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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』F「長野業尚:榛名鷹留城主」

<<   作成日時 : 2017/09/30 06:53   >>

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長野業尚・長尾為景・大光宗猷禅師・が草津温泉に入った説は
2つある、※延徳2年(1490) 説と大永6年(1526)説である。
草津温泉の標柱には延徳2年(1490)長尾為景・長野業尚・
曇英恵応(大光宗猷禅師)が草津温泉に来たとある。
文亀3年(1503) 長野業尚が亡くなっているので
個人的には延徳2年(1490) 説を取りたいと考えている。
大永6年(1526)の年号は間違っていると考えている。  
しかし、伝説・伝承の域を出ないのかもしれないが、・・・
長野業尚は榛名鷹留城主であるが、系図によっては箕輪城主
もある。長尾為景は越後守護代で上杉謙信の父である。大光
宗猷禅師=曇英恵応は子持雙林寺の双子の僧の1人で林泉寺
&榛名長年寺を開基した人物である(林泉寺和尚様の話)。
※久保田順一先生説「年不詳? 長野業尚の草津温泉遊蕩
長野業尚は草津温泉で入湯した時、長尾為景(上杉謙信父)
&恵応(雙林寺3世)に会った。→不思議体験伝説
「草津温泉に泊まった湯本氏の旅館?・・息子が死んで、
 温泉が出なくなった。・・・これに答えた3人衆・・・
 やがて、温泉が再び出てきた。・・・・」
(★「久保田順一先生講演会」・『箕輪城と長野業政』久保田順一著)

画像



箕輪初心:生方▲箕輪城188【鷹留城】築城3説と落城3説
http://53922401.at.webry.info/201606/article_23.html

箕輪初心▲箕輪城149:久保田順一先生
【室田長野氏:長年寺&鷹留城】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_10.html

箕輪初心:生方▲箕輪城172峰岸純夫説を加味した
『武田信玄の西上州侵攻&箕輪城落城』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_7.html

『箕輪城と上州戦国史』
http://minowa1059.wiki.fc2.com/
http://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E4%B8%8A%E5%B7%9E%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%B0%8F%E8%A9%B1



※延徳2年(1490) 大光宗猷禅師
※延徳2年(1490) 長尾為景 越後国守護代
※延徳2 年(1490) 長野業尚 鷹留城主
・大永6年(1526)−長尾為景(上杉謙信の父親)
・大永6年(1526)−長野業尚(箕輪城主)
・大永6年(1526)−曇英恵応(大光宗猷禅師:林泉寺&榛名長年寺)
              子持雙林寺の双子の僧の1人
              
★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。










●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************
箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし百人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_27.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_28.html





・戦国時代**************************
草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた記録が残っている。

●bU:文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
○番外:文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流
    の歌僧)
●bV:延徳2年(1490) −大光宗猷禅師
●bW:延徳2年(1490)− 長尾為景 越後国守護代
●bX:延徳2 年(1490) −長野業尚 鷹留城主
●10:明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
●11:文亀2年(1502)3月? 万里 集九(ばんり しゅうく)
 詩文集『梅花無尽蔵』の中で
「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。
と記している。日本三名泉とは、万里集九 → 林羅山によって、
 「 日本三名泉」という言葉が生まれた。
●12:文亀2年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)★個人的に来ていない説
○番外:文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
  ★上記の通り、宗祇は来ていない。伊香保に行っちゃった。
○番外:永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
・大永6年(1526)−長尾為景(上杉謙信の父親)
・大永6年(1526)−長野業尚(箕輪城主)
・大永6年(1526)−曇英恵応(大光宗猷禅師:林泉寺&榛名長年寺)
              子持雙林寺の双子の僧の1人
●13:永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)?
●14:天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
●15:天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
●16:天正10年(1582)−多賀新左衛門常則(織田信長家臣)
○番外:天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
●17:天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
徳川家康の正室であり豊臣秀吉の妹である朝日姫は、病気療養
のために草津を訪れたとされている。
 徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
運ばせて入浴していた。
●18:天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
  豊臣秀吉の異父兄弟:豊臣秀次も来ている。
●19:天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
●20:文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
●21:慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。

********************************

◆初代箕輪城主:長野業尚(なりひさ・尚業とも)(?〜1503年)
箕輪初心●箕輪城シリーズC「長野業尚と箕輪城築城説」
※応仁の乱・関東では享徳の乱で戦国時代に突入した。
★箕輪初心私見「箕輪城は1477年、以前に存在した可能性も
 ある。」

