城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」

<<   作成日時 : 2017/09/28 08:52   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

文明4年(1472) 本願寺第8世:蓮如は草津にきた。
天正15年(1587)本願寺第11世:顕如=光佐が草津に来た。
でも、顕如は『草津に歩みし100人』には、入っていない。
草津町の町制百周年を記念して、草津に訪れた歴史に残る偉人・著
名人から、100人を選んだ。時代順の6人目は「蓮如」である。
蓮如は、本願寺のどん底の貧しい生活を味わいながら、本願寺
を日本一の大宗教教団へと成長させた。5人の妻を次々に持ち
「女性も成仏できる。」と説いた。蓮如は最も女性を愛した宗教
家だったのかもしないが、子ども27人が宗派拡大のために動い
たことは確かである。
最初の妻と2番目の妻は伊勢一族から嫁い
でいる。伊勢新九郎(後北条早雲)は姉が今川氏に嫁いでいる。
伊勢貞房は天皇家の先祖とも言われている。

顕如は織田信長に10年も抵抗した人物である。 
画像



箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし百人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html





★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。












草津に歩みし百人 草津町公式サイト
湯畑の周りの手すりに、草津温泉を訪れたその時代を代表する偉人達
の名が刻まれています。偉人の方々を百人全て画像で紹介しています。
http://sk-photo.main.jp/kankou/meisho/hyakunin/hyakunin.html
草津に歩みし百人 | 湯Love草津(草津温泉観光協会ホームページ)
https://www.kusatsu-onsen.ne.jp/youkoso/hyakunin02.php

・室町時代
当時は宿の内湯はなく、外湯の共同浴場で入浴した。
冬場は積雪などの為、温泉は閉鎖され、宿主は全国を周り
草津温泉を宣伝し歩いたという。
湯畑の西には馬を入湯させるための「馬の湯」もあったという。

・戦国時代**************************
戦国時代以降、草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた。
記録が残っている。
・戦国時代**************************
戦国時代以降、草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた。
記録が残っている。
文明4年(1472) 蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
・文明18年(1486) 堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流の歌僧)
●明応4年(1495) 横瀬成繁(太田金山城主)
●文亀2年(1502) 飯尾宗祇(連歌師)★個人的に来ていない説
・文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
  ★上記の通り、宗祇は来ていない。伊香保に行っちゃった。
・永正3年(1506)禅僧:万里集九が「梅花無尽蔵」書き上げた。
 「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」と評している。
わが国の六十余州それぞれの州にに名湯があるが、最もよいの
 は下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 3か所である。
●永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
●大永6年(1526):長尾為景(上杉謙信の父親)
・大永6年(1526):長野業尚(箕輪城主)
・大永6年(1526):曇英恵応(大光宗猷禅師:林泉寺&榛名長年寺)
              子持雙林寺の双子の僧の1人
※延徳2年(1490) 大光宗猷禅師
※延徳2年(1490) 長尾為景 越後国守護代
※延徳2 年(1490) 長野業尚 鷹留城主 ではないだろうか?
●永禄 3年 (1560):小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)?
●天正10年(1582):丹羽長秀(織田信長家臣)
●天正10年(1582):堀秀政(織田信長家臣)
●天正10年(1582):多賀新左衛門(織田信長家臣)
・天正15年(1587):顕如=光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
●天正15年(1587):朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
 徳川家康の正室であり豊臣秀吉の妹である朝日姫は、病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
●天正16年(1588):豊臣秀次(関白:豊臣秀吉異父兄・弟の甥:養子)
●天正16年(1588):松平(依田)康国(小諸城主)
●文禄3年(1594):大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
●慶長3年(1598):前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
 前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
 という記録が残っている。
********************************
徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
運ばせて入浴していた。



【1】草津温泉bO6 蓮如上人:本願寺第8世宗主。
  浄土真宗中興の祖。
●文明4年 (1472) 6月 本願寺蓮如が越前吉崎より草津に来た。
 ★草津温泉の直接史料で確実な初の史料であると言われている。
●文明4年(1472):本願寺第8世:蓮如は草津にきた。
・第8世:蓮如
・第9世:実如
・第10世:証如
・第11世:顕如
●天正15年(1587):本願寺第11世顕如=光佐が草津に来た。

文明年間頃にはすでに全国に名の知れた湯治場となっていた。
箕輪初心■福井「6回目奥・7回目」=奥の細道番外編
http://53922401.at.webry.info/201104/article_26.html


◆蓮如の生涯

・応永22年(1415)2月25日(4月13日)
蓮如が京都東山の本願寺(現知恩院塔頭崇泰院付近)で
 本願寺第7世:存如の長子として生まれた。
 幼名は布袋丸であった。

・応永27年(1420) 蓮如6歳の時、父:存如が本妻:如円尼を
  迎えた。
  蓮如は継母のイジメに遭ったという。

  蓮如の幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比べ、寂れた
  寺であった。

・永享3年(1431) 17歳の時、中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院
  で得度し名を中納言兼壽と改めた。
  その後、本願寺と姻戚関係の大和興福寺大乗院の門跡経覚
  について修学した。

・永享6年(1434) 『浄土文類聚鈔』が、蓮如により書写された.

・永享8年(1436) 祖父の第6世巧如が住持職を父に譲った

・嘉吉元年(1442) 27歳の時、如了と結婚した。
●第1夫人:如了(1424年〜 1455年)
 如了は幕府の有力者だった伊勢貞国の親戚:伊勢貞房の娘であった。

*****************************
 伊勢貞房の子孫・・・明治天皇 ─ 大正天皇 ─ 昭和天皇 ─
  今上天皇(明仁)のご先祖様と言われている。

******************************
◆伊勢氏の系譜
・南北朝時代 伊勢俊継の孫:伊勢貞継が政所執事となった。
   以降政所執事を世襲するようになった。
・室町時代
  @伊勢貞国は、室町幕府政所執事であった。
足利義教→義勝→義政に仕えた。
子ともは伊勢貞親、伊勢貞藤、娘(伊勢盛定室)
 A伊勢貞親は8代将軍足利義政の養育係を務めた。
   側近として政治にも大きな影響力を持った。
 B伊勢盛定は幕府政所執事:伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の
  申次衆として重要な位置にいた。
伊勢新九郎盛時(北条早雲)伊勢盛定と伊勢貞国の娘との間
  に生まれた。
伊勢貞興・伊勢新九郎盛時(北条早雲)・弥二郎、
北川殿(今川義忠室)

・文正元年(1466) 文正の政変
伊勢貞時は将軍候補:足利義視を排除するために、乱を起こし
  失脚した。
・応仁元年(1467) 応仁の乱
  細川勝元率いる東軍 VS 山名宗全率いる西軍
  伊勢貞親は足利義政に呼び戻され伊勢から上洛した。
・応仁2年(1468) 閏10月に正式に復帰した。
11月 復帰に反発した足利義視が出奔して西軍に擁立され、戦乱が
  長期化することとなった。


********************************


・嘉吉2年(1442) 第1子(長男)順如が誕生する。

・文安4年(1447) 父と共に関東を訪ねた。

・宝徳元年(1449) 父と北国で布教する。

・享徳4年(1455)11月23日、最初の夫人:如了尼が死去した。
最初の奥さん:如了は7人の子供を産んだ。
 蓮如がまだ部屋住みだった頃で、家計は貧しく、長男以外は皆、
 養子に出さなくてはならなかった。
 32歳の若さで亡くなった。

・長禄元年(1457)6月17日、父の死去。
 蓮如が本願寺第8代を継いだ。
 留主職(本願寺派における法主)継承にあたり、異母弟応玄(蓮照)
 を擁立する動きもあったが、叔父で越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)
 の主張により蓮如の就任裁定となった。
後継者争いに敗れた継母と応玄は、味噌桶一つと小銭だけを残して、
 土蔵にあったいっさいがっさいを、奪うように持って本願寺を出て
 行ったのだとか・・・

●第2夫人:連祐と結婚した。
 蓮祐は伊勢貞房の娘・如了(第1夫人)の妹であった。 
 蓮祐(1438年 〜 1470年)

・長禄2年(1458) 8月10日、第8子(5男)実如が誕生した。
 (寛正5年(1464年)とも・・・後、本願寺9世)。


・寛正6年(1465)
 1月8日、延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定した
 1月9日、延暦寺の衆徒は大谷本願寺を破却した。
 3月21日、延暦寺の衆徒は再度本願寺を破却した。

  蓮如は祖像を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする
  ことになった。

・文正2年(1467) 3月、延暦寺と和議した。
  条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。
  廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。

・応仁元年(1467) ▲応仁の乱

・応仁2年(1468) 北国、東国の親鸞遺跡を訪ねた。
三河に本宗寺を建立する。

・応仁3年(1469) 近江の三井寺の庇護のもとに大津南別所に
  顕証寺を建立した。順如を住持として祖像を同寺に置く。

・文明2年(1470) 12月5日、第2夫人:蓮祐尼が死去する。

 仏教界は「女性は罪深くて穢(けが)れが多いため仏にはなれ
 ない」という女性差別がまん延していたが、蓮如は「女人成仏」
 法然・親鸞の思想を受け継いて熱心に女性の極楽往生に説いた。
 「女性であっても、一心不乱に阿弥陀如来様におすがりすれば、
  阿弥陀様は救ってくださる・・・必ず極楽へ行ける。」
 と諭した。

・文明3年(1471)4月上旬、越前吉崎に赴く。
付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため
蓮如を下向させたとされる。

7月27日、吉崎に吉崎御坊を建立した。
  吉崎は急速に発展した。
  一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、
  寺内町が形成されていった。
 信者は奥羽からも集まった。
箕輪初心■福井「6回目奥・7回目」=奥の細道番外編
http://53922401.at.webry.info/201104/article_26.html

・文明4年(1472)、蓮如は越中国で布教活動をした。
 動清水精舎と称された勝興寺で、
 蓮如が説法を行い、通坊を創建したとされる。
★富山の蓮如伝説
・南北朝時代は越中の布市には、桃井直常の創建の興国寺や
  真宗寺院の常福寺、越中安国寺もにあった。
 富山には、鼬川沿いに勝興寺通坊(高岡市)がある。
勝興寺の取調帳「明治九年六月再調」の「陀羅尼寺村の通坊」
「越中新川郡陀羅尼寺村動清水ニ於テ通坊ヲ建立アリ文明八年ヨリ
 慶長元年マテ数万坪ノ地所ヲ有ス慶長元年国主前田利長替地セラレ
同郡富山二於テ敷地四千百三坪九厘ヲ切り渡サレ之二移ル寺地ノ町
民当時ノ支配前々ノ如シ」
とある。
箕輪初心:生方▲富山10【二上山の大伴家持像】&『越中国分寺跡』
http://53922401.at.webry.info/201705/article_8.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201705/article_8.html

文明4年 (1472) 6月 蓮如が越前吉崎より草津に来た。
 蓮如が東国への布教活動を行っていた。
  長野の西厳寺の住職の案内で訪れたという。
  蓮如上人は草津温泉で布教したことが史料として残るとされ、
  東国に布教の旅を続けていたことが知られる。
 

・文明6年(1474) 加賀守護:富樫氏の内紛で富樫政親から支援の
 依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組ん
 だ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力
 して幸千代らを滅ぼした。
 しかし、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を富樫政親が
 危惧して軋轢を生じた。
 更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動
 を行った。
 (★富樫氏館・・・金沢工業大学の近くにある。)
箕輪初心■福井「6回目奥・7回目」=奥の細道番外編
http://53922401.at.webry.info/201104/article_26.html


・文明7年(1475) 8月21日、吉崎を退去した。
 小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めた。

・文明10年(1478年)
1月29日、山科に坊舎の造営を開始sぢた。
8月17日、第3夫人:如勝尼が死去。
●3番目の如勝であった。門徒の中から選ばれた。
 2番目の奥さん:如勝の子供たちの面倒を見ていたようである。
 如勝は1人の娘を産んだだけであった。
 31歳の若さで亡くなってしまった。

・文明13年(1481) 真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が
 佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流した。
 蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、興正寺(真宗興正派)
 を建立する。
 これによって佛光寺派は大打撃を受けた。

文明14年(1482) 真宗出雲路派毫摂寺第8世で真宗山元派證誠寺
の住持でもあった善鎮が門徒を引き連れて合流した。

・文明15年(1483)8月22日、山科本願寺が落成する。
長男・順如が死去した。

・文明18年(1486) 紀伊に下向した。
 後の鷺森別院の基礎ができる。
第4夫人:宗如尼が死去。
●4番目の奥樣:宗如は公家の姉小路家から嫁いでいる。
 蓮如が67歳の時であった。
 2人の子供を産んで、嫁いでから3年後には亡くなった。

・長享2年(1488)
5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起した。
越後の長尾為景も出動した。
6月9日 加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城にて包囲し、
  自刃に追い込んだ。
7月、蓮如は消息を送って一揆を諌めた。

・延徳元年(1489) 蓮如は75歳で寺務を5男の実如に譲った
  実如が本願寺第9世となった。

・明応2年(1493) 真宗木辺派錦織寺の第7代慈賢の孫勝恵が
 伊勢国・伊賀国・大和国の40ヶ所の門徒を引き連れて本願寺
 に合流した。

 蓮如は山科南殿に隠居して「信證院」と号する。

・明応5年(1496) 9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所
 とした。後の石山本願寺である。

・明応7年(1498)蓮如84歳に27人目の子どもが生まれた。
★亡くなる前年まで、子供を作っていたとはとても信じられない。
  超絶の絶倫爺だった。

・明応8年(1499)
 2月20日、蓮如は死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参した。
 3月20日、下間蓮崇を許す。
 3月25日(5月14日)、山科本願寺で85歳で没した。

●5番目の奥樣:蓮能は能登の守護:畠山家から嫁いでいる。
 畠山家が一向一揆を味方にするためであった。
 蓮如が72歳、奥さん蓮能は22歳であった。
 蓮如は奥さんに5人の子供を産ませた。
 最後の奥樣:蓮能は蓮如の死を看取って、54歳まで生きた。

●蓮如の子ども達
 妻は5人は前の妻が亡くなった後に、次の妻を娶った。
 子供たちは27人もいた。
 男子が13人、女子が14人であった。
 蓮如の布教に大いに役立ったのが、子供たちであった。
 男子は各地に飛んで、寺の坊主となり、蓮如の教えを広めた。
 門徒たちの中心になった。
 娘は有力寺院に嫁いで教団の結束を固めていった。
 



 

【2】番外編「光佐(本願寺座主)・光寿・佐起(2人の息子)」
・天正15年(1587):顕如=光佐(本願寺座主)・光寿・佐起
 (2人の息子が草津温泉にやって来た。
 
顕如の生涯
(天文12年:1243旧1月7日 ~ 天正20年:1592旧11月24日
※顯如は浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。
   石山本願寺住職。顕如は号で、諱は光佐(こうさ)

※ 顕如の父は第10世宗主の証如は関白内大臣九条稙通の猶子。
 第10世宗主の証如の室は左大臣:三条公頼の3女の如春尼。

※三条公頼の娘
長女:細川晴元正室
次女:三条の方 武田信玄継室
3女:如春尼  本願寺顕如室 
      六角定頼(晴元の娘婿)の猶子、細川晴元の猶子、

・天文元年(1532)8月 山科本願寺の戦い
細川晴元は日蓮宗徒の法華一揆らと結託し山科本願寺を焼き討ちした。   
本願寺は加賀に大きな勢力を持っていたが、加賀は信者の往来には
 不便であり、京都からも遠かった。

・天文12年(1543) 1月7日、顕如が生まれた。
 本願寺第10世・証如の長子として誕生した。
  母は庭田重親の娘:顕能尼である。
庭田重親の母:祐心は、本願寺第8世:蓮如の10女である。
  父:証如は蓮如の子どもである。
  顕如は父母も蓮如の孫である。

・天文15年(1546) 本願寺派は加賀に尾山御坊(金沢御堂:現
  金沢城内)が建設した。
  尾山御坊を拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。


・天文23年(1554)8月12日、証如が重態となり、急遽得度が
  行われることになった。
  証如の母:鎮永尼が昵懇にしていた青蓮院の尊鎮法親王に本願寺
 で得度する許可をもらった。
前関白・九条稙通の猶子となり12歳で証如を師として得度した。

8月13日、証如の死

  顕如は本願寺を継職し、祖母:鎮永尼の補佐を受けて教団を
 運営した。

・弘治3年(1557) 4月17日、六角定頼の猶子(実父は三条公頼)
の如春尼と結婚した。
如春尼の実の姉は武田信玄の正室:三条夫人であり、
 武田信玄と顕如は義兄弟にあたる。

 政略結婚であったが2人の夫婦仲はよかった。

・永禄2年(1559) 正親町天皇の綸旨により本願寺が門跡となる。

・永禄3年(1560) 院家として河内国顕証寺、播磨国本徳寺、三河国
本宗寺を指定し、坊官に下間氏を任じる。

・永禄4年(1561) 正親町天皇から僧正に任じられている。

  顕如は証如の時代以来進めてきた門徒による一向一揆の掌握
 に務めた。
 石山本願寺を拠点として、畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、
 大名に匹敵する権力を持つようになった。
 本願寺教団は最盛期を迎えていた。

 また、管領の細川家や京の公家との縁戚関係を深めていた。

・永禄11年(1568) 織田信長は将軍:足利義昭を奉じて上洛した。
 織田信長は京都を制圧した。

10月18日、足利義昭は朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍
  に就任した。
 織田信長が足利義昭を通じて影響力を強めていた。
 顕如は織田信長と敵対した。
畿内をほぼ制圧した。
 織田信長は将軍家の名目で畿内の本願寺系末寺に矢銭を要求し、
 応じない場合には取り潰しなどをおこなった。
 本願寺には「京都御所再建費用」の名目で矢銭5000貫を請求した
 顕如は支払った。
・永禄7年(1564) 本願寺派=一向宗は朝倉氏と対立した。

・永禄11年(1568) 上杉謙信は、能登守護・畠山義綱の復権を支援
 するため、越中へ侵攻した。
  3月16日 放生津の戦い
   守山城へ攻撃を開始した。
箕輪初心:生方▲越中26『守山城』:斯波→神保→上杉→神保→佐々→前田弟
 http://53922401.at.webry.info/201706/article_7.html 
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201706/article_7.html

 越中一向一揆の頭領である勝興寺(安養寺御坊)の顕栄(妻は
  細川晴元の娘)は、加賀一向一揆の頭領:金沢御坊の坪坂包明
  (坪坂伯耆守)に警戒を呼びかけた。
   (★『勝興寺文書』)。
 3月25日、揚北衆:本庄繁長が越後で反乱と起こし攻撃を中止
 した。顕栄(妻は細川晴元の娘)は反撃に出た。
  顕栄の息子:顕幸も上杉謙信と長年争っていた。
  顕幸は後に大阪石山本願寺籠城に加わり織田信長とも戦った。


・永禄12年(1569)
織田信長と足利義昭との仲はだんだんと険悪になって行った。
 9月、織田信長は三好氏討伐を決行する。
 近衛前久は足利義昭によって京都を追われ、石山本願寺を頼っていた。
 顕如に三好氏支援を進言した。

・元亀元年(1570)越中の一向宗は上杉謙信と対立していた。
加賀・越中など北陸の一向一揆は大量の鉄砲を保有していた。
 一向宗の宗徒で構成されていたため団結力も強固であった。
 上杉謙信にとって一向一揆は、武田信玄や北条氏康に次ぐ強敵
 であった。
 
・元亀元年(1570) 石山合戦
野田城・福島城の戦い
本願寺と織田氏は交戦状態に入った
***************************** 
※石山合戦 元亀元年(1570)9月12日(10月11日)
〜天正8年(1580)8月2日(9月10日)
顕如は神仏をないがしろにし武力による天下統一を狙う織田信長を
 仏敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて決戦を
 挑んだ。軍事的にも経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に、
 調略を巡らせて信長包囲網を築き10年以上にわたって激しい攻防
 を繰り広げた。
織田信長と戦った石山本願寺の一向一揆と大量の鉄砲を保有して
 いた。雜賀衆・堺衆と手を組んでいたことも関連している。
******************************
・元亀年間(1570~) 将軍:足利義昭と織田信長は反目した。

・元亀2年(1571)
 将軍:足利義昭上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の
 武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめた。
第1次織田信長包囲網
 足利義昭は甲斐国の武田信玄・越前国の朝倉敏景、近江国の浅井長政
  ら反織田勢力とともに信長包囲網を構築した。
  本願寺も織田信長包囲網の一角を担った。
 顕如は石山本願寺に篭城した。
 雑賀衆などの友好を結んだ。 
 長島一向一揆などの一向一揆を起して織田信長に対抗した。

・元亀3年(1572)
・元亀3年(1572)
1月 北条氏綱の後を継いだ北条氏政は上杉謙信との同盟を破棄した。
 北条氏政は武田信玄と再び和睦したため、上杉謙信は再び北条氏政と
 敵対した。
 また、武田信玄は上洛の途につくため、上杉謙信に背後を突かれない
 ため調略により越中一向一揆を煽動した。
 上杉謙信は主戦場を関東から越中国へ移すことになった。

 5月、武田信玄に通じて加賀一向一揆衆と越中一向一揆衆が合流した。
  一向一揆衆は日宮城・白鳥城・富山城など上杉謙信方の諸城を攻略
  した。一向一揆の攻勢は頂点に達した。
 8月、上杉謙信は越中へ出陣し、一向一揆の大軍と戦い激戦となった。
  上杉謙信は新庄城に本陣を置いて、一揆軍の立て籠もる富山城を攻
  めた。
  上杉謙信は一揆軍の抵抗が激しく一端は兵を引いた。
 9月 野戦での決戦となった。
  ▲尻垂坂の戦い (富山城の戦い)

 上杉謙信軍が尻垂坂(現 富山県富山市西新庄)で加賀一向一揆
 ・越中一向一揆連合を破った。
  上杉謙信は一向一揆に圧勝した。
上杉謙信は尻垂坂の戦いを含む前後一連の戦いでの勝利により、
 越中において一揆等の反上杉勢力に対する優位が決定的となり、
 主導権を確立して、後に越中を平定した。
 京への上洛を目指す道を拓いた。
 
11月 武田信玄 VS 織田信長
12月 上杉謙信は苦戦の末に富山城・滝山城を陥落させた。
  織田信長から、同盟の申し出を受け、上杉謙信は織田信長と同盟
  を締結した。    

 武田信玄が上洛を開始した。西上作戦である。
12月22日 ▲三方ヶ原の戦い
 織田信長が同盟した徳川家康の軍勢を破られた。
 織田信長は窮地に陥いった。
箕輪初心:生方▲遠江:『三方ヶ原の戦い』徳川家康VS武田信玄
http://53922401.at.webry.info/201610/article_8.html

箕輪初心:生方▲【武田信玄の動向】と
井伊直虎・直政70第18話「あるいは裏切りという名の鶴」
http://53922401.at.webry.info/201705/article_7.html

・元亀4年(1573) 4月 武田信玄の死
第1次包囲網が破綻した。
  朝倉・浅井・足利などの同盟勢力は次々と織田氏によって
  滅ぼされた。
  本願寺も木津川口の戦いなどを繰り返した。

・天正元年(1573)7月18日 ▲槙島城の戦い
足利義昭が織田信長に降伏し、実質的に室町幕府が滅亡した。
織田信長は将軍:足利義昭の京都追放を実行した。
足利義昭はいったん枇杷荘(現京都府城陽市)に退いたが、
  顕如らの仲介もあり、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移った。
  護衛には羽柴秀吉があたったという。

・天正8年(1580)
 閏3月7日(4月20日)
  本願寺は最終的には朝廷を和平の仲介役として大坂退去の誓紙を
  織田信長に届けて戦闘を休止した。
  顕如は織田信長と和睦した。
 8月2日(9月10日) 
  顕如は石山本願寺を退去し、紀伊国鷺森別院に移った。

・天正10年(1582)
3月11日 武田勝頼が自刃。武田家が滅亡した。
 6月2日 本能寺の変 織田信長が死んだ。

▲織田信長シリーズ**********************
箕輪初心★【織田信長@尾張の大うつけ→尾張統一】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_1.html

箕輪初心★『織田信長A桶狭間前哨戦=家康の信長攻撃』
http://53922401.at.webry.info/201206/article_2.html

箕輪初心★【織田信長B桶狭間〜清洲同盟】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_3.html

箕輪初心★【織田信長C小牧山城時代】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_4.html

箕輪初心●愛知【小牧山城】=織田信長D築城・家康陣城
http://53922401.at.webry.info/201206/article_5.html
★織田信長Dが見つからなかった。

箕輪初心★織田信長E岐阜城時代
http://53922401.at.webry.info/201206/article_10.html

箕輪初心★織田信長F安土城から天下取り開始
http://53922401.at.webry.info/201206/article_11.html

箕輪初心★織田信長G武田氏滅亡→本能寺の変
http://53922401.at.webry.info/201206/article_12.html

箕輪初心:生方▲映画『信長協奏曲』面白過ぎのあらすじ
http://sp/53922401.at.webry.info/201601/article_30.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201601/article_30.html

