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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前

<<   作成日時 : 2017/09/27 08:15   >>

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湯畑の周りの柵には、『草津に歩みし百人』と題された名前の
標柱が記載されている。草津町の町制百周年を記念して、草
津に訪れた歴史に残る偉人・著名人から、100人を選んだ。
4番目・5番目は「木曾義仲と巴御前」である。この方達も
来たとは思えない。草津温泉の湯畑では、木曽義仲・長尾為景
・巴御前と並んでいる。おやげねえ。一つ飛ばしである。
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03.木曾義仲:平家を連破。破竹の勢いから「朝日将軍」の異名も。
.04.長尾為景:守護代から国政を手にした、中世越後の雄。1490
.05.巴御前:義仲軍に巴あり。戦場で輝いた、源平の世のヒロイン。
(★草津に歩みし百人 :湯Love草津(草津温泉観光協会ホームページ)


★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。











@草津温泉での2歳の駒王丸(木曾義仲)逃亡伝説
・久寿2年(1155) 2歳の駒王丸(木曾義仲)は大蔵館(埼玉県比企
 郡嵐山町)が源義平(源義朝の長男で、母は三浦一族)によって
 攻められ、源義賢も討死した。
 その際、駒王丸は家臣達に守られながら、草津温泉に隠れた。
 その後、入山村((現中之条町旧六合村)から碓氷坂(鳥居峠)
  を越えた。
木曾義仲が世に立った地に因み「世立」との地名が残っている

A細野御殿助の案内と源頼朝の草津温泉の開湯伝説
建久4年(1193) 源頼朝が浅間山で巻狩りを行った際、草津温泉で
入湯し、その際、源頼朝が世話になった木曾義仲の旧臣:細野
 御殿助を草津の地頭とし湯本の姓と三日月の家紋を与えたとされ
 ている。
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B木曾義仲と望月御殿助の娘の子ども 
・建久4年(1193)
▲宇治川の戦い
 木曾義仲 VS 源範頼・源義経
 木曾義仲が戦死した。
木曾義仲の家臣:望月御殿助の娘が木曾義仲の子を身ご
 もっていたことから、望月御殿助が草津温泉に逃がした。
 その後、娘は細野と呼ばれる土地で男子を生んだ。
 ▲源頼朝が浅間山での巻狩り
  土地を熟知していた望月御殿助が案内役となった。
  望月御殿助は源頼朝の身の回りの世話なども行った。
  その功により草津周辺の領地と草津温泉の湯守を任された。
  源頼朝は湯本の姓、三日月の家紋が与えた。
  その後、望月御殿助の子孫が湯本の家を継ぎ、代々草津温泉の
  湯守を歴任した(伝)。

C草津「地蔵堂と地蔵の湯」草津町教育委員会の解説
「地蔵堂は文化5年(1808)の建立です。もともと葛城山常楽院
 (かつらぎさんじょうらくいん)という修験山伏の御堂で、
 本尊は高さ25cmほどの石の地蔵で、木曾義仲の護持仏と
 つたえられている。」
 「地蔵の湯は昔から信仰と湯治が深く結びついていることを伝え
 ている。」

D殺生河原下にある武具脱の池伝説
 源頼朝に追われた木曾義仲の残党が武具を脱ぎ捨てた場所と
 伝えられている。

E巴御前の草津伝説
・元暦元年(1184) ▲宇治川の合戦 
 巴御前は数人の家臣と戦場を離脱し白根山麓の湯の池:草津温泉
  まで辿り尽いた。
 
F木曾義仲の子:駒若丸も巴御前と草津に逃げて来た伝説。
  草津温泉で傷ついた体と木曾義仲を失った心の痛みを癒した
  と伝えられている。

G源義基(『木曽考』・『木曽殿伝記』
  源義基は木曾義仲の三男として、木曾氏の祖となった。
 木曾義仲が戦死すると、家臣であった今井氏、高梨氏、楯氏、
 町田・小野沢・萩原・串渕・諸田などに匿われ、現群馬県渋
 川市北橘村箱田に落ち延びたとされる。
 木曾義仲の崇敬社である岡田神社、沙田神社、阿礼神社の分霊
 を勧請し木曾三社神社・木曾三柱神社を創建された。
 箱田に住居を構えたことが始まりとされる。
 源義基の墓は木曾三柱神社(渋川市北橘村箱田777)の境内に
 朝日塚古墳として残っている。今井兼平の墓もある。
 外にもあるけれど、・・・・ 


