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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし百人』@「日本武尊:開湯伝説」

<<   作成日時 : 2017/09/23 06:55   >>

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・平成29年(2017)9月6日、草津温泉には、多くの有名人=
湯名人が来ていることが分かった。湯畑の周りの柵には、『草津
に歩みし百人』と題された名前の標柱が記載されている。草津
町の町制百周年を記念して、草津に訪れた歴史に残る偉人・著
名人から、100人を選んだ。時代順にみてみよう。最初は「日
本武尊」である。景行40年(110)年に来ていることにことにな
っている。しかし、縄文時代なので、無理がある。草津温泉の
開湯伝説の日本武尊説や行基説、源頼朝説などがあるが何れも
伝説、伝承の粋を出ず、不明である。というか無理がある。
画像


説明が違っているカ所があるかもしれません。










●草津温泉に来た有名人のHp***********

草津に歩みし百人 草津町公式サイト
湯畑の周りの手すりに、草津温泉を訪れたその時代を代表する偉人達
の名が刻まれています。偉人の方々を百人全て画像で紹介しています。
http://sk-photo.main.jp/kankou/meisho/hyakunin/hyakunin.html
草津に歩みし百人 | 湯Love草津(草津温泉観光協会ホームページ)
https://www.kusatsu-onsen.ne.jp/youkoso/hyakunin02.php

0)「草津」名前の由来
草津の地名はその由来に3通りの解釈がある。
草津町温泉資料館によると、次のように説明されている。
@硫黄成分の強い温泉の臭いから「臭い水」を意味する「くさうず」
 が変化して草津になったという説。
A大般若経の中の一文、「南方有名是草津湯」より来ているという説。

★雰囲気としては「臭い水」・・・「津」は谷川の意味も考えられ、
 「臭い水のあふれ出る場所」の意味がぴったりする。
 湯畑などを散策していると妙に納得する。
@人体からしみ出る液。
A船着き場。渡し場。 
B人が集まる場所
Cあふれる。うるおう。 「 興味津津 」

狩人や山師などにより草津で温泉が湧出しているのが
発見され、川などで温泉に浸かる者もいたのだろう。

1)古代


01)日本武尊:草津温泉の開湯伝説@
 草津温泉の湯畑の標柱に記載されている。
 草津温泉を発見した人には諸説ある。
 「日本武尊命」・・・神話の時代の説である。
 日本武尊が草津を訪れたのは、東国征伐の帰途だと伝えられて
 いる。草津周辺の山々や里を歩くうちに、谷間にもうもうと立
 ちのぼる湯煙を見つけた。
 日本武尊命は湯気の上がる傍の石に腰を下ろし、湯につかった
 と言われている。
 日本武尊(または源頼朝)が座った石は後に御座石(ございし)と
 名づけられた。
 この逸話が日本武尊の草津開湯伝説になっている。

画像

 (★草津温泉観光協会)
画像

 (★パンフレット)
 江戸時代・明治時代の「御座之湯」を再現した。

結論…日本武尊はいなかった? 来なかった?

 九州熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的
 英雄であるので、草津に来たか否か不明である。
 ★個人的には草津温泉にきたという説は結構無理があると
 考えている。



@『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」
 と表記される。
 倭建命足柄山経由で板東に入った説を採っている。
 和銅5年(712) 『古事記』はの稗田阿礼・太安万侶が編纂し、
 元明天皇に献上された。
 

A『日本書紀』では「日本武尊(やまとたけるのみこと)」
   日本武尊は碓氷坂経由で板東に入ったの説をとっている。
 ・大宝3年(703) 持統天皇の崩御
『日本書紀』の編纂開始された。
・養老4年(720)に完成した。

