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zoom RSS 箕輪初心:生方▲奄美大島D【西郷隆盛:西郷松と西郷翁上陸之地・西郷南洲謫居跡】

<<   作成日時 : 2017/07/24 08:42   >>

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安政6年(1859) 西郷隆盛は薩摩藩の命令で蟄居を命ぜられ奄美大島の北部
の現龍郷町で約2年8か月間、暮らしていた。西郷は島の暮らしに徐々に
溶け込み、奄美大島の龍郷村の裕福な農家:龍一族の娘「愛加那」と結婚
し、菊次郎と菊草という2人の子供を儲けた。文久2年(1862)11月に
西郷に帰国命令が下り、奄美大島を出ることになった。西郷は鹿児
島に戻った後、島津久光の怒りに触れて今度は徳之島に再び流さ
れた。愛加那は、2人の子供をつれて徳之島に渡り、再会をした。
しかし、すぐに西郷は沖永良部島に流されることになった。鹿児島に
戻る途中、再び西郷と愛加那とあった。しかし、愛加那は島の掟により島
から出ることが許されず、やがて、2人の子は鹿児島の西郷家に引き
取られた。愛加那の2人の子はイトとの間で生まれた2人の子とともに
育てられた。


【1】西郷松と西郷翁上陸之地
奄美空港から車で約30分であった。
龍郷町役場から北上した県道81号線(かごしまロマン街道)沿いにある。

1)「西郷松」は、1859年に薩摩藩の黒糖積船が龍郷湾に到達し、
 松の木に、ロープを結んで接岸し、西郷南州翁(西郷隆盛)が、
 奄美大島に上陸した。
 松(リュウキュウマツ)は「西郷松」と呼ばれている。
 「西郷松」は松くい虫の影響で、弱った。
 薬で延命を図ったが、枯れてしまった。

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2)西郷翁上陸之地記念碑

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3)西郷松の敷地には「西郷松本舗」がある。
 黒糖を使ったピーナツ菓子「あまぼっくり」や「西郷せんべえ」
 (しいの実せんべい)を販売している。




【2】西郷南洲謫居(たっきょ)跡

※謫居が「たっきょ」の意味は島流し等で住む家の意味である。

安政6年(1859)1月から、文久元年(1861)まで、約2年8ヶ月、
奄美大島にて身を潜めていた。
西郷隆盛は、菊地源吾と名を変えていた。
西郷隆盛は奄美大島・小浜の龍家の離れ屋に移ってから、愛加那
(あいかな)を島妻に迎え、西郷菊次郎と西郷菊草の一男一女を設け
ている。
そして、西郷隆盛は鹿児島に戻る際に、建物を新築して愛加那や子供
たちが、その後も生活できるよう配慮して、帰った。
新築した屋敷のある場所が、龍郷の「西郷南洲謫居跡」である。

≪西郷南洲謫居跡へのアクセス≫
「西郷松」から車で2〜3分、・・看板が出ている。
 浜辺の街道の左に看板がある。
「無料駐車場5台程度」「無料休憩場」と「トイレ」「小さなお土産物店」
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車を駐め、田畑家(龍家)の墓を越える。
左折すると、着く。
 海沿いの県道から、集落の一本入った静かな路地にあった。
●西郷南洲謫居跡は子孫の方が管理し、有料拝観できるよう
になっている。が、留守だった。
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●西郷隆盛自ら設計したと言われる住居は、原型のまま再建
した建物に なっている
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●現在の建物前面に勝安芳(勝海舟)が建てた石碑がある。

●西郷隆盛の自筆の書、枕などの遺品が展示されている。

●西郷隆盛が手植えした桜の木も残っている。
【入場料金】 小中学生100円  高校生以上200円
【開館時間】 午前10時〜午後4時30分?5時?
【休  館】 不定休
【駐車場】 5台(無料)
【問合せ先】 〒894−0321 大島郡龍郷町龍郷166
       西郷南洲流謫跡 電話0997−62−3368
       〒894−0004 奄美市名瀬鳩浜町208‐2
        龍 昭一郎 電話0997−53−2897
(★Hpより)


