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zoom RSS 箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人H大光宗猷禅師=曇英恵応:林泉寺創建

<<   作成日時 : 2017/10/02 06:08   >>

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長野業尚・長尾為景・大光宗猷禅師・が草津温泉に入った説は
2つある、※延徳2年(1490) 説と大永6年(1526)説である。
草津温泉の標柱には延徳2年(1490)長尾為景・長野業尚・
曇英恵応(大光宗猷禅師)が草津温泉に来たとある。
大永6年(1526)説ならば、大光宗猷禅師は永正元年
(1504)に亡くなっているのであり得ない。
林泉寺和尚様の話では、「大光宗猷禅師=曇英恵応は
上野国(群馬県)子持の雙林寺の双子の僧の1人で林
泉寺&榛名長年寺を開基した人物です。」とのこと、
※久保田順一説「年不詳? 長野業尚の草津温泉遊蕩
長野業尚は草津温泉で入湯した時、長尾為景(上杉謙信父)
 &恵応(雙林寺3世)に会った。→不思議体験伝説
「草津温泉に泊まった湯本氏の旅館?・・息子が死んで、
 温泉が出なくなった。・・・これに答えた3人衆・・・
 やがて、温泉が再び出てきた。・・・・」
(★「久保田順一先生講演会」・『箕輪城と長野業政』久保田順一著)
画像




※延徳2年(1490) 大光宗猷禅師
※延徳2年(1490) 長尾為景 越後国守護代
※延徳2 年(1490) 長野業尚 鷹留城主

・大永6年(1526)−長尾為景(上杉謙信の父親)
・大永6年(1526)−長野業尚(箕輪城主)
・大永6年(1526)−曇英恵応(大光宗猷禅師:林泉寺&榛名長年寺)
              子持雙林寺の双子の僧の1人


●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************
箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし百人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_27.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_28.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』F「長野業尚:榛名鷹留城主」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_30.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人G長尾為景:上杉謙信の父
http://53922401.at.webry.info/201710/article_1.html
              



★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。











・戦国時代**************************
草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた記録が残っている。

●bU:文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
○番外:文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流
    の歌僧)
●bV:延徳2 年(1490) −長野業尚 鷹留城主
●bW:延徳2年(1490)− 長尾為景 越後国守護代
●bX:延徳2年(1490) −大光宗猷禅師
●10:明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
●11:文亀2年(1502)3月? 万里 集九(ばんり しゅうく)
 詩文集『梅花無尽蔵』の中で
「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。
と記している。日本三名泉とは、万里集九 → 林羅山によって、
 「 日本三名泉」という言葉が生まれた。
●12:文亀2年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)★個人的に来ていない説
○番外:文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
  ★上記の通り、宗祇は来ていない。伊香保に行っちゃった。
○番外:永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
・大永6年(1526)−長尾為景(上杉謙信の父親)
・大永6年(1526)−長野業尚(箕輪城主)
・大永6年(1526)−曇英恵応(大光宗猷禅師:林泉寺&榛名長年寺)
              子持雙林寺の双子の僧の1人
●13:永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)?
●14:天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
●15:天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
●16:天正10年(1582)−多賀新左衛門常則(織田信長家臣)
○番外:天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
●17:天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
徳川家康の正室であり豊臣秀吉の妹である朝日姫は、病気療養
のために草津を訪れたとされている。
 徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
運ばせて入浴していた。
●18:天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
  豊臣秀吉の異父兄弟:豊臣秀次も来ている。
●19:天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
●20:文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
●21:慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。

********************************
【9】曇英恵応:應(どんえい えいおう)=大光宗猷禅師
応永31年(1424)〜永正元年(1504)
曇英恵応
箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会
『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html

箕輪初心●新潟『林泉寺』=和尚様と話した。
http://53922401.at.webry.info/201305/article_30.html

・応永31年(1424) 京都で生また。
・永享2年(1430 )6歳の時に円覚寺で修行した。
円覚寺…臨済宗大本山(神奈川県鎌倉市)
箕輪初心■神奈川:古都鎌倉@=世界遺産推薦  
http://53922401.at.webry.info/201201/article_32.html
 
相国寺…臨済宗(京都府京都市上京区)
 
 ・永享4年(1432) 上杉憲実が足利の領主になった。
  足利学校の中興に尽くした。

  足利学校…中世の関東の最高学府)栃木県足利市

箕輪初心◆栃木:【足利学校】3回目
http://53922401.at.webry.info/201312/article_5.html
・永享11年(1439) 上杉憲実は永安寺を攻撃した。
   足利持氏・義久は自害した。  