★現在では一般的には「日本武尊」の用いられている。
「日本武尊」は第12代:景行天皇の皇子で、第13代 成務天皇の
  兄弟、第14代:仲哀天皇の父にあたる。
※景行天皇(BC13年〜AD130年)
『古事記』では景行天皇は137歳まで生き、77子を諸国に封
 じたとされている。
景行天皇と日本武尊も存在を否定されている。
 実在が不明確な天皇と皇子でもある。
 景行天皇がいたとすれば、縄文時代〜弥生時代であり、歴史上
 「ヤマト政権」も出てこないのが理由である。
 日本武尊(やまとたける)の実在を仮定すれば、「ヤマト政権」
 時代の4C前半と考えられるが、・・・・。

・景行40年(110)10月、景行天皇は日本武尊に蝦夷征討を命じた。
 日本武尊は伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より
 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ=草薙剣)を授かった。
 日本武尊は相模で野火の難にあったときに天叢雲剣で草を薙い
 で、危機を脱出した。
 この剣は「草薙剣」と呼ばれるようになった。
※場所は相模説・静岡の草薙球場付近説がある。
 足柄坂から(板東に入り)・・陸奥国に入った。
 日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、
 自ら縛について服従した。戦わずして蝦夷を平定する。
 蝦夷平定後は『古事記』同様に、
日高見国から新治(茨城県真壁郡)「新治…」を
 詠んだあと
 武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って
 碓日坂(群馬・長野県境)を通った。
 ・甲斐国酒折宮を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と
 結婚した。

・景行43年(113) 近江国に出向くが、胆吹山(伊吹山)の荒神に
祟られて身体不調になった。
 伊勢国に入るが、能褒野(のぼの:三重県亀山市)で病篤くになり
 崩御した。
 
●信濃と上野の堺:碓氷坂および駿河・相模の境の足柄坂より東の
 地域を坂東と呼んだ。
 碓氷坂は現在の場所として3説有る。
・古代には、碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などという。
・中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。
・近世以降は碓氷峠で統一されている。
古来より坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所とし
 ても有名であった。

1)入山峠説(軽井沢プリンススキー場山頂とバス事故の間)
  古墳時代、碓氷越は現碓氷峠ではなく、入山峠がメイン街道で
  あった。
  入山峠は峠の頂上に古い祭祀遺跡が存在することなどから最も
 古い碓氷越えの峠とも考えられている。
 古墳時代はじめの頃の土器、中頃から後期にかけての水晶やガラス
 製の玉、滑石を使って鏡や剣をかたどった道具など祭祀に使う品々
 がたくさん見つかっている。また、管玉、勾玉、水晶製棗(なつめ)
 玉、ガラス玉、臼玉、有孔円板、剣形模造品、刀子形模造品、弥生
 土器、土師器などが見つかっている。
 遺跡は、古墳時代の遺物が主なので奈良時代以前に拓かれた古東山道
 ルートの一部であったと考えられている。
 古代の東山道は入山峠を越えていたと考える研究者も多い。
 ★同様な出土品は古東山道の信濃と美濃の堺:神坂峠でも発掘されてい
 る。
 入山峠の東西に残る道跡は深く大きな堀割状遺構が存在してい
 る。中世以前の道跡の特徴が良好な状態で残っている。
 
 ●日本武尊がいるとすれば、古墳時代に入山峠を通った
  可能性が高い。
  防人たちも通過した可能性が高い。
 通らなくても、似た人物は朝廷の命令で、蝦夷の地(群馬も
 含め)の侵略・または支配下におこうとしたであろう。
 

 ・天武天皇14年(685) 浅間山の噴火した。
  現在の旧碓氷峠は、通過しにくかったと考えられる。
東海道は尾張の3川を船で渡らなければならなかった。

※若狭徹先生の説では、高崎に前方後方墳の「将軍塚古墳」
は尾張方面から船で埼玉の行田付近までやって来たと
している。

 日本武尊が「あがつまはや」と3回叫んだ場所が入山峠であるなら
 ば、古代人が祟りを極度に恐れて祭祀を行ったことが納得できる。
 山道で非業の死をとげた人を祀ったのである。
 日本武尊が入山峠を通過した説が濃厚となる。
 鎌倉時代には
 鎌倉上道〜和田宿(高崎)〜八幡(高崎)〜板鼻〜松枝(松井田)
 〜入山峠道〜信濃になる。つまり鎌倉街道の延長なのである。
 北条時宗も信濃別所に直轄領があったので、通っている。