【3】奄美の赤木名の西郷隆盛ゆかりの地
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【0】調所広郷と奄美大島
・天保9年(1838) 調所広郷はには家老に出世し、藩の財政・農政・
 軍制改革に取り組んだ。
当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前
となっていた。調所広郷は行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して
 借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに琉球を通じて清と密貿
 易を行なった。一部商人資本に対しては交換条件として、この密貿易品
 利益を上げさせた。調所広郷は重商主義改革を推進し藩の収入を大きく
 増やした。そして奄美大島・喜界島・徳之島などから取れる砂糖の惣買
 入制(専売制)を行って耕作から保管・運送・販売に至る経路を一元管
 理化して経費削減と増収を達成した。特に大坂の砂糖問屋の関与の排除
 を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行った。
 
 奄美大島・喜界島・徳之島の三島砂糖のを敷き、農政改革でも成果をあ
 げたが、奄美群島の農民から砂糖を安く買い叩いた上に重税を課し、薩
 摩藩内の領民にも過酷な年貢をかけた。村落ごと他藩領へ逃散する事件
 が頻発した。

・天保11年(1840) 薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政
が回復した。
やがて、斉興の後継を巡る島津斉彬と島津久光による争いがお家騒動
(後のお由羅騒動)に発展した。
 調所広郷は斉興・久光派に与した。
 島津斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易に関する情
 報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図った。

・嘉永元年(1848) 調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問された。 
 12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。
 死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも
 言われる。

 島津斉興は藩主に居座り、斉彬派は側室由羅による斉彬一家の呪詛
 調伏を弾劾した。島津斉興は首謀者10名を切腹させ斉彬派を一掃した
 (お由羅騒動)。
 

【1】西郷隆盛の青年期
・嘉永4年(1851)島津斉彬は孤立したが、老中阿部正弘と幕閣は強権発動
  で島津斉興を隠居させ、島津斉彬を薩摩藩主に据えた。
 2月2日、島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になった。

・嘉永5年(1852) 西郷隆盛は父母の勧めで伊集院兼寛の姉・須賀(敏/敏子)
 と結婚した。
 7月に祖父:遊山、
 9月に父:吉兵衛、
 11月に母:マサが相次いで死去した。

・嘉永6年(1853) 2月、家督相続を許可された。
  郡方書役助として禄は減少して41石余であった。
  通称を西郷吉之介から西郷善兵衛に改めた。
 ・篤姫(17歳)は島津斉彬の養女となる。

 12月、ペリーが浦賀に来航し、攘夷問題が起き始めた。
******************************
箕輪初心:生方▲【ペリー&下田開港】日本の開国への道
http://53922401.at.webry.info/201507/article_23.html


・安政元年(1854) 島津斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰
  に任ぜられ、江戸に赴いた。
 4月、「御庭方役」となり、開明派の島津斉彬から直接教えを受ける
 ようになった。
 11月、妻の実家、伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまった。
  以後、弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになった。

・安政 2年(1855) 西郷家の家督を継ぎ、西郷吉兵衛に改めた。
 12月、越前藩士:橋本左内が来訪し、国事を話しあった。

・安政3年(1856) 5月、西郷は水戸藩の武田耕雲斎と会った。

●武田耕雲斎*************************
箕輪初心★「堤金之丞」&下仁田戦争の悲劇
http://53922401.at.webry.info/201403/article_31.html

◆◆ 箕輪初心◆水戸天狗党1『挙兵〜下仁田戦争直前』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

◆◆ 箕輪初心◆水戸天狗党2『下仁田戦争詳細編』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html

◆◆ 箕輪初心★下仁田の特産品・名所・偉人・有名人 ◆◆
 ★里見哲夫先生=「シダ植物研究」の 第一人者
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html
http://53922401.at.webry.info/201205/article_15.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の3「信濃→越前:処刑」
http://53922401.at.webry.info/201303/article_27.html
*******************************

