城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』番外編:万里集九『梅花無尽蔵』

<<   作成日時 : 2017/10/03 08:37   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

長享2年(1488)太田道灌の子:太田資康と再会したあとに、
草津に立ち寄った可能性が高いと思ったが、草津には来て
いないことが分かった。
●文亀2年(1502)3月? 万里 集九(ばんり しゅうく)
 詩文集『梅花無尽蔵』の中で
「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、
摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。と記している。日本三名泉とは、万里集九 →
 林羅山によって、 「 日本三名泉」という言葉が生まれた。
画像




●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************
箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし100人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_27.html


箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』F「長野業尚:榛名鷹留城主」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_30.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人G長尾為景:上杉謙信の父
http://53922401.at.webry.info/201710/article_1.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人H大光宗猷


★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。












・戦国時代**************************
戦国時代以降、草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた。
記録が残っている。


●文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
○文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流の歌僧)
○長享2年(1488)万里 集九(ばんり しゅうく)は太田道灌の子
 :太田資康と再会したあとに、草津に立ち寄った可能性が高い。
 文亀2年(1502)3月? 万里 集九(ばんり しゅうく)
 詩文集『梅花無尽蔵』の中で
「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。」と記している。日本三名泉とは、万里集九 →
 林羅山によって、「 日本三名泉」という言葉が生まれた。
●明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
●文亀2年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)★個人的に来ていない説
★宗祇は伊香保に行っちゃった。
○文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
○永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
●大永6年(1526)−長尾為景(上杉謙信の父親)
・大永6年(1526)−長野業尚(箕輪城主)
・大永6年(1526)−曇英恵応(大光宗猷禅師:林泉寺&榛名長年寺)
              子持雙林寺の双子の僧の1人
※延徳2年(1490) 大光宗猷禅師
※延徳2年(1490) 長尾為景 越後国守護代
※延徳2 年(1490) 長野業尚 鷹留城主 であると考えていますが・・
●永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)?
●天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
●天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
●天正10年(1582)−多賀新左衛門(織田信長家臣)
・天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
●天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
徳川家康の正室であり豊臣秀吉の妹である朝日姫は、病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
 徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
 運ばせて入浴していた。
●天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
●天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
●文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
●慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
 前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。
********************************

●●)万里集九(ばんりしゅうく)(1428〜没年不詳1507年?) 
・正長元年(1428)10月17日(9月9日)万里集九が近江に生まれた
 と考えられている。
万里集九は細川京兆家系速水氏の一族であったと伝えられている。
 近江国浅井郡速水郷(滋賀県長浜市):速水城を本貫とする一族で
 あった。
 
・嘉吉2年(1442) 頃 京都の臨済宗東福寺の塔頭永明院の叔父:
  梅西のもとに寄寓して僧になったと考えられている。

・その後は万里集九は京都相国寺雲頂院で修行し、一山派の大圭宗价
に師事した。
 大圭宗价から「集九」の名を与えられたと考えられている。
「万里」は道号、「集九」は諱で、「集」は一山派の太清宗渭の
 法系であることを示す一字である。

・さらに万里集九は建仁寺や南禅寺の講席:蔭涼軒主季瓊真蘂にも
 師事した。
 京都や鎌倉にある五山の僧が漢詩文を作って楽しむ「五山文学」
 が最盛期を迎えていた。
 万里集九は漢詩文の才があり、歌人として頭角を現していった。

・寛正4年(1463) 万里集九は相国寺の玉竜庵に居住した。
  相国寺の友社で横川景三、桃源瑞山とともに歌・漢詩
  などを学んだ。
  奈良や宇治、須磨、明石に遊んで詩を詠んでいる。

・応仁元年(1467)
万里は不穏な動きの前に相国寺を離れ、近江浄行院へ移った。
横川景三(足利幕府顧問)、桃源瑞山も相国寺を離れ、近江慈雲寺
  →永源寺竜門庵に避難した。
  5月 応仁の乱 (1467〜77年)
都は戦乱の巷(ちまた)と化した。
相国寺も兵火を被った。
万里が住んでいた相国寺も焼亡した