蔵屋敷下の三の丸から発掘された長野時代の遺構。
つまり、本郭堀が2ヶ所で発掘されたことにより、今の本丸の形と
違う変形三角形と判明した。田口先生(現高崎市教委)に説明を
いただいた。

 ◆◆全部で16の長野氏系図+羽田孜元総理大臣(業政娘婿子孫)
の系図◆◆
 ※長野正夫氏系図など(箕郷町誌:近藤義雄先生)
→@長野業尚(尚業)→A信業(=憲業)→業氏(鷹留城)→業通
            ↓      ↓       女子5人
           →方業(厩橋城)↓       勝業
                   ↓       男子2人
                   ↓
 →B業政→吉業
      C業盛(氏業:近藤説)→亀寿丸:鎮良
       女子12人   
 
※長野稔氏系図?など(久保田順一先生)
  尚業→憲業・・・・・・(業氏を養子)
   →@信業・・・・・業氏・・・・・・業通
       A業政・・・・B業盛
   →方業(方斎)・・・
 
◆箕輪城築城に至る歴史
・応仁の乱・永享の乱→戦国時代「上州旗揚げ一揆・・・下克上の時代」
@享徳3年(1454)年〜文明14年(1482) 享徳の乱
・享徳3年(1454)年 
   山内上杉(児玉の城→本庄の五十子いかっこに陣)
    VS
   古河公方(現茨城県古河)

・文明3年(1471)享徳の乱
   長野左衛門尉は足利義政から感状(感謝状)をゲット。
 将軍足利義政は、古河公方足利成氏攻めに戦功のあった味方の武将
 に大量の御内書を発給した。

 長野左衛門尉為業(兼)と小幡右衛門尉は、守護上杉顕定の注進に
 基づいて御内書を得た。
長野業尚説もあるが、無理がある。
 ★時代が合わない。

 長野乙業→長野隆業
 ★私見「1470年代には、長野氏と小幡氏は上野国人層の
  有力武将に成長していた。」

・文明8年(1476)関東管領山内上杉氏の家臣長尾景春(群馬白井城主)
  が鉢形城を築城。
 長尾景春の乱・・・鉢形城に立て籠もり、上杉氏と対立
 山内上杉(平井城)+長野鷹業or業尚・・箕輪城あった可能性大
     VS
 古河側+長尾景春(白井城:旧子持村)+長野為業(兼)厩橋城  

・文明9年(1477) 
 1月 長尾景春は五十子(いかっこ)の上杉氏本陣を襲撃。  
   武蔵針谷原(埼玉県岡部町)の合戦
   →山内上杉氏は上野:平井城に逃亡。
  *長野為業は長尾氏に味方し、討ち死に(群馬県史)  

 3月?扇谷上杉氏の家宰:太田道灌は長尾景春に帰服を説得。
  →長尾景春は拒否。

 5月 用土原(埼玉県寄居町)の合戦。 
    太田道灌  VS  長尾景春  
    長尾景春の敗戦。鉢形城に籠城。
    上杉氏は鉢形城を包囲
   →長尾景春は古河城:古河公方:足利成氏に救援要請。

7月 足利成氏が結城・宇都宮・那須・佐々木・横瀬氏らを引き連れて
      上野の滝(私見:船尾滝か、高崎の上滝)まで進軍。
 →上杉顕定、上杉定正らは鉢形城の包囲を解いて上野の防衛を固めた。

12月広馬場(榛東村:箕輪城から北北東4km)の戦い
 山内上杉(平井城) VS 古河側長尾景春(白井城)+古河公方
 旧榛名町白岩砦:長谷寺→×←旧榛東村←渋川:白井) 
  (★「関東古戦録」久保田順一訳・松陰語録:黒田基樹著)
★箕輪初心私見「箕輪城は1477年、以前に存在した可能性もある。」
 理由・・・下記の説明

・文明10年(1478) 
1月 上杉氏と足利成氏の間で停戦が成立。長尾景春も鉢形城に帰還。
7月 扇谷上杉氏:太田道灌は鉢形城を攻撃し、攻略。
  →長尾景春を秩父へ追放。
・文明12年(1480) 長尾景春は秩父方面で抵抗後、上杉氏に降伏。
   扇谷上杉氏の家臣太田道灌が鉢形城を攻略。

*箕輪城築城・鷹留城築城は1480年代か?・(秋本太郎先生)

・長享元年(1487)〜長享の乱 
  山内上杉(平井城) VS 扇谷上杉(川越城)
 ※太田道灌が死亡。
  主人:扇谷上杉定正が波多野(神奈川県)で殺害。

★長野業尚は資料が少なく詳細が不詳な人物である。
 浜川の館(200m×130m+最近の高崎市の調査でもっと
 でかかった。)の城主:長野乙業(乙業館は保渡田より)
 の子供である。


●延徳2年(1490) ?長野業尚の草津温泉遊蕩
長野業尚は草津温泉で入湯した時、長尾為景(上杉謙信父)
 &恵応(雙林寺3世)に会った。
 →不思議体験伝説
「草津温泉に泊まった湯本氏の旅館:?・・息子が死んで、
 温泉が出なくなった。・・・これに答えた3人衆・・・
   やがて、温泉が再び出てきた。・・・・」
(★「久保田順一先生講演会」・『箕輪城と長野業政』よ久保田順一著)

・明応年間(1492~1501)長野業尚が鷹留城(旧榛名町下室田)
  を築き、居城を浜川から下室田(堀ノ内)に移した人物と
 される。
(★「箕輪城と長野業政」久保田順一著)

・延徳4年(1492) 長野尚業が榛名に長年寺を創建。
・延徳4年→明応元年(1491)
   伊予太守長野業尚が榛名に長年寺を創建?
 (★長年寺縁起并由来記:新編高崎市史4)
  鷹留城・箕輪城も築く。
  雙林寺(群馬県渋川市)住職曇英慧応を招いて長野家の菩提寺
  である長年寺を創建した。
 境内には業尚の墓碑(法名:慶岩長善庵主)をはじめ長野家歴代
 の墓碑が建立した。
 長年寺の背後は鷹留城であり出城的な役割を持っていた。

・明応5年(1496) 3月7日 長野伊予が戸榛名神社の禁制を出した。
 「上州戸榛名神領」と見える。
  (★『桜沢文書』群馬県史に出てこない文書)

・明応6年(1497) 80歳をすぎた曇英は林泉寺開基となった。
  (長尾能景開山)

・明応6年(1497 ) 長野尚業が長純寺を創建(みさとの歴史)

・文亀元年(1501) 長野業尚か憲業が雲英(+恵応)和尚を
         招いて長年寺を創建?(秋本太郎先生)

・文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。(★『みさとの歴史』)

●大永 6年 (1526) 秋 越後守護代長尾為景(長尾能景の子・
 上杉謙信の父)が草津に湯治に来た。
 たまたま湯治中だった曇英恵応(大光宗猷禅師)に偶然出会い、
 一緒にいた長野業尚(上州の国人領主、箕輪城の築城者)に
 菩提寺を和尚に頼むように勧めた。
★しかし、時代が合わない。
長尾為景と長野業尚(箕輪城主)と大光宗猷禅師は草津温泉
 で会合を開いた。
上杉謙信が7歳の時、林泉寺に預けられ住職:天室光育から
 教育された事は有名である。
 上杉謙信の剃髪や謙信の名も林泉寺から授けられている。

・永正9年(1512)長野業尚は箕輪城(高崎市箕郷町)を築城した
 という説がある。
★これも変である。
●長野氏7基の墓**********************
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長中央が初代鷹留城主で長年寺開基の長野尚業(業尚)
 その左右に累代長野氏の墓が並んでいる
長野氏長野尚業(業尚)、憲業、業氏、業政、業固、業茂、業続の7人。
右から
@長野業茂(法名:一渓長派居士)・・?
A長野憲業(法名:南方長宗庵主)・・2代鷹留城主。信業説あり。
B長野業尚(法名:慶岩長善庵主)・・初代鷹留城城主。長年寺開祖。
C長野業固(法名:傑山長寅居士)・・
真ん中・・・?
★受連は武田信玄3回の「長年寺攻撃をやめてくれ」
という長年寺文書を庇護した人物であった。
私説だが、つまり、5代目がいたのではないだろうか?
D長野業氏(法名:以山長伝居士)・・3代鷹留城主?
 ★弘治3年(1577) 長純寺(箕郷町原山)を再興した。
本郷堰(黒沢川) 箕郷善地駒寄の取水口→・・・・
E長野業政(法名:一清長純居士)・・箕輪城主。長野氏一番の武将。
F長野業続(法名:安山長康居士)・・★長野業通の可能性がある、
※長野業通・・・・系図によっては、4代鷹留城主。
*長年寺からの鷹留城遠望 
画像

*鷹留城本郭
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●曇英慧応の『春日山林泉開山曇英禅師語録』に関すること〜〜〜

●林泉寺の和尚さんの話********************
林泉寺が越後国主によって維持されてきたことを物語る展示資料を
 収蔵・公開する資料館です。長尾家時代のものから上杉家・堀家
・松平家・榊原家へと、連綿と受け継がれてきた歴史資料があります。
 500年以上の昔・・・越後守護代長尾重景と諸国を行脚してい
 た曇英慧応という僧侶が、柿崎の地で出会った。長尾重景は
 曇英和尚を越後に留まってもらうために下小野に庵を建てた。
 その庵こそが林泉寺のもとになります。
長尾重景が亡くなった時。息子の長尾能景は、父の17回忌まで
 には春日山城の麓に曹洞宗の修行道場:林泉寺を建立すると宣言
 し、落慶式に迎えに行くと約束をして別れました。
★ちなみに、曇英が群馬県高崎市の長年寺住職の双子の弟だという。
開山約40年後、長尾能景の孫でまだ7歳の幼い少年が、林泉寺の
 門をくぐり、そののち7年間、6代目の住職天室光育のもとで薫陶
 を受け育てられた。その少年が後の上杉謙信であったのだ。



●森田真一先生の講演会********************
『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』「長年寺開堂之仏事」
『・・・信州太守長野業尚公、・・・私財を投げ打って・・・
 ・・嫡嗣:憲業左金吾氏、庶子:金刺明尚諏訪公、ならびに慈母
 松畝正貞婆夷、家臣下田近江守家吉、・・・一宇を建立し、・・・
 文亀元年(1501)八月念八日。』

・文亀3年(1503) 長野尚業(業尚)が没し、長野憲業は家督を
継承した。長享の乱では、関東管領である山内上杉顕定に合力して
扇谷上杉朝良を屈服させることに貢献した。惣社長尾氏、白井長尾
氏との抗争をくりひろげ、上州一揆の中心として長野氏の戦国大名
化を図った、大永年間の後半においては両長尾氏をしのぐ勢力を築
いた。

●黒田基樹先生説**********************
『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』「長年寺開堂之仏事」の記述より、
諏訪明尚以外に憲業の弟はいなかったとする。
黒田基樹先生は、長野方業が長野憲業の弟である可能性については、
父:長野業尚が建立した室田長年寺に関する記録には長野憲業の弟と
して松井田諏訪氏を継いだ諏訪明尚のみが記載されており、諏訪明尚
以外の弟の存在を否定している。



●久保田順一先生講演会********************
箕輪初心▲箕輪城150久保田順一先生【室田長野氏:長年寺&鷹留城】  
http://53922401.at.webry.info/201412/article_10.html

【1】長年寺の位置
1)無極恵徹・・・・・・松井田補陀寺
・応永年間  群馬県最古の曹洞宗の寺:安中氏開基。

2)月江正文・・・・・ 

3) 一州正伊・・・・・群馬県雙林寺開山・開基は長尾景信
↓ ・沼田の恕林寺・月夜野の玉泉寺を開基。

4)天倫正挺・・・・・・群馬県雙林寺2世
↓ ・小幡最乗寺の開山・小幡氏の開基

5)曇英恵応(どんえい えいおう)・・・・・・群馬県雙林寺3世 
・応永31年(1424)〜永正元年(1504)
藤原転法輪家・・鎌倉円覚寺、京都相国寺等で臨済宗を学んだ。
 
・長享元年(1487) 曹洞宗:一州正伊の法を継いだ。
 雙林寺3世となった。
 最乗寺などの名刹の住職となった。

・明応6年(1497) 越後の林泉寺の開基。

・文亀元年(1501) 長年寺を開基?・・・入寺。

・永正元年(1504)恵応は大庵須益、為宗仲心らの推挙により永平寺の
  住職に就任した。永平寺の復興の手腕を期待されたが在任は短期
  間であった。公式には歴代住職に数えられていない。

【2】榛名長年寺の成立
・延徳2年(1490) 長野業尚の草津温泉遊蕩
長野業尚は草津温泉で入湯した時、長野為景(上杉謙信父)
&恵応(雙林寺3世)に会った。
→不思議体験伝説
「草津温泉に泊まった湯本氏の旅館:?・・息子が死んで、
   温泉が出なくなった。・・・これに答えた3人衆・・・
   やがて、温泉が再び出てきた。・・・・」

・明応2年(1492)長野伊予守業尚が建立。
長年寺を開基?
(★「長年寺縁起ならび由来記:高崎市史4」

・文亀元年(1501) 曇英恵応が榛名長年寺に入寺。
(★日本洞上諸祖伝等)
・大庵須益、為宗仲心らの推挙により永平寺の住職に就任した。

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