・篤姫(20歳)は右大臣、近衛忠煕の養女となる。
 篤姫は第13代将軍徳川家定の御台所となる。


 7月、島津斉彬の密書を水戸藩の徳川斉昭に持って行った。

 12月、第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚した。
 島津斉彬の考え方は、篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍に
 し、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を
 作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しよう
 とするものであった。西郷どんは島津斉彬の手足となって活動した。

・安政4年(1857)
4月、参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物・津田山三郎と会った。
5月、帰藩。
10月、大久保利正助(利通)も共に徒目付・鳥預の兼務を命ぜられた。
12月、江戸に着いた。
  島津斉彬の将軍継嗣に関する密書を越前藩主:松平慶永(春嶽)に
  持って行った。
  橋本左内らと一橋慶喜の擁立について協議を重ねた。

・安政5年(1858)
1~2月、橋本左内・梅田雲浜らと書簡を交わした。
 
  徳川家定が亡くなった
   篤姫(22歳)が出家し、天璋院を名乗った。
   養父で薩摩藩主、島津斉彬が亡くなった。
 
 3月、西郷は篤姫から近衛忠煕への書簡を携えて京都に赴き、
  僧・月照(近衛忠煕の祈祷師)らの協力で慶喜継嗣のための内勅
  降下を図ったが失敗した。

 5月、彦根藩主:井伊直弼が大老となった。
 6月、井伊直弼は日米修好通商条約に調印した。
    紀州藩主・徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定した。

 7月 井伊直弼は不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎
  ・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じた。
   井伊直弼は一橋派への弾圧から強権を振るい始めた。

 6月、西郷は鹿児島へ帰った。
  松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を島津斉彬に渡した。
  すぐに上京した。

 7月8日、島津斉彬は鹿児島城下天保山で薩摩軍の大軍事調練を実施した。
  兵を率いて東上するつもりであった。
 7月16日、急逝した。
 7月19日、島津斉彬の弟:島津久光の子・忠義が家督相続し、
  久光が後見人となったが、藩の実権は島津斉彬の父:島津斉興が
   握った。

●奄美大島謫居前**********************

・安政5年(1858)
 7月27日、西郷隆盛は京都で島津斉彬の訃報を聞き、殉死しようと
  した。僧:月照らに説得されて、島津斉彬の遺志を継ぐことを決意
  した。

 8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため
  江戸に赴いた。目的を達成できずに京都へ帰った。

 9月  西郷隆盛は諸藩の有志および有馬新七・有村俊斎・伊地知
   正治らと大老:井伊直弼を排斥し、幕政の改革をしようと謀った。

 9月9日 安政の大獄
  梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫った。
  西郷は月照を伴って伏見へ脱出し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。

 9月16日、再び上京した。
   諸志士らと挙兵を図ったが、新撰組の捕吏の追及が厳しかった。

 9月24日 大坂を出航し、下関に向かった。
 10月6日 鹿児島へ帰った。
      藩命で西郷三助と改名させられた。

 11月、平野国臣と月照が鹿児島に来た。
   幕府の追及を恐れた薩摩藩は月照らを東目(日向国)への
   道中での切り捨てることに決定した。

   西郷は月照・平野らとともに乗船した。
 11月16日夜半、西郷隆盛は冬の冷たい鹿児島錦江湾の竜ヶ水沖で
  月照とともに入水した。
   月照は死亡したが、西郷は運良く奇跡的に蘇生した。
  一人だけ生き残った西郷は、気が狂わんばかりに苦しんだ。
 自分だけが生き恥をさらしている。武士としての恥辱を味わった
  のだろう。
 税所喜三左衛門が西郷の看病にあたったが、回復に一ヶ月近く
  かかった。
 西郷の家族は、西郷隆盛が月照の跡を追って、再び自殺するかもし
 れないと危惧した。西郷の身の回りから刃物の類を一切置かないよう
 にしたと伝えられている。
 
