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zoom RSS 箕輪初心:生方:▲草津に歩みし100人:『戦国時代の草津温泉ブーム創作編』

<<   作成日時 : 2017/10/13 10:59   >>

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戦国時代、草津の湯は刀傷や病気(特にハンセン氏病など)の
治療によく効く温泉として武将が入湯しました。織田信長さん
や豊臣秀吉さんは草津温泉に来ていませんが、信長さんの家臣や
秀吉さんの身内や家臣もわざわざ草津まで足を運んだのです。
草津温泉は既に有名だったんでしょうね。『草津温泉が全国区で
比例代表のトップ当選みたいな・・・温泉の大関クラスだった
ことになるんでしょうねえ。江戸時代最初は大関がチャンピオン
であって。後、横綱ができ、グランドチャンピオンになったよう
です。』
画像


]
★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。












・戦国時代**************************

06●文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
○○○文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流の歌僧)
○○○長禄2年(1488) 万里集九は草津には来ていないようである。
07▲延徳2年 (1490) −長野業尚 (榛名鷹留城主)
   ★文亀3年(1503) 長野業尚が死亡なので草津の大永6年(1526)
  の年号は間違っている。     
08▲延徳2年(1490)−長尾為景 (越後国守護代)
   ★長尾為景が2歳?
09▲延徳2年(1490)−大光宗猷禅師(曇英恵応:越後林泉寺&榛名長年寺)
   ★大永6年(1526)まで生きていなかった。
10●明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
11●文亀4年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)
★宗祇は越後の帰りに伊香保に行っちゃったので来ていない。
  と思ったが、来ていた。
○○○文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
○○○永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
◆◆◆戦国時代     湯本善太夫は草津温泉を支配していた。
12●永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)
 ★「関東古戦録」がベースなので、信憑性は疑わしい。
13●天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
14●天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
15●天正10年(1582)−多賀新左衛門常則(織田信長家臣)
○○○天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
16●天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
  豊臣秀吉の妹である朝日姫は、徳川家康の正室であり病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
17●天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
   豊臣秀吉の異父兄弟:豊臣秀次も来ている。
18●天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
19●文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
20●慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
  前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。
△徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
 運ばせて入浴していた。

********************************




●天正10年(1582)4月3日〜
L丹羽長秀さん・M堀秀政さん・N多賀常則さんが来ています。
A、武田家滅亡祝いには丁度いい骨休めだったのでしょうか?

B,信長さんに「いっといで。」言われたからなのでしょうか?

C,刀傷・槍傷を癒やすための湯治にきたのでしょうか?

D,真田昌幸さんが3月下旬には織田信長さんに馬を献上している
ついでに「草津よいとこ、一度はおいで?」をしたのでしょうか?
それで、信長さんが丹羽長秀さん・堀秀政さん・多賀常則さんに
「草津に行ってお出でよ。」言ったのかもしれませんね。

E、はたまた、真田昌幸さんが結構、妖しい動きをするので、
 織田信長さんが偵察に行かせたたのでしょうか?

しかし、諏訪から草津まで結構遠いですよ。諏訪上社→和田峠→長久保→
上田→真田(昌幸さんの地盤)→鳥居峠→吾妻→草津温泉が最短コースで
すよね。4月3日には草津温泉で昌幸さんと湯本幸運さんが待っていて
「ようこそ、草津へ。まずは一風呂召し上がってくされ。」なんてね。
風呂で酒を飲みながら〜〜〜「草津よいとこ一度はおいで〜」・・・
まだ草津節は出来ていなかったなあ。
「お土産はちょっと硫黄なんていかがですか?」・・・なんて。


●天正15年(1587)には本願寺座主の光佐さんと2人の息子:光寿さん
・佐起さんが来ています。きっとおじいさまの蓮如様に
 「草津温泉は最高」なんて言われていたのかもしれなせん。