※基本的には木曾義仲の命により東国に落ち延びたとされている。
 その後、和田義盛(初代侍所別当)の妻になったなどの説があり、
 死没年齢も合致していない。
 歴史的史料がない為、巴御前の最後も物語によって解釈されている
 程度だけである。
 (★ウィキペディア)
★この草津伝説も嘘ペえ・・・・。  




●草津温泉に来た有名人のHp***********

草津に歩みし百人 草津町公式サイト
湯畑の周りの手すりに、草津温泉を訪れたその時代を代表する偉人達
の名が刻まれています。偉人の方々を百人全て画像で紹介しています。
http://sk-photo.main.jp/kankou/meisho/hyakunin/hyakunin.html
草津に歩みし百人 | 湯Love草津(草津温泉観光協会ホームページ)
https://www.kusatsu-onsen.ne.jp/youkoso/hyakunin02.php


◆中世前期・平安時代末期〜鎌倉時代*************
04)木曾義仲
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:★草津に来たか疑問である。
.・仁平3年(1153) 源義朝が下野守に就任し南関東に勢力を伸ばし
 た。源義賢は父:源為義の命により、兄:源義朝に対抗するため
 北関東へ下った。上野国(群馬県)多胡を領した。
 ★高山重遠や高山重昭は源義賢との結びつきを持った。
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 秩父重隆は、秩父氏家督である「総検校職」を継承するが、
 兄:重弘の子で甥である畠山重能と家督を巡って対立していた。
 秩父重隆は、上野国の藤姓足利俊綱や上野国の新田義重、新田
 義重の同盟者である源義朝と争っていた。
 また、源義朝と結んだ甥:畠山重能とも家督を巡って対立していた。

 秩父重隆は敵対する源義朝に対抗するために、源義賢に娘を
 やろうと計画した。
 源義賢はやがて、武蔵国の最大勢力:秩父重隆の娘を妻とした。
 秩父重隆の菅谷城近くの武蔵国比企郡大蔵(現埼玉県比企郡嵐
 山町)に館を構えた。
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・久寿2年(1155)大蔵合戦
弟:源義賢   VS 兄:源義朝+実質:悪源太義平
叔父:秩父重隆 VS 甥:畠山重能
 高山一族は源義賢に従っていた。
 源義賢は鎌倉に下っていた甥:源義平(源義朝の子)に大蔵館を
 襲撃され、義父:秩父重隆とともに討たれた。(享年30前後)。
 大蔵館にいた源義賢の次男:駒王丸(木曾義仲)は畠山重能・
 斎藤実盛らの計らいによって信濃の木曾に逃れた。

 秩父平氏の本拠であった大蔵は家督を争う畠山重能に奪われた。
畠山重能は川本(深谷川本の畠山重忠館)から菅谷城に入った。
 秩父重隆の嫡男・能隆と孫の重頼は葛貫(現埼玉県入間郡毛呂山
 町葛貫)や河越(川越市上戸)に移り、河越館を拠点として河越氏
 を名乗った。後、総検校職は河越重頼に継承された。
★木曾義仲の年齢を考えると草津温泉には来ていない可能性が高い。

●文書による2歳の駒王丸(木曾義仲)逃亡 
@『吾妻鏡』 治承4年9月7日条
「源義賢が討ち滅ぼされた時、乳母の夫である中三権守中原兼遠は、
 三歳の幼児であった義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れた。」

「駒王丸は乳父:中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現長野県
 木曽郡木曽町)に逃れ、中原兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎
 と名乗った。異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子と
 なっている。」


A『源平盛衰記』(巻26)木曽謀反附兼遠起請の事』
義賢を討った義平は後難を恐れ、畠山重能に駒王丸を捜し出して
殺すよう命じたが、重能は僅か二歳の子を殺すにはしのびず、
ちょうど武蔵に下向してきた斉藤別当実盛に預けた。実盛は、
東国に駒王丸をおくのは危険であると判断し、小枝御前に
抱かせて木曽の中原兼遠のもとに送り届けた。」
「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」
※現在の木曽は当時美濃の国であったことから、木曾義仲が匿われて
いたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説
もある。
 

B『平家物語・廻文の事』
 「二歳の駒王丸を小枝御前が抱いて木曽の中原兼遠のもとに行った。」



C『諏訪大社』に伝わる伝承では
 「一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行した。」
 といわれている。
  (★ウィキペディア)


駒王丸は草津温泉に逃げた?


