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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』10『横瀬成繁』太田金山城主

<<   作成日時 : 2017/10/07 03:52   >>

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明応4年(1495):横瀬成繁(太田金山城主)は草津に来た。
「嫡子成繁者四月十三日草津へ湯治、可走廻被官人等三百余人供奉、
金山者弟四郎只一人在城、大油断之時分也」(★『松陰私語』)
おそらく4泊5日だったのでしょう。
横瀬氏の先祖が今、流行のNHK大河『おんな城主直虎』の
「小野但馬守政次」の先祖:小野妹子の分かされで、先祖が
一緒である。

画像



●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************
箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし100人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_27.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_28.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』F「長野業尚:榛名鷹留城主」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_30.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人G長尾為景:上杉謙信の父
http://53922401.at.webry.info/201710/article_1.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人H大光宗猷禅師=曇英恵応:林泉寺創建
http://53922401.at.webry.info/201710/article_2.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』番外編:万里集九『梅花無尽蔵』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_3.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』10『横瀬成繁』太田金山城主
http://53922401.at.webry.info/201710/article_8.html


★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。












・戦国時代**************************
戦国時代以降、草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた。
記録が残っている。
06●文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
○○○文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流の歌僧)
○○○長禄2年(1488) 万里集九は草津には来ていないようである。
  詩文集『梅花無尽蔵』の中で
 「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。
 「日本三名泉」は、万里集九 → 林羅山によって言葉が生まれた。

07▲延徳2年 (1490) −長野業尚 (榛名鷹留城主)
   ★文亀3年(1503) 長野業尚が死亡なので草津の大永6年(1526)
  の年号は間違っている。     
08▲延徳2年(1490)−長尾為景 (越後国守護代)
   ★長尾為景が2歳?
09▲延徳2年(1490)−大光宗猷禅師(曇英恵応:越後林泉寺&榛名長年寺)
   ★大永6年(1526)まで生きていなかった。
10●明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
11●文亀4年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)
○○○文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
○○○永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
◆◆◆戦国時代     湯本善太夫は草津温泉を支配していた。
12●永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)
 ★「関東古戦録」がベースなので、信憑性は疑わしい。
13●天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
14●天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
15●天正10年(1582)−多賀新左衛門常則(織田信長家臣)
○○○天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
16●天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
  豊臣秀吉の妹である朝日姫は、徳川家康の正室であり病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
17●天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
   豊臣秀吉の異父兄弟:豊臣秀次も来ている。
18●天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
19●文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
20●慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
  前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。
△△△徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
 運ばせて入浴していた。

********************************


【10】草津温泉bP0 「横瀬成繁」の草津温泉の湯治伝説
※横瀬氏は、小野妹子の子孫である。
小野篁→小野俊生・・・・井伊家筆頭家老
小野篁→小野良真→小野小町・小野道風
小野篁→小野葛絃→小野好古
小野篁→小野保衡→:武蔵七党の筆頭の横山氏:猪俣氏
             猪俣一族→横瀬氏(由良氏)
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政25『小野妹子→小野和泉守政直(道高)』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_36.html

武蔵七党の横山氏系猪俣一族で新田荘横瀬郷を領したことから
横瀬氏を称したのが始まりとされている。
一方、新田義貞の3男:新田義宗(沼田旧白沢村で死亡)の子供
とされる新田貞氏が横瀬時清の娘婿として横瀬氏に入ったことか
ら新田家の後裔を自称している。(諸説あり)。主家であった新
田岩松家も同じく新田家の後裔であった。当初は岩松家の重臣で
あった。横瀬国繁の代に岩松家の筆頭家老である執事となった。
初代横瀬国繁→2代目横瀬成繁 →3代目景繁→泰繁→
5代目由良成繁→由良国繁となるが、2代目横瀬成繁で
ある。

