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zoom RSS 箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人:連歌師『J宗祇』&番外編『宗長』

<<   作成日時 : 2017/10/10 09:10   >>

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●文亀4年(1502)連歌師:飯尾宗祇が越後の帰りに草津温泉に
きたことが草津温泉に表記されている。『宗祇終焉記』には、
2月26日、宗祇・宗長らは草津にやって来た。草津で宗長が
具合が悪くなり、宗祇は宗碩らに伴われて伊香保に行ったのが、
史実のようである。
宗祇は美濃に向かう途中、7月30
日、箱根湯本の旅館で没した。早雲寺(神奈川県小田原市)に墓
がある。定輪寺(静岡裾野市:桃園にある弘法大師が建立した。)
に葬られた。
・文亀 4年 (1502) 3月 連歌師:宗祇:宗長が草津に来た。
・永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
 と「東路の津登」にある。
画像




●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************
箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし100人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_27.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_28.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』F「長野業尚:榛名鷹留城主」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_30.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人G長尾為景:上杉謙信の父
http://53922401.at.webry.info/201710/article_1.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人H大光宗猷禅師=曇英恵応:林泉寺創建
http://53922401.at.webry.info/201710/article_2.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』番外編:万里集九『梅花無尽蔵』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_3.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』10『横瀬成繁』太田金山城主
http://53922401.at.webry.info/201710/article_8.html


★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。











・戦国時代**************************
戦国時代以降、草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた。
記録が残っている。
06●文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
○○○文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流の歌僧)
○○○長禄2年(1488) 万里集九は草津には来ていないようである。
  詩文集『梅花無尽蔵』の中で
 「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。
 「日本三名泉」は、万里集九 → 林羅山によって言葉が生まれた。

07▲延徳2年 (1490) −長野業尚 (榛名鷹留城主)
   ★文亀3年(1503) 長野業尚が死亡なので草津の大永6年(1526)
  の年号は間違っている。     
08▲延徳2年(1490)−長尾為景 (越後国守護代)
   ★長尾為景が2歳?
09▲延徳2年(1490)−大光宗猷禅師(曇英恵応:越後林泉寺&榛名長年寺)
   ★大永6年(1526)まで生きていなかった。

10●明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
11●文亀4年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)
○○○文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
○○○永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
◆◆◆戦国時代     湯本善太夫は草津温泉を支配していた。
12●永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)
 ★「関東古戦録」がベースなので、信憑性は疑わしい。
13●天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
14●天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
15●天正10年(1582)−多賀新左衛門常則(織田信長家臣)
○○○天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
16●天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
  豊臣秀吉の妹である朝日姫は、徳川家康の正室であり病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
17●天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
   豊臣秀吉の異父兄弟:豊臣秀次も来ている。
18●天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
19●文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
20●慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
  前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。
△△△徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
 運ばせて入浴していた。

********************************

【11】飯尾宗祇:
北野連歌会奉行などで名を上げた、当代随一の連歌師。

・文亀元年(1501)  
「宗祇老人、年ごろの草庵も物うきにや、都の外のあらましせし
年の、春のはじめの発句に、
「身や今年 都を余所の はるがすみ 」
その秋の暮、こし路の空におもむ幸、此のたび帰る山の 名を
だに思はずして、越後の国にしるたよりをもとめて2とせ
計送られぬと聞善て、文亀のはじめの年の6月の末、駿河の国
よわ2歩をすゝめ、足柄山をこえ、富士のねをよそに見て、伊
豆の海、お吉の小島による浪、こゆるぎの磯をつたひ、鎌倉を
一見せしに、有夫持家のそのかみ、また9代の栄も、ただ目の
前の心ちして、鶴が岡のなぎさの松、雪の下のいらかは、げに
岩清水にもたちまさるらんとぞ覚え侍る。山々のた々ずまひ、
やつ々「繰り返し「しまぐいはヾ筆のうみも底に見えつペし。
岩 には9年か このかた、山の内、扇の谷、鉾楯の事出で来て、
凡8ケ国2かたにわかれて、道行く人もたやすから ずとは聞こえ
しかど、こなたかなた知るつてありて、武蔵野を も分け過ぎて上
野をへて、なが月朔日頃に、越後の国府に至りぬ。」