・永享12年(1440) 結城の戦い
  結城氏朝が足利持氏の遺児:春王丸、安王丸を擁して挙兵
  した。
  足利幕府:足利義教に上杉憲実は出陣を命じた。

・嘉吉元年(1441) 嘉吉の乱
 足利義教が暗殺された。
 足利幕府は上杉憲実に関東管領復帰を命じた。
 隠居していた上杉憲実は甥で越後守護:上杉房朝に
 預けていた次男も上杉房顕を除く子供達に出家させた。
 上杉清方を関東管領として認めざるを得なくなった。
・文安元年(1444) 上杉清方が死去。
  〜〜〜山内上杉家の家督と関東管領の地位が空白にな
  った。〜〜〜〜
 上杉憲実は山内上杉家の血を引く佐竹実定を後継者に指名し
 た。
 →家宰:長尾景仲 VS 上杉憲実

・文安4年(1447) 足利持氏の遺児:足利成氏が鎌倉公方に
  なった。
  上杉憲実の長男:上杉憲忠が長尾景仲に擁立され関東管領
  に就任した。
 
  上杉憲実は嫡子:上杉憲忠を所領を全て没収した。
 
・宝徳2年(1450) 江ノ島合戦
足利成氏+子:上杉憲忠 VS 父:上杉憲実

  足利幕府は上杉憲実に関東管領復帰を命じたが、隠遁して
  上杉憲実は応じなかった。

この後、上杉憲実は諸国遍歴の旅に出た。
  鎌倉〜京都〜九州にまで。

・享徳元年(1452) 上杉憲実は大内氏を頼って山口に留まった。

・享徳3年(1454)享徳の乱の勃発
  足利成氏は上杉憲忠を暗殺した。
  享徳の乱が始まった。
 この後、上杉憲実は諸国遍歴の旅に出て、京都、九州にまで赴き、
  大内氏を頼って留まり、大寧寺を安堵の地としたのである。
  上杉憲実の子
 上杉憲忠・・・・9代:山内上杉家当主
 上杉房顕・・・・10代:山内上杉家当主
 周清 
 法興
 周泰
 佐竹実定・・・佐竹家への養子
・寛正7年(1466) 上杉房顕が五十子(埼玉県本庄市)にて陣没した。
  享年32。関東管領は従甥で養子の上杉顕定が継いだ。

・文正元年(1466) 上杉憲実は長門大寧寺で死去。享年57歳。
   (★「大内氏実録」)

箕輪初心★上杉家A『8代:上杉憲実〜9代:憲忠〜10代:房顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html
******************************
・宝徳2年(1450) 曹洞宗慈眼寺(福井県南条郡南越前町)
   天叟祖寅に師事し曹洞宗に改宗した。

・享徳4年、康正元年(1455) 曹洞宗:大寧寺(山口県長門市深川湯本)
で修行した。
  上杉憲実が大寧寺に身を寄せていた。
 ★曇英恵応は上杉憲実に会いに行った可能性が考えられる

  曹洞宗:龍文寺(山口県周南市)で修行した
  曹洞宗:永澤寺(兵庫県三田市)で修行した。
 
  一州正伊(月江正文の直弟子)の弟子になった。

・宝徳年間(1444〜1452) 一州が長尾景仲に招かれ
 雙林寺(群馬県渋川市)を創建した。
 曇英恵応も尽力した。
 曇英恵応は雙林寺の住職になった。

・文明4年(1472) 一州が最乗寺(神奈川県南足柄市大雄町:曹洞宗)
  の住職になった。
 曇英恵応も随行した。
 ★私は寄らなかった。金太郎伝説と足柄山城に行っちゃった。

・長享元年(1487) 一州の死去した。
  曇英恵応は一州の法を嗣いだ。

延徳2年(1490)長尾為景・長野業尚・曇英恵応(大光宗猷禅師)
  が草津温泉に来た。

・明応6年(1497) 長尾能景が完成させた七堂伽藍の落慶のため、
  越後守護代長尾能景(よしかげ)が亡父重景(しげかげ)
 の17回忌にあたり、長尾家の菩提所として創建した。
 (★林泉寺和尚様の話)

・文亀元年(1501) 鷹留城の初代城主長野尚業に召還され長年寺
(群馬県高崎市下室田町)を開山した。

延徳2 年(1490)説を採れば、70歳をすぎた曇英は開基となった。
  長尾能景との過去の約束を果たしたことになる。



・????永平寺に招かれた。
当時の永平寺は衰退期にあり、恵應は復興の手腕を期待され奔走し
たが在任は短期間であったとみられる。このため、現在では公式に
は歴住(歴代住職)に数えられていない。


