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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」

<<   作成日時 : 2017/09/29 07:55   >>

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○文明18年(1486)10月:堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗
常光院流の歌僧)「是より桟路をつたひて、草津の温泉に二七
日計入て、詞もつゞかぬ愚作などし、鎮守の明神に奉りし・・・
草津に27日滞在した。
「 忘るるよ 思ひのこせと 浅間山
    消えしけふりの  おもかげに立つ 」
画像


●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************
箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし100人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_27.html




★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。












・戦国時代**************************
戦国時代以降、草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた。
記録が残っている。


●文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
・文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流の歌僧)
※延徳2年(1490) 大光宗猷禅師
※延徳2年(1490) 長尾為景 越後国守護代
※延徳2 年(1490) 長野業尚 鷹留城主 であると考えていますが・・
●明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
●文亀2年(1502)3月? 万里 集九(ばんり しゅうく)
 詩文集『梅花無尽蔵』の中で
「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。
と記している。日本三名泉とは、万里集九 → 林羅山によって、
 「 日本三名泉」という言葉が生まれた。
●文亀2年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)★個人的に来ていない説
・文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
  ★上記の通り、宗祇は来ていない。伊香保に行っちゃった。
●永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
●大永6年(1526)−長尾為景(上杉謙信の父親)
・大永6年(1526)−長野業尚(箕輪城主)
・大永6年(1526)−曇英恵応(大光宗猷禅師:林泉寺&榛名長年寺)
              子持雙林寺の双子の僧の1人
●永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)?
●天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
●天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
●天正10年(1582)−多賀新左衛門(織田信長家臣)
・天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
●天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
徳川家康の正室であり豊臣秀吉の妹である朝日姫は、病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
 徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
 運ばせて入浴していた。
●天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
●天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
●文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
●慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
 前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。
********************************



【1】番外編「堯恵」
箕輪初心★箕輪城143【尭恵「北国紀行」の上野国府長野陣所】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_29.html



【1】堯恵1回目の国府
文明17年(1485)秋〜堯恵は美濃国郡上の東頼数の家に滞在
していた。
文明18年(1486)
5月末、美濃の郡上を出て、飛
騨〜越中〜越後を旅した。
8月末越後柏崎を発ち、三国峠〜
上野国:沼田〜白井〜

●10月草津
 伊香保温泉に浴した。


10月2□日? 上野国国府の長野陣所に行った。
  関東管領:藤原(上杉)顯(顕)定に会った。
上野国府に29日〜25日間滞在した。

 (★隣の国分寺・・・長野陣所はこの辺りか)
『無神月廿日あまりに国府長野の陣所に至る。哺時になれり。
 此野ハ秋の霜をあらそひし戦場、未だ払はずして、軍兵野
 に満てり、かれたる萩、われもかうなどを引むすびて夜を重ぬ。
 定昌の指南によりて藤原顯定(関東管領)の旅哀の心ありて
旅宿を東(本)陣にうつされし後は厳霜もをだやかなり。
 平顕忠(長尾修理亮)陣所にての会 
 羇中雲
 『 武蔵野や 何の草葉に かかれとて   
    身は浮雲の  行くすゑの空 』


1)「無神月廿日あまりに」・・・  「
  カンナヅキ」=10月の20何日か?


2)「国府長野の陣所に至りぬ」 
 長野憲業(★系図の説によっては信業と同一人物)が 
  国府に陣を張ったと思われる。しかし、一体、長野憲業
 の館はどこにあったのだろうか?
 ★もしかしたら、堯恵は箕輪の館あるいは箕輪城に行った 
 とも考えられる。つまり、国府は旧群馬町の国府から、
 旧箕郷町に移されていた。足利尊氏が箕輪に『安国寺』を 
 建てさせたからである。
 @新編高崎市史では高崎→箕輪の説
 A飯森康広先生説では、浜川→箕輪の説
 B棟治氏は、榛名本郷→箕輪説
 
3)哺時 15時→中心16時→ 17時
伊香保温泉から長野憲業?の陣営に来たら午後4時頃
  になった。

4)「此野は秋の霜をあらそひし戦場、未だ払はずして、
  軍兵野に満てり、かれたる萩、われもかうなどを引
  むすびて夜を重ぬ。・・」
この野原はずうっと前から戦が絶えないでいる。霜や露も
払わず、甲冑を着けた軍兵が野原に満ちていて、、枯れた
萩やワレモコウなどが生い茂った野原に(蒲団かわりに)
引き抜いてきて、寝て夜を過ごしている。

2)定昌・・・上杉顯(顕)定の実兄の越後の上杉定昌である。
・文正元年(1466) 1歳年下の弟:顕定が山内上杉家の家督
 を継いた。
・文明3年(1471)頃〜 関東の軍事を任されるようになった。
・文明6年(1474) 上杉定方から定昌と改めた。
         五十子に在陣していた。
・文明8年(1476) 長尾景春の乱
・文明9年(1477) 正月 五十子の陣が崩壊した。
   上野国白井へと引いた。〜〜〜白井城に在城した。
・文明18年(1486 ) 父:上杉房定の民部大輔を譲り受けた。
    翌年、越後守護の家督を継いだ。
   長享の乱    
   上杉定昌は弟:山内上杉顕定を支援していた。
・長享2年(1488) 3月24日 長尾景春の攻撃
   白井で自害した。享年36。


6)「定昌の指南によりて藤原顯定(関東管領)の旅哀の心あ 
 りて旅宿を東(本)陣にうつされし後は厳霜もをだやかなり。」
※藤原顯定・・・「関東管領上杉右馬頭顕定」は国府が危険な
ため、堯恵の谷の宿を東の本陣に泊めてあげることにした。
※おそらく、父:上杉房定の大事な客人であったからであろう。
その後は,厳しい霜にあわず、穏やかに過ごせた。
 


7)平顕忠(長尾修理亮)陣所にての会 
長尾顕忠が上杉顕定の家宰を勤めたのだ。
※平顕忠・・・・「館林長尾修理亮」
 (★群馬県立歴史博物館)
★黒田基樹氏の本では、惣社長尾氏・・・・だった。

★兄上杉定昌・弟藤原顯定=上杉顕定・家臣:平顕忠を  
用いるのは理由はなんなのだろうか?。

「長尾忠景の子:顕忠は 鉢形城に在城した。
※永正6年(1509)連歌師宗長は長尾顕忠の家督をついだ
   長尾顕方の鉢形城に訪れている。 
   

8)羇中雲・・・旅の道中における雲
  羇中暮・・・旅の道中における夕暮。
羇中花・・・旅の道中における花。


9) 『 武蔵野や 何の草葉に かかれとて   
     身は浮雲の  行くすゑの空 』


★国府から武蔵野にこれから行こうと思うが、
  ・・・何の草かは分からないが、かかる・・・関係する? 
  覆い被さる。・・・立ちはだかる困難、戦に遭うだろう。
この身は浮き雲のような身の上、どこに行くのか、
どうなるのか この先は分からない。あ〜あ、大変。
まあ、いいか。・・・行って見なけりゃ、わからない。
  凄く勝手な解釈なのだ。  



※文明18年(1486)は、箕輪城は長野業正の父:長野憲業
 の時代である。系図によっては、憲業=信業である。
 文明18年10月26日に太田道灌暗殺と大事件が起きて 
いるが、上杉顕定が鉢形城で画策したというのは地理的
 時間的に少し無理があるかもしれない。


【2】堯恵2回目の国府・・
・文明19年(1487) 9月9月上野国国府に再びやってきた。
『九月尽に長野陣所小野景頼がもとにて、
  暮秋時雨
  「 誰が袖の 秋の別れの くしのはの   
   黒髪山ぞ まなくしぐるる 』

10)「九月尽に」・・・九月の終わりに (★現11月?日)

11)小野景頼・・・・不明。
  小野景頼・・・(★森田真一先生・黒田基樹氏)
小野景頼=木部景頼(山本隆志先生)

12)「暮秋時雨」・・秋の夕方のしぐれ雨


3)「 誰が袖の 秋の別れの くしのはの   
 黒髪山ぞ まなくしぐるる 』
★黒髪山=榛名山
私の?小野景頼?長野憲業?との秋の別れは、まるで榛名山に
雨が降り注いでいるように
櫛の歯が黒髪に流れるように涙が落ちてくる
涙涙の別れなのだ。・・・
残念ながら、掛詞が難しくてわかんないや?

★参考文献
・群馬町史(★峰岸純夫先生文責)など



リニューアル版***********************


◆◆ 堯恵の「北国紀行」 ◆◆
・正長2年(1430)〜没年不詳


・寛政6年(1465) 加賀から信濃善光寺に詣でた。
  『善光寺紀行』を著した。

・文明17年(1485)秋 
  堯恵は美濃国郡上の東頼数の家に滞在していた。

・文明18年(1486)〜文明19年 (1487)
※堯惠は『北国紀行』を著した。
*************************

・文明18年(1486)
5月末 美濃の郡上を出発。

飛騨〜

7月14・15日  善光寺詣で
  越後逗留〜越中〜越後を旅した。

8月末 越後柏崎を発った。

●三国峠越えて上野に入った。
「越後信濃上野の堺三国峠といへるを越えて侍るに諏訪の 
伏拝(三国権現)あり」

●上野国:沼田

●9月9日 上州白井にうつりぬ(子持村)
「重陽の日、上州白井と云所にうつりぬ、
 ・・・・(略)・・・・・

9月?〜10月・・草津滞在27日
是より桟路をつたひて、草津の温泉に二七日計入て、
詞もつゞ かぬ愚作などし、鎮守の明神に奉りし・・・
 草津に滞在27日。
「 忘るるよ 思ひのこせと 浅間山
    消えしけふりの  おもかげに立つ 」


●10月17日 伊香保着・・・・滞在17日
 「からころも かくるいかほの  沼水に   
      けいふは玉ぬく  あやめをそひく 」
    (★藤原定家の歌)

10月20日頃? 伊香保温泉に浴した。
 (★伊香保露天風呂)


●10月2□日 
上野国国府の長野陣所に行った。
  ・・関東管領:藤原(上杉)顯(顕)定に会った。
『無神月廿日あまりに国府長野の陣所に至る。哺時になれり。
 此野ハ秋の霜をあらそひし戦場、未だ払はずして、軍兵野
 に満てり、かれたる萩、われもかうなどを引むすびて夜を重ぬ。
 定昌の指南によりて藤原顯定(関東管領)の旅哀の心ありて
 旅宿を東(本)陣にうつされし後は厳霜もをだやかなり。
 平顕忠(長尾修理亮)陣所にての会 
 羇中雲
 『 武蔵野や 何の草葉に かかれとて   
   身は浮雲の  行くすゑの空 』
●11月20日 上野国国府発

●佐野
「  跡もなく むかしをつなく 舟橋は
    たゝことのはの   さのの冬原 」
●11月??日 善光寺に詣でた。
         諸所の歌会に臨んだ。

●12月??日  再び、上野国に戻った。
佐野に行った。

●12月半ば  武蔵国に入った。
『12月のなかばにむさしの国へうつりぬ。曙をこめてちやう
のはな(※埼玉県深谷市国済寺庁鼻和(こばなわ)城跡)といふ
所をおき出。ゆくゑもしらぬかれ野を駒にまかせて過侍
るに。幾千里ともなく霜にくもりて。空は朝日の雲もなく。さ
しあがりたる風景肝にめいじ侍しかば。
 「朝日かげ 空はくもらで 冬くさの    
      霜にかすめる むさしのの原 」

○庁ノ鼻(★深谷市国済寺)・・・深谷上杉氏が最初に館を
構へた庁鼻(こばなわ)のことである。
「朝日欠け  空は曇りて 冬草の
    霜に霞める   武蔵野の原 」

★国済寺で一泊した朝の歌であると思われる。
 武蔵野は入間郡の丘陵をいうのだが、霞の中に広がる 
枯花などの冬草のイメージが武蔵野といふ歌枕にふさわ 
 しかったのだらう。 
 朝日が出てこないで空が曇っている。冬枯れの草の上に霜が 
うっすらと架かっている。なんと武蔵野の台地は寂しいのだろう?


○堯恵は馬を走らせ、箕田といふところを経て、狭山
(熊谷市三ヶ尻の観音山)に行った。ふもとの池を見て歌を詠んだ。
 「氷りゐし 水際の枯野 ふみ分けて  
        行くは狭山の  池の朝風  」
其夜は箕田(★埼玉県鴻巣市箕田)といふ所にあかして。
武蔵野を分侍るに。野涀のほとり名に聞えし狭山有。
朝の霜をふみ分て行に。わづかなる山のすそにかたち計なる池あり。
「氷ゐし 汀の枯野 ふみ分て   
 行はさ山の  池のあさかせ 」




其日の半より漸々富士はみえ侍りぬべきを。
よるのしもなごり猶かきくもりて。かぎりもしらず侍り。
からうじて鳩が井のさと(
★埼玉県鳩ケ谷市)
滋野憲永がやどりにつきぬ。廿日の
よの殘月ほがらかにかれたる草のすゑに落かゝりて。朝の日又
東の空より光計ほのめきたり。富士蒼天にひとしくして雪みど
りをかくせり。唯それならむとおもふに。忙然として大空にむ
かへり。
「けさみれは はや慰みつ ふしのねに   
    ならぬ思ひも  なき旅の空 」
「廿三日には角田川(★隅田川)のほとり鳥越(★東京都台東
 区鳥越)といへる海村に善鏡といへる翁あり。彼宅に笠やど
りして。閑林にあがめ置る金光寺に在宿し侍。」※鳥越、金光寺

〜〜〜隅田川沿いに江戸方面★鎌倉街道下道か?〜〜〜〜〜〜

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・文明19年(1487)
同十九年元日に。
 「おさまれる 波をかけてや つくはねの  
      大和嶋根に  春の立らん 」
五日立春。
 「春はけふ たつともいはし むさしのや   
       霞む山なき  三吉野の里 」

正月二十日  堯恵が鎌倉の地を訪ねた。
・・・極楽寺へいたるほどに、いとくらき山間やまあいに、
 星月夜というところあり、むかしこの道に 星御堂 
 (★虚空蔵堂)とて侍りき
・・・(中略)・・・・ 「今なお 星月夜 こそ のこるらめ
     寺なき谷の 闇のともし火 」
同月の末。武藏野の東のさかひ忍岡(★台東区上野公園周辺)
に優遊し侍。鎭座社五條天神と申侍り。おりふし枯たる茅原を
燒侍り。
 「契り置て 誰かは春の はつ草に   
      忍ひの岡の  露の下もえ 」
ならびに湯嶋(★文京区湯島)といふ所有。古松はるかにめぐり
てしめのうちにむさしのの遠望かけたるに。
寒村の道すがら野梅盛に薫ず。これは北野御神(湯島天神)
と聞えしかば。
  
 「忘れすは 東風(こち)吹むすへ 都まて  
      遠くしめのゝ そての梅かか(香) 」


二月の初。鳥越のおきな艤して角田川にうかびぬ。
東岸は下総西岸はむさしのにつゞけり。利根入間の二河おちあへる所に
彼古き渡りあり。東の渚に幽村あり。西渚に孤村有水面悠々とし
て両岸にひとしく。晩霞晩霞曲江にながれ。帰帆野草をはしるか
とおぼゆ。筑波蒼穹の東にあたり。富士碧落の西に有て絶頂は
たへにきえ。すそ野に夕日を帶。
朧月空にかゝり扁雲行盡て四域にやまなし。
「浪の上の むかしをとへは すみた川
   霞やしろき  鳥の涙に 」

2月20日 鎌倉着
「廿日を過る比鎌倉山をたどり行に。・・・」

※こののち鎌倉・三浦の間に遊んだ。
2月に相模〜鎌倉〜三崎等に遊んだ。
三浦半島の芦名に赴き、約4ヶ月逗留・・・・。

 「五月の末帰途に就き、
 再び武蔵を過ぐ。・・・・ 」

・5月末  六浦金沢称名寺
「同じ比六浦金澤(★横浜市金沢区)をみるに。
乱山かさなりて嶋となり。青嶂そばだちて海をかくす。
神霊絶妙の勝地なり。
金澤にいたりて稱名寺といへる律の寺あり。むかし爲相卿。
「いかにして 此一もとに 時雨けむ 
     山に先たつ  庭の紅葉葉」
と侍りしより後は。此木はかは玄冬まで侍るよし聞ゆる楓樹
くち殘て仏殿の軒に侍り。
 「さきたゝ は此一もとも 殘らしと   
    かたみの時雨  葉にそふる 」

6月 武蔵に行った。
「六月の末角田川のほとりにて。遠村夕立。
 「雲わくる ひかけの末も 夏草に    
   いるまの里や  ゆふ立のそら 」

・6月28日  再び武蔵(中野)
「同二十八日。むさしののうち中野(★東京都中野区)といふ
 所に平重俊といへるがもよほしによりて。眇々たる朝露をわけ入て
瞻望するに。何の草ばのすゑにも唯白雲のみかゝれるをかぎり
と思ひて。又中やどりのさとへかへり侍りて。
「露はらふ 道は袖より むらきえて    
    草はにかへる  むさしのの原 」
漸(ようやく)日たかくさしのぼりて。よられたる草の原をしのぎ
くる程。あつさしのびがたく侍りしに。草の上にたゞ泡雪のふれる
かとおぼゆる程に。ふじの雪うかびて侍り。
「夏しれる 空やふしのね 草のうへの  
    白雪あつき  武藏のの原 」


※ 堀兼の井を訪問
 ほりかねの井ちかき所にて。
「そことなく 野はあせにけり 紫もほり  
    かねのゐの   草葉ならねと 」


七日に鳩が井の里(★埼玉県鳩ケ谷市)滋野憲永がもとにて。
 秋増変。
 「 きのふかは 思ひし色の あさは野も
     木からしになる  秋の夕暮 」
 
初秋の比。よふかき道をくるに。入間の舟渡りまでみをくる人
あまた侍りしに。角田川の朝ぎりいづこをほとりともしらず。
小舟の行ちがふかひの音のみ身にしみて哀に覺え侍りしかば。
彼翁かたへ申送り侍し。
「おもかけそ 今も身にしむ 角田川(隅田川)
   あはれなりつる  袖の朝露 」

●9月 (★現11月27日)上野国国府に再びやってきた。

『九月尽に長野陣所小野景頼がもとにて、
  暮秋時雨
「 誰が袖の 秋の別れの くしのはの   
  黒髪山ぞ まなくしぐるる 』
九月十三夜。
白井(★群馬県渋川市旧子持村)戸部(こほう)亭にて。
 ・・・
こののち、上野から越後へ帰る。 
9月末 再び上野〜信濃〜越後に旅立った。
再び同じ道を通り、
(★現11月28日) 三国峠を越えた。
「かくて重れる山連なる道を過ぎ行程、曠絶無人ともいふべし。
越後・信濃・上野の境、三国の峠といへるを越けるに、
諏訪の伏拝みあり。諏訪の海に幣と散らさば三国山よその紅葉も神や
惜しまむ。
こうして、堯恵の約2年間の旅だった。
◆参考資料・文献
・群馬町史
・古典文学全集

箕輪初心:生方▲箕輪城189『古文書史料に基づく長野氏・箕輪城の関連年表』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_24.html



★明日も草津温泉関係かな?

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