箕輪初心:生方▲2017映画『本能寺ホテル』&「タイムスリップの
似合う京都」
http://53922401.at.webry.info/201702/article_12.html
*****************************  

織田信長に代わって羽柴秀吉が畿内の実権を握った。
 顕如は早急に和睦した。
 羽柴秀吉は本願寺とその門徒が持つ経済力や技術力を利用して、石山
 本願寺の寺内町をもとに大坂城と城下町大坂を整備した。

・天正13年(1585) 顕如は大坂城の郊外にある摂津中島(後天満町)に
  移転して天満本願寺を建立した。
  本願寺は豊臣政権の強い統制下に置かれた。

   顕如は豊臣秀吉から大僧正に任じられた。

・天正14年(1586) 准三宮の宣下を受けた。
  顕如は豊臣秀吉から九州平定に同行するよう命じられた。
  顕如は下関滞在を余儀なくされた。

天正15年(1587):顕如(光佐)と2人の息子:光寿・佐起が
 草津温泉に来た。

・天正16年(1588) 七夕
「いくとせも ちぎりかわらぬ 七夕の 
    けふまちへたるあふせなるらん  顕如
「いくとせの かはらぬ物を 七夕の
    けふめづらしきあうせなるらん  如春尼
 と歌を詠み合っている。結婚31年目であった。

・天正17年(1589) 聚楽第の壁の落首事件
  豊臣秀吉の政道批判の落書が書かれた。
  容疑者が本願寺寺内町に逃げ込んだという情報が入った。
  豊臣秀吉から追われていた斯波義銀・細川昭元・尾藤知宣らの
 浪人が天満に潜伏しているという情報を相次いで入手した。
 豊臣秀吉は石田三成に命じて寺内町の取締強化した。
 石田三成は2町の破壊をを行わせたのである。

 肝心の斯波義銀らはついに発見されなかった。
 匿った罪で天満の町人63名が京都六条河原で磔となった。
 顕如も豊臣秀吉から浪人の逃亡を見逃したことを理由に叱責
 された。(『言経卿記』)
 容疑者隠匿に関与したとして蓮如の孫:顕悟が自害を命じられた。

 本願寺が持っていた強大な領主権力は顕如一代のもとで完全に
 失われていった。

・天正19年(1591) 豊臣秀吉から京都七条堀川に寺地を与えられた
  顕如は移転を余儀なくされた。

・天正20年(1592) 11月24日 顕如が50歳で示寂した。
 石山本願寺の退去時に織田信長への対応をめぐって
強硬派の長男:教如 VS 穏健派の3男:准如
 3男:准如が12世宗主に立てられることになった。
結果・・・・・・・・・・
 長男:教如…真宗大谷派第12代門首
 次男:顕尊…真宗興正派第17世門主
 3男:准如…浄土真宗本願寺派第12世宗主。
加賀の顕幸は石山開城後、徹底抗戦を唱える教如に味方した。
 帰国後は上杉景勝と連携して佐々成政への抵抗を続けた。

徳川家康が京都に新たな寺地が寄進した。
・慶長7年(1602) 長男:教如が独立して東本願寺を設立した。
  本願寺は准如の西本願寺と教如の東本願寺とに分裂した。


●草津シリーズ
箕輪初心▲2013年スキー11「志賀BBQ」&草津温泉
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_3.html
★喜美の湯・・・草津の先輩とよく入った。


箕輪初心▲群馬:日本百名山:草津白根山&草津温泉
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201107/article_4.html
★蟷螂の湯


箕輪初心◆2014スキーbX【草津】& 『草津温泉:望雲』
http://53922401.at.webry.info/201402/article_13.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201402/article_13.html
★草津「望雲」10回以上入っているかな?

◆◆ 箕輪初心■プラドでGo【群馬の4湯巡り】◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201206/article_26.html

箕輪初心◆群馬の名湯巡り【草津→尻焼→四万→伊香保】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201206/article_26.html
★大滝の湯

箕輪初心■群馬草津の松尾芭蕉句碑:ゴリラ50ccでGo
http://53922401.at.webry.info/201209/article_4.html
★湯畑のすぐ近くにある白根神社には、十返舎一九碑、芭蕉句碑、
高村光太郎碑の3つの文学碑が立っている。


★明日も草津温泉関係・・・

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる