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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政47『今川義元と井伊直平の娘前編』

<<   作成日時 : 2017/03/14 21:33   >>

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昨日最高体温38,9℃→医者、本日、最高体温…電池きれ。
井伊直平の子どもは嫡男:直宗、直満、直義、直元、娘がいた。
南渓瑞聞は井伊家系図では、井伊直平の次男?3男であるが、
平成26年(2016)年に発見された位牌や龍潭寺が所蔵「南渓
過去帳」から養子説もある。一般的に関口刑部少輔氏広の妻は
『今川義元の妹』とされてきたが、引佐町町史編纂や井伊氏史
料の研究が進んで、『井伊年譜』・『系図纂要』・『井家粗覧』の
系図によると、『井伊直平の娘が今川義元の側室→今川義元の
養妹(名義を妹)→関口刑部少輔親永の室』とされる。井伊氏
ゆかりの龍たん寺でこの女性を供養している。NHK大河ドラ
マ『女城主 直虎』では「佐名」と言う名前で登場している。
関口親永と井伊直平の娘?あるいは今川義元の妹が産んだ子が
瀬名姫(=築山殿)ということになる。瀬名姫&松平元康の2
人の間には嫡男:松平信康と長女の亀姫の2児が産まれている
が、桶狭間の戦いを機に、夫:徳川家康が織田信長と手を結ん
だ事から瀬名姫(築山殿)の人生は変わっていった。最悪。




【0】今川系図
※今川家は将軍足利一門の分家という名家中の名家であった。
将軍家を支え、またバックアップとして足利家の世継ぎが絶えた
ときに将軍継承順位に名を連ねるほどの家柄であった。

・鎌倉時代
  足利将軍家の庶流にあたる吉良国氏(1243〜82)は父:吉良
  長氏が三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町)をあたえ
  今川の姓を称した。

・鎌倉時代末期、今川国氏の子:2代目:今川基氏が跡を継いだ。
  今川基氏の弟:経国が関口氏を名乗った。
  今川家の一門衆である。
  

・室町時代
  今川国氏の孫:今川範国(1295?〜1384)が足利高氏(尊氏)
  の室町幕府の成立に貢献した。
  今川範国は遠江と駿河の守護となり、今川氏の初代当主となった。

 今川初代:範国〜3代 足利将軍家の補佐役であった。
今川初代:範国〜6代 駿河守護であった。


今川一門(血縁)御由緒衆には、小鹿・瀬名・関口・新野・入野
・名児耶・葛山氏などがいる。

関口氏は今川一門の今川了俊の子孫にあたる瀬名氏から瀬名氏広が
関口氏の養子に入った。徳川家康の妻(築山殿)の父親ですからね。


今川一門関口氏の本拠地:宝飯郡と鵜殿氏の領地は、三河松平氏の
領地と隣接していた。
今川氏輝時代の今川領の最西端にあたる。



●永正16年(1519) 今川氏親の5男として誕生した。
今川義元(幼名:方菊丸)
母は父の正室:中御門宣胤の娘:寿桂尼である。

●大永2年(1522)
今川家に跡継ぎとして、同母兄の長兄:今川氏輝がいた。
 父:今川氏親は義元を仏門に入れて修行をさせ、学問を身につけさせ
 ようと考えていた。

 数え4歳 臨済宗の駿河国富士郡瀬古の善徳寺に仏門に入り、
  出家することになった。
 今川氏重臣:庵原家出身の僧・太原雪斎に預けられた。
★庵原一族:庵原が後:新野親矩の娘を貰い、井伊直政の第2家老に
 なる。
 
*****************************
◆天文4年(1535) 井伊直親(井伊直政の父)が生まれた。
◆天文5年(1536) 井伊直虎(井伊直政の養母)が生まれた。
母:新野親矩の妹
井伊宗家21代井伊直平→22代井伊直宗→23代井伊直盛→
姫が生まれた。
姫の許嫁は姫の父:井伊直盛の従兄弟:井伊直親と決まった。
******************************

●天文4年(1535) 
 6月5日 武田・今川の和睦が崩れた。
    武田信虎は駿河へ出陣した。
 8月19日  河内領万沢(山梨県南巨摩郡南部町)の戦い
   武田信虎 VS 今川氏輝
   武田信虎と今川氏輝は甲斐南部・駿河国境で一進一退の攻防
   となった。
   北条氏綱は今川氏輝を助けるため都留郡へ侵攻した。
 8月22日 都留郡山中(山中湖周辺)の合戦