2)碓氷峠説(中仙道→中山道の県境)
 @旧熊野皇大神社の看板
  景行40年(110年) 景行天皇の皇太子:日本武尊(ヤマト
  タケル)は、東国を平定し、武蔵、上野を経て碓氷坂へ差しか
  かった。濃霧で道を迷われた。
その時、1羽のカラス(八咫烏)が現れ、紀州熊野山の椰木
(なぎ)を口に加え、御前に落としながら、道案内をし、尊
は無事山頂に達することが出来た。
碓氷峠の頂上に立った尊はたなびく雲海より海を連想され、
旅の途中で相模湾(=東京湾走水)で入水された「弟橘姫
(おとたちばなのひめ)を偲び、「吾嬬者耶(あづまはや)」
(ああ〜、我が妻よ〜!)と3回嘆かれた。
  以後ここより東を吾妻(あづま)と呼ぶことになった。
(★日本書紀より)
画像

 (★武蔵の五遁さんのブログより…お久しぶりです。
   写真をコピーさせていただきました。)

  
 A『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定
 から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の
 弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。
入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されている。
 古墳時代の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。
 飛鳥時代後期〜奈良時代初期にかけて、全国的な幹線と駅路が
 整備された。碓氷坂にも東山道駅路が建設された。
 入山峠の発掘からは飛鳥時代までの出土品は見られず、街道は
 閉鎖され、新しい東山道が碓氷坂における東山道駅路は近世の
 中仙道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。
 万葉集にみえるように防人たちにとっては故郷との別離の場と
 なっていた。

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箕輪初心:生方▲2015高崎『万葉集東歌:エロい伊香保9首』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_9.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『万葉集上野国エロ東歌』
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newsedit.do

箕輪初心☆【群馬における韓国&韓国語2−@古墳文化】
http://53922401.at.webry.info/201209/article_8.html

箕輪初心☆群馬における韓国&韓国語2−A『多胡碑&上毛3山』
http://53922401.at.webry.info/201209/article_9.html

箕輪初心■山上碑・多胡碑・金井沢碑+山上多重塔
http://53922401.at.webry.info/201310/article_4.html

箕輪初心●群馬の城「山名城&山上の碑」(高崎編)
http://53922401.at.webry.info/201012/article_21.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『石碑之路の万葉歌碑』@山名駅〜山名
八幡宮〜山上の碑』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_22.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『石碑之路のエロ万葉歌碑』A山上の碑
〜山名城大手口まで4句碑』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_23.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『石碑之路万葉歌碑』B山名城2回目
http://53922401.at.webry.info/201510/article_24.html

箕輪初心:生方▲2015高崎【山名万葉句碑】C山名城4番〜10番
&根小屋城の句碑
http://53922401.at.webry.info/201510/article_25.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『石碑之路万葉句碑』D根小屋城2回目
http://53922401.at.webry.info/201510/article_29.html

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・昌泰2年(899) 碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。
武装した富豪百姓層「群盗」が国家支配に抵抗し、朝廷・貴族へ
 の進納物を横領したり略奪する動きが活発化した。取締の一貫
 として碓氷関が設けられた。
・天慶3年(940) 碓氷関は廃止された。

平安中期 碓氷坂における東山道駅路は荒廃したとされている。
  碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルート・入山峠ルート
 ・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられている。

・中世に何度か復活した。

・正応5年(1292)4月8日(5月3日)熊野皇大神社(碓氷峠熊野
 神社)の鐘銘から、この頃までには大字峠(旧碓氷峠)の道が開設
 されていたといわれている。 
 碓氷峠付近の主要道は現在の旧碓氷峠(大字峠)を通るように
 なった。
 入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、
 防備に優れていたとされる。