・応仁2年(1568) 浄行院 鷗隣斎に仮寓した。
  さらに近江坂田郡大原荘内の正伝庵へ移った。
  還俗した。

・文明3年(1471) 美濃国禅源寺に住み、斎藤妙椿とも交友した。
万里集九は近江→美濃→尾張への避難生活を強いられること
  となった。
さらなる試練が訪れた。女性問題であった。
  禅僧の世界では、女性との交わりは「破戒僧」として、追放処分
  とつなった。万里集九厳しい批判が起こった。
  万里は還俗(げんぞく)するしかなかった。
★臨済宗は厳しかった。浄土真宗の本願寺:蓮如とは大違い。
 蓮如は5人の妻と27人の子どもがいるような絶倫男で
 あった。女性も極楽浄土に行けると説いた。

  万里集九の妻の素性・出自は不明である。
・文明5年(1473) 長男:千里が生まれた。

・文明9年(1477) 次男:百里が生まれる。
万里は40歳後半で2人の男児に恵まれた。

・文明12年(1480) 美濃国鵜沼(うぬま)(現各務原:かかみが
  はら市)に庵室を設け、「梅花無尽蔵」と名付けて定住した。

 「尽きない梅花」という庵名は、中国・南宋の陸游(りくゆう)
 の詩から取ったものである。
 生活は貧しかったが、都を追われた文人や禅僧が彼を慕って訪れた。

・文明13年(1581) 秋 相国寺時代の先輩の画僧:雪舟が美濃を
 訪ねてきて、長男を亡くした万里のため絵を描いてくれた。
その後は尾張国、三河国へ移った。

・文明17年(1485) 10月 太田道灌に招かれて江戸城に滞在した。
万里集九は太田道灌の依頼により「静勝軒記」を記した。

・文明18年(1486) 太田道灌が上杉定正に暗殺された。
 万里集九は太田道灌の訃報(ふほう)を耳にした。
 太田道灌の子:太田資康は扇ガ谷上杉定正に追われた。
万里集九はしばらくは上杉定正に従った。江戸城に行った。
2年が過ぎた。
太田道灌の3周忌を終えてから美濃・鵜沼の自宅へと戻ることに
 した。

・長享2年(1488) 6月18日 須賀谷原の戦い(嵐山町?)
6月 山内上杉顕定は養子:憲房とともに扇谷上杉定正の拠る武蔵
 国河越城を攻略するべく2千の軍勢を率いて武蔵国鉢形城より侵攻
 を開始した。山内顕定の陣が平沢寺にしかれた。太田資康は三浦高
 救(定正の実兄)とともに上杉顕定軍に加わった。これが縁で、三
 浦高救の子:三浦道寸の娘を妻にすることになる。

 扇ガ谷上杉定正は古河公方:足利政氏・長尾景春を味方にした。
 上杉定正は養子:朝良(朝良の娘は長野業政の妻)と共に兵は7百
 余騎で河越城を出て、都幾(とき)川流域の須賀谷原付近に布陣した。
結果…上杉定正が勝利した。
 合戦で死んだ者は7百余、馬は数百という激戦だった(伝)。
 
  万里は江戸城をあとに、太田資康を見舞うことにした。
 万里は江戸城から太田資康のいる武蔵に向かった。須賀谷原の
 戦いから帰ってくる太田資康と再会した。万里集九は平沢(越
 生町)の太田資康の陣中に36日間滞在した。出立の前夜、陣
 中の白山神社の社頭で送別の詩歌会が催された。  
 
 越生町の龍穏寺・・・太田道灌の銅像と墓があるが、別の城に行
ってしまったので、行っていない。

*******************************
箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

※文明元年(1469)〜文明6年(1474)
太田道灌は著名な歌人の「心敬」を品川の館に招いて「品川千句」
連歌会を催した。太田道灌は江戸城内に静勝軒という高閣望楼を
建てて高僧や文人を招いた。江戸城での「武州江戸二十四番歌合」
が残っている。太田道灌は飛鳥井雅親・万里集九などと交流して
歌道にも精通していた。様々な和歌が残されている。有名な
「山吹の里」の伝説はここから生まれたとも言われている。

箕輪初心★東京【江戸城の歴史詳細】太田道灌〜上杉〜北条〜徳川
http://53922401.at.webry.info/201410/article_35.html

箕輪初心:生方▲【関東管領:上杉顕定の戦いの人生】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_2.html

箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html

箕輪初心:生方▲箕輪城232【山内上杉憲房・上杉憲寛・長野業政&扇ヶ谷上杉朝良】
http://53922401.at.webry.info/201612/article_2.html