 西郷はこの自殺未遂から一ヶ月後に書いた手紙
*【奄美発「西郷どん」】では、熊本藩家老:長岡監物への書簡
 「私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候。
 意味…私は今や土中に埋まる死骨のようで、忍ぶべからざる儀=
 恥を忍んで耐がたきを堪えて生きている身の上であります。
・・・皇国のために生を貪り、・・・」


●西郷隆盛の奄美大島謫居********************
 西郷隆盛に対し、薩摩藩は奄美大島行きを命じた。
※西郷が藩から奄美大島行きを命じられたのは、安政の大獄によって、
 西郷にも危険が及んでいたため、幕府の目から逃れさせるための処置
 であった。西郷隆盛は先君:島津斉彬の寵臣であったため、この対応
 となったのである。
 薩摩藩は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せ
 たので、幕府の捕吏は引き上げた。

12月、薩摩藩は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に
  潜居させることにした。
  島津久光と薩摩藩首脳は蘇生した西郷隆盛を奄美大島へ逃しころに
  した。
西郷は胸に大きな傷を負ったままだった。
*【奄美発「西郷どん」】では、菊池源吾と変名した理由
 「西郷家の祖は肥後の菊池一族であった。南北朝時代に後醍醐天皇の
 第8子:懐長(かねなが)親王を迎え、九州を統一した。菊池一族は
 皇国の士であった。天皇家は菊の紋章・・・・「菊池源吾」なったかも
 しれない。
 
★ちなみに、会津藩第一家老:西郷頼母も先祖が一緒である。

箕輪初心★幕末偉人【西郷頼母】=西郷隆盛と同じ先祖。
http://53922401.at.webry.info/201301/article_7.html



12月30日、西郷隆盛は薩摩藩の計らいで鹿児島から黒糖船で、
 山川郷へ出航した。
 菊地源吾と名を変えていた西郷南洲(西郷隆盛)は、山川港に入った。
 現指宿市・・・指宿温泉の代名詞となっている砂むしは,指宿市街地
 近くの海岸沿いや山川の伏目海岸にもある。温熱と砂の重さによって
 血流を促進し,心地よさを生み出してくれる。
西郷隆盛が砂風呂に入ったかは不明である。
 そして、大久保利通らと別れの言葉を交わした。

・安政6年(1859)
1月4日、伊地知正治・大久保利通・堀仲左衛門(次郎)
等に後事を託して山川港を出航した。
 潮の目が良くなったのである。
 七島灘を乗り切り、名瀬に着いた。

1月12日に潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。
西郷隆盛は最初、龍郷村美玉新行が所有する空家を2ヶ月ほど借りて
 自炊していた。
 
 その後、小浜にあった龍家(田畑家)の離れ屋にて2年6ヶ月ほど過ご
 した。
 西郷隆盛の当初、扶持米は6石であった。
西郷の遠島(流罪)という処分ではなかった。
 1回目の奄美大島行きには、年六石の扶持が付いているので島流しと
 いう処分ではない。が、当初は流人としての扱いを受け、孤独に苦しん
 だようだ。
 西郷隆盛の潜伏生活は約3年に及んだが囚人扱いではなく、暮らしは
 平穏で同志との文通も許された。
 重野安繹の慰問を受けた。
 以後、大久保利通・税所篤・吉井友実・有村俊斎・堀仲左衛門らから
 の書簡や慰問品が何度も送られ、西郷も返書を出して情報入手に努めた。