・文亀元年 (1501)
・6月末 駿河
 足柄山→・・・鎌倉・・・山内上杉 VS 扇谷上杉・・・

・なが月(11月)朔日(1日) 越後
 宗祇は7度目の越後の国府に上杉氏を訪ねた。
 宗祇は越後で体調を崩した。


・文亀2年(1502)
 
宗長は宗祇を見舞うため、駿河→鎌倉→(鎌倉上道)・・
 板鼻・・・東山道・・北国街道・・越後国府(上越市)
しかし、宗長が病気になってしまった。
 
2月末
「きさらぎの末つかた、をこたりぬれど、都のあらましは打ち
置きぬ。上野の国草津と云ふ湯に入りて、駿河の国に罷帰らん
のよし、おもひ立ちぬるといへば、宗祗老人、我も此の国にし
てかぎりを待ち侍れど、命だにあやにくにつれなければ、こゝ
らの人々のあはれびも、さのみはいとはづかしく、又都に帰
りのぼらんも物うし。 美濃国にしるべありて、のこるよはひ
のかげかくし所にもと、たびたびふりはへたる文あり。哀とも
なひ待れかし、富士をも今ひとたび見待らんなどありしかば、
うちすて国に帰らんも、つみえがましくいなびがたくて信濃路
にかゝり、ちくま河の石ふみわたり、菅のあら野をしのぎて、
廿六日といふに、草津といふ所につきぬ。

おなじき国に、伊香保といふ名所の湯あり。中風のためによし
など間きて、宗祗はそなたにおもむき、2かたになりぬ。此の
湯にてわづらひそめて、湯におるゝ事もなくて、5月のみじか
夜をしもあかしあびぬるにや、

「 いかにせむ 夕告鳥の しだりをに
  声恨むよの  老のねざめを 」
 
宗祇は弟子の宗長、宗碩らに伴われて越後国府→中野→菅平
  →菅平・(真田の地)・・鳥居峠・・・(吾妻)・・・大津


2月26日 宗祇・宗長は草津へいった。
 宗長は草津温泉で療養=湯治することになった。

  宗祗・宗長は伊香保へ行くことになった。
   宗祇は伊香保温泉で休憩・・・発病した。
  2カ月も伊香保にいた。
5月下旬
●川越

6月初旬
●江戸の舘=江戸城は太田道灌の後、上杉定正がいた。

「みよし野の里、河越にうつりて十日余りありて、文月の初に
江戸といふ館にして、すでにいまはのやうにありしも、又と
りのべて、連哥にもあひ、気力も出でくるやうにて、鎌倉近き
処にして、廿四目より千句の連哥あり。廿六日にはてぬ。
一座十句十二句など、句数も此ごろよりはあり。おもしろき
句もあまた侍しそかしこの千句の中に、

「 けふのみと 住む世こそ 遠けれ 」

といふ句に、

「八十まで いつかたのみし 暮ならむ
 年のわたりは  ゆく人もなし 」

 老のなみいくかへりせばはてならん
思へば、いまはのとぢめの句にもやと今こそ
 思ひあはせ侍れ。」

6月24日〜
●鎌倉の近くで連歌会
おそらくは船で・・・江戸→鎌倉・・・
宗祇は富士山を見たがっていた。
「富士をも もう一度 見侍らん」
(★宗祇終焉記)
  美濃に向かう途中、箱根湯本の旅館に泊まった。

●7月30日 宗祇が箱根湯本で死んだ。
画像

画像


箕輪初心▲神奈川箱根【早雲寺】:後北条5代の墓&連歌師:宗祇の碑
http://53922401.at.webry.info/201411/article_27.html