*******************************
万里集九は武蔵(東京・埼玉)で平沢寺〜〜〜鎌倉上道→
上野国(群馬県)→越後(新潟県)→越中(富山)→
美濃(岐阜県)の鵜沼の自宅に帰る決心をした。


万里 集九(ばんり しゅうく)漢詩文集『梅花無尽蔵』
@8月16日 万里は武蔵越生の竜隠寺に着いた。
   太田道灌の父:道真が隠棲していた。

A8月17日 「須賀谷の北、 平澤山に・・・資康に軍営を問ふ。」
  万里は平沢の太田資康の陣中に36日間滞在した。

B9月13日 越後太守:常帯(上杉顕定の父:上杉房定か?)から
       馬を貰った。
★上杉顕定や長尾忠景の子:顕忠(惣社長尾)もいた。

B9月20又6日 平沢を出て、鉢形に向かった。馬は痩せて・・・
   36日朝・・
と記述されている
    ★山内上杉顕定の鉢形城に泊まった。
  「關左の管領、彼の郎に命じ、余の行伴と為し、云々」
  (關左の管領=関東管領上杉顕定、彼の郎=尻高孫二郎」
  上杉顕定が家臣の尻高孫次郎(群馬県高山村尻高)に
  道案内させた。

C9月27日 ===利根川渡河=======
       上野角淵(現玉村)に着いた。
★平井城には寄らなかった。

D9月28日 角淵を断ち・・・途中、「馬上に・・惣社を拝す。」
★上杉顕定家宰:長尾忠景の館(現前橋総社神社など)
「黒髪山(現榛名山)を望み。」・・・註では赤木山
「五老峰を・・・」
 白井(群馬県渋川市子持)に着いた。
「6里も移動した。42km・・・」
 『 白井は「京洛の如し」』
 ★上杉顕定の養子:上杉憲房が白井城主だった。
        いたかは不明である。

E9月29日 白井を去り、沼田にむかふ。
  沼田泊



F9月30日 吾妻川を遡り、 
  ★中之条から 尻高孫二郎の家にも行ったと思われる。
  小山中(★場所不明)につく。

 ★草津に来ていないことは判明した。


G10月1日 沼田館に行き、鍛屋に泊まる。

H10月2日 相間田泊(みなかみ町相俣・・・ダムの下に沈んでいる。)
 現猿ヶ京・・・当時は村がなかった。・・▲三国山・・・

I10月3日 「□□かきかけの湯」泊・・・漢字で書けない。
   ★貝掛温泉にことである。
箕輪初心◆新潟【bP0神楽スキー場】&【貝掛温泉】
http://53922401.at.webry.info/201205/article_25.html

J10月4日 石白(湯沢?)泉福寺泊
   尻高孫次郎の弟の法要で 歌を詠んだ。

K10月5日 上田(六日町)大義寺泊で宴
   ★上杉憲房の本拠地である。


L10月7日 大義寺を出た。
   ★上杉の菩提寺

M10月8日 ====信濃川渡河=====
  十日町を通り、・・・

N10月9日 柏崎に入る。
   琵琶島城(新潟県柏崎市) 宇佐美房忠は万里集九を招いた。

O10月11日 柿崎を通り、府中(上越市)に着いた。
  越後太守:常泰(上杉房定)が歓待してくれた。犬を褒める。
  歌を作った。

P10月16日 雪の中、府中を出て、東崎に泊まる。

Q11月17日 能生に着いた。 




草津
「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。

と記している。


・延徳元年(1489)5月 美濃の下呂温泉に入湯している。
 美濃の鵜沼の自宅に帰還した。
  東遊期間中に作った漢詩などをまとめた詩集「梅花無尽蔵」の
 執筆に取りかかった。

・延徳3年(1491) 下呂温泉に入湯している。
(★下呂温泉に万里集九の碑がある。)

文亀2年(1502)3月? 日本三名泉とは、万里集九 → 林羅山によって、
 「 日本三名泉」という言葉が生まれた。


・永正3年(1506)
漢詩文集の東国旅行記『梅花無尽蔵』7巻が完成と言われる。
 
・永正4年(1507) 頃 死去した。80過ぎまで生きたという。
 美濃国(岐阜県)鵜沼に「梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)」
 という風雅な名前の庵を結んで暮らした禅僧:万里集九
 が死んだ。


★明日も草津温泉と宗祇・宗長かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』番外編:万里集九『梅花無尽蔵』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる