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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政56番外編【由良妙印尼の外孫:成田甲斐姫」】

<<   作成日時 : 2017/03/26 05:07   >>

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箕輪城:長野氏系図の多くは「長野業政の娘が成田氏に嫁に行って
いるという系図」である。長野氏系図が全て江戸時代の創作と考え
られる。従って、成田氏系図に長野業政が出てこない。しかし、長
尾系図では、長野業正の姉の嫁ぎ先:白井長尾景英(黒田基樹説で
は息子:景誠)に嫁いで、できた娘は長尾忠景の3男:顕泰に嫁い
だ。成田正等の養子:成田顕泰→成田親泰→成田長泰→成田氏長
と続く。成田氏長は正室に由良成繁と妙印尼の間にできた娘を迎
えた。結婚してできた子が甲斐姫であった。※甲斐姫は東国一の美
女だったんで、豊臣秀吉氏の妾にしたとして有名である。
画像

 (★無料画像より)

「のぼうの城」では、榮倉奈々さんが甲斐姫を演じていた。
鈴木保奈美さんおメイクが恐い。
 
画像


【1】成田氏系図
8代:成田正等
 長尾忠景の3男:顕泰は成田正等(現岩付城築城有力説)の養子
 となった。

9代:長尾顕泰=養子:成田顕泰+正室:長尾景英の娘
 (長野業正の姉の子。成田親泰は長野業正の姪の夫=義理の甥)
★年齢的に少し高いきもするが、・・・・

10代:成田親泰+妻:??

11代:成田長泰+妻:??
長男:成田長泰
次男:小田朝興
  3男:成田泰季(泰親)→成田長親(のぼう様)
  4男:善照寺向用齋

12代:成田氏長+妻:由良成繁と正室:妙印尼の娘
  長男:成田氏範
  長女:甲斐姫
  次男:成田泰親13
13代・成田泰親
 





【2】 『成田氏長の娘:甲斐姫』
甲斐姫に関する歴史資料は少なく、謎に包まれている。

 成田氏長は北条家に仕えて。
 現埼玉県行田市一帯を治めていた。

・永禄9年(1566) 頃、太田資正の娘は成田氏長と
   離婚して、父の岩槻城で暮らした。
   太田資正の娘が成田氏長の最初の正室でする説である。
 (★『成田氏』:黒田基樹著)

由良成繁と妙印尼の娘が成田氏長室となり、甲斐姫を産んだ。
  妙印尼の外孫が甲斐姫という事ことになる。

・元亀3年(1572)甲斐姫が生まれた。
・天正元年(1573) 成田氏と由良氏の関係が悪化した。
  甲斐姫は母とは2歳で離別した。
  成田氏長は継室に太田資正の娘がなった。
  甲斐姫は太田資正の娘の下で育てられた。
  継母や腹違いの妹:巻姫や敦姫との仲は良好だった
  という。
(★楠戸義昭説)

黒田基樹説 VS 楠戸義昭説
  
・天正18年(1590) 19歳となった甲斐姫は「東国無双の美人」
と評された。という。武芸や軍事にも優れていた。

  豊臣秀吉の小田原攻撃
 
 当主:成田氏長は小田原城に籠城していた。
 成田氏長は隠居していた叔父の成田泰季を忍城代に
 命じた。
画像

 (★もちろん、天守閣はなかった。)

▲忍城の戦い
 甲斐姫は鎧甲冑に身を固めた。
  石田三成らに率いられた豊臣軍に水攻めされた。
 忍城を僅か500 兵たちと守り抜いたと伝えられている。

6月4日 石田三成率いる約2万3000人が忍城に侵攻した。
忍城には500余の兵と城下の民たち2500を合わせて
  3000人程が籠城していた。

  忍城は湿地を活かして築城されていので、攻撃しにくかった。
 籠城軍の士気は高く、城攻めは難航した。

 6月7日 城代:成田泰季が病死した。享年75。
  「大任を受けながら途中で死を迎えることは残念。万が一の時
   には成田長親を私の代わりに」との遺言を受けた。
  奥方と甲斐姫は一門や家臣を集め、泰季の嫡男:長親を総大将
  とすることを命じた。
画像

6月10日 石田三成は忍城の周囲に石田堤と呼ばれる長大な堤防
  を築き、水を引き入れて孤立状態にする作戦にでた。
 石田三成は農民(10万人とも)などに米や金銭を与えて突貫工事
 を行った。
 5日間で全長28kmにもなる石田堤と呼ばれる堤防を築いた。

6月12日付の書状 豊臣秀吉宛石田三成の書状。

「忍之城之儀、御手筋を以て、大方相済に付けど、・・・(中略)・・・
 然る処、諸勢水攻之用意候て押寄る儀これ無く、・・・(後略)」
※意味・・・忍城(攻め)の件、(秀吉様)のアドバイスで、大体準備
 はできました。しかしながら、諸将(の豊臣軍)は水攻めの用意と
 思っていらっしゃるので、全く(忍城)押し攻め寄せることなど全く
 考えていません。)

 6月16日 石田堤は水で満ちた。
 6月17日 石田三成は丸墓山古墳に陣を構えた。

画像

   忍城を包囲した。
   忍城は沼や河川を堀として有効的に利用した堅城であった。
 6月18日頃から梅雨時の風雨に見舞われた。
   夜半に石田堤の2か所が決壊した。
  濁流が石田勢270人近くにおよぶ溺死者を出した。
  成田勢が夜陰に乗じて堤を破壊したためだとも言われる。
  本丸まで水没しそうになったので、下忍口守備の本庄泰展は配下の
  脇本利助、坂本兵衛らを堤防破壊に向かわせたという説もある。
(★『のぼうの城』もこの説を採っている)
 6月25日 豊臣秀吉は浅野長政の軍勢3000が援軍を命じた。
 6月?日  石田三成が城攻めに苦戦していると聞いて真田昌幸
   ・信繁父子らが3000の兵で援軍にやってきた。
★NHK大河「真田丸」で、真田幸繁は小田原開城の説得に
当たったというのは、嘘っぱちとよ〜く分かる。
 6月27日 浅野長政が陣頭に立ち大手口から攻撃を仕掛けた。
  浅野勢が本丸に迫る勢いであった。
  甲斐姫は鎧兜を身に付け、200余騎を率いて出陣した。
  佐間口の正木利英が手兵を引き連れて応援に駆けつけた。
  浅野勢の侵入を阻止し、甲斐姫も多くの敵将を討ち取った。

7月5日 豊臣側は総攻撃をかけた。三方向、同時に侵攻した。

 @石田・佐竹勢が下忍口から
  ところが、石田三成は抜け駆けした。
   下忍口の石田三成は、城壁を背に背水の陣を敷いた守将:
   酒巻靱負に死者300、負傷者800という大損害を与えられ
   大敗した。従って、撤退を余儀なくされた。

 A浅野・長束勢は行田口から
  浅野長政・真田昌幸・真田信繁父子らと激しい戦闘が行われた。
  成田勢は真田の兵に出城を攻め落とされた。
  浅野長政は石田三成に激怒し長束正家隊と共に夜営していた
  成田勢を蹴散らして行田口に殺到した。
  行田口は今村佐渡守と島田出羽守が浅野・長束の攻撃をよく防
  いだ。
  浅野勢の攻勢で捨曲輪が攻め破られ、成田勢は多数の死傷者を
  出した。
甲斐姫が本丸から200余騎を率いて行田口に加勢した。
  甲斐姫は佐野勢の三宅高繁を弓矢で討ち取った(伝)。
  正木丹波守は行田口が猛攻を受けていることを知った。
  浅野・長束隊の背後に回り込み攻撃した。
  浅野・長束隊は600近い損害を出して敗走した。
  
 B大谷・宇都宮勢が佐間口から
  成田勢は援軍を派遣することができなかった。
佐間口を攻撃していた大谷に吉継も苦戦し、前に進めなかった。
  正木丹波守隊が突撃し、大谷隊は撤退した。