「宗祇紙終焉記」は、宗祇の弟子:宗長が書いた作品である。
6月下旬 に駿河の草庵を出て、9月1日頃越後の国府に滞在中
の師匠の宗祇を訪ね、文亀元4月に宗砿とともに旅に発って信
濃・上野・武蔵を経由し、7月30日の夜半過ぎに箱根湯本で宗
祇 の臨終をみとり、師の遺骸を駿河桃固の寺に葬り、臆河の宗
長の草庵に帰着するまでの経過を記した記録文章である。

★ということで私の見解では「私の知る限り、宗祇が草津に来たと
 いうのはデータがないという思い込みは違っていた。
 
箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html


●●)宗長
・明応4年(1495) 兼載らと『新撰菟玖波集』を撰集した。
この中に、岩松尚純9句&横瀬国繁3句ある。
1)岩松尚純が9句
「 なでつくす 袖か岩ほの 朝霞 」
「 郭公 月にいざよふ 雲間哉 」
「 風でまたで 露におられよ 萩が花 」

2)小野(横瀬)国繁は3句

3)小野(横瀬)業繁が2句
※文学史の偉大な足跡を残した。

*****************************************
箕輪初心●群馬旧尾島町8『岩松館=青蓮寺』源義国
 〜岩松代々の館
http://53922401.at.webry.info/201303/article_11.html

箕輪初心★新田岩松の歴史&男爵:新田俊純
http://53922401.at.webry.info/201311/article_9.html
********************************************


文亀 2年 (1502) 3月 連歌師宗祇、宗長、越後より草津に来た。


永正 6年 (1509) 連歌師宗長、駿河より草津に来た。

9月9日
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
宗長は松田加賀守とは文通していた。
★松田加賀守は一体誰なのであろうか?
長野憲業・長野業政の家臣団の中に松田姓の
  有力家臣は出てこない。
予想される館は「隆業館、後の浜川館である。」
200m×130mの大きな館である。高崎北高
の井野川野球グランドの西隣から西に当たる。
1)寺内館:(元高崎市浜川公園南西部300m・・・
      東山道に隣接北部)
 2)乙業館(おとなり)(高崎市浜川町道場火薬工場北)
3)寺内館・矢島館・北爪館・北新波砦・満勝寺砦
   住吉城(沖町)など
★矢島砦(90m×90m)・北新波砦(90m×90m)など
約20の館が長野郷浜川地区にあるが、浜川館以外
はみな小さい。
久保田順一先生の長野郷の中心地は箕輪であったとすれ
ば、現箕郷町に館があった可能性もある。

●大戸(東吾妻町)
海野三河守の宿所に1泊した。
*************************************************
箕輪初心●群馬【手子丸城=大戸城】=吾妻の巨大な要塞
http://53922401.at.webry.info/201201/article_14.html
***************************************************
★大戸氏は滋野系海野氏である。
天文年間頃には長野業政の娘婿となっている
  分家の浦野氏は
武田信玄の時代からであろう。永禄年間の
榛名鷹留城を攻めた記録(★榛名神社)
の長年寺に火をかけた記録(長年寺受連)
が残っている。


9月12日 
●草津
・・・10日間滞在した。

9月21日
●大戸
 海野三河守の館にて連歌会

9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
 菊さきて あらそふ秋の 花もなし 
 規懐紙を越後の陣へとなん。はま川並松別当(★古い字)
 にして
色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」

★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で  
太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。
**************************************************
@箕輪初心●群馬【後閑城@】&長源寺&満行寺
http://53922401.at.webry.info/201211/article_19.html

