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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政112『小田原城』5回目

<<   作成日時 : 2017/11/11 06:31   >>

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天正18年(1590)井伊直政は山中城攻め⇒足柄山城攻め⇒小田原城
の笹郭攻めを行った。
後北条氏の小田原城開城前後、旧武田家臣か
ら後北条家臣になっていた宇津木泰繁・岡本半助宣就・石原主膳ら
が井伊直政の家臣になった。また、八王子城で討ち死にした狩野一
庵の妻(新野親矩の娘)と子どもは井伊直政の家臣:木俣守勝に
守られ、やがて、子どもは木俣守勝の養子となり、木俣守吉と名
乗って木俣家を継いだ。
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 (★北条時代には天守閣はなかった。)



【1】小田原城
○幸田門
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★井伊直政もこの辺りから進入したのであろう。

○八幡山古城東廓
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★北条氏政もこの辺りにいた可能性が高い。


○小田原城御用米曲輪
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天正18年(1590)、北条氏が小田原攻めの時に豊臣秀吉の14万人
とも言われる軍勢に囲まれながら、約100日の篭城戦を戦い抜いた。
井伊直政はここから攻撃を開始し、笹郭(現本丸部分)を攻めたので
ないかと勝手に想像している。

江戸時代は「百間倉」と呼ばれていたという。
米蔵があったということか?
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○本丸
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○天守閣
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●北条時代のかわらけ
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●北条氏邦の兜
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●箕輪城と古文書
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★「和田信業」は和田城主(後、井伊直政の高崎城一部)
 であった。武田勝頼家臣:跡部勝資の長男である。
 倅:和田主殿が井伊直政の家老クラスとして一端
 仕えた。





幸田門からの攻撃
@長尾景虎(上杉謙信)
A武田信玄
B井伊直政・松平康信?




○本丸
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○常磐木門
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○二の丸
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○銅門
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○工事中…戻る。
…露天・・・おでん・・・★高かった。
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○隅櫓
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○学橋
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○大手馬出門
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○南入口=バス駐車場








【2】歴史「井伊直政を中心に」
・天正18年(1590) 以前
北条時代、 旧武田家臣から北条氏直家臣になった:宇津木泰繁
・石原主膳は北条家砲術指南:稲富宮内重次から、指南を受けていた。
2人は鉄砲奉行であった。岡本半助は上泉流軍学をマスターしていた。 
・天正18年(1590)
・3月7日? 宇津木泰繁は太田金山城から山中城勤務を命じられた。
  (★宇津木家文書)★日にちを忘れた。
山中城守備軍は約4000人であった。
 山中城主 松田康長であった。
 ・援軍の将:北条氏勝・間宮康俊・松田康郷・
  多米出羽の守平長定・宇津木泰繁・蔭山氏広等)
・3月17日 山中城攻めでは、徳川勢は西の丸から2の丸
・本丸攻めになった。
3月27日 豊臣秀吉自身が沼津に到着した・
3月29日 山中城には豊臣秀次・徳川勢を送り込んだ。
 (★ウィキペディア)
 黒田如水は娘婿:一柳直末が山中城で戦死すると、松寿丸
 (一柳直末の息子)を黒田如水の養子&黒田長政の嫡男とした。
 徳川勢別働隊は山中城落城後、鷹之巣城を落とした。

 ★宇津木泰繁などがおそらく足柄山城の道案内をしたのであろう。
・3月30日 井伊直政は単独で足柄山城を攻略した。
・4月1日  徳川家康は湯本に近くについた
・4月3日  先陣が小田原に着いた。
・4月6日  豊臣秀吉は箱根湯本早雲寺に着陣した。
   豊臣秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山に築城を決めた。
    黒田如水は石垣山一夜城の縄張りを担当した。
   以後、2交代制による昼夜問わずの普請が行われた。
   総勢22万のうち14万8千の軍勢が小田原城攻囲軍
   に当てられた。
・4月9日 豊臣秀吉は徳川家康に小田城攻撃の最中、おしっこ
をしながら(津田太愚著)「関東への移封」を伝えた。
 『連れ小便伝説』・・豊臣秀吉&徳川家康は、
北条氏直の小田原城が見渡せる石垣山で「連れ小便」をした。
豊臣秀吉は徳川家康に
「戦後処理は北条の後を家康に・・・。」
 と語ったという。
★徳川家康は広大な土地に可能性を感じたらしい。
石垣山城築城前、小田原城攻撃前に、戦後処理は決まっていた?
4月22日 江戸城は徳川家康の家臣:戸田忠次に明け渡された。