・応永30年(1423)の国人一揆
信濃からの侵攻を食い止めた。

・永享12年(1440)の結城合戦
  碓氷峠は信濃からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。
後の古河公方を匿っていた大井一族はなかなか侵攻
 できなかった。
・戦国時代
武田信玄が入山峠に通じる街道に碓氷城(碓氷湖の南)
 おそらくは旧碓氷峠に通じる街道に愛宕山城を築いた。
・永禄4年(1561) 長尾景虎(上杉謙信)第1次関東出兵
  長尾景虎が小田原城の後北条氏を攻めた際、武田信玄が笛吹峠に
  出陣した。
  武田信玄は碓氷峠からの進出をその後も数回行なった。
・永禄9年(1566) 武田信玄の箕輪城の攻略。
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻め
  前田利家・上杉景勝(含真田昌幸)らの北国勢を碓氷峠から進軍
  させた。
前田利家の旧碓氷峠の屋敷は「赤門屋敷」と呼ばれた。
  旧碓氷峠の近くに城砦が築かれたと推定されている。
 ※戦国時代の城砦も平成29年(2017)4月に群馬県の飯森康広氏が
 確認されている。


B鳥居峠説
嬬恋村の田代では昔は、鳥居峠を碓氷峠とよんでいたという。
 鳥居峠という名称は、信濃の民・・・おそらく真田氏がつけた
 地名であろう。」
 で、鳥居峠の上に立って東を振り返り、弟橘姫(おとたちばなの
 ひめを偲んで
 『吾妻(あずま)はやとし日本武(やまとたけ)嘆き給いし
 碓氷山』と嘆かれた。
 日本武尊は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で
  殺し、越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。
 「吾嬬者耶(あづまはや)」…意味「ああ、わが妻よ、恋しい」
 妻をいとおしまれたという故事にちなんで嬬恋村と名付けられた。
  そこで峠のすぐ北にそびえる山を吾妻山(あづまやま)と名づけた
 とも言われている。現在は「四阿山」となっている。
 こんな説もある。






平成29年(2017)9月19日の地価1u
群馬県平均・・・・・・37100円(前年度比ー0,8%)
草津温泉:商業地・・・84000円(前年度比+0,7%)
僕んち・田舎・・・・・・5000円(前年度比ー12%)


箕輪初心▲2013年スキー11「志賀BBQ」&草津温泉
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_3.html
★喜美の湯・・・草津の先輩とよく入った。

箕輪初心▲群馬:日本百名山:草津白根山&草津温泉
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201107/article_4.html
★蟷螂の湯


箕輪初心◆2014スキーbX【草津】& 『草津温泉:望雲』
http://53922401.at.webry.info/201402/article_13.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201402/article_13.html
★草津「望雲」10回以上入っているかな?

◆◆ 箕輪初心■プラドでGo【群馬の4湯巡り】◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201206/article_26.html
★湯畑のすぐ近くにある白根神社・光泉寺には、十返舎一九碑、
芭蕉句碑、高村光太郎碑の3つの文学碑が立っている。

箕輪初心◆群馬の名湯巡り【草津→尻焼→四万→伊香保】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201206/article_26.html
★大滝の湯

箕輪初心:生方▲群馬:吾妻2−2『八ッ場ダム→浅間酒造→
草津温泉風呂巡り』
http://53922401.at.webry.info/201709/article_7.html
  ★草津温泉で無料風呂3つに入った。

箕輪初心:生方▲真田丸7【真田の隠し湯&ゆかりの温泉14】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_9.html

草津の上がり湯・真田信之入浴。
箕輪初心◆群馬「沢渡温泉」&頼朝・長英・牧水
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_11.html
源頼朝・堯恵(室町時代)・真田信之・十返舎一九・高野長英
・若山牧水などが訪れている。
★丸本旅館4回、公共の湯1回

箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし百人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html






★明日は「草津温泉と行基」かな?

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