・永正元年(1504) 亡くなった。享年80。

 
・大永6年(1526)−曇英恵応(大光宗猷禅師)が草津温泉に来た。
 ★死んでからは来られないので、変である。
   

*******************************

●曇英慧応の『春日山林泉開山曇英禅師語録』に関すること

●林泉寺の和尚さんの話********************
林泉寺が越後国主によって維持されてきたことを物語る展示資料を
 収蔵・公開する資料館です。長尾家時代のものから上杉家・堀家
・松平家・榊原家へと、連綿と受け継がれてきた歴史資料があります。
 500年以上の昔・・・越後守護代長尾重景と諸国を行脚してい
 た曇英慧応という僧侶が、柿崎の地で出会った。長尾重景は
 曇英和尚を越後に留まってもらうために下小野に庵を建てた。
 その庵こそが林泉寺のもとになります。
長尾重景が亡くなった時。息子の長尾能景は、父の17回忌まで
 には春日山城の麓に曹洞宗の修行道場:林泉寺を建立すると宣言
 し、落慶式に迎えに行くと約束をして別れました。
★ちなみに、曇英が群馬県高崎市の長年寺住職の双子の弟だという。
開山約40年後、長尾能景の孫でまだ7歳の幼い少年が、林泉寺の
 門をくぐり、そののち7年間、6代目の住職天室光育のもとで薫陶
 を受け育てられた。その少年が後の上杉謙信であったのだ。



●森田真一先生の講演会********************
『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』「長年寺開堂之仏事」
『・・・信州太守長野業尚公、・・・私財を投げ打って・・・
 ・・嫡嗣:憲業左金吾氏、庶子:金刺明尚諏訪公、ならびに慈母
 松畝正貞婆夷、家臣下田近江守家吉、・・・一宇を建立し、・・・
 文亀元年(1501)八月念八日。』

・文亀3年(1503) 長野尚業(業尚)が没し、長野憲業は家督を
継承した。長享の乱では、関東管領である山内上杉顕定に合力して
扇谷上杉朝良を屈服させることに貢献した。惣社長尾氏、白井長尾
氏との抗争をくりひろげ、上州一揆の中心として長野氏の戦国大名
化を図った、大永年間の後半においては両長尾氏をしのぐ勢力を築
いた。

●黒田基樹先生説**********************
『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』「長年寺開堂之仏事」の記述より、
諏訪明尚以外に憲業の弟はいなかったとする。
黒田基樹先生は、長野方業が長野憲業の弟である可能性については、
父:長野業尚が建立した室田長年寺に関する記録には長野憲業の弟と
して松井田諏訪氏を継いだ諏訪明尚のみが記載されており、諏訪明尚
以外の弟の存在を否定している。



●久保田順一先生講演会********************
箕輪初心▲箕輪城150久保田順一先生【室田長野氏:長年寺&鷹留城】  
http://53922401.at.webry.info/201412/article_10.html

【1】長年寺の位置
1)無極恵徹・・・・・・松井田補陀寺
・応永年間  群馬県最古の曹洞宗の寺:安中氏開基。

2)月江正文・・・・・ 

3) 一州正伊・・・・・群馬県雙林寺開山・開基は長尾景信
↓ ・沼田の恕林寺・月夜野の玉泉寺を開基。

4)天倫正挺・・・・・・群馬県雙林寺2世
↓ ・小幡最乗寺の開山・小幡氏の開基
5)曇英恵応(どんえい えいおう)・・・・群馬県雙林寺3世 
・応永31年(1424)〜永正元年(1504)
  藤原転法輪家・・鎌倉円覚寺、京都相国寺等で臨済宗を学んだ。
 
・長享元年(1487) 曹洞宗:一州正伊の法を継いだ。
 雙林寺3世となった。
 最乗寺などの名刹の住職となった。

・明応6年(1497) 越後の林泉寺の開基。

・文亀元年(1501) 長年寺を開基?・・・入寺?。
※延徳2 年(1490)説ならば、長尾能景との過去の約束を果たした
  のであった。となる。

・永正元年(1504)恵応は大庵須益、為宗仲心らの推挙により永平寺の
  住職に就任した。永平寺の復興の手腕を期待されたが在任は短期
  間であった。公式には歴代住職に数えられていない。

【2】榛名長年寺の成立
・延徳2年(1490) 長野業尚の草津温泉遊蕩
長野業尚は草津温泉で入湯した時、長野為景(上杉謙信父)
&恵応(雙林寺3世)に会った。
→不思議体験伝説
「草津温泉に泊まった湯本氏の旅館:?・・息子が死んで、
   温泉が出なくなった。・・・これに答えた3人衆・・・
   やがて、温泉が再び出てきた。・・・・」

・明応2年(1492)長野伊予守業尚が建立。
長年寺を開基?
(★「長年寺縁起ならび由来記:高崎市史4」

・文亀元年(1501) 曇英恵応が榛名長年寺に入寺。
(★日本洞上諸祖伝等)
・大庵須益、為宗仲心らの推挙により永平寺の住職に就任した。



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