今川氏輝が今川氏と武田氏が不和となったことを理由に
 太源雪斎と栴岳承芳(今川義元17歳?)に帰国要請をした
 は京都から駿河に戻った。
2人は駿河へ戻った。
今川氏輝は相模の北条氏綱と連携して甲斐国守護武田信虎と対立
 する国人勢を後援して武田信虎と戦った。
■ 今川氏親の子ども=今川義元の兄弟
今川義元の同母兄に氏輝と彦五郎がおり、生母不明の兄弟姉妹も
いる。
@嫡男:今川氏輝・・・母:寿桂院・・・
  今川義元の長兄で今川家第8代当主。・・・
  家督相続時はまだ14歳で病弱でもあった。
  母・寿桂尼が実権を握っていた。
A次男:彦五郎 母:寿桂院
B3男:玄広恵探(げんこうえたん)・・母:今川家臣の福島正成の娘(伝)
C4男:梅岳承芳(今川義元) ・・・母:寿桂院
D5男:象耳泉奘(せんじょう)・・・幼少時から僧侶となっていた。
 の 泉涌寺・唐招提寺の長老となる。
   筒井氏の菩提寺・伝香寺の中興開山にもなった。
   今川義元の次男とする説もある。
E今川氏豊・・・生母不明。一説に氏親の子ではなくて傍流説あり。
F女子・・・母は寿桂院・・・北条氏康の正室瑞渓院(ずいけいいん)
B女子(妹)生母不明。
    竹谷松平家当主:松平親善に嫁ぎ、後に今川重臣:鵜殿長持
    の正室となった。
女子(妹)生母不明。
     中御門宣綱 (今川系図)
娘は寿桂院であるので、年齢が合わないのでは?
     中御門宣忠室(★『系図纂要』)
女子(妹)生母不明。牟礼氏室
女子(妹)瀬名右衛門佐氏俊室
   (★『寛政重修諸家譜』)
女子(妹) 関口氏俊室(★『系図纂要』)
  関口氏広室(★『寛政重修諸家譜』)
※女子(妹)生母不明。今川一族:瀬名義広=関口親永の正室。

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・享禄4年(1531) 11月5日
  冷泉為和が関口刑部大輔氏縁に和歌を送った。

●天文5年(1536) 今川家の家督争い
3月17日 今川氏輝が死去した。享年24。
今川彦五郎は今川氏輝と同日に死んだ。(諸説有り。)
  今川氏輝・今川彦五郎が相次死去した。
 嫡男:今川氏輝が急死した。
 次男:今川彦五郎が継承権を持った。
  しかし、同日、彦五郎も死亡した。
 ★なんとも不可解な事件である。
  当主の長兄:氏輝と、次兄:彦五郎の2人が同日に死亡したの
  である。しかも死因は謎といわれている。
残ったのは玄広恵探・象耳泉奬・梅岳承芳・今川氏豊である。
@玄広恵探の生母は有力家臣:福島上総介の娘であった。
   花倉の遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持であった。
A象耳泉奬は花倉の遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持であったが
  畿内にいたようである。泉涌寺か唐招提寺か?
B梅岳承芳の生母は寿桂尼である。太原崇孚(雪斎)が養育係である。
5男:承芳に家督継承権が巡ってきた。
C今川氏豊は今川領:尾張那古屋城ににいた。

寿桂尼は今川氏輝・今川彦五郎の実弟の梅岳承芳の後押しとなり、
 重臣たちから還俗を乞われた。
 征夷大将軍:足利義晴から偏諱を賜り、今川義元と名乗った。
★取り次ぐは縁戚の彦部晴直であった。

 有力家臣の福島(くしま)正成の反対で混迷化・泥沼化した。
 福島正成は自家の血を引く今川義元の異母兄・玄広恵探を当主と
 して掲げて反旗を翻した。

▲花倉の乱・・・継承争い
 玄広恵探 VS 梅岳承芳で争われた。
  側室の子:玄広恵探との間で家督争いが起こった。
 
母親:寿桂尼は、出家していた実子:栴岳承芳(今川義元)を立てた。
母親:寿桂尼は梅岳承芳は還俗させ、今川義元と名乗らせた。
梅岳承芳の教育・養育係:太原雪斎も今川義元を助けていた。
太原雪斎父は庵原城主:庵原左衛門尉政盛。母は興津横山城主:
  興津正信の娘である。
 (★庵原一族の庵原朝昌は井伊直政の第2家老で箕輪城に来ている。)
 寿桂尼−太原雪斎−瀬名陸奥守氏貞ラインは強固なものであった。
 寿桂尼は恵探派と面会して説得を試みるが結実しなかった。