・5月14日、豊臣秀吉が北政所に宛てた書状
  「石垣や台所が完成し、やがて御殿や天守も完成する。」
   石垣は『穴太(あのう)衆』が関わっていた。
   (★小早川文書)
・5月27日、徳川家康は豊臣秀吉に対して関東移封の承諾の旨を伝えた。
・6月9日・10日 伊達政宗が豊臣秀吉にお伺いを立てた。
 (★『木村宇右門覚書書(伊達政宗言行録)』)

・6月26日、豊臣秀吉は陣所を石垣山城に移した。
  その夜、一斉に鉄砲を放たせた。
  約80日間で築城した。
「石垣山は「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊 
臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣
として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになり
ました。
 この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、
秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙
を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採
し、それを見た小田原城中の将兵が驚き志気を失ったためと言わ
れています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年
4月から6月まで約80日間が費やされました。」
 (★石垣一夜城案内板)

・6月22日 井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪
 へ攻め入った。井伊直政は笹郭攻めでの功績を評価された。
 小田原城落城のきっかけを作った。
(★上杉謙信・武田信玄が入れなかった小田原城内に初めて攻め込んだ。)
***小説編********************
@『主君』高殿円著…p131~p137

A『井伊直政と家康』江宮隆之著…p308~p311

B『井伊直政』高野澄著…p312~p316

C『井伊直政』羽生道英著…p232~p236★殆ど書かれていない

D『直虎と直政』野中信二著…p301~p306
****************************

・6月?日 豊臣秀吉から井伊直政は箕輪城支配を任された。
  (★箕輪城シンポジウム:中井均先生)

・6月?日 ◆黒田如水の策略「お土産&褒め殺し作戦」
 小田原城に入って、北条氏政・氏直父子を説得し、
  無血開城させる功績を立てた。
 ※贈り物は「ホウボウの粕漬け」だった。
  北条氏政はお返しに
  「鉛&火薬・・・徹底抗戦」
  黒田官兵衛は一人で乗り込んだ。
  「20万人も来ているのに・・・」
  と、まず、褒めた。
  ・・・小田原城の開城へ・・・・ 
(★歴史ヒストリアsp7問目)

・7月1日 北条氏直は豊臣秀吉への降伏を決意した。
・7月5日 小田原城開城
・7月11日 北条氏直は父:氏政・叔父:氏照を介錯した。
  内通が失敗に終わった松田憲秀と松井田城開城後に箕輪城に
  道案内した大導寺政繁らには切腹が命じられた。
・7月13日 篠(笹)郭を攻略した立役者は、井伊直政の家臣
:長野業実(なりざね) であった。
 長野業実は@井伊直政から、名刀「備前三郎国光」、
     A豊臣秀吉から最上栗毛馬「木下半助」を頂戴した。
  (★出典不明・真偽不明)
(★系図纂要「長野氏」では長野業輝:伝蔵属井伊直政→業実)
・7月?日  北条氏直は和田信業(上野和田城主)・木部高成
  (上野国木部城主)などを伴って高野山に行った。
・7月27日 倉賀野秀景(元倉賀野城主)は早川口で没した。
  死因は不明である。
・7月下旬  井伊直政は箕輪城に入城に前だって、北条の反乱を
 防ぐため、岡本半助宣就・石原主膳などを送り込んで、
 旧北条家臣を送り込んだ。
・天正18年(1590)年の秋=旧暦の8月3日〜7日の間に箕輪城に
 入封した。
(★井伊軍志:井伊達夫著)
★松岡貞利もびっくりしたであろう。今度はかつて一緒に
 大島城の普請した隣郷の飯島半右衛門が侍大将になったからである。
 飯島家は和田(高崎)で味噌造りをしていたのである。