・久寿2年(1155) 大蔵合戦
 斎藤実盛は源義朝の傘下にいて、源義平・頼朝兄弟と源義賢の
 首を取るのに参加した。かつて、源義賢もかつての主君であっ
 たため、2歳の駒王丸(木曾義仲)を助け、乳母の父:信濃国の
 木曾の中原兼遠に送り届けた。

 ・幼少期、木曾義仲は木曽で過した。
 @木曽谷の宮ノ越宿(中山道36次)周辺には木曾義仲縁の
 徳音寺・巴ヶ淵など史跡や伝説が多い。
 A木曽谷の上松宿(中山道38次)にも木曾義仲縁の場所が
  ある。
 


治承4年(1180)の源頼朝の蜂起前後
には上野国には、4つの勢力があったというのである。
@藤原秀郷流の子孫系勢力・・中心は 藤原秀郷流足利俊綱
A新田義重の八幡庄軍団・・新田義重?新田義兼
B木曾義仲の多胡軍・・・・・
C源頼朝の勢力・・・・・・・藤原義因&摂関家の武士「長野氏など」
 (★久保田順一先生の説)


8月17日 源頼朝は伊豆で蜂起した。


9月7日 信濃で木曾義仲が挙兵。
      長男:木曽義高を源頼朝に人質に出した。
        ★なんと律儀な・・・。
     木曽→糸魚川→(北陸道)→・・

10月13日 木曾義仲は亡父:源義賢の根拠地:上野国多胡庄
  に入った。

【吾妻鏡・・・治承4年(1180)10月13日】
 木曽義仲は亡父義賢の旧蹟を尋ね信濃国を南下し
 上野国に入った。
 足利俊綱(藤姓足利氏)の所領だが彼を恐れる必要は
 ないと民に命じた。


吉井の多胡家包・富岡の瀬下四郎、藤岡の高山党、玉村の那波
 太郎弘澄、伊勢崎の佐位七郎広助、境の木角六郎、榛東の
 桃井五郎などが加わった。
(★平家物語)

12月24日、木曾義仲は信濃へ引き上げる。
  たった2ヶ月ではあるが多胡庄にいたのだ。

【吾妻鏡・・・治承4年(1180)12月24日】
木曽義仲は上野国を退去し信濃国に戻った。
多胡荘は亡父:源義賢の所領だったので留まる意思はあった
が既に源頼朝の勢力範囲なので退去した。

東信濃の要衝にある 依田城(上田市丸子)を拠点とした。

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(★丸子城よりの依田氏の依田城・宗龍寺・宝蔵寺方面)     
  依田次郎は木曽義仲を依田城に迎えて旅のねぎらいやら
   接待でごったがえしたという。(★『吾妻鏡』)
 
※依田為実の子:依田次郎実信は木曾義仲と従兄弟同士だったのだ。
 ※初代:依田為実の母が源義賢(義仲の父)の娘だった。
※根井行親・・・佐久を支配。信濃武士を組織し、子:楯六郎親忠
   と共に最後まで従軍した。
※樋口兼遠・・・育ての親・・木曾義仲の擁立者。
※海野幸広・・・小県の海野郷の大豪族。望月・禰津・真田先祖

*金刺一族・・・下諏訪の金刺一族。上田の手塚光盛も含まれる。
手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ木曾義仲
  の腹心となっている。

・寿永元年(1182) 大凶作と飢饉(ききん)


・寿永2年(1183)
5月 越後の平氏一族:城助職は信濃に進攻するため、兵を招集。

6月 越後:城長茂が10000の軍勢で信濃へ進軍しているという報
   を受けた。
   依田城には樋口兼光・今井兼平・海野幸広(上田市)
   ・根井行親(佐久市)・矢田義清(新田義重の養子:吉井の
    矢田に城があった。)
   が集まった。
   木曾義仲は依田氏菩提寺:宝蔵寺は義仲が戦勝祈願を行った。
   木曾義仲が馬で登った道が「義仲馬大門」と呼ばれている。
   手植えの桜が「義仲桜」として伝わっている。(★現地解説板)

