江介・井伊介とも称した。

・延元3年・建武5年(1338)閏7月2日、▲藤島の戦い
 新田義貞は越前国藤島の灯明寺畷で斯波高経の軍勢と交戦中
 に戦死した。

箕輪初心●福井「金ヶ崎城」@新田義貞&A木下藤吉郎
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html

箕輪初心●福井「杣山城」=新田義貞の最後の城
http://53922401.at.webry.info/201104/article_30.html

箕輪初心●新田義貞D「若狭に逃亡〜福井で38歳没」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_44.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_44.html
★京都嵐山の檀林寺に首塚がある。

箕輪初心■福井「6回目奥・7回目」=奥の細道番外編
★福井県丸岡市の称念寺に新田義貞の胴塚がある。

箕輪初心▲本庄【金窪城】&新田義貞四天王:畑時能の最後
http://53922401.at.webry.info/201409/article_20.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201409/article_20.html


脇屋義助は兄:新田義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を
 攻め落としたものの、足利軍に敗れて越前から退いた。

宗良親王を迎えた井伊氏は、井伊谷城・三岳城を修築し、支城群を
 整備して、北朝方の今川氏の攻撃に備えた。

井伊氏・井伊一族:奥山氏は南朝に属していた。
 井伊道政は 南朝の宗良(むねよし・むねなが)親王を迎えた。
 井伊道政は三岳(みたけ)城の改修工事をした。

 井伊道政は後醍醐天皇の皇子:宗良親王とともに三岳城に籠もった。
 奥山氏は井伊氏の一族で井伊谷の奥山に住んでいた、

 南朝軍は防備を固める際に、千頭峯城、鴨江城、大平(おいだいら)
 城を構築した。
井伊氏は、三嶽城(井伊谷)・奥山城を中心に、南を鴨江城 (浜松市)、
北を天山城(あてやまじょう、田沢城、浜松市引佐町)、西を千頭峯城
(浜松市三ケ日町)、東を大平城(おいだいら)と、支城で固めた。
  
千頭峯城は奥山氏?によって築かれた可能性も高い。
千頭峯城は三岳城を本城とした西方の支城であった。
千頭峯城は中千頭峯砦、長岩砦、鯉山砦などを従えた城砦群であった。
 
 浜名氏は初めは南朝に属していた。
佐久城(浜名城)が浜名氏によって築かれた。
 佐久城が三岳城と共に南朝方の拠点の一つであった。

 
・暦応2年延元4年(1339)
2月 宗良親王は駿河の阿部城:狩野貞長のもとを辞した。
 
 
7月 足利尊氏の執事:高師泰・師兼らが遠江南朝方の鴨江寺城
 を落とした。 
  北朝方の高師泰が三岳城の井伊氏を攻めた。


7月22日 北朝方の高師泰(越後殿下)の軍が大平城に侵攻し、
  高師兼(尾張殿)の軍は浜名方面に侵攻した。

7月26日 三岳城の出城と鴨江城が落城した。

8月16日(9月19日) 後醍醐天皇吉野で崩御した。享年52。
  後村上天皇即位した。先帝の崩御は三岳城の宗良親王にも知
  らされた。宗長親王は紅葉を折ってそれに
 「思うには 猶色あさきもみじかな そなたの山はいかが時雨るる」
 という歌を添えて四条隆資のもとに届けた。

10月  佐久城の浜名氏は寝返った。
  北朝方として千頭峯城城を攻めた。

10月30日 高師兼が三ヶ日に千頭峯城を攻撃した。
 千頭峯城が落城した。
 井伊氏の一族:奥山朝藤を守将として浜名神戸荘の官県氏、
大江氏などが籠もった城とされる。

南朝:宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰
・仁木義長 の軍勢が井伊谷に押し寄せてきた。

10月30日 谷津砦・上野砦が落城した。
 支城群は次々と陥落し、ついに三岳城が危機にさらされた。

・暦応3年・興国元年(1340)
 正月30日 三嶽(岳)城が落城した。
 籠城戦は3か月にも及んだが落城した。 
  今川範国・了俊に従属することになる。

 宗良親王は三岳城を逃れて大平城(浜北区)に入った。

8月24日 高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍が大平城を攻撃した。
(★三ヶ日町の大福寺「瑠璃山年録残編裏書」)
   大平城も支えきれず、太平城が陥落した。
 大平城は歴史の上に登場することはなかった。    
  (★小和田哲男著)

8月頃 富士山麓を廻り甲斐国を経て信濃国へ入った。 
(★井伊谷を語りつぐ会)
 宗長親王は信濃へと敗走したのであった。

宗良親王が信濃に居を移されたのちの井伊氏は、北朝方に帰服する者、
 南朝にそのまま臣従を通す者に分かれたようである
宗良親王は北陸の新田氏を頼って落ち延びようとした。

しかし、新田義貞が討ち死にし、脇屋義助も北陸から撤退していた。

中越後の魚沼地方(現十日町市)は新田氏(大井田・田中・新田
 など)、南浦原地方は五十嵐氏の南朝方の勢力範囲である。
信濃川流域の古志・三島地方も小国氏、村山氏などが南朝に属し
ていた。
寺泊の五十嵐氏の館(現聚感園:松尾芭蕉の句碑。)に行った。 