 奄美大島での西郷の生活には数多くの逸話が残されている。

※エピソード1
「奄美大島は貴重な砂糖の生産地であり、サトウキビを栽培する島民
 に対し、非常に厳しく、過酷な取り立てが行われていた。
 例えば、奄美大島・喜界島・徳之島の農家には各戸それぞれの砂糖
 の負担生産額が割り当てられていた。定免制を敷いてあり、どんなに
 不作の年であったとしても、その生産額を守らせ、達成出来ない時に
 は、厳しい処罰が待っていた。幼い子供が隠れてサトウキビを少しで
 もかじったのが役人に見つかると、厳しく処罰された。
 農民は自分の畑で栽培したサトウキビであっても、一口さえも農家の
 人々の口に入ることがなかった。
 西郷が奄美大島にやって来た年はサトウキビが不作であったため、
 生産ノルマを達成出来なかった農民が数多くいた。薩摩藩から派遣さ
 れていた島役人は農民たちに対し、厳しい拷問を加えた。
 西郷は農民たちの窮状に心を痛め、役人の非情なやり方に憤ってい
 た。
 西郷は農民たちが拘束されていることを聞きつけた。
 ある日、在番役人の相良角兵衛に面会を求めた。
「捕えられた農民たちを解放するように・・・。」
 と頼んだ。
しかし、相良は、西郷の頼みを完全に無視した。
西郷は、
「おはんが方針を改めんのなら、おいにも考えがごわす。直接、藩主公に
 建言書を書き、おはんの日頃の態度も併せて上申するつもりごわす!」
 と言い放った。
相良は西郷に平謝りし、捕えた農民たちを解放した。
(★NHK大河ドラマ「篤姫」での西郷隆盛:里見浩太朗役)

※エピソード2
 西郷は病人や老人に対して、扶持米などを分け与えていた。
 西郷は次第に島民の間で慕われる存在となった。
 
※エピソード3
「子供達に手習いを教えて、村人から慕われた。」
 島の子供3人の教育を依頼された。


※エピソード4
 間切横目・藤長から親切を受けた。沖永良部島でも助けて貰った。

そしてついに西郷は、住居のあった龍郷(たつごう)一の名家である
龍家の一族の娘:とま(愛加那:あいかな)と結婚することになった。
 
11月、龍家(元田畑家)の一族:佐栄志の娘・とま(後、愛加那)を
 島妻とした。
*【奄美発「西郷どん」】では、龍佐民・石千代夫妻が媒酌人を務めた。


島妻を娶るにつれ、徐々に島での生活に馴染んでいった。

*【奄美発「西郷どん」】では、島妻とは「鹿児島からの役人・遠島人は
 単身赴任する決まりで、島妻は滞在期間だけ婚姻関係にあり、帰国す
 ると、婚姻は解消される。琉球も同じであった。愛加那の現地妻との
 認識があり、西郷の髪の毛を形見としてとっておいた。」

・万延元年(1860)
??月 12石に加増された。
  留守家族にも家計補助のために、藩主:島津久光から下賜金が与え
 られた。

 西郷隆盛が奄美大島に身を隠している間、時代は大きく変わろうとして
 いた。
 小栗上野介忠順たちが井伊直弼の命令で、日米修好通商条約の締結の
 ため、ポーハタン号でアメリカ大陸に渡った。ベリーの来航の時の
 旗艦船であった。その後、世界一周をしていた。

箕輪初心★★群馬の偉人:中居屋重兵衞=横浜開港功労者★★
http://53922401.at.webry.info/201106/article_14.html
★井伊暗殺の裏の顔・・・ピストルを水戸藩志士に渡した。

 
3月3日 桜田門外の変
 井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸藩士を中心とした集団に襲われ、白昼
 暗殺された。

3月?日 西郷隆盛桜田門外の変で大老井伊直弼が殺されたとの報が届き、
 歓喜した。同志の有村次左衛門(俊斎の弟)が水戸浪士団に加わって
 井伊の首級を挙げたことに大満悦だった。

※エピソード5
 西郷は「天下の一大快報じゃ。」と躍上がって喜んだという。
 西郷隆盛は握飯五升分を炊いて村人を招き焼酎を飲み明かしたそうな。
  
 桜田門外の変で幕府は急激に力を失っていった。
江戸幕府は、幕府単独で国政を運営していくことは最早無理があると
 考えるようになり、京都の朝廷と幕府が力を合わせて政治を行う
 「公武合体論」を推進しようとした。
 しかし、朝廷側が、幕府に諸外国と結んだ条約の破棄を求めたため、
  幕府の公武合体運動は困難を極めた。