  福島正成派は武力で家督を玄広恵探のものとしようとした。

 恵探側は方ノ上城や花倉城を拠点として抵抗した。
恵探側の福島正成派今川館に攻め寄せる等攻勢をみせた。 
恵探派は挙兵して駿河府中の今川館を襲撃してきた。
 
 今川義元側は奮戦した。
  太原雪斎・岡部親綱ら今川義元側の家臣団の奮戦が続いた。
  今川義元が北条氏綱からの支援を得ることに成功した。
  挟みうちの状態になり、形勢は今川義元側に一気に傾いた。
  岡部親綱(おかべ ちかつな)が方ノ上城を陥落させた。
  ついで恵探が籠城する花倉城もいっせいに攻め立てた。
今川義元側の太源雪斎らは花倉城に立て籠もった福島派を
  殲滅させた。
  花倉城の陥落を以って恵探は自害した。

*******************************
BS日本のTV「片岡愛之助の歴史捜査」2月17日
※1)今川家の内紛の新説
  今川義元+太原雪斎+(岡部親綱)・・・近衛家→足利将軍家  
     VS
  玄広恵探+義元実母寿桂尼・・・・実家:中御門家→足利将軍
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  寿桂尼は実子:義元が近衛家にコネを得たので、今まで中御門
  家からのパイプの必要性がなくなった。寿桂尼は今川家の中で
  権力が落ちてしまうので、
  ・・・・寿桂尼は「今川の跡目の『住(重)書』 を恵探の所に持って
  行った。という。
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▲花倉城の戦い
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今川義元+太原雪斎が近衛前嗣と足利幕府
  とあったが、このTVも正確ではないが、新しい説である。、  
   近衛前嗣(+前久)は正親町天皇とのパイプで
   彦部晴直が足利将軍とのパイプ役はずである。
   近衛・彦部が武田信玄のの信濃守護や長尾景虎の
    関東管領の橋渡しをしているので、この解説も正確では
    



******************************
  
今川義元が家督を継いだ。
今川義元は今川忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えた。
 しかし、今川軍は花倉の乱による内部対立を引き摺ったままであり、
 家臣団の統制がとれなかった。
今川義元は軍師:太原雪斎の手引きで外交方針の大きな転換を行な
 うことになる。
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******************************
井伊氏と今川氏で和議が結ばれた。
 井伊直平の娘(TVでは、佐名)は人質となった。
★井伊直虎の大叔父(祖父の弟)南渓和尚は、太原雪斎は同じ臨済宗
であった。同じ臨済宗なので、2人が接触があったのかもしれない。
井伊直平の子?養子?: 南渓和尚の妹である。

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※今川義元の西進が始まった。

・天文6年(1537)
 2月 太源雪斎は甲斐の武田信虎との関係改善に務め、
 今川義元の正室に武田信虎の長女:定恵院を迎えた。
  武田氏と同盟を結ぶ(甲駿同盟)
 武田信虎の嫡子:晴信に今川家の遠縁の三条公頼の娘:三条の方
 を周旋し、甲駿同盟を成立させた。
 結果・・・甲駿同盟の成立は、旧来の盟友:北条氏(駿相同盟)
  が今川義元の当主継承にも助力したにも関わらず、裏切った
 形となり、北条氏綱の怒りを買ってしまった。
 同盟関係にあった相模の北条氏綱との関係が悪化した。
  北条氏とは手切れとなり、北条氏綱はまもなく駿河国へ攻め込んで
 くることになる。
   ▲第1次河東の乱
 北条氏綱は駿河東部に侵攻し、占領した。
北条氏綱の侵攻によって、今川義元は河東を奪われてしまう。
  今川軍は北条軍に対して適切な反撃が行えなかったのである。
  今川義元は武田信虎の援軍と連帯して領土奪還を試みたが、
  花倉の乱で恵探側に組した堀越氏・井伊直平など遠江に基盤
  を置く反今川義元派の武将らが今川義元から離反した。
  今川家臣の反乱と北条氏の侵攻との挟撃状態に陥った。
  河東は北条氏に占領されたまま長期化した。
  戦いは天文14年(1545)まで続くことになる。