●天正15年(1587)同じ年に豊臣秀吉さんの妹:朝日姫さんもきていま
 す。前の年、秀吉さんから「家康君はわしゃのところにキチンを顔を
 みせてくれんでのう。お前、前の夫と離縁してくれんかのう。
 家康君のお妾さんになってちょ。」
 「でも、わたし44歳で、ばばあですよ。」
 「大丈夫、家康君はひとつ上だから。」
 「築山殿がいるし、・・・家康さんには19人も奥さんいるし、・・」
  いやいや離婚なんて:¥」
 「政略結婚として徳川家康の側室?正室?になってくれるとありが
  たいんじゃが。」
 それでも、家康君は上洛してくれない。
 そのあと、秀吉さんは「おかあ、家康君のところに行ってくんろ。」
 大御所様は岡崎城に出向いたとさ。
 井伊直政君は短気だけど、菅田さんみたいに若くて格好良くて、
 大変よくお世話をしてくたと。
  やがて、井伊直政さんが大御所様を送っていって、秀吉君に
 「よく、おっかあの面倒をみてくれた。わしの家臣にならんか?」
 と誘ったと・・
 「私は主君は1人しかおりません。」
 と断ったと。
 「では、ご褒美に「侍従」の位をあげよう。」
 と直政君にいったと・・ 
  朝日姫さんは、病気療養のために草津を訪れました。
 仮病?あるいは精神的な鬱状態なったのかもしれませんね。
 
「ねー、お兄ちゃん、草津の湯はえがったよ。」
と朝日姫は秀吉君に手紙を書いた?本当はわかりません。
「やっぱ、・・・長秀君も秀政君も常則君の言っていたけんど、
 草津の湯は有馬の湯よりいいのか?おらもいっでみでえ。」
なんてことはなかったかあったか?

●天正16年(1588) P関白:豊臣秀吉君の養子:豊臣秀次君
 は 朝日姫の話を聞いた。秀次君も草津の湯に行くことにした
 んだって・・・。
 Q家康君の家臣で、小諸城主の松平(依田)康国君が全て
 接待してくれるし、楽しみだなあ。誰、つれていこうかな?
 真田の幸繁君も連れていきたいな?
 って思ったかもしれませんね。
 
秀吉君は2人から草津の湯の素晴しさを聞いてしますし、真田昌幸
君・真田幸繁君の勧めもあってか、ますます草津へ行ってみたいと
思ったのでしょうねえ。

・天正18年(1590)7月5日、秀吉君は小田原の北条氏を滅ぼして、
 さらに小田原攻めに参加しなかった奥州勢にお仕置きをしなくち
 ゃと北上しました。
 秀吉君は天下を統一を果たしました。
 秀吉君は、秀次君に関白職を譲りました。

・文禄元年(1592)には、秀吉君は朝鮮乗っ取り作戦を開始することに
  しました。忙しくなるぞ。

・文禄3年(1594)
Q豊臣秀吉君の家臣:大谷吉継君が草津の湯に行くことにしました。
  吉継君はハンセン病患者で、特に眼を患っていた。
  吉継君は当時は医者も治すことができなかったのです。
  治療の甲斐なく皮膚がただれ、次第に目も見えなくなったきた
  そうですが、草津の湯が万病に効くことを聞いて湯治に訪れる
  ことにしたのでしょう。
  ハンセン病の治療に最適と最期の望みを抱いて草津に来てことに
  なるでしょう。強酸性のお湯に期待しのでしょう。

 吉継君は直江兼続君に手紙でわざわざ書きました。
  「草津の湯って目に良いんだって」
  「ほんと?」
※直江兼続に宛てた書状に
 「眼相わずらい候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」
 と書いている。
  
 親友の石田三成君に
 「俺、草津にいってくらあ。目の病気を治すためにね。」
 大谷吉継君は草津を訪れました。
    慶長5年(1600)関ヶ原の時には吉継君はすでに失明していたとも
 言われている。また、蓮台の上に乗って采配を振るったとされてお
 るそうじゃ。
 でも、親友の三成君に味方し「関ヶ原の戦い」で散っていったの
  でした。

 草津でハンセン病患者に対する救済活動においてもっとも有名なのが
コンウォール・リー女史による聖バルナバ・ミッションです。
大正5年よりリー女史は、湯之澤部落での活動を開始し、私財や寄付金
により生活困窮者の救済にあたりました。聖バルナバ・ミッションは
昭和16年まで継続されました。
(★草津温泉とハンセン氏病Hpより引用)



秀吉君は伏見城の築城を始めることにしました。
   でも秀吉君は体の具合を悪くなり、有馬の湯にいきました。
家康君は心配するふりをして、熱海の湯を送りました。
  そして、家康君は「草津の湯もいいですよ」
と奨めてくれなした。
 行ったことないくせに?徳川家康君はは、草津を訪れたことは
 ないものの、草津の湯を江戸城へ運ばせて入浴していたのです。
  家康君は草津に行けない代わり草津の湯と氷を送ってもらったの
 であったのでした。家康君も草津ファンだったのでしょう。
「草津は真田信幸の支配地だったので、家康も行ける状況にはあった。
なにせ、本多忠勝君の娘:稲を養女にして、真田信幸に嫁がせていた
 のであった。でも、真田昌幸とは知略家同士でちょっと敵対していた。
本多忠勝君も「草津に行きます!」って真田信幸君に手紙を出した。
 娘婿殿ですから、・・・でも行けなかった。残念。
 
 12月には秀吉君は伏見城に移りました。
・文禄4年(1595)正月、豊臣秀吉君は草津温泉に湯治に出かける
 計画を立てました。
 真田昌幸君の次男:幸繁君に
「わし、草津の湯にいきたいんじゃが・・」
「是非、いらしてください。父:真田昌幸も喜ぶでしょう?
  草津は湯本三郎右衛門と申す者が管理してしていますので、
  そのものに手紙をかきます。・・・」
「どう予定を立てたらいいんじゃあ?」
 「予定は、3月15日 京都伏見城→大津(京極氏)→佐和山(三成君)
 →大垣→岐阜→落合(中津川市)→恵那の峠→木曽福島→松本にしようか
 岡谷にしようか?やっぱり諏訪経由かなあ 上田→真田→鳥居峠・・・
 吾妻・・・
 3月26日頃には、草津に着くかなあ?」
 なんて、会話があったかもしれませんね。

 そして秀吉君は「3月25日までに、草津の湯にわしの御座所を建てる
 ように」
 浅野幸長(笠間城主)、千石秀久、石川三長の3人に指示しました。
 3人は普請奉行に選ばれました。
 豊臣秀吉が草津へ行くための触れを出しました。
  
 草津の主:湯本三郎右衛門君は秀吉君の一行を接待するために
 大変な思いで準備をしていたのでしょうね。
 
 秀吉君は草津の湯に行く道中の宿泊先や供の人数などもばっちり
 決まっていたけれど、・・・・
 ところが、ところが、ドタキャンしてしもうたのです。

 朝鮮の乗っ取り計画の方が優先だなっしー?
 わしももう年だし・・・
 ということで、秀吉君のの草津湯治は実現しませんでした。
秀吉は西の名湯:有馬の湯には何度も入湯していましたが、東の草津
 に行けなかったのは心残りだったでしょうね。
7月、秀吉君は養子の秀次君を高野山に追放して、切腹を命じて
 います。


それから3年後
●慶長3年(1598)4月〜5月 前田利家君は遠路はるばる草津の地を
 訪れて、草津温泉に入湯しました。
 利家君は豊臣秀吉君の親友で加賀100万石という五大老で
 あった。隠居したとはいえ、前田利家君を草津は迎えるのは
 大変なことだったに違いありません。
一行には謡曲師や楽師も含まれる盛大なものだったそうです。
 利家様の湯治中、家康様や浅野長政様、堀秀治様などが衣服や布団
 などの見舞品を送った記録もあるそうです。
利家君は亡くなる前の年に来たんです。
「もう、わしも死が近い。最後にどんちゃん騒ぎで楽しく
 過ごそう。」

「太閤様、やっぱり草津はよいとこでした。」
と言って草津を後にした。

・慶長3年(1598)8月18日 豊臣秀吉様は伏見城で薨去。享年62。
 前田利家君は「生まれ変わったら、今度は2人で草津温泉に
  行きましょう。」
  と冥福を祈ったかもしれません。

・慶長4年(1599)前田利家がお亡くなりになりました。
********************************

●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************
箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし百人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_27.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_28.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』F「長野業尚:榛名鷹留城主」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_30.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人G長尾為景:上杉謙信の父
http://53922401.at.webry.info/201710/article_1.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人H大光宗猷禅師=曇英恵応:林泉寺創建
http://53922401.at.webry.info/201710/article_2.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』番外編:万里集九『梅花無尽蔵』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_3.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』10『横瀬成繁』太田金山城主
http://53922401.at.webry.info/201710/article_8.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人:連歌師『J宗祇』&番外編『宗長』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_9.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人『草津管理人:湯本善太夫』
と『真田ブログ一覧』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_10.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人ー12『甘楽国峰城主:小幡信貞』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_11.html


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