 長州藩は長州藩士・長井雅楽(うた)の「航海遠略策」を藩論とし、
 国政の場に乗り出した。
 長井は「航海遠略策」の中で、朝廷と幕府とが力を合わせて一つに
 なって諸外国と対決することが重要であることを論じた。
 諸外国に対して積極的に開国・通商し、日本自体が力を付けること
 により、日本の国威を上げていくことが外国の侮りを受けないこと
  につながると主張した。

西郷不在の薩摩藩:島津久光も長州藩と同じく公武合体を
 実現させるために国政に乗り出そうと考えた。
島津久光は島津斉彬が考案した上京計画を復活し、実現させようと考えた。

しかし、「公武合体論」といっても、幕府側・長州藩・薩摩藩・朝廷側の
考える内容の趣旨は若干異なっていた。

11月2日、西郷菊次郎が誕生した。
(★後の2代目京都市長である。)

・文久元年(1861)
9月、三弟:竜庵が表茶坊主から還俗して信吾(西郷従道)と名乗
 った。

10月、島津久光は公武合体周旋に乗り出す決意をして、先代の重臣の
 更迭を行った。
大久保一蔵(利通)は島津久光の重臣:小納戸役のとしての地位
  を確立しつつあった。

11月、西郷隆盛は見聞役:木場伝内(木場清生)と知り合った。
(木場は後、大坂留守居役・京都留守居役となり西郷を助けた)。

 大久保一蔵は誠忠組の同志で、西郷隆盛の無二の盟友であった。
 大久保一蔵・堀次郎らは島津久光の上京計画を実現するにあたり、
  西郷を奄美大島から召還させることを島津久光に願い出た。
 島津久光は京都でのつて=手づるがなかったので、西郷隆盛に
 召還状を出した。

 11月21日 西郷隆盛は召還状を受け取った。
  西郷は世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つように
   した。西郷隆盛は鹿児島に戻る際に、建物を新築して愛加那や子供
  たちが、その後も生活できるよう配慮してから帰ることにした。
 新築した屋敷のある場所が、龍郷の「西郷南洲謫居跡」である。
*【奄美発「西郷どん」】では、新築中に召喚状が届いたとある。

★西郷は役3年もの間、幸せな新婚生活を過ごしていたが、幕末という
 激動の時代は、まだ西郷隆盛を必要としていた。


・文久2年(1862)
1月14日に阿丹崎を出帆した。
  口永良部島
 2月11日、枕崎・・・・
 2月12日 鹿児島へ着いた。
西郷は約3年ぶりに本土・鹿児島の地に戻ることができた。
 2月15日、西郷隆盛は生きていることが幕府に発覚しないように
  西郷三助から大島三右衛門と改名した。
  大久保の願いは聞きとげられた。
  西郷隆盛は島津久光に召された。
 しかし、西郷は大久保の期待とは裏腹に、島津久光の上京計画に
 猛烈に反対の意を表明した。

  西郷は、島津斉彬が計画した当時と置かれた政治状況が余りにも
  違うこと、兵を率いて上京する準備が整っていないこと、軍勢を
  率いて京都に入れば予期せぬ事態が起らないとも限らないこと、
  島津久光が無官であること、島津斉彬に比べて、島津斉彬ほどの
  人望が無いことを理由に、久光に対し、面と向かって上京すべき
  でないと主張した。
  また、「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ(地ゴロ=田舎者)」なので
  周旋は無理だと言った。
  島津久光の不興を買った。 
  島津久光としては、西郷の態度を快く思わなかった。
  島津久光と西郷隆盛の長く深い確執が始まった。
  
  大久保一蔵は根気よく西郷に島津久光の上京計画への協力を求めた。
  大久保一蔵の説得で上京を承諾した。
  
3月13日、島津久光から下関で待機する命を受けて、村田新八
  (蔵六)を伴って先発した。
 西郷隆盛は下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した
 情勢を聞いた。西郷の予期した憂いは的中していた。島津久光や
 藩の重臣:小松帯刀たちが考えている以上に、情勢は激しく揺れ
 動いていたのであった。
 島津久光が上京計画を薩摩が武力倒幕に踏み切るものと勘違いした
 全国の脱藩浪士や薩摩藩内の急進派藩士らが京都・大坂に集結し、
 不穏な動きをしていた。
 新撰組も警護にあったっていた。
西郷は島津久光の行列が入京すれば、動乱が起こるかもしれないと
 考え、島津久光から下された下関で待てとの命令を無視しなくては
 ならない状況になった。
3月22日、西郷隆盛は村田新八・森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航
 した。
3月29日 伏見で激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めよ
 うと試みた。
4月6日、島津久光が姫路に着いた。
 島津久光は、西郷が待機命令を破ったこと、堀次郎・海江田信義から
 西郷が志士を煽動していると報告を受けたことから激怒した。
 島津久光は西郷・村田・森山の捕縛命令を出した。
4月10日、西郷は鹿児島へ向けて船で護送された。

4月23日 寺田屋騒動
 奈良原繁・大山格之助(大山綱良)らを寺田屋に派遣した。
 有馬新七ら8名を上意討ちにした()。
 激派の中には三弟の西郷信吾(西郷従道〜、従弟の大山巌(弥助)
 も含まれていた。

6月6日、西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島、
 村田新八は喜界島へ遠島が命ぜられた。

6月11日、西郷は山川を出帆した。
 屋久島一湊で風待ちをし、奄美へ向かった。
 奄美を立ちよった。
 
7月2日 西郷は徳之島湾仁屋に到着した。
7月2日 愛加那が菊草(菊子)を生んだ。
7月下旬、鹿児島では弟たちが遠慮・謹慎などの処分を受け、西郷家
  の知行・家財は没収された。


8月26日、愛加那が西郷の徳之島来島を知らされた。
 愛加那が奄美大島から子供2人:菊次郎・菊草を連れて西郷のもとを
 訪れた。親子対面を果たした。
 数日後、沖永良部島へ遠島する命令が届いた。

※徳之島には3か月弱いたことになる。

閏8月初め、徳之島の岡前を出発した。
閏8月14日 沖永良部島の伊延(旧:ゆぬび・現:いのべ)に着いた。
 西郷は牢が貧弱で健康を害した。
10月、やっと健康を取り戻した。

・文久3年(1863)
 西郷隆盛が鹿児島へ出発しようとしていた。
 薩摩が英艦を撃退したとの情報を得て、祝宴を催し喜んだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・文久2年(1862)
7月に松平春嶽が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職となった。
閏8月 会津藩主:松平容保が京都守護職、桑名藩主・松平定敬が
 京都所司代となった。

・文久3年(1863)
5月 長州藩の米艦砲撃事件、
8月 八月十八日の政変
10月 生野の変・・・
  開港に反対する攘夷急進派が幕権の失墜を謀っていた。

10月、薩英戦争
   旧精忠組の発言力の増大した。
 薩摩の公武合体論は天皇のもとに賢侯を集めての中央集権を目指す
 考えであった。
 幕府の公武合体論は将軍中心の中央集権を目指す考えであった。

 島津久光は薩摩流の公武合体論をやり直そうとした。
 島津久光にとっては、京・大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋
 に動く人材の不足が最大の課題であった。
 島津久光は苦境を打開するために大久保利通(一蔵)や小松帯刀ら
 の勧めもあって、西郷を赦免召還することにした。

・元治元年(1864)
2月21日、吉井友実・西郷従道(3弟:信吾)らを乗せた蒸気船
・胡蝶丸が沖永良部島和泊に迎えに来た。

 西郷は途中で奄美大島龍郷に寄って妻愛加那と菊次郎・菊章と
 会い、別れを告げた。
 喜界島遠島中の村田新八を伴って、帰還の途についた。

*****************************
箕輪初心★霧積温泉【金湯館】と文人墨客
http://53922401.at.webry.info/201503/article_24.html
★明治時代、軽井沢の流行る前、西郷従道(つぐみち)の別荘があった。