・享徳3年(1454) 享徳の大乱が勃発。
 足利持氏の遺児=古河公方:足利成氏が足利幕府と対立して
 上杉憲忠を謀殺した。
 室町幕府が関東方面の抑えとすべく足利義教の子:足利政知を
 堀越公方として伊豆国に送り込んだ。というよりは、
★足利幕府は新たな鎌倉公方として、将軍義政の弟:上杉政知を
 関東に下向させたが、足利成氏の勢力が強く、鎌倉まで行けず、
 上杉政知は伊豆の掘越に居を構えた。
 堀越公方と称された。(★上杉家は足利家に娘をくれたから。)
 ※岩松家純は足利幕府の上杉=堀越公方に味方した。 

堀越公方派礼部家:岩松家純
VS
 古河公方派京兆家:岩松持国・次郎父子

・岩松家純を謀殺した。

室町幕府は管領上杉氏を支援して関東に兵を発したため、
 鎌倉を失った足利成氏は下総国古河へ逃れた。
 (※以後、足利成氏は古河公方と呼ばれた。) 
※岩松持国は古河公方:成氏に味方した。
 
・享徳3年(1455) 武蔵の須賀合戦
 岩松家純の代官:横瀬貞国は足利成氏方と戦って討死した。

・長禄2年(1458) 岩松家純の家臣:横瀬貞国の子:国繁が
  岩松持国を説得して、管領上杉側につかせた。

・寛正2年(1461) 岩松持国は再び足利成氏方に帰属した。
  ・岩松家純は岩松持国・成兼父子を殺害した。
   岩松家純によって岩松家純系に統一された。
 
・文明元年(1469)岩松家純本領の新田庄へ帰宅した。
 岩松家純は岩松氏の分裂を解消すると新田氏の故地である新田
 金山城を本拠とした。横瀬(由良)国繁に金山城を築かせた。

・文明元年(1469) 岩松家純は重臣:横瀬国繁に命じ、世良田
   長楽寺の僧:松陰軒西堂の縄張りで築城させた。
   岩松氏は内紛が勃発した。
 (★「岩松新田氏」峰岸純夫著)

・文明4年(1473)由良国繁は下野国足利庄の鑁阿寺に禁制を
  掲げた。

・文明8年(1477) 長尾景春の乱
  五十子(いかっこ)の戦い
  岩松家純は武蔵国五十子陣に上杉勢と出陣していたが
  長尾景春の攻撃を受けて金山城へ帰陣した。

・文明9年(1477)関東管領:上杉顕定は岩松家純の子:明純に
 下野国足利庄などを与えた。
 岩松家純 VS  嫡男:岩松明純
 岩松家純は一族被官を集めて、神水三ケ条を誓約させた。
  岩松明純の勘当と壁書の執行者として由良国繁を指名した。
※由良国繁は名実ともに岩松家執事としての地位が確立した。
  
 岩松家純は古河公方:足利成氏の陣に加わった。
 勘当された岩松明純は山内顕定を頼って居城鉢形城に身を
  寄せた。その後、足利幕府の相伴衆になった。
 
 岩松明純が反発して再び岩松氏は分裂した。 
 岩松家準は上杉顕定に不信感を抱き、岩松明純を勘当した。

※横瀬国繁・成繁(景繁・業繁)父子は岩松明純の子:尚純(岩松
 家純孫)を家督に据えようと考えた。
岩松家純には明純以外に子が無かったため、重臣:横瀬国繁
が頑張って、岩松明純の子:岩松尚純を後継者としたのだ。
横瀬国繁は古河公方に認可してもらい岩松尚純が岩松氏の家督を
継承することになった。→岩松氏の分裂は解消された。
  (★『松陰私語』)

・明応3年(1494) 絶対的権力を持っていた岩松家純が死去。
   岩松家で内部対立が起こった。
「屋裏の錯乱」・・・岩松明純が横瀬氏から権力奪還を企画。  
 横瀬(由良)父子による支配体制
VS
  横瀬体制に反発する岩松明純・尚純父子を担ぐ一派

岩松明純は尚純を抱き込み、横瀬氏の守る新田金山城を攻めた。
 しかし、由良国繁の守る堅城の金山城は落城しなかった。
足利利成氏による調停が入った。
 結果・・・・横瀬方の勝利
  岩松尚純は佐野庄に蟄居。
  