こうして、成田軍を前に忍城総攻撃は失敗した。



7月6日 小田原城の総大将の北条氏直が豊臣側に降伏した。
  小田原城が開城した。
7月11日 北条氏照は兄:北条氏政の介錯をした。

 忍城の成田勢は籠城を続けていた。
 豊臣秀吉は城主:成田氏長に小田原開城の報せと忍城開城を指示
 した。

7月14日 忍城代:成田長親は使者の説得で開城を
 決断した。
  開城の際、甲斐姫・奥方・巻姫・敦姫らが甲冑を身につけて
 馬に乗り、籠城した諸将に囲まれながら城を後にした(伝)。
 豊臣側の総大将の石田三成が忍城に入り、城代:成田長親の立会い
 の下で城の明け渡しが行われた。

 甲斐姫は忍城開城の後は豊臣秀吉の側室となった。
 豊臣秀吉の死後、詳細な動向は不明である。
画像


 

箕輪初心●埼玉熊谷『成田氏館』&行田『忍城』
http://53922401.at.webry.info/201409/article_8.html

箕輪初心●埼玉『忍城』=城代:成田長親【のぼうの城】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_6.html

箕輪初心:生方▲箕輪城182初日の出&【長野業正の親戚:成田一族】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_2.html

箕輪初心▲埼玉【岩槻城】=後北条時代は2万都市?
http://53922401.at.webry.info/201407/article_18.html


【2】黒田孝高(官兵衛・如水)の弟:黒田直之の正室
     :由良成繁と妙印尼の娘(洗礼名:マリア)



★明日も「戦国時代の姫・女武将など」の紹介かな?

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
梅もほころぶ季節となりました
由良とか足利長尾・成田氏は結ばれてますよね
話が井伊谷から上野へ戻るとなぜか安らぎます
今日の直虎は悲しかったですね
直平のじっちゃんが5秒で死んじゃった

親子の情を詠んだ歌にこんなのがあった
『親思ふ 心にまさる 親心
 けふのおとずれ 何ときくらん』 吉田松陰
これに私の見た松陰の姿を詠んでみる
『暁の 月も渡れる 松かげに
 なきてあはれむ ふくろうの声』 宗春
この後松陰は斬首されてしまった。ではまた
宗春
2017/03/27 00:14
・和歌・連歌・短歌に凝ってますね。
私も百名山は山頂で一ひねりです。
頑張ってください。
宗春様へ
2017/03/27 20:09
たけき武士の心を、なぐさむるも歌なり
と古今和歌集の冒頭にあった。
ならば、宗春も嗜むほかあるまいと思った次第。
小説に織り込まれる情景を綴るのに、
和歌を詠んでみるのが一番だと考えた。
趣のある表現力を養わんとする目的です。
だが、なんか小説より短歌や和歌の方が
身近で親しみやすい気がする。

箕輪城を歌を2首
『かこまれし 曲輪のうちに
  くちき虫 こだちにけむる 秋の夕暮れ』

『さと山の つらつら椿 みてくるは
  おりてしのはる ほりそこのうね』
宗春
2017/03/27 23:03
1番目の歌がいいですね。「くちき虫」は蝉?カブトムシ?ですか?
2番目の歌は「来る」と「曲輪」の掛詞としたら、凄いです。29日・30日はスキーで家にいません。
宗春様へ
2017/03/29 07:29
春スキーですね!
山頂からだと、どんな歌が詠めるのだろう

お城の先生に直されてしまった
『かこみたる 曲輪のうちに
  くちき虫 こだちにけむる 秋の夕暮れ』
http://mushinone.sakura.ne.jp/itiran2.htm
↑のクチキコオロギです、
熊手のようなラッパのようなマークをクリックして
開くで鳴き声が聞けす。
あと「見て来るは」と「曲輪降りて」は
ご指摘の通りです。
意を察してくれる人がいるから、
和歌っておもしろいですよね。
親父ギャグ風だと、
解ってくれる人がいるから和歌っていい(笑
宗春
2017/03/29 15:11

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