2月28日 西郷は鹿児島に帰った。
 西郷は足が立たなかった。
2月29日、這いずりながら島津斉彬の墓参をしたという。
3月4日、村田新八を伴って鹿児島を出帆した。
3月14日 西郷は京都に到着した。
3月19日 西郷は軍賦役(軍司令官)に任命された。
 西郷は薩摩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけ
 ではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。
 薩摩藩の行動原則を「朝旨に遵(したが)った行動する」とし、
 攘夷派からの悪評への緩和策を採ることで、難局を乗り越えようとした。

7月19日(18月20日) 禁門の変 =蛤御門の変
  京都御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と
 会津・桑名藩兵が衝突した。福原隊と来島隊は筑前藩が守る中立売門
 を突破して京都御所内に侵入したが、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆
 けつけると形勢が逆転して敗退した。

●会津藩:西郷頼母***********************
8月19〜20日 松平容保に京都守護職の内命が下った時には、
     国許から西郷頼母、田中土佐とともに早駕籠で
     江戸に駆けつけた。
   ●新春ワイド時代劇「白虎隊〜敗れざる者たち」
  「『引き受けない』ことを強調する西郷頼母を適当な
   ところで、止める役となっていた。」

    京都守護職就任を要請された容保に対し、
     @「政局に巻き込まれること」
     A「出費の懸念」=
      「やませ続きの農民の負担」&「京都滞在費」
     国力に鑑み、強く反対したが聞き入れられず
     辞退を進言した。     
     松平容保の怒りを買った。
    松平容保の考え&藩論は拝命に決まる。

・閏8月1日松平容保は将軍から新しい役職:京都守護職に任ぜら
     れた。
松平容保は1000人の家臣とともに京へ登った
 京都守護職:松平容保は新選組を配下に置いた。
    攘夷派を厳しく取り締まったが、それは薩摩や長州の
    激しい憎しみをかうことを意味していた。
西郷頼母はそのことを心配していた。

・文久3年(1863) 33歳
  4月 会津藩西郷頼母は上洛した。
   会津藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢
    を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに
    帰国を説いている。
 10月 松平容保に守護職辞職を求めるが容れられず、
    家老職の罷免。   
    家老を辞した説。
    家老職まで罷免解任された説がある。
    この解任理由は、無断上京を咎められたからともいわれて
    いるが定かではない。
   
   ・その後、他の家老たちの間で西郷頼母の罪を赦しては
   どうかと話し合われた。
******************************

・慶応元年(1865) 西郷隆盛はイトと結婚した。

・慶応4年/明治元年(1868)戊辰戦争 会津戦争
 大山誠之助(巌)は薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していた。
 鶴ヶ城攻撃初日、大手門前の北出丸からの篭城側の射撃で攻略に
 手間どる土佐藩部隊の援護に出動したが、弾丸が右股を内側から
 貫き負傷し翌日、護送された。
 篭城側は主だった兵が殆ど出撃中で城内には老幼兵と負傷兵しかおらず、
 北出丸で戦っていたのは山本八重と僅かな兵たちだった。狙撃者は
 山本八重であった。会津若松城には、先妻:西郷菊子の後妻となる
 山川捨松が籠城していた。

・明治2年(1869)西郷菊五郎9歳は西郷家本家に入った。
・明治5年(1872)西郷菊五郎12歳でアメリカに留学した。
・明治9年(1876)西郷菊章14歳が西郷家に入った。
西郷菊章は西郷隆盛の従兄弟:大山誠之助(巌)と結婚した。
・明治10年(1877) 西南戦争
  大山誠之助(巌)は政府軍総司令官として西郷を攻めた。
西郷菊次郎被弾→右足切断
西郷隆盛が城山で自決。享年50。

・明治20年(1887)西郷菊次郎が外務省入り。アメリカ派遣
・明治28年(1895)西郷菊次郎が台湾総督府参事官心得を拝命した。
・明治35年(1902)愛加那が死んだ。享年66。
・明治37年(1902)西郷菊次郎が2代目京都市長になった。
・明治42年(1909)西郷菊章(大山菊子)が死んだ。享年48。
・昭和3年(1928) 西郷菊次郎が死んだ。享年68。

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