A箕輪初心●群馬【後閑城2回目】&後閑城の歴史詳細
http://53922401.at.webry.info/201211/article_20.html

B箕輪初心●群馬安中【板鼻城】=螺旋式の城構造
http://53922401.at.webry.info/201211/article_17.html
***************************************************
・文明2年(1470) 依田信濃守全棟=政知が長源寺
 (安中市後閑)に、三ツ木(中後閑)・下郷(下後閑)に
 所領を寄進。
      (★安中市史:長源寺文書)
 @芦田光玄=忠政→A政友=政知→B光慶
   →全真→全賀(弟)→全真の子:信盛→虎昌
   →昌忠→将監(弟)→盛繁
※天文元年(1531)長野業政が箕輪城を継承。
・天文年間 依田光慶は、箕輪城主長野業政の女を
   室として嫁にした。同心になった。
・天文7年(1538)依田光慶が板鼻鷹巣城に移った(伝)。

**************************
とすると、「東路の津登」に書き表された「依田中務少輔
 (しょうゆう)光幸は、依田信濃守全棟=政知の可能性が
 が高い。・・・中務少輔(しょうゆう)ランクは地方の戦
 国武将ではランクが高い。そうすると、・永正6年(1509)
 の時点では、依田氏は安中市後閑の可能性がある。
 多胡碑記念館の研究では板鼻になっているがどうなので
 あろうか? 安中市板鼻ではなく、安中市後閑ではないだ
 ろうか。安中市史・中世の安中・安中市教委の井上慎一先
 生講演会、長野立科町史?などでは天文7年(1538)
 依田光慶(徳昌軒)が板鼻鷹巣城に移った(伝)。ので、
 それ以前は、後閑にいたことになる。
また、古くは碓氷郡は現倉渕の烏川右岸=西地域まで
あった。幕末に小栗上野介の子どもらが西軍のから逃れよ
 うとして、使おうとした道である。
 宗長は大戸→倉渕→地蔵峠→松井田細野→安中後閑と行け
 るはずなのだ。後閑から東山道に入り、板鼻→東山道北道?
 (国府道)と通ると、八幡→金井淵→長野郷:浜川となる。

 しかし、森田真一先生の本・講演会などでは、板鼻に有力
 家臣団が集められた。とある。ので、今回は丸岩→大戸
 倉渕→榛名→板鼻となるのが有力であると考える。

 徳昌寺屋敷の発掘は現神奈川大学の先生:大工原先生が
 発掘調査をした。

連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町)に送られた。
****************************************************
箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家
 日本一の地主へ
http://53922401.at.webry.info/201307/article_20.html

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・
雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html
*****************************************************


9月末〜10月1日
●浜川
「その日、九月儘なるべし。神無月朔日になりぬ。
 又発句、
神無月 里やふりにし 花の春

此別当俗長野姓石上也並松上野國多胡郡
 弁官府碑文銘曰太政官二品穂積親王左大臣
 正二位石上尊此文系図(★古い字)有布留社あり
布留今道
ひの光や ふしわかねは 石上ふりにし里に
花咲にけり。
当月異名小春にそよへて過にし花の春に
 やと申計也。武州成田下総守顕泰亭にして
あしかもの みきはゝ雁の 常世かな 
水郷也。舘のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の露
枯れ廿余町四方へかけて水鳥おほく見えわたり
 たるさまなるべし。同千句興行第一句発句に・・・
 ・・・(略)・・・

★宗長は浜川(高崎市浜川町)に10月1日に戻ってきた。
・・・・・重要ポイント・・・

*************************************************
箕輪初心●箕輪城シリーズB「長野氏の系譜」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_6.html
箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森
・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html

箕輪初心●箕輪城105久保田順一先生「箕輪城と長野氏」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_26.html
****************************************************   
【銘文】
弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

【読み方】
弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅
に宣る。左中弁・正五位下多治比真人。
太政官・二品穂積親王、左太臣正二
位石上尊、右太臣正二位藤原尊。

【現代語訳】
朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡
(かむらぐん)の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡を
つくり、羊(ひつじ)という人に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡としなさい。
和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日
に宣(の)べられた。
左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。

  (★多胡碑博物館の説明書き)


****************************************************
箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html
****************************************************
10月〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

●忍(埼玉県行田市)

※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

 
★明日は?

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