(★岩松館の近くの墓)

岩松尚純の子:夜叉丸=夜叉王丸(=昌純)が家督に立てら
  れた。傀儡政権であった。・・・解決した。
岩松明純&尚純の巻き返しを図るも企ては失敗し、横瀬氏は
幼君を抱くものの主家を排除した。岩松昌純の跡を継いだ
弟:新田岩松氏純を自害に追い込んだのである。
→横瀬国繁が実権を握ることに成功したのである。
 つまり、横瀬氏が事実上の新田荘の支配者に成り上がったの
 である。・・・★下克上が成立したのだ。

結果、岩松氏は横瀬氏に実権を奪われて没落した。
※横瀬氏は新田義宗の3男とする新田貞氏の子孫と称している。
また、横瀬氏から由良氏に改称した。

・明応4年(1495) 明応の乱
横瀬国繁・成繁父子は岩松家の居城である金山城(群馬県太田市)
 から追い出し、事実上、実権を掌握し、金山城を掌握した。

明応4年 (1495)
4月13日 太田金山城主:横瀬成繁が300人の供を
連れて湯治に来た。
成繁は慰労や傷を癒す為、家臣300名を引き連れて金龍寺
 (群馬県太田市)草津温泉に湯治に訪れた。
「嫡子成繁者四月十三日草津へ湯治、可走廻被官人等三百余人供奉、
 金山者弟四郎只一人在城、大油断之時分也」
 と記載されている。
  (★「松陰私語」)
4月17日、岩松尚純と明純は長尾房清の支援を受け家臣:佐野
  小太郎に命じて金山城に侵攻させた。
  横瀬成繁は急遽、草津温泉を引き上げ金山城を死守した。
 
12月18日 古河公方:足利成氏(しげうじ)の仲介により和睦
  が成立し、形式的には岩松尚純が隠居となり尚純の嫡子で幼少だ
  った夜叉王丸が岩松家の家督を継いだ。
  横瀬成繁父子が夜叉王丸の名代となった。
・文亀元年(1501) 由良成繁が死去。
 戒名:霊雲寺義山宗忠居士、菩提は横瀬氏、由良氏の菩提寺である
  金龍寺(群馬県太田市)に葬られた。
  境内には「義山宗那忠居士」銘の五輪塔が建立されている。
(★金龍寺は太田市金竜寺→土浦金龍寺→高崎市箕郷町の金龍寺)   

・天文5年(1536)下克上で家臣横瀬氏横領
         →由良氏に改姓(横瀬)した。


箕輪初心▲群馬太田「大田山義貞院金龍寺」:新田義貞供養塔
http://53922401.at.webry.info/201403/article_25.html

箕輪初心★新田岩松の歴史&男爵:新田俊純
http://53922401.at.webry.info/201311/article_9.html

箕輪初心●群馬『太田金山城』1回目=石垣の見事な100名城
http://53922401/201311/article_8.htm?i=&p=1&c=s&page=2&guid=on
http://m.webry.info/at/53922401/201311/article_8.htm?i=&p=1&c=s&page=2&guid=on

箕輪初心●群馬『太田金山城3回目前編』
http://53922401.at.webry.info/201403/article_23.html

箕輪初心●群馬『太田金山城3回目後編:本郭〜池〜馬場〜堀切〜
http://53922401.at.webry.info/201403/article_24.html

箕輪初心●群馬『太田金山城発掘調査現地説明会20140316』
http://53922401.at.webry.info/201403/article_22.html


★次は草津温泉:宗祇と宗長かな?
これから、彦部家当主の主催する岩手の紫波(斯波)の
足利義兼子孫:斯波氏館に行きます。斯波氏の子孫は
彦部家で、草津温泉に来た近衛龍山(前嗣・前久)と
彦部晴直の子は永禄3年(1560)長尾景虎(上杉謙信)
に会いに春日山に行きました。既に第1次関東出兵に
出かけた後で、厩橋(前橋城)で合流しました。.彦部家
は桐生に住み着きました。

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