●足利直冬(ただふゆ)******************
 
・康永3年/興国5年(1344)足利直冬は、足利尊氏の弟:足利直義
  (ただよし)の養子となった。

・正平3年/貞和4年(1348)
足利直義は光厳上皇の院宣を奉じ、足利直冬は従四位下左兵衛佐
  に叙任されが
  足利直冬(ただふゆ)初陣し、南朝に大勝利した。
足利尊氏は足利直冬が戦功を立てた事を内心で苦々しく思い、足利
  義詮、赤橋登子や高師直、仁木義長、細川顕氏らも冷たい態度を
  示した。
  (★『太平記』)

・正平4年(1349) 観応の擾乱のきっかけ
尊氏の執事:高師直と尊氏の弟:直義の確執が尊氏派・直義派
 の抗争に発展した。
尊氏 VS 直義
足利直義がに南朝方につくと、養子:直冬も南朝方に味方した。

・正平5年/貞和6年/観応元年(1350) 観応の擾乱
   南朝方の武家が足利直冬を立てて挙兵した。
仁木義長は兄:仁木頼章とともに尊氏派に属して直義派との戦いに
活躍した。

・正平6年/観応2年(1351)、三河守護:高師直が殺された。
 仁木頼章が後任の執事になった。
 仁木義長も守護国を増加され、伊勢・伊賀・志摩・三河・遠江の
 守護職を兼帯することになった。
 仁木氏は兄弟で一時9ヶ国を帯有し、幕閣の最有力者となった。

九州では南朝方の菊池武光・足利尊氏の庶子足利直冬
 (ただふゆ:直義の養子)等が勢力が強くなっていた。

・正平16年/延文6年(1361) 執事:細川清氏が失脚して南朝に
 下った。
 北朝方の今川範国が今川貞世(了俊)を遠江から召還させた。

・正平22年/貞治6年(1367) 2代将軍足利義詮が死去すると出家
 した。今川了俊と名乗った。

・貞治6年(1367)井伊一族:奥山直朝に宛て今川了俊文書
  井伊氏一族は南朝方に属するようになっていた。

・建徳元年/応安3年(1370) 今川了俊が九州探題に任じられた.。
 今川了俊は南朝方のくすぶる九州を北朝方の九州にするために
 派遣された。
  遠江・駿河の武士を引き連れて九州へ赴いた。
「遠江・駿河の人々…横地・勝間田・奥山・井伊・早田・河田
 井伊氏惣領家と庶子家の奥山・早田氏らが従軍していた。

********************************

・戦国時代
・応仁元年(1467) 応仁の乱
  比丘尼城は熊谷重実の居城となっていた。
熊谷重実は源平合戦で活躍した熊谷次郎直実の子孫である。

・文明年間(1469〜87)宇利城を築城した。
  熊谷重実が宇利城に移った。
熊谷重実が築城した宇利城の支城とも考えられる。
  熊谷重実の子:実長は今川氏に属していた。


・享禄3年(1530) 岡崎城の松平清康(徳川家康の祖父)は三河統一を
 進めていた。
 宇利城の熊谷備中守実長を攻めるために兵3000余で軍を進めた。
野田城の菅沼定則、作手城の奥平貞勝はすでに松平清康に従っていた。
 菅沼定則は先陣として豊川渡渉の道案内をつとめ、奥平貞勝も松平
 清康軍に合流した。
松平清康軍は宇利城に迫った。
 松平清康が宇利城を攻めた折、近藤満用は松平氏に臣従したようで
 ある。近藤満用は宇利村の一部を領していたと思われる。

松平清康は富賀寺の山頂に陣取った。1000余の兵で搦手を押えた。
松平信定、松平右京亮親盛らの一族衆は2000余の兵で大手口に
迫った。
 宇利城の大手めがけて松平勢が殺到した。
 宇利城へ一番乗りしたのは松平右京亮の隊であった。
 宇利城主:熊谷重実は松平右京亮隊に襲いかかった。
 松平右京亮は討死を遂げてしまった。

 松平勢が反撃にでた。
 菅沼定則に内通した岩瀬庄右衛門(子孫が「幕末3俊:岩瀬忠震?)
 が火を放った。
 城主の熊谷実長は裏山伝いに落ち延びた。
  
 松平清康の三河の統一した。
 戦功第一となった菅沼定則に山吉田を与えられた。
 
 熊谷方の武将・近藤満用、近藤平左衛門、近藤力之丞がいた
  という。裏切った武将は近藤氏ということになる?
近藤氏は松平清康方として奮戦し、熊谷備中守を討ち取り、
  宇利城を賜るとなっている。
(★『近藤氏系譜』)
近藤満用は宇利城主(現新城市中宇利)となった。
近藤満用の長子:乗直は、松平清康に従った。
 戦傷で歩行の自由を失い、弟:忠用が家督を継いだ。
 

箕輪初心★源頼朝29【側近:近藤七国平】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_15.html
★近藤家祖先は伊豆にいた。
 
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政36【近藤康用→近藤秀用→5近藤】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_14.html



★明日は「宇利城」かな?

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箕輪初心:生方▲愛知県@『比丘尼城』:【足利直冬→・・熊谷重実→近藤満氏】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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