・天文9年(1540)〜 今川義元は駿河を治めていたが、東の北条家
 と戦う一方、西の遠江や三河へ勢力を拡大している最中であった。

・天文9年(1540) 尾張国(愛知県西部)の織田信秀が三河国
(愛知県東部)に侵攻を開始した。
今川義元は三河に援軍を送り三河の諸侯軍と連合した。

・天文10年(1541) 北条氏綱が死去っした。
   北条氏康が家督を継いだ。
  
5月25日 海野平の戦い 
  甲斐国の武田信虎は嫡男:武田晴信を伴い、信濃国の
  諏訪頼重や村上義清とともに信濃佐久郡侵攻を行った。
  (★『高白斎記』)
海野棟綱・真田幸隆は上野国:羽尾幸全を頼り、さらに
箕輪城主・長野業政(業正)を通じ、関東管領:上杉憲政に
出兵要請をした。
6月14日 武田信虎は今川義元訪問のため駿州往還を経て駿河へ
 出立するが、嫡男:武田晴信は父にクーデター起こした。
武田晴信が当主となった。
 
・天文11年(1542)▲三河田原城攻撃 姫の祖父:井伊直平の子:
  井伊直宗(井伊直虎の祖父)が野伏により討死した。

●天文11年(1542)頃?
  瀬名姫は今川家の重臣:関口親永(ちかなが)の娘として
  生まれた。
 関口親永は瀬名義広という名前だった。
  瀬名氏敏の弟で今川一族の関口家の養子として家督を継ぐために
  姓名を改めた。
 ★「瀬名姫」という名前も、関口親永の元の姓が由来になって
  いると思われる。


・天文11年(1542) ▲第一次小豆坂の戦い
  今川義元 VS 織田信秀軍
   猛攻の前に敗れたとされている(後世の創作の可能性もあり)。
◆天文11年(1542)12月26日徳川家康が岡崎城で生まれた。


・天文13年(1544) 12月 井伊直宗の弟直満・直義が小野和泉守
 の讒言により、今川義元のため生害(自害)された。
井伊直平の子:直満(井伊直政祖父)・直義が今川氏に殺害された。
 亀之丞(井伊直親:井伊直政父)にも追ってがかかり、井伊直満の
 家老:今村藤七郎正実は亀之丞を叺(かます)に隠した。
 追っての逃れ、渋川の東光院に逃れた。

・天文14年(1545) 亀之丞は東光院住持能仲の案内で信濃伊那郡
  市田村(現高森町)の松源寺へ逃れた。
 信濃伊那の松源寺は井伊直親の叔父:南渓禅師の師:文叔禅師のいる寺
 であった。
今村藤七郎が10年間、養育した。
 松岡城主:松岡貞利が亀之丞(井伊直親)を12年間、庇護した
 と思っていたが、10〜11年間のようである。

・天文14年(1545) 関東管領の山内上杉憲政に対抗し、今川義元は
 武田晴信と共に河東に出兵した。


※三河侵攻と領国経営
・天文15年(1545)今川義元が戸田一族:戸田宣成・戸田吉光を
  滅ぼした。
・天文16年(1546)10月、織田信秀(織田信長の父)が西三河に侵入
  した。
 岡崎城の松平広忠(=徳川家康の父)が帰順し、救援を要請して
  きたので、太源雪斎は大軍を率いて西三河に介入した。
西三河の松平広忠の帰順を受け、嫡男:竹千代(徳川家康)
  を人質に迎え入れる約束を交わし、尾張の織田信秀の妨害
  を受けつつも、着実に三河勢の従属化に努めていった。

  竹千代の護送を請け負った三河田原城(愛知県田原市)の国人領主:
 戸田康光が今川義元を裏切って護送中の竹千代を敵方の織田信秀に送
 り届けてしまった。
  今川義元は戸田宗家:康光を武力でもって徹底的に滅ぼした。
 田原城に有力家臣である朝比奈泰能を入れた。

 ●今川義元は松平広忠を服属させて優位に戦いを進めていた。
 
・天文17年(1548)頃? 竹千代(徳川家康) は6歳頃、松平広忠は
 織田信秀(織田信長の父)に対抗するため駿河国の今川義元に従属
 し、人質として駿府へ送られることとなった。


・天文18年(1549) 駿府浅間神社社役目録
「八百文 関口宮内少輔殿御屋敷銭」

花沢城主関口越中守氏禄=氏縁?
 用舟(持舟)城瀬名氏広=関口越中守親永?
  関口氏広は瀬名氏俊の兄弟で『刑部少輔義広』、『越中守親永』
  とも伝わっている。
朝比奈丹波守親徳とともに松平元康(徳川家康)の後見役となり、
後に氏広の娘(築山殿または瀬名)が家康に嫁いでいる。



**********************************
今川義元は、周辺諸国の豪族から人質を取っていた。
@少年時代に人質であった岡部正綱、竹千代(三河のぼんやり:徳川家康)
 と仲良くなった。岡部家は竹千代を日常生活面で助力した。
 徳川家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていた

A竹千代の隣の家の「孕石家」に竹千代の鷹が舞い降り、度々、こっそり
  無断侵入した。そのため、孕石家とは仲が最高に悪かった。

B臨済寺で学習し、知識を得た。
 三河のぼんやり「竹千代(徳川家康)は結果としてプラスになった
 臨済寺の開山の今川軍師:太原雪斎から歴史、軍略などを学んだのだ。
**********************************

◆天文13年(1544) 12月 井伊直宗の弟直満・直義が小野和泉守
 の讒言により、今川義元のため生害(自害)された。
井伊直平の子:直満(井伊直政祖父)・直義が今川氏に殺害された。
 亀之丞(井伊直親:井伊直政父)にも追ってがかかり、井伊直満の
 家老:今村藤七郎正実は亀之丞を叺(かます)に隠した。
 追っての逃れ、渋川の東光院に逃れた。

◆天文14年(1545) 亀之丞は東光院住持能仲の案内で信濃伊那郡
  市田村(現高森町)の松源寺へ逃れた。
 信濃伊那の松源寺は井伊直親の叔父:南渓禅師の師:文叔禅師のいる寺
 であった。
今村藤七郎が10年間、養育した。
 松岡城主:松岡貞利が亀之丞(井伊直親)を10年間、庇護した。

◆?年 姫は許嫁:井伊直親が殺害されたと思っていた。
 姫は祖父の弟:南渓禅師から「次郎(井伊家跡継ぎ長男名)法師」を名乗
 ることが許された。  
 (★享保15年(1730)『井伊家伝記』龍潭寺所蔵:2次史料)
◆?年 姫は許嫁:井伊直親が殺害されたと思っていた。
 姫は祖父の弟:南渓禅師から「次郎(井伊家跡継ぎ長男名)法師」を名乗
 ることが許された。  


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●天文14年(1545)
8月22日 今川義元は北条氏康と敵対する山内上杉憲政と同盟を締結し、
  北条氏を挟み撃ちにする策を立てた。
 同盟国の武田晴信(信玄)にも出陣を要請した。
武田晴信は河東の侵攻を開始した。今川・武田連合軍が攻めた。
 上杉憲政軍・扇谷上杉朝定の連合軍+古河公方:足利晴氏は連合した。
  8万もの大軍となって、北条氏の河越城を包囲した。
 北条氏康は武田晴信(信玄)に仲介を頼み、今川義元との交渉で河東の
 地を今川氏に返還するという条件で和睦した。
 
▲第二次河東一乱
今川義元は北条氏康から河東を奪い返した。
ようやく河東一乱が終結するに至ったのである。

今川氏は北条氏との争いに実質的に勝利した。

 北条氏康は西方に安堵を得た。関東方面に戦力を集中させた。
 河越城の戦いにおいて逆転勝利を収めた。
 北条氏康が関東方面へいったことで緊張関係は和らいでいった。



●天文17年(1548) ▲第二次小豆坂の戦い
今川義元の軍師:雪斎と譜代重臣:朝比奈泰能らを大将とした
 今川軍は織田軍に大勝した。
 織田信秀の勢力を事実上、三河から駆逐した。
 今川義元は西三河の支配権を得た。
※今川義元は東海3か国(駿河・遠江・三河)を支配した。

●天文18年(1549) 松平広忠が死去した。
 今川義元は領主不在(竹千代は織田信秀の人質)の西三河に向けて
 今川軍を岡崎城(現愛知県岡崎市)へ送り込みんだ。
 事実上松平家の所領を領有し、三河国の国人領主を直接支配下に
 取り込んでいった。

 織田方の三河国:安祥城を攻め、三河国を制圧した。

 織田信秀の庶長子:織田信広を捕らえ、人質交換によって
 竹千代(家康)を奪還した、
 尾張進出への足掛かりを着々と築いていった。

●天文19年(1550) 今川義元の妻が亡くなった。
  武田信玄との姻戚関係が一時断たれることになった。

・天文20年(1551) 織田信秀が死去した。
 「尾張のうつけ」といわれた織田信長が跡を継いだ。
 今川義元は尾張への攻勢を一段と加速させる。


●天文22年(1553) 11月
 今川義元は娘:嶺松院を武田信玄嫡男:義信に嫁がせ、同盟関係
 を保った。



●天文22年(1553)「今川仮名目録追加」(仮名目録追加21条)という
 分国法を公布した。
 室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名として
 の今川氏と室町幕府との間に残されていた関係を完全に断ち切った。
 今川義元は戦国大名であることを明確に宣言したものでもあった。
画像


・天文22年(1553)
 北条氏康の嫡男:北条氏政と武田信玄の娘:黄梅院が婚約をした。
 
・天文23年(1554) 太原雪斎の尽力で嫡子:氏真と北条氏康の娘:
早川殿を縁組した。
 甲相駿三国同盟を締結した。
  甲相駿三国同盟はお互いに対等な関係としたのである。
★今川の領国とその兵力は武田信玄や北条氏康と対等なほどに力は
 拮抗していたことを意味する。

・天文10年(1541) 〜 弘治3年(1557)まで、
検地を繰り返した。
今川氏の経済基盤を確固たるものとし、軍事力を強化していった。

********************************
 2)今川氏の富
  長谷川渚学芸員・・・今川時代の大溝と庭園の発掘調査
    とっくり、・・・「金箔の使い捨て杯」出土
  TV・・・・・・・・・・安倍川金山だけではなく、・・・
★3大金山の一つ
 武田の黒川金山 ・上杉の佐渡金山・今川の安倍川金山
  久保田昌希教授(駒大副学長)・・・
   @領国経営の巧みさ
    「今川仮名目録(明大蔵)の追加条項」・・・
     年貢のほかに「棟別段銭」があった。
     家屋ごと・1反ごとの税金が記されていた。
   A京都を繋ぐ湊・・・沼津・吉原・江尻・小川・相良・掛塚湊
    街道に関税を掛ける。
    流通のスムース化・・・伝馬制の導入。
    経済・文化の広がり・・・
   
 優秀な今川義元であった。
   大石泰史(TV:時代考証)・・・遠江・三河の支配の
     ため、国衆の人質・検地を行った。
   領国支配のやり方を工夫・・・

 3)公家・蹴鞠・・・情報収集の場であった。
   「眉」」・・・・
   公家・連歌師などを詠む。
   公家文化への傾倒・・・蹴鞠・宴会で足利幕府
    の情報を政治経済に生かしていた。
   独自の情報ネットワークがあった。構築した。

*******************************
箕輪初心:生方▲【武田信玄の信濃侵攻】
&『真田幸綱信濃侵攻のブログ一覧』
http://53922401.at.webry.info/201612/article_18.html

◆天文23年(1554)小野和泉守が没した。
   龍泰寺(現龍潭寺)に埋葬した。
龍谷山正泉寺が開創された。開山は慧湛和尚である。

▲天文23年(1554)武田晴信の伊那に侵攻した。
  松岡貞利は武田晴信の軍門に降った。
  松岡貞利は山県昌景の配下で50騎の軍役を課されていた。
  (★『甲陽軍鑑』)

◆弘治元年(1555) 亀之丞は松源寺を離れ、井伊谷に戻り、
  15代(23代)井伊直盛の養子となり、井伊直親と名乗った。
  次郎法師の養子となった。「井伊直親」と名乗った。
(NHK大河ドラマの流れであると思われる。)
 井伊直親は家臣:奥山朝年の娘と結婚した。今川義元に復帰した。

◆弘治2年(1556)南渓禅師(龍潭寺2世)に相談し次郎法師
  を名乗った説もある。

*****************************
●弘治3年(1557) 瀬名姫は今川義元の養女となった。
 今川家の人質として駿府にいた三河岡崎城主の松平元信
 (元康、徳川家康)と結婚した。
瀬名姫は松平元信(徳川家康)と結婚した。
★今川氏真を諦めたようである。

●永禄元年(1558) 今川義元は嫡男:氏真に家督を譲って隠居した。
■ 家督を譲る

今川氏の発給文書
@駿河国では今川義元・今川氏真署名の文書となっている。
A遠江と三河は今川義元の発給文書となっている。
 今川義元は三河制圧と領地経営に力を注いでいた。

●永禄2年(1559) 瀬名姫は長男の松平信康を出産する。

●永禄3年(1560 瀬名姫は長女の亀姫を出産する。
後、亀姫は奥平信昌室・・・・

●永禄3年(1560) ▲桶狭間の戦い
   織田信長 VS 今川義元

5月10日(6月3日)・・今川義元は先方隊として、井伊直盛
       ・松平元康(徳川家康)を三河に派遣した。
5月12日(6月5日)
今川義元は大軍を率いて駿府を発った。
今川義元は那古野城(現名古屋城二の丸)を目指し駿・遠・三
 2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始した。
 尾張を目指して東海道を西進した。 藤枝泊
5月13日(6月6日) 藤枝→掛川城泊
5月14日(6月7日) 掛川→引馬城泊
5月15日(6月8日) 引馬→吉田城(豊橋城)泊
5月16日(6月9日) 吉田→岡崎城
5月17日(6月10日) 岡崎→池鯉附城
今川軍は、尾張の沓掛城に入った。
 (★ウキペディアの説)
5月18日(6月11日) 夜
松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城
に兵糧を届けさせた。
◆今川軍の前哨戦・・織田の丸根砦・鷲津砦への攻撃。

5月19日(6月12日)
織田方に身動きを封じられた大高城(現名古屋市緑区大高)を救
うべく、大高周辺の織田方諸砦を攻略するように松平元康(家康)
に命じた。

03:00頃
○今川の丸根砦の攻撃
  大高城の鵜殿長照2000・松平元康1000で
  →丸根砦への攻撃開始。
  丸根砦の織田軍:佐久間盛重420+α=約500名は城外で
  白兵戦を展開。
  結果・・大将:佐久間盛重は討死。

 ○今川の鷲津城の攻撃
  JR大高駅東の裏山・・・大高城から700m程

  大高城の朝比奈泰朝・井伊直盛2000で鷲津砦攻撃。
  織田軍は篭城戦。
  結果・・飯尾定宗、織田秀敏が討死。
     飯尾尚清は敗走。
     一定の時間稼ぎには成功した。
 
 朝、今川義元は西へ兵を進め、織田氏の防衛線:丸根砦や
  鷲津砦を攻略し、桶狭間に本陣を敷いた。
画像

  今川義元は丸根砦、鷲津砦の攻略に気を良くした。
 今川軍は、大高城周辺の制圧を完了した。
 
今川義元は前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた
  本隊を大高城に移動させようとした。

 今川義元が率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に
  向かって西に進んだ。

 正午頃、中嶋砦の前衛に織田軍の佐々政次:千秋四郎ら30余りの
  部隊が単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。
  今川義元は討ち破った。

*****************************
大石泰?説
 4)桶狭間進軍の目的・・・
   @上洛説
   A尾張領を取る説・・・が主流であったが、
   B井伊家など国衆はいつでも裏切る可能性があった。
     今川家の威厳・・・輿は特別な乗り物は
     権力の象徴であった。
    25000の兵はデモンストレーションであった。
    長尾景虎の上洛は5000・・・・
    25000は「軍事パレード」・・・遠江・三河への
    アピールであった。織田への攻撃が真の目的
    ではなかった。全面対決は考えていなかった。
    信長の砦を落としてしまった。戦勝気分であった
    所に、偶然来てしまった。(大石説)


●織田信長の動向******************
※ 織田家内部では清洲城に篭城か白兵戦かで揉めた。

 
※織田信長の反応→桶狭間への出陣前
 @今川本軍の沓掛城の落城・・・反応なし。
 A今川軍の丸根砦・鷲津砦攻撃開始の報を受けた。
 ・・・幸若舞「敦盛」を舞った。
「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 
 一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか」。
昆布と勝ち栗を前に立ったまま、湯漬け
 (出陣前の米飯に熱めの湯をかけて食べた。)
 ★たまには、縁起を担いだ。都合のいい野郎だ。
 出陣。

04:00頃 
  @清洲城・・・出陣の身支度を整えた。
  織田信長は居城:清洲城より出発。
   小姓衆5騎のみだったという。(★清洲城博物館)
  ★織田軍の中の反逆者を恐れたからである。
画像

 (★清洲城の画像資料)
08:00頃 A熱田神社に到着。
     軍勢を集結。100人にはなっていた。
      熱田神宮に戦勝祈願を行った。
★次第に集結。この時点で、3000の軍勢説が強い。

  
09:00頃 熱田神宮発→鎌倉上街道を東進。
津島・・・服部小平太(※今川義元に一番槍)が合流
日光川
    勝幡城(※織田信長が生まれた場所)
    美和(現あま市)・・・蜂須賀小六・福島正則・
   豊臣秀次・溝口秀勝などが合流。
(★長屋良行説採用)

09:50頃 丹下砦(緑区鳴海町)
 
10:00頃・B善照寺砦(緑区鳴海町)
   織田信長軍は鳴海城対策の善照寺砦に入った。
   約2,000〜3,000人といわれる軍勢を整えた。
  (※善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。
    ウキペディアの説・・・)

11:00~ 善照寺砦(緑区鳴海町)発
   織田信長は善照寺砦に佐久間信盛の軍の約500を置いた。
   織田信長は2000の兵で善照寺砦より出撃。
   鳴海から見て南東の桶狭間の方面に進軍した。
  (※中嶋砦まで進軍した説:資料もある)。

12:00頃
  中嶋砦の前衛の佐々政次・千秋四郎ら約300の軍は
   織田信長の出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛
   に攻撃をしかけた。
   結果・・佐々、千秋らが討死に。
 
桶狭間の戦い
  @通説・・・桶狭間古戦場伝説地=7ッ塚
     迂回説=従来の説。
善照寺砦→鎌倉街道→有松駅&競馬場前駅の
間→高徳院前
  A有力説・・桶狭間山
     迂回説に否定的な見解が主流である。
     善照寺砦→中島砦(鳴海駅近く)→左京山駅近く
→桶狭間山(高徳院の500m先の山である。)
   ※信長公記に桶狭間山が出てくるからである。     
B少数説・・高徳院境内説。
C少数説・・幕山=今川家家老:松井宗信の死んだ場所。

今川軍の本隊(今川家当主:今川氏真&実父:義元)は
  5,000〜6,000人ほどに過ぎなかった。
  大部分は戦闘に不慣れな寄せ集めの兵であった。

13:00前頃 左京山途中
  突如豪雨が降り、視界が悪くなった。
★どしゃ降りだったらしい。(★地元の三代さん)
織田軍は雨に乗じて兵を進めた。
 今川義元は桶狭間(おけはざま)山で休息中であった。



14:00 過ぎ、雨が止んだ。
桶狭間山・・・
織田信長軍は今川義元の本隊に接触、攻撃を開始した。
今川軍の総勢は2万人であった。
織田信長の親衛隊2000今川義元の旗本部隊に突入した。
今川義元を守る兵力は5000〜6000人であった。
大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。
織田信長の攻撃を受け、松井宗信らと共に奮戦した。
松井宗信は討ち死にした。
今川義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で
退却しようとする。
織田信長の攻撃で兵を失った。
織田信長の馬廻に追いつかれた.
今川義元への一番槍は服部小平太であった。
織田家臣:服部小平太一忠を返り討ちにした。
画像

毛利良勝は負傷した服部一忠を助け、今川義元に組み伏せた。
この際、毛利は指を噛み千切られたといわれる。
毛利新介(良勝)が大将:今川義元を討ち取った。
今川義元は討ち取られてしまった
毛利良勝は首を取り名を上げた。
今川義元が桶狭間の戦いにて討ち死に。享年42。

●墓


※織田家家臣:毛利良勝に愛刀:左文字の太刀と首級を
奪われたのだ
今川義元は宗三左文字(そうざさもんじ)南北朝時代に作刀
された日本刀を持っていた。
織田信長が戦利品として刀を接収した。
織田信長はこの刀を短く磨り上げた。
茎表裏に「織田尾張守信長」「永禄三年五月十九日義元討捕
刻彼所持刀」と金象嵌銘を入れ、愛刀とした。
織田信長が本能寺の変で横死するまで信長の手元にあった


※今川義元の死
今川氏真が退却命令を出した。
その後、残存した今川兵によって、今川義元の遺体を駿府まで
連れ帰ろうと試みられたが、首の無い今川義元の遺体は想像以上
に腐敗の進行が早く、三河国宝飯郡に埋葬された。

今川義元の首は、鳴海城に留まり奮戦する今川義元の重臣:岡
部元信と織田信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻っ
た。
今川義元の戦死により、今川氏真が後を継いだ。

・永禄3年(1560)  今川氏真が龍潭寺棟別諸役一切免除の朱印状
  を出した。

★明日は修正案かな?

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