●徳川家康からは大量の与力(寄騎)が井伊直政に附属された。
●井伊直政が旧北条氏の有力家臣を井伊家の家臣にした。
@宇津木治部右衛門泰繁:(上野国玉村出身)
  北条家臣→井伊家物頭:鉄砲奉行・・・⇒やがて井伊家家老
A岡本半助宣就(上野国小幡出身)
 (小幡信貞の第一家老:熊井戸半右衛門の子ども:小幡城代)
上泉伊勢守の孫上泉泰綱に小笠原系上泉流兵法:軍敗を伝授
 →やがて井伊家軍監・家老 
B石原主膳(甲斐出身)
 (山県昌景鉄砲奉行→北条氏政鉄砲奉行→井伊直政旗奉行
  ⇒井伊家家老)

・8月7日付 豊臣秀吉朱印状 
「今日七日於奥州長沼到来、可被見候、箕輪罷移之由尤候、
 知行方相改、普請等可申付  候、此方へ可見廻之由無用候
 ・・・(後略)」
 井伊直政が豊臣秀吉の命令で箕輪城主になった。
  (★『齋藤慎一先生講演会2006』)
(★彦根市史近世1−6)
8月中旬〜井伊直政は上野国箕輪(群馬県)の12万石下準備を
 始めた。
旧後北条氏の一揆対策
「井伊直政の箕輪城入封に際して、旧後北条軍の一揆
・反抗が起こった。弾圧のため、
石原主膳(旧武田家家臣山県昌景鉄砲衆→後北条家鉄砲奉行
 →井伊直政の旗奉行:後家老)
&宇津木蔵人(旧北条家家臣:上野国玉村金山城代→家老)を派遣
 した。
 井伊直政はこの二人なら、一揆の首謀者や領民とも馴染み
があるので、鎮撫しやすいと考えたのである。
 果たして、領民のほとんどが宇津木蔵人の呼びかけに帰順
し、呼応した。一揆に参集しなかったので、力が保てず、
まもなく平定された。」
  (★井伊家家譜・井伊軍志=井伊達夫著)

・9月 井伊直政次男:井伊直孝が駿河中里で生まれた。

 *徳川家から与力として付けられていた木俣、西郷、椋原、
 近藤ら有力家臣が「徳川家に帰る。」と言い出した。
 しかし、井伊直政は、徳川家康に泣きついていた。
  徳川家康は井伊直政を応援した。
 最終反対者は、近藤秀用だけであった。2年後、出奔した。
****************************

箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html

箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城3回目】写真集前編
http://53922401.at.webry.info/201411/article_24.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城3回目】:写真集後編
http://53922401.at.webry.info/201411/article_25.html

箕輪初心▲神奈川平塚 紫雲寺【大森氏頼の居館跡=矢崎城】
http://53922401.at.webry.info/201411/article_22.html

箕輪初心★北条早雲の生涯=伊豆・相模国盗り物語
http://53922401.at.webry.info/201309/article_25.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_13.html
 ★名胡桃事件を手引きしたといわれる中山氏

箕輪初心:生方●北条早雲&伊豆の城H「山中城」=緻密な山城
http://53922401.at.webry.info/201508/article_5.html

箕輪初心▼相模&駿河【足柄城】:北条氏の武田氏対策の城
http://53922401.at.webry.info/201412/article_2.html

箕輪初心★箕輪城99【井伊直政家臣:石原主膳】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_20.html

箕輪初心★箕輪城97【井伊直政配下:宇津木蔵人泰繁】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_16.html

箕輪初心★箕輪城96【井伊直政家臣:岡本半介宣就】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_9.html

箕輪初心●神奈川【石垣山一夜城】=秀吉の天下統一の城 
http://53922401.at.webry.info/201106/article_18.html

箕輪初心★【黒田官兵衛孝高=黒田如水の生涯】後編
http://53922401.at.webry.info/201401/article_7.html

箕輪初心◆『徳川家康の関東移封&家臣配置』復刻版2
http://53922401.at.webry.info/201410/article_36.html


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