   木曽義仲は依田城を発した。
  
   木曾義仲は城氏軍を迎え撃つため、小県の大豪族:海野幸広の
   根拠地:海野郷白鳥の河原に兵を集めた。
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   海野氏の氏神:白鳥神社は白鳥河原の正面、海野宿の東入口に
   位置する。
   ★海野城は台風で流され、今は一部しかない。


木曾義仲の出兵
6月13・14日 
現千曲市(旧更埴市)→現長野市

▲横田河原合戦(長野市)・・・川中島と同じ場所
   木曾義仲が城氏軍を破る。

コースは不明
▲@上田→長野→鬼無里→大町→松本→糸魚川→富山
☆木曽義仲伝説@・・・・鬼無里伝説
 木曽義仲は北陸進出の際に道案内をした村人に自分
 の守護仏を預けた。
 木曽義仲公没後、村人は供養のため御堂を建立し
 「大聖智慧文殊菩薩」を安置したのだと云われている(伝)。 

A上田→保福寺峠→松本→大町・・・
 @だと思う。鬼無里の義仲伝説があるので・・・。2011年

B上田→上田丸子の依田城→麻積→大町→糸魚川→
 (★2012年6月15日『方丈記』:徳間書店)

C上田丸子の依田城→(北国道)→新潟県関山→越後
 国府に入った説。
 木曾義仲は、北陸を固めるために、四天王を各地に
 派遣したこどは確かである。

▲般若野の戦い

▲倶利加羅峠の戦い
 (現富山県と石川県の県境)
  木曾義仲 VS 平維盛
木曾義仲は激戦の末勝利した。
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・寿永2年(1183) 平維盛の木曾義仲追討の折、
 斉藤実盛は北陸に出陣した。

▲篠原の戦い(石川県小松市)
 平家で味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた斉藤実盛は老齢の
 身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに木曾義仲の部将
:手塚光盛に討ち取られた。
山代温泉「齋藤実盛の首洗い場」
木曾義仲は斉藤実盛だと分かると涙した。
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箕輪初心★埼玉熊谷市【斎藤実盛館】=実盛と義仲の因縁
http://53922401.at.webry.info/201406/article_18.html
松尾芭蕉は
 「むざんやな  甲の下の きりぎりす」
 と詠んだ。
斎藤実盛公に幸あれ?

箕輪初心★松尾芭蕉33『奧の細道22』【金沢・小松】&My金沢城登城
http://53922401.at.webry.info/201208/article_17.html

手塚光盛…上田市塩田の手塚大城が手塚氏居館跡である。


木曾義仲は、北陸を固めるために、四天王を各地に
 派遣したこどは確かである。

@今井兼平は新潟県糸魚川市「今井城」?
      ・福井県丹生郡清水町「今井城」
A樋口兼光は福井県鯖江市「樋口城」&「松山城」
B根井小弥太は福井県今庄町「燧が城」 

平家は大きく凋落した。
木曾義仲は京都に上洛し、平家は都落ちとなった。
  木曾義仲は朝廷とも密月関係で朝日将軍を名乗る事
 を許された。

・寿永3年(1184) 征夷大将軍に任ぜられた。
 「朝日将軍」と呼ばれた。
木曾義仲は軍事力を背景に言動が大きくなった。
 長期に大軍を滞在させた為、食料不足と治安悪化(家臣の乱暴狼藉)
 を招いた。

朝廷・源頼朝から次第に煙たがれる存在となった。
 
▲宇治川の合戦
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 源頼朝は木曾義仲を朝敵として源範頼、源義経の軍を派兵した。
 
・元歴元年(1184) 宇治川の戦い
 木曾義仲の兄:源仲家は父:源義賢が都にいた時の子で、
 源仲家を源頼政がひきとり猶子として育てたが、
  宇治川の合戦で兄:源仲家は源頼政とともに討死した。

▲近江(滋賀県大津市)粟津が原の戦い
 木曾義仲が討ち死にした。
■義仲寺(滋賀県大津市) 
  義仲寺の埋葬
  {義仲の墓と俳人芭蕉の墓がある。}
  「木曾殿と背中あわせの寒さかな」 又玄  
 ※木曾義仲と松尾芭蕉
★義仲寺、・・・通り過ぎちゃった。
 パンフレットのみある。
 松尾芭蕉が生涯で一番好きだという義仲と一緒に
 永い眠りについた。


★参考図書・資料
・木曾義仲:学研漫画
・木曾義仲:
・群馬県史:
・久保田順一先生作成の資料
など多数。



 

木曾義仲の関係のMyブログ***************
箕輪初心●木曽義仲(1154〜1184)=征夷大将軍に
なった人物。
http://53922401.at.webry.info/201107/article_29.html

箕輪初心★木曾義仲:上野国多胡庄2ヶ月
    →信濃依田城で蜂起
http://53922401.at.webry.info/201310/article_3.html

箕輪初心●埼玉嵐山町【大蔵館】&源義賢の生涯
http://53922401.at.webry.info/201406/article_15.html

箕輪初心:生方★源頼朝43【高山重遠+高山重久・小林重幸】
http://53922401.at.webry.info/201505/article_19.html

箕輪初心★木曾義仲Cゆかりの地:埼玉→信濃→上野→信濃→北陸へ
http://53922401.at.webry.info/201406/article_17.html

箕輪初心●木曽義仲(1154〜1184)=征夷大将軍になった人物。
http://53922401.at.webry.info/201107/article_29.html






05)巴御前**************
 木曾義仲軍に巴あり・・・・
. 女性武将 巴御前伝説:戦場で輝いた、源平の世のヒロイン。 
 巴御前は「平家物語」・「源平闘諍録」・「源平盛衰記」など
 史料料性の薄い軍記物にのみ登場する。
@「平家物語」…源義仲の便女(召使・従者)
A「源平盛衰記」…中原兼遠(木曾義仲の乳母父)の娘である
木曾義仲(源頼朝の従兄弟)の愛妾かつ有力武将として描かれて
いる。
B「源平闘諍録」…樋口兼光(義仲四天王の一人、中原兼遠の
  次男。今井兼平の兄)の娘である。
 巴御前は戦う際は大力で強弓を引き一騎当千の働きをし、容姿は
 色白で髪が長く、大変美しい顔立ちをしていた。
 (★ウィキペディア)
 幼少の頃から木曾義仲と共に育ち、一緒になって武芸の稽古をつ
 けていたとされる。
 (★学研漫画「木曽義仲」など)
 木曽谷には巴御前の伝説が数多く伝えられている。
 長野県木曽郡木曽町日義にある巴ケ淵に住む龍神の生まれ変わり
 が巴御前としている。
 「井伊直虎の竜宮小僧伝説みたい?」 
 巴ケ淵には巴御前が水浴びしたとも髪を洗った。
 武術の修行したとの伝説が残されている。
 徳音寺には木曽義仲と巴御前の供養塔も建立されている。

・治承4年(1180) 8月17日 源頼朝が伊豆で挙兵した。
木曾義仲は父:源義賢の所領:多胡で人材集めをした。

・寿永元年(1181) 横田河原の戦い
   大功を挙げた。
巴御前は横田河原の戦いで七騎を討ち取って高名を上げた
  とされている。
 (★『源平盛衰記』)

・寿永2年(1183)
5月11日 倶利伽羅峠の戦い
巴御前は大将に抜擢され獅子奮迅の働きをした。
水巻四郎を与力に1000騎を率いていたとされる。

・元暦元年(1184)
宇治川の合戦 
近江栗津の戦い
   多くの家臣が討ち取られる中、最後まで木曾義仲の側を離れず
  守り抜いたとされる。
 源木曾義仲が栗津の戦いで源頼朝から派兵された源範頼、義経軍に
 敗れ自害する際、巴御前に逃延びるように命令したという。

「巴御前は宇治川の戦いで敗れ落ち延びる木曾義仲に従い、最後の
 7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女で
 あるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、
 最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落
 ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三
 言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん」と言い、大力と評判
 の敵将:御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落
 とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち
 延びた。
 (★『平家物語』)


●1月、草津温泉の伝説: 
  巴御前は数人の家臣と戦場を離脱し白根山麓の湯の池:草津温泉
  まで辿り尽いた。
  木曾義仲の子:駒若丸も草津に逃げて来た。
  草津温泉で傷ついた体と木曾義仲を失った心の痛みを癒した
  と伝えられている。
 基本的には木曾義仲の命により東国に落ち延びたとされている。
 その後、和田義盛(初代侍所別当)の妻になったなどがあり、死没
 年齢も合致していない。
 歴史的史料がない為、巴御前の最後も物語によって解釈されている
 程度だけである。
★この草津伝説も嘘ペえ・・・・。  
 




@義仲寺「巴塚(供養塔)」(滋賀県大津市)
 木曽義仲の愛妻:巴は木曾義仲と共に討死を覚悟で此処粟津野に
来たが木曾義仲が強いての言葉に最後の戦いを行い敵将恩田八郎を討
ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた。
和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり、各地を廻り当地に
暫く止まり亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともな
く立ち去り信州木曽で九十歳の生涯を閉じた(伝)。

A徳音寺の「巴御前の供養塔」(長野県木曽郡木曽町日義)
  源義仲一族の菩提寺。
 木曾義仲と巴御前の供養塔が建立されている。
木曾義仲の母小枝御前、樋口兼光、今井兼平の墓、

B宣公資料館…木曾義仲の遺品などを展示。
 義仲資料館の義仲館がある。
義仲館…木曾義仲の生涯を人形や絵画を使って紹介している。
 入口に木曾義仲・巴御前の銅像が建っている。
  入館料は高校生以上300円である。
C旗挙八幡宮…木曾義仲旗挙の地。境内の欅は樹齢800年という。
D巴ケ淵(長野県木曽郡木曽町日義)
 @木曽川に住む龍神の生まれ変わりが巴御前としている。
(★井伊直虎の竜宮小僧伝説みたい…脚本家がパクったのであろう。)
 A巴御前が水浴びした
 C巴御前は髪を洗った。
 C武術の修行したとの伝説が残されている
 D木曽義仲の守護神として巴ヶ淵を守り続けた。
※江戸時代、中山道36番目の宿: 宮ノ越宿(みやのこしじゅく)
 現在は長野県木曽郡木曽町日義である。
画像

 ★通り過ぎちゃった。


●草津温泉の思い出
★草津温泉には100回以上来ている。200回位かなあ?
・子どもの頃、皮膚炎を治すため、草津温泉「桜井」に来た。
・高校時代、草津の先輩宅に泊まった。
・社会人になってからは草津中学校吹奏楽部・草津吹奏楽団の
 トランペットの手伝いに行っているので、風呂によく入った。
・大東館さんのフロント・遠州屋さんなどが楽団員だった。
・白根ぶとう(クロマメノキの実)取りに行った。
・草津アカデミーの演奏会にも何度か聞きに行った。
・先輩には競技スキー者やインストラクターもいるので、草津の
 スキー場で時々教わった。天狗山スキー場から直滑降もした。
・スキーで「五郎次」さんにも泊まったこともある。
・志賀の春スキーの帰りにもよく温泉に入った。
・草津白根山と温泉コースも3〜4回ある。
・アルプス縦走の帰り「ビレッジ中沢」にも泊まった。
・いつしか、先輩の1人M氏が草津の教育長になっていた。


箕輪初心▲2013年スキー11「志賀BBQ」&草津温泉
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_3.html
★喜美の湯・・・草津の先輩とよく入った。

箕輪初心▲群馬:日本百名山:草津白根山&草津温泉
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201107/article_4.html
★蟷螂の湯


箕輪初心◆2014スキーbX【草津】& 『草津温泉:望雲』
http://53922401.at.webry.info/201402/article_13.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201402/article_13.html
★草津「望雲」10回以上入っているかな?

◆◆ 箕輪初心■プラドでGo【群馬の4湯巡り】◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201206/article_26.html
★湯畑のすぐ近くにある白根神社・光泉寺には、十返舎一九碑、
芭蕉句碑、高村光太郎碑の3つの文学碑が立っている。

箕輪初心◆群馬の名湯巡り【草津→尻焼→四万→伊香保】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201206/article_26.html
★大滝の湯

箕輪初心:生方▲群馬:吾妻2−2『八ッ場ダム→浅間酒造→
草津温泉風呂巡り』
http://53922401.at.webry.info/201709/article_7.html
  ★草津温泉で無料風呂3つに入った。





★明日は「草津温泉」の100人が続く。

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